6:7 Hydra B ─ヒュドラB─


 ヒュドラによって奈落の底へ突き落とされた。その後、私は気を失っていたようでふと目を覚ます。


「ここは……」


 あの高さから落ちれば転生者だろうと吸血鬼だろうと、落下の勢いで肉体は粉々になり死は免れない。しかし私はこうして何とか生きている。


「……?」

 

 肌に伝わるひんやりとした感触。私は顔だけ動かし、自身の身体がどのような状態なのかを確認してみた。


「……何だ、この物体は?」


 奈落の底に広がるのは半透明なゲル状の物体。その下を流れるのは真っ赤な川。ゲル状の物体はヒュドラのマネキンのような頭部に似ている。転落死を避けられたのは、この物体が受け止めてくれたからだろう。


「……っ」


 しかし身体が動かせない。よく見てみるとゲル状の触手が私の四肢を拘束していた。背中をずるずると這いずり回るような感触に、私は顔をしかめる。


「こいつは、何だ?」


 脳裏を過ぎるのはいつの日かキリサメと読んだ異世界モノの本。確か『スライム』という名の生物だったか。


「離れろ」


 四肢に巻き付いたゲル状の触手を強引に引き千切ろうとするが、押さえこむようにして上からゲル状の肉体が覆い被さってくる。


「……ここは餌場か」


 ゲル状の生物は肉体を締め付けながら、衣服の隙間から直に肌へ触れようと触手を潜り込ませてきた。私は白骨化した遺体が視界の隅に映り、奈落の底は餌場だとすぐに悟る。


「うぶ、ごほ……ッ」 

 

 この未知の生物は激しい抵抗をさせないよう、ゲル状の触手を強引に口の中へ侵入させてきた。更に喉の奥へ奥へと触手が入り込んでいく。


(私は易々と餌になるつもりはない──)


 体内から溶かそうとしているのだろう、と私は触手をすぐさま噛み千切った。ゲル状の生物は一瞬だけ狼狽えたため、口の中に残った触手の先端を吐き捨てる。


「──私に触れるな」

 

 そして蒼色の獄炎を身に纏い、ゲル状の生物ごと炎上させた。上半身を覆い尽くそうしていたゲル状の身体や、四肢を拘束する触手に引火し、塵のようなものが火花のように弾け飛んだ。

 

「今が好機か」


 骨や筋肉を破壊された右脚は、到底使い物にならないため立ち上がれない。ならばと蒼い蔓を右手から岩壁へと伸ばし、自身の身体をゲル状の生物から引き剥がす。


「……ここまで追っては来れんだろう」


 そのまま蒼い蔓を手繰り寄せ、高い岩場へと着地した。私は何とか餌にならずに済んだ、と座り込んで一息つく。


「人を喰らうほどの肉食で身体はゲル状……何の生物か見当もつかん。ストーカー卿とやらが改良した食屍鬼の一種か、それとも──」


 至る所で地盤を這いずり回るゲル状の生物。その数は無数に等しく、奈落の底を埋め尽くしていた。私は一度言葉を飲み込むと真っ赤な川へ視線を移す。


「あの川は血か?」


 真っ赤な川の深度は膝丈より下の位置。ゲル状の生物はその上を這いずり、獲物を探し求めている。私は血液なのかと最初は予測したが、


「いや、違うな。別の要因で赤く染められている」


 嗅ぎ慣れた鉄の臭いがしない。どちらかと言えば、色素によって濁っているようにも見える。私は熟考じゅっこうを重ねようと顎に左手を触れた時、


「ふぎゃあぁあーーッ!?」

「……向こうの方角からか」


 ジュリエットの叫び声が川の下流から聞こえてきた。合流をするために左脚一本で立ち上がり、使い物にならない右脚を引きずりながら、岩場を声のする方角へ歩き始める。


「くそッ、こっちにくんじゃねぇナメクジ共がぁッ!!」


 私の視界に映ったのはノクスを懸命に振り回すジュリエット。取り囲むのはゲル状の肉食生物。半透明の触手を漂わせながら、距離を詰めていく。


「──Masqueradeマスカレイド

「ふぎゃッ、また変なバケモンが現れやがったッ!?」


 私は左手で顔の左半分を押さえ、蒼色の仮面を装着した後、影から女の頭部を一匹だけ呼び出す。そして頭を抱えるジュリエットを回収した。


「……お前は奈落の底でも騒がしいのか」

「か、鴨野郎っ……い、生きてたのかぁっ……!」


 側の岩場へと降ろしてから女の頭部を消すと、ジュリエットが今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめてくる。


