凜と咲く②
オーナーとの対面は、その日の夕食の席となった。
いつかカナが連れていってくれたワインも置いてある寿司屋だった。
そこで小樽ガラス工房のオーナと向きあう。オーナーは『大沢』という女性だった。
黒いフェミニンなスーツを品良く着こなす知性を思わす女性だった。
「遠藤から常々、倉重様のことをうかがっております。ゆっくりお話をしてみたいと思っておりましたので感激しております」
「こちらこそ。その節は義妹がお世話になりました。こちらの工房で叩き込まれたことが、彼女の職人としての基礎になっております。感謝しております」
大沢オーナーがレエスのハンカチで口元を覆い『ふふ』とおかしそうに笑う。
「まだ妹とおっしゃるのですね」
「ああ、申し訳ありません。遠藤親方にも笑われましたが、どうも義兄妹の関係が長かったものですから、結婚してもなかなか抜けません。花南もいまだに私のことは兄さんと呼びます」
「花南さんは目立つような派手さはなかったのに、妙に女性らしく、そこにいるだけでほんとうに『花』といいたくなる子でしたね。観賞用の華やかな花ではなくて、ひっそり匂い漂う花といいましょうか」
こちらのオーナーも、飛び抜けた美人というわけではなかったが、カナと同じ『雰囲気が美しい人』だと耀平は感じている。品があり知性があり、落ち着きがある。
寿司が握られるまでの間、つぶ貝肝の煮付けを先付けでいただきながら、まずはオーナーが注文したシャブリで乾杯をした。
大沢女史の夫は、この小樽でも有名な資産家の跡取り息子で、彼女はその妻だと聞いている。夫も観光業を中心にしているということだったが、倉重と違うのはホテル旅館業ではなく、観光地を中心とした飲食店業。レストランに居酒屋、カフェなどを道内で展開しているとのこと。
妻である彼女は、小樽で土産店として夫がつくったガラス産業の会社を任されていて、そのセレクトショップとガラス工房を取り仕切っているとのことだった。
夫妻で経営者という強い結束にて、資産家としての家も維持していると遠藤親方からもカナからも聞いていた。
そのオーナーがワインをしばらく楽しむと、また意味深な眼差しで耀平を見つめる。
「花南さんがこの小樽でひっそりと独り暮らしをしていた時も、お義兄様は心配でたまらなかったことでしょうね」
「はあ……。よくわからないうちに、突然に山口の実家を飛び出していったものですから。ですが、彼女からガラスを取り上げることもできませんでした」
「まだ若すぎて、それまではお嬢様暮らしで……。でも意志が強い職人気質のお嬢様。しかも花の匂いを漂わせて……。私から見ても、羨ましいぐらいに、雰囲気のある女の子でしたね。花南さんから聞いたことありますでしょうか。私の夫は以前、花南さんにちょっかいを出そうとしていたこと」
口に付けていた白ワインのグラスを、耀平はぶっと噴き出しそうになった。行儀の悪いことにはならなかったが、口元が濡れてしまい、耀平もハンカチで口元を拭う。そして『それはどういうことなのか』と大沢女史を見つめる。
「私の夫は女性関係が派手で、結婚前からの愛人もいたほどです。その夫が花南さんを見逃すはずないと思いましたら案の定……」
「い、いつのお話ですか」
もう心穏やかではなかった。オーナーの夫にかどわかされそうになっていたなど。昔の終わった話とは言えども!
