6:Windless Valley ─無風の渓谷─
6:0 "──────"
彼女の意識は一陣の突風と共に呼び戻される。肉体を飲み込んだ流砂や延々と広がる砂漠は消え失せ、彼女の前には深い渓谷への道が続くのみだった。
「お前は連なる
杖を突きながら渓谷の道を歩み始める男性。彼女はしばし考える素振りを見せると、酷く気疲れした様子で男性の後に続く。
「相棒となる男を失った記憶。お前を揺さぶるには十分だったようだな」
「……私が動揺しているとでも言いたいのか?」
「動揺……。そうだな、そうとも呼べる」
透明な水が流れる小川。彼女たちを見守るように生い茂る草木。光合成を行う
「お前はあの男にひとつまみの信頼を寄せようとしていた。だがしかし、非情な現実を突きつけられ、動揺してしまったのだろう?」
「……信頼も動揺もない。あるのは"口頭の契約"だけだ」
「ならば尋ねさせてもらおうか。その顔が示唆している記憶を」
男性が杖を向けたのは彼女の顔。彼女は自分の頬や目元を触りながら、小川の水面を覗き込んだ。ぬこぬこパーカーに、黒タイツに、スニーカー。取り戻した記憶と寸分も違わない恰好。
「何だ、この顔は……?」
しかしそこに映り込む"顔"だけは違った。腫れ上がった目元、やや赤みを帯びた顔、両頬に残る涙の痕。散々泣き喚いた後のような自分の顔に、彼女は呆然としてしまう。
「その酷い顔が示唆しているのは"あの男を失った"記憶だ」
「……こんな顔は、まやかしに過ぎん」
彼女は歯軋りをすると小川で何度も顔を洗った。飛び散る雫が日光に反射し、彼女の酷い顔を何重にも映していく。
「吠え面などまやかしだ。私は、信頼も仲間も手放してきた。誰が命を落とそうと、哀しみなんてものは……」
小川で顔を洗えば普段通りの顔へと戻り、彼女は自分の手を見つめた。男性は彼女の隣に立つと、杖の先を小川へと向ける。
「今はそうやって洗い流せるだろう。だがいつかは洗い流すことは愚か、抑え込もうとする行為自体がお前を追い詰める」
「……追い詰めるだと?」
彼女の問いかけに応えるかのように、透明な色をしていた小川が少しずつ灰色に染まり始めた。軽やかに泳いでいた小魚たちは上流へと一心不乱に逃げていく
「この川は時の流れを示している。下流は過去を、上流は未来を表し……私とお前が立っているこの場所は
「……」
「洗い流した
灰色に染まった小川は上流からの流水により、再び綺麗な姿を取り戻した。彼女は小鳥の
「それは思想か?」
「いいや、これは真理だろう。だがしかし、その真理に背く者たちがいる」
男性は持っていた杖の先を彼女の顔に向けた。下流の方角から吹いたそよ風が彼女の髪を掻き分け、数秒の静寂が訪れる。
「私が真理とやらに背いていると?」
「
一枚の樹葉が二人の間をゆらゆらと落ちていく。その最中、彼女は足元で何かが蠢くのを感じ取った。
「……?」
足元でもぞもぞと動いていたのは、スニーカーの紐を
「湧き続ける未来は
「……何が言いたい?」
「お前たちは追われ続けているのだ──自身が洗い流した過去に」
男性は杖を下流の方角へと向けた。彼女は足元の蟹を蹴り飛ばし、後方へと振り返ってみると、
「あれが私の過去……」
自然の鮮やかな色彩が"白黒"へと変わり果て、川の色は真っ黒に浸食されていた。彼女はその光景を目の当たりにし、表情を曇らせる。
「お前はいつの日か、洗い流してきた過去に追いつかれるだろう」
「追い付かれると何が起きる?」
「……」
男性は彼女の問いかけに何も答えない。ただ杖を下ろし、小川の上流を目指して歩き始めた。
「なぜ答えない? 答えられない事情でもあるのか?」
「物事や歴史は順序があり、記憶もまた順序があるからこそ成り立つ……と伝えたのは覚えているか」
「あぁ、忘れていない」
しばらく歩いていると目の前に上りと下りの別れ道が現れる。男性は下りの道を選び、彼女もまたその後に続いた。
「……?」
上りの道に薄っすらと見えたのは赤髪の女性。淑女とは程遠い巨体が目立つ逞しい後ろ姿。彼女はその女性に視線を惹き付けられ、
「……っ」
「足元に気を付けるべきだ」
転がっている小石に躓き、その場で四つん這いになった。すぐに顔を上げるが赤髪の女性はもう見えない。
「……それで、話の続きは?」
「言葉を交わす今を
「私は記憶を取り戻している。それを踏まえれば過去の可能性はない。
渓谷に風は吹かず、視界不良となる白煙が土や岩壁から噴き出す。彼女はどこからか視線を向けられ、何度も辺りを見渡しながら、男性の後に続く。
「だからこそだろう。お前の問いに答えられないのは」
「どういう意味だ?」
「私が今を
「……下らん哲学だな」
二人が辿り着いた渓谷の奥地。巨大な沼を取り囲む断崖絶壁の崖や、熱気を含んだ白煙が立ち込める。彼女は試しに崖を覗き込めば、広がるのは奈落の底。
「その哲学をお前は重んじなければならない。もし選択を誤れば、お前は自分を見失うことだろう」
「……見失う」
「私は手助けをしているのだ。正当なる記憶を、正当なる順序で、お前が取り戻せるようにな」
思い返すように表情を険しくさせる彼女。男性はその背後までゆっくりと歩み寄ると、
「今は時間が無い。次なる記憶を取り戻すのだ」
「──ッ」
杖で力強く崖から押し出す。彼女は手を伸ばすが虚空を掴むのみで、
「よく思い出せ、お前が歩んだ──"無風の渓谷"での記憶を」
彼女の身体は暗い暗い奈落の底へと自由落下を始めた。
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