凜と咲く③
やっと山口の家に辿り着く。まだ冬の夜は早く、すっかり暗くなってからの帰宅だった。
「ただいま」
リビングのドアを開けると、ダイニングテーブルのそばにエプロン姿のカナが立っていた。
「お帰りなさい」
いつものシンプルで質素な妻の姿だった。白いシャツに、シンプルな綿パン。そして職人用の工場エプロン。だが耀平はカナを一目見て、ドキリとする。心臓がぎゅっと掴まれたかのように――。
そこにはショートカットになった妻がいたからだった。そんなに短いヘアスタイルにしたのは大学生以来ではないだろうか?
「カナ、その髪……」
「うん、切っちゃった」
カナはケロッとしていた。
「俺が留守の間にか」
「ほら、話していたじゃない。千花がわたしの髪を掴んで舐めるんだって。兄さんが北海道に行った日ね、和室のおふとんで一緒に昼寝していたんだけど、目が覚めたら、一本に束ねていたわたしの髪を握って、ちょこんて座っているちーちゃんが舐めていたのっ」
「だから切ったのか」
「そうだよー。工房で汗まみれのママだし、わたしだって舐められてべとべとになるのやだし、千花だって楽しそうだけどそんなママの髪を舐めてばかりのくせがついたら大変じゃない」
「それはそうだ。そうか……そうだったのか」
帰るなり茫然としてそのままの夫を義兄を見て、カナがちょっと拗ねた顔になる。
「あ、わかった。耀平兄さん、古めかしいところがあるから、長い髪でなくなってがっかりしているの?」
そう言われ。ぼうっとしていた耀平は手に持っていたスーツケースと手荷物をドンと床に置き、黒いコートを着たままカナへと向かっていく。
「に、兄さん?」
ややたじろぐ彼女の目の前に来た耀平は、そのままぐっと彼女を自分の身体へと抱き寄せる。
そのまま顎を掴みあげ、有無も言わさずにくちびるを奪った。
「っん、……んん、に、にい……」
戸惑う花南のくちびるを吸う、熱く濡れたそこをさらに舌先で愛撫した。恋しかった分、彼女が甘かった日のことを思い出すように、花のショコラを欲望のまま食べ散らかすように、耀平は彼女のくちびるを舐めて吸って奥まで貪って。
「んっふ、に、兄さんたら、もう」
そしてカナもすぐに応えてくる。今度は彼女も帰りを待っていた夫を甘く確かめる。舌先でのキスでは足りなくて、義妹の手が耀平のコートの奥で這う。彼女の手先が器用に襟元のネクタイを緩めてしまう。ボタンを開けて、そこに熱いキスをして吸ってくれる。
「やだ、どうしちゃったの。兄さんの出張なんてしょっちゅうだし、普段だって本社と山口の自宅と数日離れているじゃない」
帰ってくるなり、なにを燃えているの? 妻からの問いに、耀平はやっと燃えさかった気持ちを鎮めて、胸元で甘えているカナの黒髪を撫でる。
そして短くなった頬の毛先をつまんで見下ろす。
「カナ、おまえ、大人の女になったんだな」
「え? なに、それ」
抱きしめている胸元からカナがきょとんとした目で耀平を見上げている。
短くなった黒髪の毛先は艶やか、指先にあるそこに耀平は思いを馳せる。
「初めて会った時、カナはこんな短い髪だった。十八歳だったな」
「そうだね。お姉さんが、大学の工房まで連れてきたんだよね。あの時は短かった」
「同じ髪をしているのに、さっき、短くなった髪の姿で立っているカナは……。大人の女だった」
あどけないショートカットの女の子。十歳も年下の妹になる女の子。ガラスを造る人になりたいと生意気な眼差しに、でも吹き竿をくわえた口元の色っぽさが忘れられない。
今日の妻は、あの時と同じ。白いシャツに素朴な綿パン、作業用のエプロンに、化粧気のない顔に、短い黒髪。なのにあの時の子と全然違う女が、そう花の匂いを漂わせるように女の体つきで女の雰囲気で、女の顔でそこにいた。
そんな大人の女の色香に、帰ってくるなり当てられてしまった。もうエプロンをといて、このまま抱き上げてベッドルームに連れ込んで、裸になった花の肌を食い散らかしたい。
「やだ、兄さん……やめて」
そういう手つきで、カナの頬や胸元を撫でまわしていた。
「子供じゃなくなったんだな」