「よく捕食されなかったな」

「私はこの荷物を背負ったまま着地した。そん時にナメクジ共が私をただの鞄だと勘違いして、何とか捕まらずに済んだってわけだ」

「あの女はどこにいる?」

「……クソ女は、私もどこにいるか分からねぇ。落ちるときにはぐれちまった」


 周囲にメルの姿が見当たらない。ジュリエットは奇跡的にゲル状の生物に捕まらなかったが、メルは間違いなく捕まるだろう。更に手負いの状態となれば、触手を引き剥がすこともできない。

 

「なぁ、こっからどうすんだ?」

「クルースニク協会へ帰還する」

「お、おい! あのヒュドラってヤツを今度こそぶっ飛ばすんだろ……!? 山羊のクソ共みてぇに、このまま逃げてもいいのかよ!?」


 必死に訴えかけながら詰め寄ってくるジュリエット。私は溜息をつくと見るに堪えない自身の右脚を軽く叩いた。


「私の右脚はこの有様であの眷属の情報は皆無。それでも戦えと?」

「……」

「これは下らん決闘ではなく、互いの命を懸けた死闘だ。つまり生きてさえいれば敗北はあり得ない。どんなに逃げようが、どんなに卑劣だろうが……最期に生きていた方が勝者だ」


 口を閉ざしたジュリエットに私が淡々とそう伝えれば、瀬無せない思いが込み上げたのか、岩壁に勢いよく両手を付く。


「だ、だったらクソ女を探すぞ! どっかで腹立つ顔して生きてるかもしれねぇ!」

「……最優先にすべきはクルースニク協会への帰還だ。あの女の捜索は二の次にする」

「な、何で探さねぇんだ!? クソ女だってこの辺りに落ちて──」

「どうせ既に死んでいる」


 私が冷めた返答をするとジュリエットはこちらへゆっくりと振り返った。


「し、死んでる……そ、そんなわけねぇだろ……?」

「あの生物の上に落下すれば捕食され、岩盤にそのまま落下すれば即死。どちらを想定しても望みは薄い」

「ふ、ふざけんなッ! 鴨が、鴨がクソみてぇなことほざくんじゃねぇえぇッ!」


 威勢よく掴みかかってくるジュリエット。左脚だけで立っていた私は体勢を崩してしまい、そのまま岩盤に背を打ち付ける。


「アイツは私よりも頭がわりぃし、いっつもちょっかい掛けてくるし……ウザくて、ムカついて、とにかく嫌なヤツで、私はあのクソ女が大っ嫌いだッ!!」

「……」

「でも、でもクソ女はその辺の山羊共みてぇに弱くねぇんだよッ! こんな、こんなクソナメクジ共に、喰われるはずがねぇッ! 岩に頭ぶつけて、くたばるはずがねぇんだぁあぁッ!」


 ジュリエットは仰向けになった私に馬乗りになると、胸倉を前後に揺さぶりながら、涙をボロボロと流し始めた。歳相応の泣き面を浮かべ、しゃくりを上げながらむせび泣く。


「……そうか。ならお前はそう信じるといい」

「うぐッ……ぐすッ……」


 私はジュリエットを軽く押し退けると、その場に左脚のみで立ち上がった。


「私はクルースニク協会へ帰還するための道を探す。後は勝手にしろ」

「ひっぐッ……ぐすんッ……な、何でッ、そんなこと言えんだよぉ……!?」

「薄情者の人生を歩んできたから。それだけの理由だ」


 項垂れているジュリエットを置いて、私は赤い川の上流に向かって歩き出す。上流の方角は緩やかだが上り坂。辿れば何かしら抜け道が見つかるはずだ。


「──くれっ」

「何だ?」


 しかし私を引き止めるように黒のコートを小さな手で掴んでくる。ジュリエットの声が上手く聞き取れず、私は足を止めて用件を尋ねた。


「助けて、くれよぉっ……」 

「……助ける?」

「クソ女が、いなくなったらっ……私は、私はまたっ、ひとりぼっちになっちまうっ……だからっ、助けてくれよぉっ……」

 

 胸が張り裂けそうなほどに辛い顔をしたジュリエット。私は振り返らず背を向けたまま、コートを掴んでいる手を振り払い、厄介払いにしようとした。


『目的が果たされるまでは……お前が私のとなり、私はお前のとなる。それでいいな?』

『あぁ、お前が手を貸してくれるなら心強いよ!』


 だが脳裏を過ぎったのはキリサメと口約束を交わしたあの光景。私は振り払うのを止めると、右手を胸元まで運びじっと見つめた。


(私は、同情しているのか?)


