-3- 深淵

 雫は白銀で覆われた世界に、一人浮遊していた。


 ここは夢なのか?

 おっぱい? あたしは何も服を着ていないのか。


 頭を仰いでみると、その先にキラキラと輝く彫像のようなものを見つけた。 

 どっちが上か下かも分からない世界を、雫は平泳ぎのように泳いでそこに向かった。

 近づくと、甲高い音が響いてくる。まるで電子音のような、ポーン・ヒューン・ピキューンと聞こえてくる。


「綺麗。聞いたこともない、混じりけのない音」


 さらに近づくと、氷で閉ざされた壁があった。

 とても冷たいが、どこか懐かしい暖かな冷たさだった。

 透明度がとても高く、ガラスのように透き通っているものの、湖面のような青のグラデーションをたたえていた。


 その先にある彫像をもっとしっかりと見ようと、身体を押し付ける。その結果おっぱいもおしつけてしまう。

 氷であるはずなのに、冷たく感じることはなかった。それどころか、いつも感じている心地よさだ。

 

 彫像と思っていたそれは、人だった。

 ショートの金髪がさらさらと流れる、亜麻色の褐色少女だった。

 目を閉じた顔はよく整っていて、頬はしゅっとしている。

 なだらかな肩に、結構大きな胸がある。ルージュ色の乳首が上を向いてとがっていた。

 その姿を見たとき、なぜかときめかなかった。

 ここまでレベルの高い美少女なら夢中で見てしまうのに、どういうわけか強い親近感を感じてしまう。

 少女の腰から下は氷で覆われていた。腕も肘から先が凍っており、まるで処刑台を思わせた。


 いったい、何の罪でこんな酷い刑をかせられたのか?

 助けようと氷の壁を叩き割ろうとした。

 しかし、びくともしない。

 せめて咲乙女の衣があれば、と落胆した。

 その時、処刑台の少女が目を開けた。


「騒がしいと思ったら、主の雫ちゃんじゃなーい。こんな深淵にようこそ♡」


 あまりにも垢抜けた態度に、さすがの雫も面食らってしまった。


「え!? え!? ちょっと、あんた処刑されようとしているんじゃなかったの」

「処刑? ああ、この格好? しょうがないじゃない。雫ちゃんを早く回復させるために、えまーじぇんしーシステム起動中なのん」

「あたしを回復? 何言っているの? 意味わかんない」


「え?」

「え?」


 彫像はしばらく頭をひねってから、大きくうなずいた。 


「ということは、雫ちゃんの意思とは無関係に、深淵にきちゃったの? すっごーい。スノちゃん、千年くらい鍔凪やってるけどぉ、そんなのはじめて! 異世界転生者ってやっぱチートだね♪」

「スノちゃん? 千年? え、え?」


 たった一言のセリフに重要な単語が並べ立てられて、頭の中が混乱してしまった。

 その様子をみた、スノちゃんと称した少女はゆっくりと解説した。


「あのね、雫ちゃん。スノちゃんは《雪雫》の鍔凪なの。それからね、私はずーと昔から存在している鍔凪で、ふつう深淵に入るにはおっきな儀式が必要なの。こんなことって、ありえないんだよ」

「鍔凪? あんたが、あの刀の鍔?」


「ぴんぽーん。この姿は深淵って世界で作られた、位相体っていうんだって。ずーと昔の主が言ってたよ」

「なんで女の子? あ、いや、あたしはてっきりお姉さんとかイケメンなのかなって」

「ごめんね。主の姿になっちゃうの」

「え!? その姿、私なの?」


 自分自身の姿を綺麗だと思っただなんて、と雫は顔から火が出るほど恥ずかしがった。


「雫ちゃん、自分にもっと自信持ちなって。こぉーんなに、かわいいのに」

「でも、魂は汚れているよ。あんたも私の鍔凪なら知ってるでしょ。過去のこと」

「そんなことないよ。スノちゃん、こうみえてキレイ好きなんだから!」

「そんなの信じられないよ」


「もう! そうだ。雫ちゃん、耳を澄ましてみて」

「なんだよ……」

「いいから、ほら」

「わーったよ」


 雫はそば耳をたてた。

 すると、先程聞いたきれいな電子音が鳴り響いていた。

 ドォン……。

 ヒュゥーン……。

 ピキュン……。

 何度聴いても、耳が痛くならない。とても澄んだ音だった。

 スノちゃんが言った。


「この音はね、心が綺麗じゃないと鳴らないの。とても澄んだ湖の、その上に張った薄い氷の、人が滑っても溺れないくらいの、その時に聞こえる音。何も混じりけがないから、どこまでも高く、高く鳴ってるでしょ?」


