【Fin】花の夢、咲くころ

花の夢、咲くころ①

 なんでも最初はできないことばかりだった。

 ガラスもそう、夫に作る夕食もそう、甥っ子だった息子の母親になるのもそう、そして初めて出産した娘の母親になるのもそう……。

 そして、母から譲り受けた着物をひとりで着るのもそうだった。


 いまは一人で着付けができ、一人でお太鼓を作れるようになった。

 ひとりで着付けができるようになると、半襟を選んだり、帯締めを選んだり、帯を母とは違う趣のものを合わせたりするのも楽しいことだと気がついた。


 今日も母から譲り受けた訪問着を着付け、帯は夫の耀平と一緒に選んだものを結んだ。


「できたのか、カナ」


 ベッドルームに夫の耀平が入ってくる。

 カナを一目見て、彼がはっとした顔になる。


「なに。兄さんったら」

「いや……、一瞬……。豊浦のお義母さんかと」


 カナは顔をしかめる。


「まあ、私も四十を越えましたし、母ぐらいの年寄りにみえても仕方ないでしょうしね」

「いや、そういう意味ではない。いや……、はあ……、そうか、ふーん……」


 着付けが終わったカナの周りを、上等のスーツを着込んだ夫が右から左から、後ろにも回ってしげしげと眺めている。


「いい女になったもんだな」


 思わず出たひと言だったのか、カナが夫を見上げると、彼がまたもやうっかりしたかのように我に返った顔をして、目線を逸らされた。


「正直に言っていい? やっぱり着物、堅苦しい……、行きたくない……」


 帯を締めてピシッとしていた背筋を、カナもふにゃっと丸めてしまう。

 そんなカナを知って、やっと夫の耀平がいつものお義兄さんの笑顔へと和らいだ。そして、着物姿のカナを抱きしめてくれる。


「あはは、やっぱりカナだった。ちょっと安心をした」

「中身はあなたがよくご存じの、義妹さんですよ。致し方なく、致し方なく、母がそうしてきたように着ているだけです。倉重社長の妻としてね」


 さらに義兄、いや、夫が優しく……、その凜々しい黒スーツ姿で胸の奥へ奥へと抱き寄せてくれる。


「いや、それでも……。よく似合っている。綺麗だ、カナ」


 若い頃から天邪鬼のカナであっても……。愛する夫から言われると、やっぱり心が柔らかくなり、嬉しくなる。

 そんな夫のネクタイの胸元にカナもそっと頬を寄せた。


「航の大事な日だもの。着たくないし行きたくないけど、ちゃんとする」

「はは。だめだ、上等な着物美人がいたと思ったけど、やっぱり俺のカナだった」

「もう~。兄さんは、なんなのよ! どいて。まだ支度済んでいないから」

「いや、もう少し、このまま……」


 逃げていこうとした妻を、夫が腕に力を込めてまで引き留めた。

 再びカナは、夫の胸元へと抱きしめられる。

 今度の夫はふざけていなかった。どこか感慨深そうに、静かに愛おしそうにカナを抱きしめ、いつものように黒髪にキスをしてくれている。


「いい女だ。カナ」


 今度は天邪鬼で逃げられなくなってしまった。

 だって。愛する義兄が、夫が、こんなに離れがたそうに抱きしめてくれているから……。

 たぶん。今夜もこの人はカナを深く愛してくれる。そんな気持ちが入り込んでくる抱擁だった。


 で。天邪鬼がここで復活してしまう。


「兄さん、着物の脱がし方知らないでしょ」


 途端に彼がふいをつかれた驚き顔で、カナを胸元から離した。


「ほんとにおまえは、ムードを壊してくれるな。昔から」

「……ごめんなさい。ちょっと恥ずかしかったんです」


 素直になったらまた驚いた顔を耀平がする。

 でも次には可笑しそうにわらいだす。


 いまも変わらずにある窓辺のカウチソファーへと、夫が腰をかけた。


「あー、やっぱりカナだな。カナがいちばん面白い。んー、そうだな。着物姿はそそられるが、俺は最高の花嫁衣装を頂いた男なので、それに勝るものが未だに登場しなくてね」


 最高の花嫁衣装?

