第9話

 結局、放課後までミランダとはまともに話をすることができなかった。休み時間のたび、何か話をしなければ、と思うとすぐに腹の虫が騒ぎ立て、苛々が胸に充満してしまう。そうして宥め賺し様子を見ているうちにチャイムが鳴る。授業の内容も耳には入らず、やれ二項定理がどう、やれ関係副詞がどうとのたまう教師の声が遠くに霞み、「心配ないって言ったじゃん」と悲痛に叫んだミランダの声だけが頭に響いていた。


 すくっと立ち上がるミランダを見上げ、今度こそ、と声をかけようとすると、横あいから「二人とも、ちょっといいかな?」とエアリアスが話しかけてきた。

「何?」

 机の横にかけてあったバッグを机の上に置きながら、ミランダは刺々しい声でエアリアスに対峙した。自分に向けられたわけではないのに、その声に胸のあたりが萎縮する。


「そんなに構えなくてもいい。昨日の続きをお願いしようと思ってね」

「続きって、校舎の案内か」

 エアリアスが肩を竦める。ドイツ人がやるとそれらしく見える。ミランダの口元がすぼみ、「二人で行ってくれば? 雨降りそうだから帰りたいんだけど」とつっけんどんに言ったミランダに、エアリアスは「先生から、二人にお願いするように頼まれているんだ」と言い返した。絶対に嘘だ、と思いながら、先生という言葉に無意識に反応してしまう自分がいる。


 ミランダがちらりとこちらを見る。戸惑いの色が浮かぶ瞳が葛西の視線とかち合う寸前で、すうっと横に流れた。

「特別棟の三階に行けばいいんでしょ」

 ミランダはそう言うと、すたすたと教室を出ていこうとする。


「アキラも」

 エアリアスの目が真っ直ぐ葛西を射抜く。拒否することも抵抗することもできず、葛西はエアリアスと並んでドアをくぐった。

 特別棟にある特別教室の多くは、文化系部活動の活動場所になっている。三階の理科実験室は科学文化部、四階の音楽室は吹奏楽部、五階の視聴覚室は映画映像研究部の縄張りといった具合だ。


 階段に漏れ聞こえる木管楽器のチューニング音に合わせ、エアリアスが鼻歌を囀る。昼間とは一線を画す空気に、エアリアスは随分と陽気になっている様子だった。

「これぞ青春の音色」


 目を閉じて腕を広げ、まるで舞台か映画か、芝居がかった仕草をする。葛西はそんなエアリアスに苦笑し、ちらりとミランダを見遣る。いつの間にかエアリアスが先行する形になり、隣に並ぶ格好になったミランダは、じっと足元の階段を睨むばかりで、エアリアスの戯言に付き合うつもりはないようだ。

「五階まで行くつもり?」

「まずは一番高いところに行きたいだろう」

「バカじゃん」

「確かに煙ではないがね」


 ミランダの皮肉を受け流すエアリアスが振り向き、「アキラ」と自分を呼ぶ。

「なんだ?」

「五階の映画映像研究部は何をしている部活なんだ?」

「俺も詳しくは……。映画観たり、映画作ったりしてるんじゃないか。文化祭で自主制作の映画を上映したこともあるらしいし」

 去年の文化祭で、そんな告知をしていたのを朧げに思い出しながら、葛西は答えた。


「映画を作るっていうのは大変そうだ。どんな作品なんだろうか」

「さあ。俺も観たわけじゃないし」

「ミランダは観たことがあるかい」

「私もない。っていうか、映画とか興味ないし」

「何事も興味を持つことから始まると思うが。君も、興味があるからこそ使っている」


 四階と五階を繋ぐ階段の踊り場で、エアリアスが振り向いた。青色の瞳が妖しく光り、剣呑な視線がミランダを捉えた。

「……なんのこと?」

 ミランダは立ち止まり、三白眼を返す。

「それは、君の手には余る」

「あんたには関係ないでしょ」

「関係があるかないか、それは些末な問題だ」


「エアリアス、それ以上はやめろ」

「君も、ミランダが心配じゃないのか?」

「心配だからって、ずかずかと心の中まで踏み込んでいいわけじゃない」

「それは、私に言っているのかい? それとも君自身?」

「そんなこと、どっちでもいい」


 図星を突かれ、葛西は語気を強める。エアリアスのペースで話が進んでいく気配があった。今、ミランダを追い詰めるわけにはいかない。これ以上意固地になられたら、本当に危険は場面で助けることができなくなる、そんな予感があった。

「二人とも強情だね。わかった。そんな剣幕にならなくてもいいのに」

「ふっかけてきたのはそっちでしょ?」


 ミランダの剣幕に、飄々と受け流していたエアリアスの表情が硬くなる。これはいけない、と思っていると、エアリアスが不満そうに言葉を吐き出した。

「カラーコンタクトにそこまでこだわることないだろうに」

「カラーコンタクト?」

 予想もしない単語におうむ返しに答えながら、葛西はミランダと目を合わせた。


「君の瞳の色、昨日と今日ではわずかに違う。若い身空であまり瞳を傷つけると、将来白内障のリスクが上がるからね。友達にこういうことをいうのは心苦しいが、言わなければいけないこともあるじゃないか」

「何だよそれ」

「何それ」

 葛西とミランダの声が重なる。張り詰めた空気が途端に緩み、どちらからともなく笑い声に変わる。


「なんだ、違ったのかい?」

「違う違う、使ってないよ。そんな真剣に心配してくれたわけ?」

「眼は大切だよ」

 エアリアスが耳を赤くしながら強がりを言う。

「そうだな。眼は大切だ」

 エアリアスの不満そうな顔に、葛西も茶々を入れる。


「わかったから。心配してくれてありがと。二人とも、ね」

 エアリアスと葛西、双方に向けられた瞳には、すでに憤怒の色を失っていた。笑い涙でしっとりと濡れた双眸に、吸い込まれそうになる。

「葛西もカラーコンタクトだと思っていたのかい?」

 横合いからかけられた声に、「俺はエアリアスとは違うよ」と反射的に答え、葛西は階段を駆け上がった。

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