第8話

 不思議に思って音のした方に目をやると、リラちゃんが洗面所のドアにもたれかかってコチラに笑顔を向けていた。


 ――?


 なんだろう、違和感。

 まぁとにかくシミにならないうちに流しちゃおう……。

 そう思ってバチャバチャしてると後ろから声がした。


「いやいや、オバさん、無視しないでよ」


 えっ!


 幻聴?


 対応出来ずにその場で固まっていると、リラちゃんが洗面台をバシンと叩いて言った。


「なに?無視?調子のってるの?あんた一体なんなわけ?」


 リラちゃんが……、リラちゃんの口からこの言葉は放たれているんだろうか……?

 ハッキリと彼女の口が動いて彼女の声がして、それを見ていたのに、それでも信じられない。

 あんなに可憐で、天使のような、女神のような彼女が、こんな態度と言葉を投げつけてくるなんて、私にだって誰にだって想像だに出来ないのではないか。


「私ね、ガイヤくんとお付き合いしてるの。分かる?彼女なの、私、ガイヤくんの。ねぇ、ガイヤくんや私とアナタみたいな不細工なオバさんじゃさ、住む世界も次元も違うなとかって思わない訳?」


 さっきまでの可愛い声とは全然違う、低く悪意に満ちた声で言葉が続く。


「ちょうどさぁ、鏡が目の前にあるじゃない?ちょっと見てみなよォ!!」


「痛い!」

 リラちゃんが私の後頭部の髪を掴んで無理やり鏡に顔を向けさせた。

 髪の毛が抜ける痛みで引きつった、いつもよりもずっとずっと醜い顔が映されているのが見える。


「やだ~ブッサイク~!!ねぇ見える?見えてるよねぇ、自分の顔ォ!!」

「きゃあ!」

 髪を掴まれたまま、鏡に強く顔を押し付けられた。

 グリグリと捏ねるように執拗に押し付けてくる。


「ドブスはドブスの国で生きてろよ!身の程を知れ!調子乗ってガイヤくんに近付いてんじゃないわよ!」


 鏡に押し付けるのを止めると、突き飛ばされて壁に背中を打ち付けた。

 突然の暴力と暴言に驚きすぎて、何の反応もできない。


「顔だけじゃなくて頭も欠陥品なのね。なんでそれで生きてられるの?私なら耐えられないわよ?オバさんみたいな気持ち悪い生き物に生まれてたら!アハハハハハ」


 蛇口をひねり、その水を手で掬うと、何も出来ないまま立ち尽くす私に汚いものでも流すように激しく水をかけ続けた。


「さっさと消えなよォ!見苦しいんだよ存在自体がぁ!!また私たちの前に現れたらこんなんじゃ済まないからね!!」


 言うだけ言って、やるだけやってスッキリしたのか、リラちゃんは鼻歌を歌いながら洗面所から出ていった。


 私はもう、ただ座り込むしか出来なかった。


 ずぶ濡れで、これじゃあもう会場には戻れないな。

 顔……見たくないけど酷いことになってるだろうな。


 とにかく……帰らないと……。


 まだボーッとしている頭でそう思って立ち上がると、どうしても鏡の中の自分の姿が目に入ってしまった。


 髪の毛はボサボサでパサパサしていて、顔はメイクが滲んで泣いたピエロみたいになっている。


 ファンデーションがとれて露出した素肌は赤くなっていて、吹き出物がいくつか見れる。


 どうしようもない。

 気持ち悪い。

 私も知ってる。

 私の顔が気持ち悪いって。


 私が一番私の顔、嫌いだもん。

 ずっとずっと嫌いだもん。

 でも仕方ないんだもん。

 それで生きろって決められたんだもん。


 ジャケットとスカートだけでも水を絞って、髪を整えられるだけ整えて顔を洗い、家に帰ることにした。


 ガイヤくんに、バイバイって言いたかったな。

 出来たら、またねって笑って言いたかったな。

 すれ違うホテルの従業員の人が「大丈夫ですか?!」って声をかけるくらい酷いみたいだから、会いたくない。


 会えない。


 打ち上げ会場の前を通りかかると、一層賑やかな声が響いていた。

「キーッス!キーッス!」

 大勢の声でシュプレヒコールが起こっているようだ。

 なんだろうと思ってつい覗いてしまった。


 リラちゃんとガイヤくんが舞台の上でキスしてた。


 歓声と悲鳴で大騒ぎの会場の音が、とっても遠くに聞こえた気がした。

 その後はもうあまり覚えていない。


 目が覚めたら家のベッドで寝てた。


 もう、なにもしたくなかった。

 会社にも、行きたくない。

 それでも私、生きてなきゃいけないかなぁ?

 もういいんじゃないかなぁ?

 誰も困らないよ。

 皆知ったこっちゃないよ。

 私一人居なくても、何にも変わらないよ。


 会社にも行かず、外にも出ず、ベッドの上で布団にくるまり続けた。

 電話が鳴ってうるさいので、電源を切った。

 排泄して、少し食べて、少し飲んで、排泄して、それを繰り返して日々を過ごした。


 ある日、いつものように少し食べ、少し飲もうとして、気がついた。


 このカップ、あの日ガイヤくんにコーヒーを出した猫のカップだ。


 笑って一緒にコーヒーを飲んだな……。

 そうそう、防腐処理をしようか真剣に悩んだっけ……。


 ――こんなカップ、割ってしまおう。


 破壊衝動に駆られて床にカップを叩きつけようとしたけど、ついに出来なかった。


 割りたくないなぁ。

 楽しかったもん。

 あの時、心から楽しかった。


 ポロポロと涙が溢れてきた。


 不意に正気に返ったようになって部屋を見ると、空き缶やインスタント食品の容器、ペットボトルやゴミだらけの空間になっていた。

 台所は洗い物が溜まって小バエが舞っている。

 私自身は、いつの間にか酷く体臭がキツくなっているし、髪も肌も脂でギトギトだった。


 どうして私はこうなんだろう。

 なんでこんな生き方しか出来ないんだろう。

 こんなに気持ち悪くて、不細工で――――。


 その時、あの鏡が私の目に飛び込んできた。


 雷に打たれたようなシビレと震えが全身に広がった。


 そうよ、この鏡。

 鏡にかかるバスタオルを投げ払って、私は久しぶりに笑った。


 この鏡があれば私は変われるはずよ。

 私の一番嫌いな私を、この鏡でなら変えられる――!


 この鏡を使えば、惨めで気持ち悪い私と、さよならできるんだ!!


 私はしばらく鏡を抱きしめて泣きながら笑い続けた――。

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