第13話

 保健室の前を素通りし、昇降口に向かった。途中で見回り中と思われる教師と鉢合わせた時は肝を冷やしたが、エアリアスが「彼女を保健室まで送ったら、僕たちも避難します」と涼しい顔をして言えば、教師は「そうか」と言うしかない。


「どこまで行くんだ?」靴を履き替えながら、葛西はミランダに問いかけた。具体的なことは何も聞いていない。そもそも本当に体調は大丈夫なのか、不安と心配と当惑の渦中にある心が、どうしても声に棘を纏わせる。

「芦ノ湖の方、でももう間に合わないかもしれない」


 絞り出すような声は悲痛で歪み、葛西はまたしても言葉が続かなかった。そこへ、靴を履き替えたエアリアスが、スマートフォンの画面をこちらに向けながら言った。

「いずれにしても、小田原まで行ってみましょう。移動中でも情報は入手できます。いい時代になりましたね」


「時間は?」

 ミランダがエアリアスに問いかける。

「ここから二時間、といったところかな」

「行こう」

 戸惑っているうちに、ミランダとエアリアスが先に歩き出し、取り残される気分になる。

「待てって」


 靴の踵に指をねじ込み、靴を履く。傘を手に取り二人に追いつくと、早足のまま校庭に出た。小さな粒の雨がじわりと降っていた。公道に出ると、行き交う車が濡れた路面から細かい飛沫を巻き上げていた。

「見て」

 ミランダが傘越しに葛西に顔を向け、空を指差した。タイヤが掻き立てる音に混じって、ヘリコプターのロータリー音がし、その主が視界を横切るように飛び去っていった。


「立川駐屯地から飛び立ったようだね。あれはO H-1航空偵察用観測ヘリ。事態が動き始めたのは確かでしょう」

「そういうのはどこで仕入れるわけ?」

「僕の国では常識だよ」

 雨の中、真っ直ぐ飛んでいくヘリは、確かに南西を目指しているように見えた。芦ノ湖、箱根、火山、地震、関連する単語が連想ゲームのように頭の中を流れていく。


「急ごう」

 事態が動いているのなら、ミランダも危険かもしれない。そう思わせる何かの片鱗が目の前を掠め、けれど姿を見ることは叶わなかった。エアリアスに肩を叩かれ、そちらに意識が向かう。

「ようやくやる気になったんだね」

「そんなんじゃない」


 ぶっきらぼうに答えながら、すでに歩き出した二人の後に続いた。立川駅からまっすぐ伸びる南口大通りを抜け、駅舎に入る。南武線のホームに入ると、ちょうど川崎行きの各駅停車が扉を開けるところだった。

「意外と混んでるな」

「自転車通学は気楽でいいよね」

「全くだ」


 自転車通いは、東京都下ではよくあることだ。東西に並走する鉄道網の隙間を埋めるようなバス路線の更に狭間にある自宅から高校までは、バスと電車を乗り継ぐよりも自転車の方がよっぽど早い。朝夕のラッシュもなく、寄り道し放題なのだ。今日のような雨の日は別としても、時間も金も節約できる通学手段をどうして卑下されるのだろう。


「二人とも俺に何か恨みでもあるのか?」

「冗談をいちいち真に受けてたら神経もたないよ」

 車両の中ほどに入り、つり革に掴まる。発射のベルが鳴り、列車が動き出した。

「そういうのは、発言者が言っちゃいけないんだ。愚かなミランダは知らないかもしれないけど」

「ねえ、ひどくない?」

「ひどいですね」

「そういう時だけ敬語になるのはなんなの?」


 つい苛立った声を出してしまう。これでは二人の思う壺だ。気安いやりとりに気分が軽くなる。しばらくは、そうして車窓を眺めながらぽつぽつと軽口を叩き合い、緩急を繰り返す車両に揺られた。気づけば乗換駅に着き、小田急線に乗り換える。ロングシートにちょうど三人分の空きを見つけ、ミランダが颯爽と座る。


「我の両側は息災じゃ」

 ミランダはなぜか得意げだった。電車の中で、突っかかってはおどけてみせる。その繰り返しだった。

「もう白状しろよ。無理に取り繕ったって、お前が苦しいだけだぞ」

 誰だって、そんな風に振る舞うのを目の当たりにして、心配しないはずがない。

「そんなこと、ないし」


 ミランダは首を左右にゆらゆらと揺らした。

「思い通りに行かない時にするその癖も」

 反対側に座るエアリアスの声が被せるように喋る。ドアが閉まり、発車間際のその瞬間、に放たれた声は、静寂の空の下に響く声援のように、葛西の鼓膜を震わせた。

 息を飲む気配と一緒に、ミランダが俯く。頭の揺れが徐々に治っていき、顔をあげた時には、再び瞳が濡れていた。

「君たちは、本当に人の決心を揺るがすんだ」


 鼻をじっと鳴らしたミランダは、スカートのポケットに右手を突っ込んだ。すぐに取り出したその手には、小さな手鏡が握られていた。化粧の具合でも見るのか、と場違いな想像をしたが、ミランダが普段使っている鏡は四角くカバーが展開してスタンドのようになる作りのものだ。縦に長い楕円形で、しかも縁には細かい植物のレリーフがあしらわれていた。


「鏡?」

「おとう……父の書斎で見つけたからくり箱に入ってたの」

「からくりって、特別な組み合わせにすると開く箱のことか?」

「寄木細工。伝統工芸品だったかな」

「そんな感じ。父の書斎は難しい本があったり模型が飾ってあったり、小さい頃にこっそり探検するのが日課だったの。そこで箱を見つけて、適当にいじってたらたまたま空いて」

「特別な鏡なのか?」


「でも、ずっと忘れてたの。小さかったし、机の引き出しに入れっぱなしで。それで、ちょうど奥多摩の地震の日、声が聞こえてきたの」

「声?」

「小さな声で、何を言っているのかはわからなかったけど、私を呼んでる気がして、それで引き出しを開けたら鏡があって」

「鏡が呼んだって、そんなこと」


「あるわけない。私だって、今でもそう思ってる。でも、この鏡が言うの。奥多摩に行け、転校生が来る、あの子を守れって」

「それで、行ったのか?」

「行った。あの日、あの場所に、私は……」

 ミランダは消え入りそうな声でそう言うと、ぎゅうっと掌を握りしめた。鏡が僅かに角度を変え、自分の顔が映る。見慣れているはずのそれが、どうしてか遠い存在に感じ、葛西は目を瞬いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る