第12話
ミランダとの間の諍いが収まって二日、関係改善をよそに外はあいにくの雨模様だった。春本番の陽気から一転、肌寒さが鼻をつんとさせる。それでも、教室に入ってしまえば弛緩した空気に安心する程度には高校生活にも慣れてきたのかもしれない。五時間目の音楽が終わり、特別棟から教室に戻った葛西は、多少冷えた指先を揉みしだきながら、椅子に腰掛けた。
「この後って避難訓練だっけ?」
後ろからやってきたミランダが、座りながら言った。
「池崎がそんなこと言ってたような」
記憶を探りながら答える。年に二回程度ある避難訓練だが、今回は事前告知ありのパターンのようだ。
「実際、今地震とか起きたら、どうなるんだろうね」
「間違いなく、アナウンスなんかないだろうな」
「ガラスで切ったりしたら、ここで手当てもしないといけないだろうし」
「結局そういうもんだよな。シナリオがあるのとないのじゃ全然違う」
未来は誰にもわからない。それどころか、この瞬間にここではないどこかで何が起きているのかさえ、自分たちにはわからないのだ。
「そういえば、エアリアスはあれからどう?」
ミランダはそうして水を向けてくる。教室に続々と戻ってくるクラスメイトたちの中にエアリアスの顔を見つけ、すぐに視線を外す。
「いや、いつも通り……。っていっても何を考えているのかわからないから、本当のところは全く」
「そっか。芦ノ湖の方も、今のところ落ち着いてるみたい」
「震源、か。また地震が起きるのか?」
「それは、多分大丈夫。刺激しなければ、暴れることはないから」
「まるで動物みたいだな」
ミランダがそれについて何か答えかけた矢先、不意にスピーカーがガタリと音を立てた。
「強い地震が発生しています。生徒の皆さんは、落ち着いて机の下に屈んで身を守ってください。繰り返します——」
アナウンスが入り、談笑していたクラスメイトたちはそれぞれ指示に従い、自分の机に身を寄せた。葛西も体を倒し、机の脚を手で支えた。放送の合間に訪れる静寂が時間の経過を遅く感じさせる。本物の地震に見舞われたら、自分の体を支持するだけで精一杯だろう。訓練は所詮芝居でしかない。演技をしている自覚はなくても、妙に力のこもった掌には、知らない間に汗が滲んでいた。
最初のうちは殊勝に身を守る体勢でいたクラスメイトも、焦れたのかそこかしこで話し声がし始めた。そこへすかさず、池崎の声が通る。
「静かにしろ」
自分が騒いでいるわけではないのに、心臓が縮む。弛緩しかけた空気が俄に締まり、そこにアナウンスが重なる。
「地震は収まりましたが、引き続き余震の可能性があります。指示があるまで、机の下から出ないでください」
小さなため息がそこかしこで漏れる。膝をついた姿勢は窮屈で、裾が床についたままなのも気になっていた。池崎が黒板に何か文字を書く気配がする。葛西はそうして散漫になる意識を、知らずミランダに向けていた。
うずくまった姿勢のミランダは、瞼を閉じた横顔を揺らしていた。何を考えているのか、はたまた自分と同じで空虚な予定調和に苛立っているのだろうか。
つい見入ってしまい、葛西は視線を床に向けた。脳裏を掠める振幅と同じリズムの影が机の足の先にあることに気づき、葛西はそこに焦点を合わせた。ゆらゆらと左右に揺れる影ならば、どれだけ見ていても気づかれないだろう。
その影が、ぴたりと止まった。疲れてしまったのだろうか。葛西は何気なくミランダに再度視線を向けた。さっきまで閉じられた瞳を大きく見開き、口元に手を当てていた。驚愕と嫌悪がない混ぜになったような表情に思え、尋常でない気配に頬が痺れるのを感じる。
「ミランダ、大丈夫か?」
小声で話しかけても、ミランダの反応はなかった。口から手を離し、小刻みに震える肩を抱く姿に、いてもたってもいられなくなる。
「地震が収まりました。生徒の皆さんは、担任の先生の指示に従って体育館に避難してください」
放送はそこで終わり、「避難するぞ。廊下に二列に整列しろ」と池崎が呼びかけた。その後ろの黒板には、「体育館へ」の文字が踊っている。クラスメイトたちがぞろぞろと廊下へ出ていくのを横目に見ながら、葛西は机の下から這い出すと、未だ体を縮こませているミランダの肩を掴んだ。
「何があった?」
体が前後に揺れても、ミランダはなされるがままといった様子で、蒼白の顔を葛西に向けるばかりだった。さらに力を込めようとする葛西の手に、横合いから別の掌が重なる。
「ゆっくり息を吸って」
振り向いたそこに、慈愛を滲ませたエアリアスの瞳があった。普段と変わらないふわりとした声音に、知らず肩に入った力が抜けていくのを葛西は感じた。
「先生、彼女は体調がすぐれないようだから、保健室に連れて行きたいのですが」
エアリアスが右手をあげ、池崎に声をかけた。廊下に出るよう促していた池崎はこちらに視線を向けると、「わかった。すまないがよろしく頼む」と簡潔に言い、「よし、体育館まで避難だ」と廊下に整列したクラスメイトに号令を出した。
「少しは落ち着いたかい?」
「うん。ごめん」
「本当に保健室行くか?」
「ううん。痛いのは私じゃないから」
そう言って首を振り、ミランダは立ち上がった。
「じゃあ、一体何が……」
詰め寄ろうとする葛西に、ミランダが視線を向ける。その瞳は濡れていて、葛西は続く言葉を飲み込んだ。
「ねえ。二人とも、一緒に来てくれる?」
力のこもった眼差しに、逆らうことはできない気がした。
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