ああ、どうか、女神様
好色令嬢――それが彼女のあだ名だった。
帝国一の美姫。
されど、色を好み男とみれば誰からかまわず尻を振る、と。
「まったく、失礼しちゃいますわ!!」ぷりぷりと頬を膨らませながらジェーンは馬車の外の景色に目をやる。「私はそんな噂みたいなことしないわ。ただ少しばかり他の子たちより可愛くて、他の子たちよりもちょっとだけ殿方が好きなだけですのに!!」
ジェーンは十五歳。恋に恋する乙女だった。いつか自分のことだけを愛してくれる素敵な王子様と大きなお城に住むんだとそんな夢を抱いて生きてきた。美しいだけの姫ならば、この大陸の中に何人もいた。
ただ、ジェーンはそれだけの美少女ではなかった。
愛することの天才。そして、愛されることの秀才だった。
「私はすべてのものを愛するの。愛して欲しいから。だから、まずはすべてのものを愛したいの」
その言葉の通り、ジェーンは愛されることへの努力を怠らなかった。それが出来るのは何より彼女にあらゆる人と物を愛する才能があったからだ。
剣の修行も、魔法の授業も、踊りのレッスンも。全部、全部が愛されるための努力だった。みんなに喜んで欲しい。愛して欲しい。そのためにならどんな努力だってできた。
そしてその努力が見事に実を結び、同世代の帝国貴族令嬢たちの中で彼女ほど貴族らしい実力と教養を身につけたものはそうはいなかった。
剣も一流。魔法も一流。歌も踊りも一流。そして並ぶ者のない美しさ。新興ながら政治力を発揮しているプロフィトロール家という家柄の良さ。
順当にいけば近い将来、皇太子妃になることも難しくはなかっただろう。
それなのに――。
「んもう、どうしてこんなことになっちゃたんですの!! みんな勘違いしてますわ。私は好色令嬢なんかじゃないのに。御父様まであんな噂を信じてこんな処置を……」
これは移動というよりも護送だ。いやむしろ連行?ジェーンは「むぅ」と両頬を膨らませながら窓の外に目をやる。
隣では付き添いのマハットが魔法具を磨きながら笑っている。
「まあまあ、身から出た錆ってやつです。諦めて下さい」
馬車は湖の畔を走り抜ける。
春風が吹き、花の香りが芳しく、空は雲一つない晴天。
「御父様もマハット先生もひどいわ。私に黙って士官学校の入学なんて大事を決めて……
。ね、そうは思わない? ホイップ、カスタード?」
ぶおん、とジェーンの言葉に返事をするのは二頭の馬。白毛のホイップと、黄毛のカスタード。
彼女が乗る二頭立ての馬車の周りには護衛の騎士が四騎。プロフィトロール家の紋章が入ったマントを身につけた騎士たちだ。
父伯爵が娘を守るために付き添わせたものたちではない。どちらかといえば娘が逃げ出さないようにするためのもの。ジェーン自身もそのことは重々承知している。
護衛の騎士たちが男であったならば、ジェーンは彼らを誘惑し懐柔してしまうだろう。それもあって騎士は四人とも顔見知りの女騎士だ。
「ねえ、マハット先生……。学舎はまだぁ?」
ジェーンは隣のマハットに尋ねる。
士官学校の教員にして、プロフィトロール家の家庭教師でもあるマハット。彼は父伯爵たっての頼みでジェーンの学舎入りに同行する。諸々の入学手続きに際してもよく協力してくれた、らしい。ジェーンには気付かれないように、こっそりと。
「そうですねえ。学舎まではあと小一時間といったところでしょうか」
マハットは著名な魔法士を多く排出しているエクレア家の三男。
二枚目とは言えないが清潔感はあり、穏やかな佇まいは会う人に警戒感を与えない。白シャツの上に魔法士が研究時に着用する黒いローブを着込んでいる。手元の魔石を絹布で熱心に磨いているマハットは、ジェーンの声にちらりと外に目をやる。鼻を突く少しだけ酸味の強い珈琲の香りは、いつも彼がまとわせているもの。
「随分、街から離れた場所にあるのね。もっと近くに作ればよかったのに」
「学校とはいえ、軍の施設ですから。機密情報保護のためには街から離れてる必要があったんでしょう。演習のために広い土地も必要ですしね。まあ、不便といえば不便ですが、慣れればなんてことないですよ」