 私とジュリエットが共に行動するのは異世界転生者トリックスター。私たちの境遇はどこか酷似する。だからこそキリサメが息絶えた記憶が蘇り、ジュリエットの哀しみに同情してしまう。


「どうも調子が狂う」  

「ま、待ってくれぇっ……!」


 不快な気分を露にしながら右手を握りしめ、ジュリエットの手を振り払いながら再び歩き出す。


「……地上へ戻るまでだ」

「えっ?」

「地上へ戻るまでに見つからなければあの女は諦めろ。それまでは頭の片隅に置いておく」

「わ、分かったっ……!」


 私がそう忠告をするとジュリエットは泣き面を両腕で拭いながら、急いで後を追いかけてきた。


(……あの赤い川は向こうから流れてきたのか)


 川の上を這いずり回るゲル状の生物を横目にしばらく坂道を歩いていれば、前方に左右の別れ道が現れた。右の道は赤い川が流れてきており、左の道は白煙が漂ってきている。


「ォァア"ァア"ァア"ウッ!!」

「こ、この鳴き声……透明なバケモンの……」


 坂の角度からするに左の道が近道となる。だが擬態型の食屍鬼の鳴き声が聞こえてきた。私は使い物にならない右脚を見つめた後、


「この怪我で食屍鬼共の相手はできん。時間は惜しいがこの川を辿る」

「私もその意見に賛成だぜ。命より惜しいものなんてねぇよ」


 遠回りとなるが赤い川の上流へ続く道を選択する。蒼い蔓でついばまれ箇所を止血しているが、それでも歩を進めれば進めるほど、肉体が悲鳴を上げていた。


「……待て」


 数分ほど歩き続ければ、前方に長い銀髪を持つ男が現れる。上には黒のシャツを一枚だけ羽織り、下はベルトのある黒のズボンを履いていた。


「あの男と目を合わせるな」

「な、何でだよ?」

「……目を合わせるな」


 理由は答えず、ジュリエットにそう強く命令する。視線を交わさぬように黙々と歩き、向かってくる銀髪の男とある程度の距離が縮まった。


「「……」」

「……」


 私たちなど眼中にない、と言わんばかりの態度でその場ですれ違う。ジュリエットはやっとのことでその男が異端種だと気付いたのか、顔を真っ青にしていた。


「おい、人の餓鬼ガキ共」


 何事もなく切り抜けられるかと思いきや、銀髪の男はこちらに呼び掛けてくる。その威厳に溢れた声に、私たちは思わず足を止めてしまった。


「……何だ?」

「気に入らねぇ、気に入らねぇな。特にそこの青い餓鬼、どうもその目が気に入らねぇ。胸クソわりぃ気分だ」


 背を向け合ったまま銀髪の男と言葉を交わす。私の隣でジュリエットは怯えるように、両拳を震わせていた。

 

「そうか。よく言われる」

「あぁいいや、ちげぇなこれは……。気に入らねぇのは目だけじゃねぇ、血の匂い・・もだ」


 銀髪の男の苛立ちが更に増し、私は右手を雷鳴刀へ触れさせる。


「血の臭いはどの人間も変わらんだろう」

「あぁ? ちげぇだろうが。泥水とワインが似た味で、似た匂いか? ちげぇんだよ、そもそもの前提がちげぇ」

「……吸血鬼共・・・・の常識など知らん」


 空気を凍てつかせる存在感と脳内に鳴り響く警鐘は、派遣任務で遭遇したScarletスカーレット卿とまったく同じもの。つまりこの男は間違いなく──四卿貴族しけいきぞくの一人。


