第30話 防犯ブザー

 濡らした布巾でごしごしと机を拭く。


 掃除をおこたっていたのか、拭けば拭くほど布巾が黒く染まっていく。


 きゅっきゅっと動かすたびに汚れが落ちていくのは、仕事の成果が目に見えて出ているので気分がいいが、いくらなんでもこれは汚れすぎだ。


「お嬢さん、精が出るねえ」


 ふわふわとやってきた化身に、手を止めてそちらを見上げる。


「化身」


 私は汚れ切った布巾を化身に突き付けた。


「ちゃんとお掃除しないとダメます」


「エ?」


「机が汚れすぎだます。掃除しないと汚います」


 ぽこぽこ怒りながらそう言うと、化身は頬をかいたようだった。


「あー……巻物が置かれてる場所ばっかり掃除してたからネェ……」


「掃除しないとダメます」


 布巾を持ったままふんすと主張する。


 化身は苦笑いをした。


「ゴメンネ。お嬢さんの言う通りダ」


 私はこくこくと首を縦に振る。


 化身はそんな私の頭に手を置いて、がしがしと撫でてきた。


「ありがとうネ。絵巻屋にもよく言っておくヨ」


「……痛います」


 きゅっと顔をしかめて私はそれを受け取る。


 ひとしきり私を撫でると、化身はパッと手を離した。


「ア、そうだったそうだった。お嬢さん、チョットおいデ」


「何ますか?」


 ふよふよ飛ぶ化身の後ろをついていく。


 化身は棚に入っていた小さな板を差し出した。


 板には持ち手がついていて、まるで小型のラケットのようだ。


「それは、遠鳴子とおなるこってやつダヨ」


「?」


 聞いたことがない単語に、私は首をかしげる。


 化身はそんな私に、遠鳴子についたピンを指さした。


「このピンを引っ張ってごらん」


 言われたとおりに引っ張る。そしてカチッとピンが抜けた直後、化身が持っているほうの鳴子がガチャガチャガチャッと騒がしく鳴り出した。


「ピンが取れたらこっちの鳴子が鳴って、教えてくれるんダヨ」


 驚いてのけぞっていると、化身は説明してくれる。


「要は防犯ブザーってやつだネ」


「防犯ブザー」


 化身は私から鳴子を回収すると、元の通りにピンをはめた。


 鳴り続けていたもう一方の鳴子の音が止まる。


「いいカイ? 変な奴に会ったり、危険な目にあったら、すぐにこれを引っ張るんダヨ?」


 再び手渡されたそれを私は見下ろす。


 その時、ちょうど横を通りがかった絵巻屋はぼそっと言った。


「アナタ、いくらなんでも過保護にもほどがあるでしょう」


「何をォ! この前、アヤシにお嬢さんが誘拐されて帰ってきた後、メチャクチャ挙動不審になってたお前に言われたくネェナ!」


 責めるような声をした絵巻屋に、化身はがうっと噛みつく。


 絵巻屋は目の端をぴくっと動かすと、そのまま私たちを無視して去っていってしまった。


「これが鳴ったら、俺か絵巻屋のどっちかがすっ飛んでくからネ。危ないと思ったら迷わず引きなネ」


 そう言い聞かせられ、私は力強くうなずいた。


「任せろます」


 受け取った遠鳴子を服の中にしまい込む。


 ちょうどその時、絵巻屋が奥から私の名前を呼んできた。


「写見」


「はいます」


 とててっと小走りで絵巻屋のもとにいく。


 絵巻屋は座布団を敷いて、そこに座って待っていた。


「こちらにお座りなさい」


「はいます」


 すすめられるまま、絵巻屋の前に腰掛けた。教えられた通り、しっかりとひざは揃える。


 絵巻屋は私がちゃんと座ったのを確認すると、私に小袋を手渡してきた。


 受け取ると見た目よりずっしりと重い。


「これを呉服屋の『路異みちい』に届けてください」


 ちょっと考えて、自分が服を買ってもらった店だと思い出す。


 私は顔を上げて、絵巻屋に尋ねた。


「おつかいますか」


「はい。アナタが選んだ服のツケがまだでしたからね」


 びくっと肩を震わせる。


 そういえばこの服の代金は、絵巻屋が払うことになっていた。


 私は袋に包まれた貨幣を握りしめてうなだれた。


「……ごめんなさい」


 しゅんとしながらそう言うと、絵巻屋はつんとすまし顔で答えた。


「謝る必要はありません。あなたはもうこの異界のモノなのですから」


 絵巻屋は淡々とそう言うが、どうしても申し訳なさはぬぐえない。


 目を伏せる私に、絵巻屋ははぁとため息をついた。


「アナタのその服は紗綾さんが心を込めて選んだものです。それを否定するのは失礼にあたりますよ」


「!」


「人の想いがこもったものは受け取っておくものです」


 私は自分の着る服の袖を見る。


 紗綾と店員のおばさんが一緒になって考えてくれた服だ。


 私は胸の中がふにゃっとなって、小さくうなずいた。


「それから……」


 絵巻屋はそこで言葉を切り、ぎろりと私をにらみつけた。


 私はびっくりして背筋をただす。


 そして彼は、私の目の前に小袋をもう一つ置いた。


「どうぞ」


「……?」


 彼をうかがいながらそれを拾い上げ、中身を確認する。


 そこには数枚の小銭が入っていた。


「これは?」


「…………」


 絵巻屋は居心地悪そうに目をそらしている。


 代わりに私にささやいてきたのは化身だった。


「お小遣いだヨォ。帰りにお団子でも食べてきなッテ、絵巻屋は言ってるのサ」


 私は目をぱちぱちさせて、絵巻屋を見る。


 絵巻屋は相変わらずこちらを見ようとしない。


「貰っときなっテ。お団子好きだろウ?」


 上からぽんぽんとボールのように頭を軽くたたかれ、きゅっと顔をしかめる。


 人の想いがこもったものは受け取っておくべき。


 ついさっき言われた言葉を思い出して私はこくりとうなずいた。


「絵巻屋。おだんご食べてくるます」


 小銭が入った袋を両手できゅっと握りしめる。


 絵巻屋は居心地悪そうに顔をゆがめた。


「……お礼は」


「ありがとうます」


「よろしい」

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