一方のジェーンはいつものドレスではなく、士官学校の制服を着込む。
士官学校の制服は学部によって全く違うデザインがなされている、
航空騎兵学部の制服は、白い聖天馬の毛並みに映える黒が基調のデザイン。スリットの入ったスカートとタイツは、いざというときは制服のままでも騎乗できるように仕立てられている。首元には校章が描かれたネクタイが揺れる。聖天馬の翼と白樺の葉が組み合わされたエンブレムが胸元に輝く。
「私、紅茶もないような田舎、嫌よ」
「その点はご安心を。毎日、商人の往来があります。一つの町のように商人もいれば、聖職者もいます。商店、教会、飲食店。そこらの町にあるような施設なら大抵ありますよ」
「ふぅん」
それならば、まあ、退屈はしないかも。
ジェーンはひと月に一度、メイドたちと一緒に街へくり出しすのを楽しみにしていた。仕立屋でドレスを新調したり、本屋でお気に入りの作家の物語本を取り寄せたり。お出かけはなによりジェーンの心をわくわくとさせたのだ。
「あ、それなら!!」
御父様に許して貰えなかった、カフェに入ることもできるかもしれない。流行の南方珈琲にホットケーキ、アップルパイ。庶民風のお茶菓子を出す喫茶店に入ることを御父様は許しくれなかった。
伯爵令嬢たるもの、みだりに平民に飲み食いする姿を見せてはいけない、というのが父の考えだった。パン屋で買い食いしたり、砂糖菓子屋さんへ行くことも、もちろん禁止されていた。
親の目がないのならばそんなちょっとした夢が叶うかもしれない。
「ただし、ジェーンくんは街へ出ることを許されていません」
「なんでよ!!」
思わず大きな声を出してしまった。護衛の騎士たちも何事かと周囲を警戒するほどの声量だった。
「ジェーンくんだけではありませんよ。学部の決まりです。聖天馬騎士候補生は全員、許可無く学部の敷地から出ることは認められていません。みなさん年頃の乙女たちなわけです。何か間違いがあったらいけませんからね」
「間違い、って……」
それでは軟禁生活も同じではないか。
ああ、御父様はそういった規則も承知の上で自分を士官学校へ入れることに決めたのだ。ジェーンは再び頭を抱えることになった。
「先生、私どうしましょう? そんなところに閉じ込められたら、きっと私、寂しさで死んでしまうわ」
「どうしようもありませんね。観念してください」
「ねえ、お願い、せんせー」
「ダメなものはダメです」
マハットは透明な魔石に、はあ、と息を吹きかける。
さしものジェーンの甘え声も、並の男ならいざ知らず、長年近くで魔術を教え続けてきたこの男には通じないのであった。
と、
「きゃあッ!!」
急に馬車がスピードを落とした。ジェーンは前のめりに体勢を崩し、マハットの手からは魔石がごろんと滑り落ちる。
「何事ですか?」
マハットが車窓から身を乗り出し辺りを確認する。ジェーンも隙間から外の様子をうかがう。見れば、護衛の騎士たちが抜刀し、ジェーンの乗る馬車を守るように囲んでいた。
「お嬢様、マハット先生。不審な一行が道を塞いでいます。身を出さないように」
ジェーンは前方に目をやる。すると十数人ほどの男たち各々手には剣や槍などの武器を携え、道に広がっていた。丁寧に磨かれてはあまり思えないような薄錆びのついた武器と、汚れた衣装。見るからに荒くれ者たちといった風貌。
「おい、ジェーン、出てこい!!」自分を呼ぶ声に、はっ、とした。どこかで聞いたことのある声だ。「俺のこと覚えているだろう!! てめえに騙された男の顔をな!!」
そう言いながら前へ出てきた男は、熊のような男だった。丸太のような腕と、はち切れんばかりの胸板。もじゃもじゃの髭はマイナスポイントだが、その見るからに筋肉な外見は確かにジェーン好みではあった。
「えーっと、どちら様……?」
見覚えがある。あるにはある。だが、どうしても名前が思い出せない。
「ジェーンくん、あの人は知り合いですか? 怒り心頭の様子ですけど」
「……覚えがあるような、……ないような」
マハットの言葉に首を捻るジェーン。