「青い餓鬼、ここで死に晒すか?」

「……!」


 すぐ背後に立っていた銀髪の男。私は振り向きざまに雷鳴刀を抜き、刀身に帯電させた状態で斬りかかる。


「しょうもねぇ、しょうもねぇよ青い餓鬼。こんなオモチャを振り回して遊んでんのか?」

「貴様、やはり四卿貴族の……」


 だがその刀身を表情一つ変えずに右手で掴むと、その握力のみで粉々にしてしまった。ジュリエットは傑作の発明品を容易に破壊され目を丸くする。


「青い餓鬼、俺にとって孤独が生き甲斐で、この渓谷は独りを楽しめる。だがなぁ、俺の居場所をそんな血の臭い・・で汚されたら、独りを楽しめねぇだろうが」

「……」


 銀髪の男の圧に押されてしまい私は岩壁に背を付けた。心臓を射抜くような鋭い視線に反抗しながらも、私は右手でパニッシャーを隠し持つ。


「独りで生きてもいけねぇ負け犬種族が、俺の孤独を邪魔するなんてよ? 胸クソわりぃ話だと思わねぇか?」

「……負け犬種族は貴様ら吸血鬼共だ」

「今、なんつったんだ?」


 私が睨み返しつつそう言い返すと銀髪の男は右手を勢いよく壁に突いた。岩の破片が飛び散り、辺りは大きく振動する。


「聞こえなかったのか? 負け犬種族は吸血鬼共の方だと言った」

「もういっぺん言ってみろ」

「負け犬種族は貴様らの方だ」

「もういっぺんだ」

「負け犬は貴様だ」


 その高い背でこちらを見下ろし威圧を掛けてくるが、私は怯まずに銀髪の男と視線を交わした。


「……あぁ、そういうことか。そういうことだったのかよ」

「……?」


 この対話で何に納得をしたのか、右手を岩壁に突きながら左手で額を押さえる銀髪の男。私は背中に隠し持っていたパニッシャーの引き金に指を掛ける。


「とどのつまりだ、青い餓鬼──テメェはBathoryバートリの餓鬼ってわけか」

「……ッ」


 しかしとっくに勘付いていたようで、銀髪の男は額を押さえていた左手で私の右手首を掴むと、パニッシャーごと岩壁へ押さえつけた。


「気に入らねぇその目に、胸クソわりぃ血の臭い。バートリと瓜二つじゃねぇか」

「だったらどうする?」

「……」


 銀髪の男は紅の瞳で私の瞳をじっと覗き込むと手を離し、興味が失せたと言わんばかりに背を向ける。


「チッ、奈落の底でも独りになれねぇ。次は空気の薄い山頂でも目指しかねぇな」

「私を殺さないのか」

「るせぇ、とっとと失せろ」


 下流の方角へさっさと歩いていく銀髪の男。私はパニッシャーを仕舞うと、削られた岩壁へ視線を移す。


「バートリの餓鬼」

「何だ?」

「テメェの母親からRuthvenルスヴンの名を、俺の名を一度でも聞かされたか?」


 思い出したように立ち止まり、私へそう尋ねてくる銀髪の男。この男はRuthvenルスヴンという名の四卿貴族らしい。


「バートリ卿とやらは私を生んですぐ公爵に殺された。お前の名など聞いていない」

「チッ、そうかよ」


 私の淡白な返答を聞いたルスヴン卿は舌打ちをすると不機嫌な様子で再び歩き出す。


「その先に見たこともねぇ服を着た女の餓鬼が転がってやがった。テメェらの連れだろうな」

「それって、もしかしてクソ女のことじゃ……」


 ルスヴンの一言にジュリエットは表情を明るくさせる。私はルスヴンの打って変わった親切心に不信感を抱いた。

 

「なぜその情報を私たちに教えた? 情けのつもりか?」

「ほざけ」


 ルスヴンは私に向かって吐き捨て下流の方へ姿を消してしまう。ジュリエットは緊張の糸が切れたのか、岩壁に背を付けて座り込んだ。


「ほ、ほんと何なんだよ……? あのヴィクトリアばあよりも恐ろしい、悪魔みてぇな男は……。お前の知り合いなのか?」

「知らん」


 命拾いをした私たちは川を辿りながら上流の方角へ歩く。メルの目撃情報を耳にしたことで、ジュリエットは心なしか歩を進める速度が上がっていた。


「……! おい、あそこに倒れてんのは……!」


 ジュリエットが指差す先にはうつ伏せに倒れたメル。私はそのまま歩み寄り、ジュリエットは急いで駆け寄った。


「お、おいクソ女! い、生きてんのか、生きてんだろ!?」


 必死に揺さぶるが唸り声一つ上げない。私はその状態に疑念を抱き、ゲル状の生物が蠢く奈落の底を見下ろしてから、光の点が浮かぶ空を見上げる。


(……なぜこの女は死んでいない?)


