第10話
異常物体の移動から一夜、事態は混乱状態から膠着状態へ移行していた。丹沢から芦ノ湖へ移動した異常物体は、佐伯自身の懸念をよそに沈黙を保っており、当直明けの職員から報告を聞いた佐伯は、交代の手配と情報集約を束の間実施した後、部下の伊原参事官を連れて竹橋の気象庁本館に来ていた。異常物体の分析結果を聞き取るためだ。地下の会議室に通された佐伯達は、挨拶もそぞろに本題に入った。
「現状はいかがですか?」
議場には地震火山部長の斎藤以下、首都圏の地震動を観測する担当者二人が入っていた。そのうちの一人、逸見が答える。
「芦ノ湖に到達した直後は震度二程度の地震が数回観測されましたが、それ以降は目立った活動はありません」
「物体の形状や性質について何かわかったことはありますか?」伊原が聞く。丹沢での自衛隊の調査では、その陰影も不鮮明で、周辺の岩石と密度が異なることがわかっているくらいだった。
「はい。偶然、丹沢から芦ノ湖へ移動する様子を上空から観測することができましたので」
佐伯もそれは承知していた。たまたま、神奈川県北部の山地で音波探査を実施していた気象庁のヘリがいたのだ。低空での飛行が特別に許可され、連続的に探査が行われていた。
「それで」佐伯が先を促す。逸見はそこで一旦視線を逸らした。迷いが透けて見え、佐伯は思わず身構えた。
「……大変申し上げにくいのですが、あれは生物の可能性があります」
時折言い澱みながらも、逸見は佐伯の目を見て言った。佐伯は言葉を失った。確かに、丹沢で観測された物体の影には生物的な印象を受けたが、それは点が三つ並べば人の顔に見える、いわばシミュラクラ現象やパレイドリア効果に近いものだと考えていた。
「推定八十メートルを超える生物などいるはずがない」佐伯はつい声を荒げてしまった。
「もちろん、考えられないことです。ただ……」怯んだ逸見がそこで言い淀んでしまい、佐伯の視線を避けるように斎藤の方をちらりと窺った。小さく頷いた斎藤が、体を起こし、机に手を置いた。
「本来、音波探査は海底の地形や地質を分析するための手法で、地上での観測には適していません。ダメもと、というか、我々もあまり期待はしていませんでした。しかし、音波探査の解析を進めるうちに、“声”が記録されていることがわかりました」斎藤が声を潜める。
「声。鳴き声、ということですか」伊原が聞き返す。
「断定はできません。音波探査の手法はご存知でしょう」
「音波を出して、その反射波のパターンを解析する、という程度しか……」
「概ねその通りです。多数の周波数の音源を物体に照射すると、物質の種類によって反射する周波数に違いが見られます。それを解析することで、地質構造の変化を探査できます。当然、返ってくる音波はこちらが用意した周波数成分かそれに近い波長です。ただ、今回は、照射した周波数成分とは全く異なる、超低周波が観測されました」
「超低周波、そんなものが」
「通常、超低周波は、例えば車や工場など、人間活動によって発生します。山間部で観測されることは稀です。しかも、その超低周波には強い指向性がありました」
「波形を見ることはできますか」
佐伯の言葉に、斎藤は頷く。すぐに逸見が立ち上がり、会議室のモニターを操作する。
「この波形が、こちらの出した音波を簡易的に示したものです」
モニターにグラフが現れた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色がそれぞれの高さの音を表しているようだ。波の高さは同じだが、振幅がそれぞれ異なる。赤色は広く、紫色は狭い。それぞれが低い音、高い音だ。
「複数の周波数帯の集合の為、複雑な波形をしています。そしてこちら、これが反射波です。周波数成分がいくつか欠落しています」
画面が切り替わる。四つの波形が重なっている。逸見の指しているのは橙だ。
「そして、こちらが観測された低周波です」逸見はグラフをクスロールする。反射波に重なるように、赤褐色の帯が出てきた。帯のように見えたのは、振幅がその他の反射波に比べて非常に広いからだ。その周期は橙色の反射波の三倍はある。「これは十ヘルツの超低周波です」
「確かに、他の反射波とはタイミングが違うようでうが」
「このような現象は、これまでの探査では確認されていません」
「しかし、随分単調だな。ずっと同じなのか」
「いえ。こちらをご覧ください。最初は一定の周期、つまり単調な音波でしたが、ここからさき、途端に複雑な波形を描きます。十ヘルツから五十ヘルツの、すべて低周波帯ですが、リズムを刻むように、規則的に変化していきます」
「これが」
「恐らくは。呼びかけるように、ずっと続いています」
「超低周波によるコミュニケーション……。まるで象みたいだ」
「仲間を呼んでいるとでもいうのか。そんなことあるはずがない。映画の世界じゃないんだ」佐伯は机から身を乗り出し、伊原に詰め寄った。
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