そんな彼女を見て、件の筋肉男は怒髪天を衝くといった様子。巨大な戦斧を振り回し怒りを隠すそぶりも見せない。
「忘れたとは言わせねえぞ!! てめえと街で出会い将来を誓いあった男だ!! これを見ろ!!」
男が取り出したのは木彫りの熊だった。熊が魚を捕る姿を掘り出した彫刻。
「あ!! 思い出しましたわ!!」
半年ほど前だ。メイドたちと一緒に買い物へ出たときのこと。
目にとまったのはとある店先に並んでいた彫刻。天使をモチーフにした木彫りの人形だった。
ジェーンは何気なく店の中に入り、彫刻家であるという店主の男と二、三、言葉を交わしたのだった。「あの彫刻素敵ね」とか「どうやって作るの」だとか、そういった変哲も無い挨拶だ。彼女はそうやって知らない男と話すことに関しては、全く気負うことのない性格だった。
その時の彫刻家だ。目の前の筋肉男は。
彼にはお土産ということで木彫りの熊を貰ったのだ。本当に欲しかったのは店頭にあった天使の彫刻だったのだが。ジェーンはいつものとびっきりの笑顔と「嬉しいわ」の言葉だけを残してそこを去ったのだった。
「彫刻家のおじ様だわ。プレゼントをくれましたの」
「彫刻家……? あの男、君と将来を誓い合ったといってますが?」
「そ、そんなわけないじゃない!! ……きっと、……それは、……勘違いよ!!」
彫刻家だという筋肉男が普段携えているのは彫刻刀だろうが、今握っているのは斧だ。斧と言っても、木彫り細工の材料を切り出しにきたのではないだろう。それはジェーンにもマハットにもあきらかだった。
「ジェーン。俺はあの日、店にやってきたてめえに一目惚れをした。天使のようだと思った。俺の心は奪われた。俺は言ったよな『ずっと側においてくれ』と。そしたらてめえはなんて言った『ええ、もちろんですわ』と。俺は死ぬほど嬉しかったさ。誓いの木彫りの熊を渡してもやったよな」
「ジェーンさん、そんなこといったんですか?」
「……言ったかも」
ジェーンは必死に当時のこと思い出そうとする。うーん、確かに「側に置いてくれ」と言われたような気もする。
「で、で、でも……、それプレゼントのことだと思ったのよ……。木彫りの熊を側に置いといてって意味だと思ったの!!」
「ふざけるな!! 俺の純情を弄ぶだけ弄んで。調べてみたらてめえは伯爵家の令嬢だった。俺は身分違いの恋でもいいと思った!! だが、聞けばプロフィトロール家のジェーンは、男なら誰彼かまわず色目を使う淫売女だったというじゃねえか!! 許せねえ、許さねえぞ、おい!! 俺の初恋を返せ!!」
「んま、淫売だなんて、それは誤解ですわよ!!」
筋肉男から貰った木彫りの熊はもちろん丁寧に持ち帰った。屋敷の離れにある一室にきちんと並べている。その部屋はプロフィトロール家で働く使用人達の間では『貢ぎ物部屋』と呼ばれている。これまでにジェーンが様々な男たちから受け取ったプレゼントが山のように詰め込まれているのだ。
「ごめんなさい、おじ様。私、すこしだけ勘違いしていたみたいなの。どうか、その話は取り消してくださいましね。またいつか、どこかでお会いしましょう」
「ふざけんな!!」怒声が響いた。「俺はおじ様なんかじゃねえ、まだ二十七だ!!」
隣でマハット先生が「年下……」と呟いているのが聞こえた。
「俺はこの半年、ずっとてめえの動向を調査してきた。これから士官学校へ入学するって話だって知っているぞ。チャンスだ。復讐するには丁度いい。この時をずっと待っていたんだ。さすがに伯爵の屋敷に押し入るのは難しかったからな」
筋肉男は「ぴっー」と指笛を吹いた。
すると、後ろの木の陰からも次々と男たちが現れる。その全員が手に武器を携えている。
「不幸中の幸いってやつだぜ。探してみればてめえに恨みを持ってる男は五万といた。こうやって頭数揃えるのは難しくなかったぜ」
よく見ると、他の男たちもどこかで見た顔ばかりだった。
いつか花束をくれた魚屋さん。洋服を買ってくれたお医者さん。ブローチを手作りしてくれた鍛冶屋さん。
みんな今となっては『貢ぎ物部屋』の肥やしとなっているたくさんのプレゼントをくれた男たちだった。