「花南さんがこちらに来られて一年も経とうかというぐらいでしょうか。工房の商品をパーティーで紹介しようと遠藤親方や工房の職人も製品と共に連れていった時です。彼女はまだ若くて質素な生活をしていたものですから、私のパーティードレスを貸してあげました。黒いフォーマルなドレスでしたが、それを着た途端、花南さんはとても品がよい女性に変貌したのを覚えています。そうですよね、元が山陰の資産家のお嬢様だったのですから。まだその時、私どもは知らなかったものですから目を瞠るものがありました。女好きの夫が見逃すはずありません。パーティーで近づいて……」
妻の彼女がそこで辛そうにうつむいた。そりゃそうだ。いくら女癖が悪い夫とわかっていても、目の前であからさまに若い女を、しかも、妻の配下にいる部下のような職人に手を出そうとしていたら辛いに決まっている。
だが大沢女史はそこでワインを煽ると、勝ち誇った笑みを見せた。
「若い女の子はいままで皆、夫の手にかかると落ちてしまうんです。でも、そこは同じ資産家のお嬢さんとしてのなにかがあったのでしょうね。夫をうまくあしらった若い女の子を初めて見ました。あとで花南さんも夫と同様の資産家のお嬢様と聞いて納得いたしました。夫の財力などに酔うはずもなかったわけです。それに……」
そこでまた大沢女史がワイングラスを片手に、耀平を見てにっこり嬉しそうに微笑む。
「あの頃からきっと、花南さんは、お義兄様一筋だったのでしょうね」
「まさか。この小樽で出会った同年代の青年とつきあっていたようでしたし」
「ああ、あそこの長男さんね……。あの時のパーティーに彼も来ていたから。ああ、そうそう。あの時、あそこの長男さんも花南さんを気に入ったみたいで一生懸命、話しかけていたわね。あれが出会いだったのかもしれませんね」
やっと耀平もあの時のストーカーになりそうだった真面目な青年とカナがどこでどう出会ったかを知る。
そうか札幌市内大手のレストランオーナーの長男だったから、飲食店オーナーの集いという繋がりだったとやっと知る。でも、もう過去のことだ。
大沢女史の夫が誘おうが、おふくろさんが強烈だったストーカーになりかけのお坊っちゃまと付き合った過去があろうが……。
「それでも花南さんは、長男さんともすぐにお別れしたでしょう。いま思うに、あの長男さんと付き合い始めたのも、うちの夫を諦めさせるためだったような、そんなふうに感じてしまうことも。
もちろん、お義兄さんを諦めて、気のよさそうだった長男さんと生きる道を探ろうと決意されていたかもしれません。
そうして『新しい道をみつける』、最悪の事態から一生懸命ひとりで回避していた。そんな痛々しい女心を感じます。
倉重副社長は元はお姉様の旦那様、忘れ形見の息子さんを育てていかなくてはならない。彼女にとっては甥っ子。自分の好きをぶつけて我が侭なんて言えない。それなら遠い小樽に来てしまえば、そんな恋心はもうお義兄様にはぶつけなくて済む、遠い北国でひとりいきていく。ガラスと一緒に……。
長男さんと別れた後、ガラスに没頭した彼女のすべてがそこに研ぎ澄まされていました。望んで手にしてはならないものすべてが、そこに注がれる。
そう感じます。倉重副社長と花南さんが結婚したとお聞きして、あの時わからなかったことが、おなじ女としてどこか花南さんを見てひっかかっていたことが、いまはありありと――」
その時、耀平がもっていたワイングラスがカウンターの上に倒れていた。白ワインがぶわっとこぼれ広がっていく。
「ああっ、も、申し訳ありません」
うっかりグラスを倒してしまっていた。
「まあ、大将、拭くものを」
大沢女史が席を立ったが、寿司店の職人がすぐに厨房から出てきて拭いてくれる。
「大沢さん、申し訳ありません。お召し物は濡れませんでしたか」
「いえ、わたくしは大丈夫です。倉重さんも大丈夫ですか」
ワイシャツの袖口が少し濡れたぐらいだった。カウンターも綺麗になり、改めてグラスに白ワインが注がれる。でも耀平はもうそれを手に取ることが出来ない。しかも額を抱え、うなだれてしまっていた。そう、大沢女史が聞かせてくれた『女心』の話に耀平はショックを受けていたから……。
目の前にホッキ貝の握りが出てきたがつまめずにいる。大沢女史もその心情をすぐに察してくれた。
「申し訳ありません。どれだけ花南さんが小樽でたったひとり、貴方を想っていたかをお伝えしたかっただけですのに。あの頃から愛されていたと知って欲しくて。私の勝手でしたわね」
「いいえ。あの時、どうしてあの青年と付き合うことを望んだのか。釈然としないものが『男として』あったものですから。義妹は男に好き勝手にされるような下手はしないほうなんです」
「でしょうね。私の夫を見事にあしらったぐらいですから」
「義妹が望まない限り、ほだされもしない……。ただ、そこに心があってもなくても望めば彼女は手に入れてしまうんです」
だから。あの時、どうしてあんな恋に疎かった青年に身体を明け渡したのか、招き入れたのか。どこに惹かれたのか。それがいまでも口惜しく思うことがあった。あれが耀平の男の気持ちの発端だっただけに。