 ゲル状の生物に捕食されたわけでもなく、高所からの落下で肉塊となったわけでもない。更に妙なのは狼の頭部に噛まれた両肩の怪我すら完治しているという点。


「よ、よし……私が背負ってやる……!」


 ジュリエットは背嚢の代わりにメルを担ぐとそのまま坂道を歩き出した。

 

「その荷物は置いていくのか?」

「置いていかねぇとクソ女を背負えねぇだろうが!」

「そうか」


 一時間ほど歩き続ければ見下ろしたゲル状の生物は点となり、空に浮かぶ光の点は太陽となる。赤い川も徐々に色が透明なものへと変化していく。恐らく後少しで地上へ帰還が可能。


「……! お、おい、あの野郎は……!」


 そう思った矢先、私たちが行き着いたのはヒュドラとカルキノスが根城にしていた巨大な沼。どうやら崖際に上り坂があったらしく、私たちは身を潜めて顔だけ覗かせる。


「この赤い川は沼から流れていたのか」 


 川は巨大な沼から奈落の底まで流れていた。私は川を辿り正解だった、と安堵しながらヒュドラの姿を探す。


「今ならあのおっかないバケモンもいないぞ? 今のうちにここから逃げようぜ」

「あぁそうだな。さっさと抜けた方がいい」


 私たちはヒュドラを警戒しつつ、巨大な沼の周囲を可能な限り早足で歩いた。後僅かで奥地を抜けられる。


「痴れ者共、そのイノチを捨て損なったかッ!」

「……上手くいかんな」


 その瞬間、巨大な沼が水飛沫を上げヒュドラの巨体が姿を現した。私たちはその場に振り返り、ヒュドラを見上げる。


「走れ」

「はっ?」

「その女を背負って走れ。私が時間を稼ぐ」


 やむを得ない。鶴の頭部や蛇の頭部やら一斉に向かってくる最中、私はジュリエットに逃げるよう指示を出すと、左手で顔の左半分を覆い、


「──Masqueradeマスカレイド


 蒼色の仮面を付けた後、自身の影から現れた女の頭部を正面から衝突させた。肉体に衝撃が伝わり、思わず吐血する。


「お、お前、一人であんなバケモンを相手にするなんて無理だろうがッ!?」

「いいから走れ」


 手の平を下に向けたまま右手を振り払い、見開きの上製本を手に掴めば、仮面を付けた左目に『666』という数字が浮かび上がる。


「──Omenオーメン


 上製本を表向きに変えると、蒼色に発光する文字が飛び出し、装備していたノクスやパニッシャーに入り込んだ。私は胃液が逆流するかのような不快さにもう一度吐血する。


「痴れ者、見事な術だ。セッシャの頭をたった独りで受け止めきるとは」

「……ッ」


 Masqueradeマスカレイドで呼び出した女の頭部とヒュドラの頭部を衝突させ合い、Omenオーメンで文字を侵食させたノクスやパニッシャーで私を守護させ、左脚一本でヒュドラの正面から向かい合う。


「早く、走れ……ッ」


 更にFractalフラクタルの蒼い蔓を腹部を止血している。三つの血涙の力を同時に発動しているせいか、金槌で叩かれるような頭痛に襲われた。


「だが浅はかな愚行に過ぎぬぞ──出過ぎ者めッ!」

「……ッ」


 押し潰されそうなほどに加わる肉体への負荷。左脚一本だけでは耐えられず、私は体勢を崩し、前のめりで倒れそうになる。

 

「……?」


 しかし何者かが私の身体を支えるようにして受け止めた。ジュリエットか、と考えたが背はここまで高くはない。


「ごめん、すっげぇ遅れた」


 その人物は私の右手を自身の肩に回し、倒れないよう支えてきた。私はこの声を、聞き慣れている気がする。


「お前は俺が頭だって言ったけど……」


 その男の顔を視認し、私は言葉を詰まらせる。何故ならその男は私が初めて出会った異世界転生者トリックスターでもあり、


「こういう時はさ──俺がお前を支える脚になるよ」


 メサヴィラで命を落としたはずの──Kaitoカイト Kirisameキリサメだった。


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