「お前ら、今こそ純情を弄ばれた恨みを返すときだ!! 遠慮はいらねえ!! やっちまうぞ!!」
「「「おお!!」」」
男たちは低い声を揃えて雄叫びを上げる。これだけの人数を集めることができたのは筋肉男のカリスマ性からだろうか、それともよっぽどジェーンが恨まれていたからだろうか。
「はあ……、ジェーンくん。まさに身から出た錆ですよ。身の振り方を一から考え直さないといけませんね」
「ううぅ。そんなこと今さら言われてもぉ……」
「良い機会です。士官学校で一から矯正していきましょう」
「……そ、そんなあ」
「お嬢様、先生!! お二人はお逃げ下さい。私たちが食い止めます」
護衛の女騎士たちが馬車の前に躍り出た。
プロフィトロール家お抱えの女騎士。普段は伯爵領の治安維持に尽力している彼女たちは精鋭揃いだ。ただの荒くれ者たちに簡単にやられるわけはないだろう。
御者が急ぎ馬車を方向転換をさせる。荒くれ者たちが一斉に襲いかかってくる。
「きゃあ!!」
「矢が飛んできます。ジェーンくん頭を下げて」
ぴっ、と鋭く飛んでくる矢は難なく女騎士によって払い落とされた。敵は寄せ集めの割には連携が取れているようで、近接武器を持った前衛と弓矢を構えた後衛とに分かれている。
「早く!! お逃げ下さい!!」
矢を後ろに払い漏らすような護衛ではないが、何せ数が数だ。
四人の女騎士が相手するのは軽く見積もっても十倍の男たち。
御者が力強く鞭を振るうとホイップとカスタード、二頭の馬が全力で駆け出す。ジェーンとマハットは馬車の中で身をかがめる。
「俺のものにならないんだったら、死ね、ジェーン!!」
筋肉男の低い声はとても良く響く。
「先生、大変なことになりましたわ!! どうしましょう!! 魔法でどうにかしてくださらないの!!」
「落ち着いて下さい。ご存じの通り、僕の専門は医療系魔法ですからね。戦いは不得手なのです。逃げるしかありません」
「んもう!!」
ちらりと外を覗うと四人の騎士たちが荒くれ者たちを抑えている。十倍近い数の差をものともしていない。馬上の者は一刀のもとに斬り伏せ、地に立つ者は馬で蹴り飛ばす。流石はプロフィトロール家が抱える精鋭といったところだ。
「逃がさねえぞ、ジェーン!!」
馬車は石畳の道を最高速度で逆走する。
三十分ほどすれば街がある。そこまで行けばひとまず安心だろう。
ジェーンが隣を見ると、マハットが落としていた魔石を拾い上げ、何やらこそこそとそれをいじり回している。
「いやあ、それにしても士官学校への道で襲われるなど前代未聞ですよ。曲がりなりにも軍関係者が多く通るこの道で待ち伏せなど、よっぽどの執念だと言わざるを得ません。ジェーンくんがどれほど恨まれているのかよく分かります」
「こんなこと御父様のお耳に入ったらどうしましょう。もう二度と外へ出しては貰えませんよね!! どうしましょう!!」
「はあ」とマハットはため息をついた。「安心して下さい。僕からは伯爵閣下にこのことを申し上げることはしませんよ」
僕の責任にもなってしまいますし、とマハットは小さく続ける。
「護衛の彼女たちだって、あのような寄せ集めの烏合の衆にやられたりはしないでしょう。もちろん、ジェーンさんの生活態度は見直さなければいけませんけど。まあ、それもこれから学舎で規則正しい生活をしていればすぐに良くなるでしょう」
「ふぇえ、ごめんなさぁい!!」
と、
ガンッ、と何かが割れるような音がした。
音の方に振り返ると、馬車から何か棒のようなものが飛び出しているのが目に入った。
「な、何……?」
よく見れば、それは馬車から飛び出しているのではなかった。馬車に突き刺さっている。
「あ!?」
影を見た。大きな影だった。
空を仰ぐ。石畳に黒い影を落としていたのは空を飛ぶ巨大な生物の姿だった。
大陸の北部の生息しているそれを人が飼い慣らせるようになったのは、ほんの数十年前のことだ。気性は荒く、人を信頼することはない。硬い鱗に覆わた身体に、鋭い牙。広げた翼は成人男性五人分ほどの長さを持つ。
飛竜。
「まさか、竜騎兵!?」
隣でマハットも目を見張っている。