 カナは眉をひそめる。


「……え? 花嫁衣装って。わたし、お母さんの黒引き振り袖を着させてもらったけど、耀平さん、それ脱がしていないじゃない」

「当たり前だろ。あんな厳かで神聖な着物を不埒な気持ちで触れるもんか。畏れおおいではないか。おまえ、忘れたのか。自分が言ったんだぞ。この日を初夜にしてくれって」


 カナもはっと思い出す。

 そして自分でやっておいて、この歳になったカナには、とてつもない羞恥心が襲ってきて一気に顔が熱くなった。


「あれが、花嫁衣装!?」


 そういえばあの時、義兄さんがカナを愛しながら、今夜のこれは花嫁衣装だなと言ったような言わないような?

 カナにとって花嫁衣装は親族お披露目食事会の黒引き振り袖が心に刻まれているので、夫の心に残っている自分の姿が意外で驚きしかない。


「強烈だったな。きちんと胸元を隠しているアメリカンスリーブの黒いドレスだったのに。その下に隠しているショーツが、ちょっとそこだけ覆っているだけの小さなショーツで、しかも純白。さらに、俺にだけわかる香りをそこに付けて、おまえ、兄さんだけだよって誘ってくれただろう」


 やめてー、やめて! 私の若気の至りみたいな、そういう恥ずかしいことをしていた自分を思い出させるの!

 あれをやってのけた若い、かわいい?自分のことを思い出すとカナはどこかに隠れたくなってくる。


「ということで、奥ゆかしそうな着物美人にもそそられるが以上にはならない、俺の揺るがない妻の思い出ということだ」


 揺るがない――とまで言われた。


「……以降のわたしは、それを越えていないと」

「まあ、語るなら、いろいろあるぞ。たとえばだな、藤の花が咲いた時におまえ……」

「やめて! やっぱ、いい。耀平さんの心の奥にしまっておいて!!」


 言われると身に覚えがあることばかりだった。


 あの時もわたし、兄さんの身体に乗っかって、女の自分から自分から、あんなことやこんなことをして……、最後にはしたないことをした記憶がある。カナはまた恥ずかしさで身体の体温があがったのがわかった。


 なのにやっぱり、いまでも意地悪な義兄様顔で、耀平がにやにや笑って、座っているソファーからカナを面白そうに見上げている。


「飽きない妻で、俺は今日までだいぶ満足しているから安心しろ」

「汗、かいちゃったんだけど……。もう脱ぎたい」

「俺は着物を脱がす欲求はないが、俺の目の前でしとやかに帯を解いて着物を滑り落とし襦袢をゆっくり脱いで、そこから時間をかけてじらすように現れた裸体をやっと見せてくれて、いつものように俺に乗っかってくれてもいいんだぞ」

「もう、おしまいっ!! そんな具体的に想像しているなら、欲求あるんじゃないのっ」

「そうだな。やっぱり、そそられるから、今夜、やってくれ。あはは!」


 四十過ぎたのに、いまだに夫にこうしてからかわられる。

 義兄だった耀平は、五十を境についに倉重観光グループの社長を引き継いだ。

 歳を取った父は会長職へ。だからカナは、いまは倉重社長の夫人で、会長の娘ということに。


 ここ数年、誕生日を迎えるころになると、父が誕生会を開くようになった。

 これも会長職になって父が急に始めたことだった。


 もちろん。親しい知人との交流を兼ねたものとしてではあるが、父はまだまだビジネスの狙いも忘れていない。


 就任したばかりの婿養子の新任社長の足下が盤石になるまでは、自分のいままでの顔をどんどん利用して『倉重はここにあり』と言わしめるため、権威を保つための『ご招待会』をしているのだ。


 そこで、引き継いだばかりの息子の顔を売りに売っておく。

 自分の人脈を少しずつ婿へと繋げる。

 年寄りが年寄りとしてできる方法で始めたことだった。


 そして今夜。倉重の傘下にある湯田温泉の料亭旅館にて、知人を招き、誕生日会をする。

 