うっとり任せてくれていたカナが、そのひと言でムッとした顔になり、耀平を突き放してしまう。
「もう、なんなのよ。そうやっていつまでもわたしを子供みたいにしないでよ」
「子供みたいなことが多いじゃないか。だからなのか……。大人みたいだと見えてしまったカナにふらっとしてしまった」
こちらもうっかり甘い沼に落とされたことに我に返り、照れ隠しにいつもの意地悪いことを言い放っていた。
「もう、知らない。ほんっと嫌い、やっぱり兄さんなんか嫌い」
いつもの文句も、いまとなってはそれも愛情と思えてしまうお義兄さんで夫になってしまい、耀平はそこであははと笑っていた。
いや、でも。すごい強烈なものを見た気がして、正気になった途端、どっと気力を吸い取られたような疲れが襲ってくる。やはり義妹の花の匂いは強烈かもしれない。
やっとコートを脱いで、ジャケットも脱いで、カナが首元を緩めてくれたからそのままにして、ダイニングの椅子に座り込んだ。
「お疲れ様。小樽は寒かったでしょう」
「ああ、地吹雪にあったよ。凄まじかった」
そこでカナがキッチンへと向かっていく。冷蔵庫を開けて、帰ってきた夫にとなにかの準備を始めてくれていた。
「甘いもの食べたくない?」
「夕飯前だしなあ」
「あのね、わたしね、またチャレンジしてみたの」
チャレンジ? そこで耀平はダイニングテーブルの上でカナがなにかを造っていたことに気がつく。薄いガラスで作った赤いハートが置いてある。
そしてハッとする。座っている目の前に白いケーキ皿が置かれた。そこにはしっとりふんわりとしたティラミスが。
「バレンタインのか? どこで買ってきたんだ」
耀平が北国にいる間に、バレンタイン当日は過ぎてしまっていた。だから夫が帰ってからのプレゼントなのだろうかと。
だがカナがキッチンから小さな銀のトングを持ってくると、皿の上に置いていた赤いガラスのハートをつまんだ。
「なにいってんの。ケーキもガラスもわたしのお手製」
やわらかそうなティラミス、ショコラパウダーの上に、カナはトングでつまんだガラスのハートをつんと置いた。
耀平はギョッとしてカナを見上げる。
「はあ? カナが? まさか」
でもカナはにんまり。
「わたし、ぶきっちょだけど。お料理だってちゃんと出来るようになったでしょう。お菓子作りだってそうだよ」
「う、嘘だ。買ってきたんだろ。ガラスだけだろ、おまえが作ったのは」
「ほんと、失礼だよね。航も手伝ってくれたから、帰ってきたら聞いたらいいじゃない」
「いや、その。ほら二年前のあれが……」
「二年も経ったんだけど」
そうか。知らぬ間に大人になっているように、スイーツづくりも大人になっているものなのか。
「うまそうだな。うん、いただくとする」
「珈琲? 紅茶?」
珈琲かな。答えながら、耀平は呆然としつつフォークを手に取った。
知らない間に女になっているし、知らない間に大人になっているし、知らない間に……花の匂いに侵されている。
テーブルにはまた見覚えのないガラス細工が散らばっていた。春をおもわせるパステルカラーの花細工。今度はなにを生み出そうとしているのだろうか。
珈琲を淹れてくれる花南をじっと耀平は見つめる。シンプルな服装なのに、そこはかとない女らしい空気を纏って、花の匂い。大沢女史が感じていたものが、耀平にもよくわかる。
妻は、義妹は、飾らなくとも凛と咲いている。
そんな妻はいつもなにかを造っている。さきほど、ガラスのハートをそっとつまんでケーキに添えるその姿が、職人の目だった。夫を想う妻ではない職人の目。
でもそれは耀平にとっては、ご褒美だった。なぜなら、なにかを生み出す時の凛とした妻のその姿を愛している。夫のためにつくったバレンタインのケーキに、ガラス職人の妻が夫のためだけのガラスを造ってくれただなんて最高の贈り物だった。物がではなく、想いが。
なのに。時々、むせかえるような花になって男を惑わすのも相変わらず。
まるで、ふらりと入って思わず買ってしまった、花のショコラのよう。カナも希少な花に違いない。
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