それもそのはず。
その影の正体は飛竜――翼を大きく広げた黒い鱗のドラゴン。その上乗るのは二人の男。ひとりは龍の口から伸びる手綱を握っている。もうひとり手槍を持ってこちらに狙いを定めている男。その姿は先ほど見た――。
「熊のおじ様!!」
「ジェーン、ジェーン、ジェーン!! 殺すぞ。今、殺してやる。俺を裏切ったこと地獄で後悔しろ!!」
シュン、と手槍が跳ぶ。一直線にジェーンへと向かってくる槍。それは馬車に突き刺さる直前で、何か見えないものに弾かれた。
魔法による防御だ。
「ひぃ!! 先生!!」
「魔力障壁を展開しました。ただ厳しいですね。槍程度ならば問題ないでしょうが、直接、飛竜に襲われてはそう何度も弾き返すことはできませんよ」
「ど、どうするのですか!? 私、どうすればいいんですか!?」
「仕方ありません。神に祈って下さい」
ああ、女神様。どうか私をお救い下さい。
私がいけないのです。
私があまりに可愛すぎるから。可愛すぎて、殿方の心を図らずも奪ってしまうのがいけないのです。
可愛いのはもうやめます。もし生き残れたら、心を決めて聖天馬騎士にでも何でもなります。
だから、どうか!! 助けて!! まだ死にたくないのです!!
「オラァ!!」
ガッシャーン、と大きな音がする。目を開けると、窓の外。もう、すぐそこに飛竜がいた、飛竜の大きなかぎ爪。男の持つ大斧。何度も魔力障壁を叩く。バリン、バリン、と音を立てて障壁が剥がれていくのが分かる。
馬車も最高速度を出し続けるが、飛竜の速度にはかなわない。ホイップとカスタードも荒い息をしている。
「これは少しまずいですね。いざとなったら、ジェーンくん。僕があなたの身体に補助魔法をかけます。馬車から跳びだして、走って逃げて下さい。戦いは苦手ですが、僕の方は、まあなるようになりますから」
「嫌、嫌よ先生そんなの!!」
「死ね!! ジェーン!!」
飛竜の口に魔力が集まるのを、ジェーンは感じた。それは炎のブレス。竜騎兵の最大の武器。連発は出来ないが、その炎は石で出来た城壁さえも容易く溶かす威力だという。
「ジェーンくん!!」マハットの魔力が自分の身体を包み込んでいくのが分かった。「逃げて下さい!!」
この壊れかけた魔力障壁ではとても炎のブレスを防ぐことはできない。
ジェーンの身体が車外に投げ出される。自分から飛び降りたのか、それともマハットが突き飛ばしたのか、もはや分からない。
そこから先はスローモーション。ジェーンには時間の流れがやけに遅く感じた。自分の身体がゆっくりと地面に転がる。痛みはまるで感じない。きっと傷一つないのだろう。真ガット先生の魔法のおかげで。このやけにはっきりと目の前の光景が見えるのも補助魔法のおかげだろうか。
自分を地面に残し、最高速度で進む馬車。口を開き、狙いを定めた龍。魔力は集まり、最上級炎魔法に匹敵する龍の一撃。
すべてがはっきりと見える。
まさに龍の一撃が放たれん、としたその瞬間。
「――ッ!?」
まず、飛竜の手綱を握る男の身体がぐらついたのが見えた。数瞬遅れて、その首から真っ赤な鮮血が吹き出る。飛竜が大きくバランスを崩す。
と、飛竜の下方から何かが勢いよくその頭部に向かって跳ね上がった。魔力が限界まで溜められていた口を大きく開いた飛竜はそのまま青空を仰いだ。
パッ、と閃光が輝き、業火が空へ向かう。
炎のブレスは巨大な炎柱を空へと吹き上げるのみで終わった。
「な、何だ!?」
わけがわからないと筋肉男。目を丸くさせている。目の前の騎手は既に絶命している。
ジェーンは、そのとき、ようやくその姿を捉えることができた。燃え上がる炎の渦の後ろに飛ぶ、一つの影。
風か、鳥か。
いや、それは輝かんばかりの白馬と、それに乗る美しい女の姿だった。
「聖天馬、騎士……?」
白色の翼を広げた有角の聖天馬。
女騎士の手には聖天馬騎士の象徴たる長大な槍が握られている。
「な、てめえ、何者――」
男がすべてを言い切る前に、終わっていた。
一閃、二閃。
まるで疾風のように聖天馬騎士は空を駆け、飛竜の翼を斬り飛ばしていた。
――GuggGaaaa!!