 さらに今夜、倉重家はさらにひとつ前へと駒を進める。

 二十五歳になる航が、大学卒業後に下積みをしてきた旅行会社を退職し、ついに倉重の仕事へと就くことになった。


 父親である耀平も心決めていた。その時に、まず、ガラス工房を航に任せることにすると。花南も賛成している。


 つまり。今夜、航が倉重の役員となるお披露目でもあるのだ。

 倉重ガラス工房の若社長として。今夜、お祖父ちゃんのお誕生日会にて、たくさんの知り合いに紹介される日でもあるのだ。


 先ほどまで、夫の耀平と不埒な会話をしていたおかげなのか、カナも幾分か緊張がとけていた。

 そう。カナも息子の新たな門出に付き添う母親でご挨拶をする日というわけだった。


 和装用のハンドバッグに小物を詰め終え、支度ができあがったころ。ベッドルームのドアがあいた。


「お母さん、お父さん、まだ?」


 娘の千花だった。

 彼女も今日は、カナが選んであげた黒のワンピースを着ている。

 長い黒髪もカナが結って、かわいいリボンを結んであげたから、千花もご機嫌だった。


「わ、お母さん。すてき!」


 千花が着物を着込んだカナへと駆け込んできて、抱きついてくる。


「ほんと? これ豊浦のお祖母ちゃんからもらったの。千花も大きくなったらあげるから着てね」

「いいの? わたしも着たい!」


 千花の大きく輝く黒目や目元は、目鼻立ちがはっきりしている耀平にそっくりだった。


 でも心なしか……、千花の雰囲気は自分に似ているとカナはよく感じている。

 それは、父親である耀平もよく感じているようだった。


「千花も、いい女になったじゃないか」

「ちょっと、兄さん。そういう言い方を娘にしないで」

「あ、そうだな……。かわいくなったな」

「お父さん、わたし、いつもはかわいくないの?」


 妻に娘に辛辣に言い返され、せっかく褒めようとしていたのに、耀平が口をつぐんでしまった。

 成長した娘の言い草が、最近、おまえにそっくりだぞ――と、耀平もよく言っている。


 女どもにやりこめられて困る耀平さん――いまも苦労が絶えない義兄さんでお父さんだった。


 でも、カナと千花は一緒に顔を見合わせちょっと笑ってから、お父さんへと向かう。なんだかんだいいながら、ワンピースの裾をふわりとさせながら、お父さんの隣へとぴったり座り込んだ。


「千花、お父さんがすてきと言ってくれているんだから」

「ごめんなさい。お父さん。お父さんも、今日は、いつもよりもっとうんとかっこいいよ」


 そんな千花が、黒スーツを着こなす父親へと子供らしく抱きつくと、やっと耀平パパが嬉しそうに娘を抱きしめる。


「千花は、ママと一緒で黒が似合うな」

「わたしもお母さんみたいになりたい」


 嬉しいはずの言葉なのに。耀平パパがこれまたちょっと困った顔をした。


「そ、そうだな。いい女になる、と思う」


 なに。その言い方。カナは顔をしかめたが、夫が言わんとしていることがわかるだけに、そのまま聞き流した。

 ママみたいな気難しい天邪鬼で、男を喰うような大胆なことを仕掛ける女になっちゃうのかな――という、父親としても男としても案じたのだなと通じてしまったものだから。


 そしてカナも『わたしみたいな女にはなっちゃだめ』とか、けっこう真剣に思っていたりする。

 柔和で穏やかな女性として生きて欲しい。そう願っているのは、夫の耀平と一緒だと断言できる。



「準備できたのかよ。呼びに行った者が、このベッドルームから帰ってこないのはどういうことなのか」


 再度、ベッドルームのドアがあき、そこから眼鏡をかけた青年が現れる。

 父親とおなじ黒のスーツをきっちりと着込んだ航だった。

 お父さんに負けず劣らず、上質なスーツを着るようになり、ますます大人の男へと成長している。


 そして。カナはそう思うとき、少し泣きたい気持ちになる。

 もう、そっくりだった。金子のお義兄さんに……。


 眼鏡をかけたクレバーな面差しに、クールな佇まい。耀平と並ぶと、ほんとうに父子なのかと感じる者も多いだろうし、それでも祖父でカナの父親である雅晴と並ぶと、それはそれでまた『遺伝だな』と思える顔つきを感じさせる。