大沢女史もワイングラスを置いて、ふと溜め息をついた。
「私もそうですが、想い合っていれば、心も身体も愛しあえるわけでもありません。まだお互いの想いも通じあっていない時に花南さんの選んだことですから、忘れてさしあげるか、受け入れてあげるか、そのようにしませんと――。お姉様が奥様だったことを彼女はなにも疎ましく思っていないように」
「私がいま、悔いているのは。彼女をひとりにしてしまったことです。私が婿養子としてあの家にいられるように。亡き姉の忘れ形見である甥っ子が跡を継げるように。跡取り娘の血筋がある自分が出て行けばいいと……。そして、帰ってこないために、そして、自分が自分であるために、愛さなくてもいい男を……受け入れるような場所にいさせたことです」
でも大沢女史は呆れたようにしてふと微笑むだけ。
「それを経て、いまがあると思いませんか」
わかっている。お互いにそれぞれの経験と異性との遍歴があってやっと結婚できたのだと。ただ、どうしてもっともっともっと早く。カナの気持ちに気がついてやれなかったのか。自分の気持ちだけぶつけてしまっていたのか。戻れない過去の、情けない義兄だった姿をありありと思い出してしまい居たたまれない気持ちになっているだけだ。
「申し訳ありません。取り乱しまして……。いただきます」
やっと握りを頬張ることができた。
「うん、旨いです」
やっと落ち着いた耀平を見て、大沢女史がくすくすと笑っている。
「しっかりされた副社長さんが、男性が、そうして崩れてしまうお顔も意外と素敵でしたわね」
からかっているのかと思ったが、大沢女史も思うことがあるのか、今度は彼女が遠い目でワイングラスを煽っている。
彼女にも遠く想う女心があるらしい。
「花南さんに会いたくなってしまいました。今度は一緒に来てくださいね」
きっと来ます――と応える。
「先ほどのお話、聞けて良かったです。わからなかったことが、すとんと腑に落ちました」
ひとりにしてしまったが故に。自分の方が大人の男だったのに。カナに守られていた。そしてひとりになる決意をしていたカナは、その場をやり過ごすような望まぬ恋をしていたのかもしれない。でも、想われていた。だからカナはあの青年と別れた後は、耀平と航を遠くで見守りガラスに徹していきるようになっていた。
その時に必死に習得したことが、いま、彼女の手元で花開く。
北海の幸に舌鼓を打ちつつ、大沢女史とその後は商談めいた会話だけになった。
『ご馳走様でした』と彼女と別れる。小雪がちらつく小樽の路地を歩いて、一人でホテルを目指す。
凛とした空気が張り詰める、北国の夜空を見上げる。
星も見えない空に舞う小雪は、
観光地小樽、寒空の下でもたくさんの観光客。北海道で名が知れた菓子店も運河沿いに集結している。
その各店を回りに回って、耀平は北国の『ショコラ』を視察する。
素材を大事にしたものが北国のスイーツらしさ。
あれもこれもと買い込み、最後はホテルでひとつにまとめて宅急便で山口に送った。
最後の夜は札幌で。ふらりと立ち寄った小さな菓子店。いま流行のショコラティエのショップだった。希少カカオをつかったという花の形のショコラに釘付けになる。数枚で何千円とあり仰天したが……。その花が今日はどうしてか花南に見える。
ニューヨーク風の包みのそれと、そばにホワイトクローバーの蜂蜜の小瓶があったのでそれも買ってしまう。
だがそのチョコレートを見て、耀平はふと笑いたくなってきた。
「おかしいよな、男の俺が一生懸命にチョコレートを探しているだなんて」
そしてちょっと不安になる。
「まさか、またぶきっちょな手作りチョコを作っていないだろうな??」
二年前に初めて彼女がバレンタインに手作りのチョコを準備してくれていた。去年は千花の出産があり『時期だが余計なことはするな』とよくよく注意して安静にさせていたからなにもなかった。今年は?
「作っていたとしても、あの出来映えだからな。もう一昨年ので気が済んだかもな」
あの時のぶきっちょな出来映えのものを思い出し、耀平はまた北の都市、小雪が舞うなかついつい頬を緩んでしまいどうしようもなくなってしまう。
あれはあれでかわいかった――と。そしていちばん美味しかったのは、ぶきっちょなクッキングの最中にいつのまにやらほっぺたについていたチョコレート。あれを舐めた時。あの時のカナの顔。
早く帰りたくなってきた。やはり独り寝は寂しい、彼女の匂いがする肌が恋しい。こんなキリキリとした寒空を歩いていると余計に想う。でも、心は熱い。
【 明日、夕方。宇部空港に着く 】
【 わかったよ。千花もパパがいなくて寂しそう。待ってるね 】
テーブルにつかまって立っている娘の画像も送信してくれ、ますます恋しくなる。
明日は彼女達のところへ戻れる。千花へのおみやげは、天使がくるりと回るオルゴール。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます