第9話

 私は、何が悲しかったのだろうか。


 そして何が、嬉しかったのだろうか。


 散々喚いているうちに、自分の感情がシンプルになっていくように感じた。


 私は、変わるの。

 もう誰にも不細工なんて言わせない。

 失うことを恐れる必要はない、ただ進むだけ。


 思考がクリアになると猛烈な眠気が襲ってきて、その場でうずくまるように眠った。


 目を覚ますと散らかるだけ散らかった部屋を片付けて、白米を炊き、風呂に入り、レトルトカレーだけど、あの日以来のまともな食事を摂った。


 あの日から、もう二週間以上が経っていたようだ。


 二週間以上の無断欠勤、会社にはもう私の籍はないだろう。

 仮にあっても、戻る度胸も理由も私にはない。

 今更だけど、退職届だけでも出しておこうか……。

 貯えが無いわけではないけれど、職探しもしないといけない。


 ともかくも、やるべき最優先事項は今やこれだ。


 姿見には、以前と変わらずUIが表示されたままだ。

 まずリスクヘッジのために、自分以外のものを変形させて危険性の有無を探ってみよう。


 家で育てていた枯れかけの小さな縮玉サボテンと、レグルスの公式グッズであるクマのぬいぐるみで試すことにした。


 一応、有機物と無機物で差が出ないかも知る必要があるだろう。


 本当なら動物実験をした方が良いのだろうけど、やはりそれは気が引けてしまい踏み出せずにいた。

 植物も可哀想だけど、私の都合で勝手に体を弄った動物と一緒に生活するなんて罪の意識に耐えられそうにない。


 早速、鏡にサボテンを映しながら自動選択ツールやゆがみを使い茎と鉢を拡大変形して、明るさ、コントラスト、色相彩度、シャープツールにスタンプ、レイヤーを使用しての乗算、ハードライトを試してみる。


 正面から見て四等分にして前と後ろで計八箇所に、変形以外の色味変更などの効果を一箇所ずつ反映させた。

 明るさ変更を適用したところ、乗算を適用したところなどが分かるように図解と今日の日付と時間を記したメモを鉢に貼り付ける。


 時間帯での変化の可能性も捨てきれないので定点でのビデオ撮影をして、更に毎日定刻に写真も撮って変化を観察することにした。

 気象による明るさの差異が少ない夜間がいいかな。


 変更適用の持久性と効果の違いによる差がないか徹底的に調べるのだ。


 ぬいぐるみにもサボテンと同じように検証のための変更を反映する。


 ありがたいのが、仕事で使っていた編集ソフトと同じようにpsdファイルとしてデータ保存が可能なところだった。


 これなら、変更後のデータはもちろん変更前のバックアップも取っておける。

 しかしこれもデータ消失の可能性がないか気をつけて観察する必要がある……。


 観察期間はとりあえず一ヶ月を目処にして、私は派遣社員として働く日々を過ごした。


 スマホにはたくさんの着信履歴やメッセージ――主に以前の広告代理店からだけど――が残っていて、その中にはガイヤくんからの着信も二回ほどあった。


 打ち上げ、何も言わず勝手に帰ったから、もしかして気にしてくれたんだろうか。


 ガイヤくんは優しいからな……。


 ガイヤくんのことを思い出すと今も苦しくて涙が出てきてしまう。

 また会いたいという気持ちと、あの日のショックだった出来事もフラッシュバックしてしまうせいだろう。


 今はまだ、電話も出来そうにない。

 感情が溢れて、ガイヤくんにすら何をしてしまうか私自身も予想が出来ない……。


 顔を変えて、ガイヤくんに会いに行こうか?

 鏡の機能を使って顔を変えることは決めてはいるけれど、正直、それからどう生きていくのかは何も考えていない。


 そもそもまだ、本当に美しく顔を加工できるかどうかも未確定なのだ。


 昔、猿の手という短編小説を読んだことがある。

 猿の手というアイテムは願い事をなんでも叶えてくれるが、それには必ず大きな代償が伴うという話だ。


 その影響か、願いの成就には代償が付き物なのだと考えて生きてきた。

 ハイリスク・ハイリターンなんて言葉が定着しているのはその証左ではないだろうか。


 私が今から利用しようとしている、あの未知の力が私に不幸を招くのか、幸福を呼んでくれるのか、誰にも分からないのだ。

 私にできるのは、可能な限り幸福になれる道筋を行くために慎重に事を運ぶことだけだ。


 ……そういえば。


 猿の手のオマージュ作品の中に、猿の手の特性を理解した主人公が世界が平和になりますようにと願い事をして代価の請求に困った猿の手を消滅させ、世界に平和をもたらすことに成功し、自身も平穏に暮らすという話があった。


 私は、猿の手の本編よりこのオマージュ作品の方が好きだ。


 願いは本来、祈りと近しい存在であるべきではないかと思っているからだ。

 利己より利他のために在るべきだと。

 他者のために願いを捧げるその人には、その貴さから悪魔でさえもその手を伸ばすことは不可能なのだとも思う。


 このロジックで言えば、私が叶えようとしているこの願いの行く末は――……。


 よそう。


 そこにあるかもしれない可能性に賭けてみたい。

 受けられるかもしれない幸せを、受けてみたいのだ。

 そう、本来の自分では絶対に得られなかったろう幸せが欲しい。


 一ヶ月後。


 サボテン、ぬいぐるみともに変更と効果の様子に変化はなく、加工した当時の状態を保っている。


 サボテンなどは、枯れてしまっては困るからと世話をキチンとしたおかげで実験前より元気なくらいだ。

 植物としての生命活動に支障が出ていないということだと分かる。


 鏡を使うにあたって、まだ確認したいことがあった。

 鏡の電源が落ちても効果が持続するのか、と保存したデータは無事なのかと言うことだ。


 電源オフ方法には心当たりがあった。


 理想では別のデバイスに現状データをバックアップしてから試したかったが、その方法はどうしても分からなかった。


 鏡のフレームの飾り、左下の猫。

 その頭をちょいちょいと撫でた。

 鏡面から、スっとUIが消えた。


 サボテンとぬいぐるみを確認したが、大きさやパーツ、色などの変更も生きたままだった。


 再び猫の頭を撫でる。

 起動した鏡面を見ると、保存したフォルダもその中のデータも無事だった。


 これなら、大丈夫かもしれない。


 サボテンとクマのぬいぐるみをバックアップデータを使って復元して、いよいよ私は自分の顔を加工することにした。

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