 だから人は隔世遺伝――と思ってくれているようだった。


 だが。そうではなくなっていた。

 航はもう……。知っているから。


 でも……。カナは濡れそうになった目元をそっと押さえ、背筋を伸ばし顔を上げる。


「申し訳ありませんね。支度が遅いわたしのせいで、皆さんがここに集まるようになっちゃって」


 お父さんが呼びに来たはずなのに、妻から離れず。

 娘が呼びに来たはずなのに、パパとママから離れず。

 最後に長男のお兄ちゃんが呼びに来る。


「ま、カナちゃんのことだからね。こうなるだろうとは思っていたよ、俺」


 大人になってもカナには変わらず、甥っ子の時だったままの笑顔を見せてくれる航。


「だって。お父さんがずうっとお母さんのそばにいて連れてこなかったからでしょう」


 そんな口を聞きながらも、お父さんの腕に抱きついて離れない千花。


「俺たちは、カナを中心に回っているからな。仕方があるまい」


 やっぱり、意地悪な……


「もう、なにが中心よ。そもそもお兄さんが呼びに来て、そこに居座ったからでしょ。ほんっとにお兄さんは、むかしっから意地悪っ」

「もう何十年も義妹に言われ続けて、最近はなんか聞こえているのに聞こえなくなってきたな。俺も歳を取ったかな?」

「きっとそうよ。私が四十過ぎたということは、お兄さんは――、あら、還暦が見えちゃってきてなーい?」

「五十を超えたばかりだぞ。嫌なことをいう妹だな」


 いつのまにか、くすくすと笑う声が聞こえてきた。

 今度、にやにやとしてカナと耀平を見ているのは、子供たちだった。

 眼鏡の凜々しい青年になった息子も、生意気でおませな女の子に成長した娘も、いつもの『お兄さんと妹』の言い合いを面白そうに眺めている。


 そこでいつも千花が言うのだ。


「やっぱり。わたし。お母さんがお父さんのこと『お兄さん』て言うの好き。お父さんが『嫌な妹』っていうのも好き。その言い方をした時って、お兄さんが好き、妹のカナが好きって顔をしているんだもん」


 最後に娘がこういうのもよくあることで、その時になって、ふたりはやっと我に返って、元の『お母さん』と『お父さん』に戻ろうとする。


 クールな顔つきで大人の落ち着きを備えた男になったのに、航もこんな時は妹と一緒にケラケラを笑いだす。


「ほんっと千花の言うとおりだよ。俺なんか、子供の時から『お兄さん』と『カナ』だったしね。なーんも変わんないね。社長さんになっても、社長夫人さんになっても」


 そんな甥っ子に、カナも言い返してやるのだ。


「航こそ。今日はしっかり挨拶しなさいよ。倉重ガラス工房の社長を引き継ぐんだから」

「はーい。カナちゃんほど、俺、がっちがちに緊張しないよ。カナちゃんはガラス以外だと、めちゃくちゃ緊張しいだもんね。俺、知ってるよ。三者面談の時とかさあ」

「もう~、何年前の話よっ。ちゃんとお母さんしますからっ」


 結局――。カナという妻、母、叔母(継母)を中心に、家族が楽しそうに笑い声を立てる。


 それならそれでいいの。


 外では厳つい社長さんでも、外では懸命に倉重の跡取り息子としてクールに構えている若社長さんも。ここでは素顔で笑ってくれていたらいいの。

 そして、これから花咲くだろう娘……。のびのびと大事に育てて、でも、しなやかに折れない花にしたい。


 カナという女性の願い。夢がここにある。


✿ ✿ ✿



 父、雅晴の誕生日会は、自社が経営する湯田温泉の料亭旅館で開かれた。


 毎回のこと、父がホール壇上でマイクを持って挨拶をする。

 会長となっても、ますます威厳ある王者の風格をもつ父が、スーツ姿で招待客に、それでも笑顔で明るい挨拶をする。


「本日は、この会を機会に、皆様にご報告があります」


 父、雅晴がその言葉を発すると、壇上に夫の耀平と息子の航が上がっていく。

 父の隣に、婿養子の息子と、孫が並んだ。

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