大きな叫び声を上げ、飛竜は地面へと落ちていく。
ぽろん、とそこに乗っていた筋肉男も宙に投げ出される。
聖天馬騎士はその男の服を、見事、その槍で吊り上げ地面に勢いよく転がした。
「――グエッ」
カエルが潰れたような声を出して、男が地でもがく。聖天馬騎士はその側に優雅に降り立ち、槍先を男に向けた。
「何者――と、私に尋ねましたか?」
それは澄んだ、それでいて大きな存在感を覚えるような声だった。何度でも聞きたくなるような、そんな音。ジェーンは立ち上がることも忘れて、騎士の姿を眺めていた。
それは焔が如き紅髪。風に吹かれてふわりと流れる。鋭い眼光。
槍先の血を振り拭う。
側に立つ聖天馬を、その手が撫でつければ、誇り高い幻獣さえもまるで飼い猫のように喉を鳴らす。
日の光を受けたその聖天馬騎士はまさに英雄の風格を放ち、見るものすべてを釘付けにする魅力があった。
「残念ながら、下賤のものに明かす名など持ち合わせておりません」
「――ッ……」
威圧感と、痛みに、先ほどまでは山を割るかのような声を発していた筋肉男は飢えた山犬のように萎れてしまった。
と、今度は聖天馬騎士の目が、ジェーンに向いた。
そこでようやくジェーンは自分がまだ地面に転がったままだということに気がついた。
「――あっ」
けど立てない。
力がまるで入らない。
気がつくともうすぐ目の前に赤髪の騎士はいた。
「ジェーン・マナカ・プロフィトロール嬢ね」
その炎のような髪色とは裏腹に雪山を思わせる純白の肌。
先ほどまで感じた氷のような冷たい瞳はどこへ。宝石のような緑色の目からは温和な印象を受ける。
ジェーンは、こくん、と頷く。
「やあやあ、イエレナくん助かりましたよぉ。ありがとう」
マハット先生が手を振りながら近づいてきた。飛竜に襲われていた馬車は湖の畔に止まり、御者が破損箇所がないかを調べている。
「マハット先生。ご無事で何よりです」
「いやあ、来てくれて助かりましたよ。もう駄目かと思いましたね」
「ご冗談を。先生ほどの魔法士であればあれぐらいどうとてもできたはずでしょう?」
「はは、まさかまさか。僕の本業はどちらかといえば研究者だからね――っと、そんなことより」マハットが、えっほえっほとジェーンに駆け寄る。「大丈夫でしたか。ジェーンくん。まあ万が一にも僕の補助魔法ならば、あのくらいどうってことないとは思いますけど。たとえ馬に跳ね飛ばされても平気なくらいには魔力をこめておきましたからね」
マハットに差し出された手をジェーンは取り、ぐいっと起こされる。制服の尻の部分をぱんぱんと払う気力はなんとか奮った。
「ジェーンくん、こちらはイエレナくん。君にとっては聖天馬騎士の先輩で、それから先生になる人だよ」
マハットの言葉にイエレナは左手でスカートの裾を取り、膝を曲げて礼をする。
「イエレナ・リーサ・オランジェットです。私も今年から教師になるの。貴女と同じ一年生ってことね。よろしくね、ジェーンさん」
ジェーンは初めて見た。
自分よりも美しいと思える人を。
それはジェーンの持つ美しさとは百八十度違う美しさだった。
守られる者の美しさではない。
強さに裏付けられた戦う者の美しさ。
ジェーンの胸にひと筋の光が、温かな熱を帯びて差し込んだ。
淫売令嬢と金貸令嬢、処女しか乗せない聖天馬 〜飛んで聖天馬〜 南野小路 @shirakaba6343
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