 雫はゆっくりと目を閉じた。

 音が鳴るたびに、心の傷が砕けて消えていくような気がした。


「ああ、高くてキレイな音だ。こんな音があたしの中で鳴っているなんて信じられないよ」

「分かってくれてよかった。そうそう、もうちょっとで、雫ちゃん元気にしてあげられるから、待っててね」


「そういや、エマージェンシーとかいってたな」

「そっ。位相体の巫力を、雫ちゃん本体に流し込んでいるの」

「待てよ、そんなことしたらあんたの身体は」

「大丈夫! だってこの身体は、雫ちゃんが咲装したときに変わりに出てくる身体だもの」


「え!? ……また新情報かよ」

「咲装すると、身体が入れ替わって、すんごく強くなるのよ! スノちゃん、すごいでしょ」

「じゃあなにか、舞花もそうなのか」

「舞花ちゃん? たしか《万重》よね。おんなじだよ」


 雫はどうしても聴いておきたい質問をした。


「なあ、スノちゃん」

「なに?」

「どうしてあたしの咲装は、不完全なままなんだ」

「それはね。前の主が悪いことしちゃったからなの」


「悪いこと?」

「流止の里を裏切って、人を沢山殺しちゃったの。赤ん坊だった殃我《斑目皇》を育てて、愛情が芽生えちゃったのよね」

「なにさらっと、重要な新事実言ってんだよ!」

「雫ちゃん、ツッコミなの? わーい」

「喜ぶなよ!」

「でね、やさしいスノちゃんも激おこプンプン! で雪汝せつなを見限ったの」


「雪汝ってのが、先代か」

「そう。でもね、まだ完全にリンクが切れていないのよね。雪汝がすっごく強いのも、そのせい」

「切るにはどうしたらいいんだ」


「本人を説得して、雫ちゃんに正式に継承しますって宣言させるの」

「そんな簡単に言うなよ。あたしらの敵だろ」

「じゃあ、証明して見せて」

「何を?」

「雫ちゃんが、雪汝よりも強いことを! そうしたらスノちゃんの全部をあげる♡」

「言い方!」


「うふふ。だって、雫ちゃん女の子が好きなんでしょ?」

「だからって、自分と同じ身体に欲情なんてしないだろ」

「心は違うんだしイケるってば。そんで雪汝に勝ったら、夢でスノちゃんとイイコトしましょ! スノちゃんも雫ちゃん大好き!」

「深淵はかんたんに入れないんじゃなかったのかよ」

「夢なら別だよーん。あ、そろそろ身体が目を覚ます時間かな。雫ちゃん、じゃあ頑張ってね」

「おい、ちょっと。今、咲装できるのか?」

「ご飯たくさん食べてね♪」

「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」


§§§§


 雫がゆっくりと目を開けると、今までの出来事を思い出して慌てて起き上がった。


「スノちゃんめ、何がご飯たくさん食べろだ! そんなんで回復したら医者いらねーわ!」

「雫様?」


 白衣のルイが医務室用のベッド横で、きょとんとしていた。

 あらぬところを見られてしまった雫は、顔を覆って恥ずかしがった。

 

「夢でも見ていらっしゃったのですか?」


 ルイが心配そうに聞いてきた。

 信じてもらえるのか分からないし、全て夢の記憶の断片かもしれない。

 それでも夢の中の出来事を、語らずにはいられなかった。


 ルイは雫の話の前後がごちゃごちゃした内容を、じっと聴いていた。

 すべて聞きおえると、ゆっくりとうなずいた。


「その夢は、実際にあった出来事だと言わざるを得ません」

「え!? なんで? あたしだってまだ信じてないのに、頭の回転めっちゃ早いルイが信じるわけ?」

「早くなくてもわかりますよ。雫様のお身体は、すっかり傷が癒えているのです」

「うそ!? たしかにあのとき乱暴にされたはずなのに」


 ルイは雫を運んだときのことを、かいつまんで話し始めた。


「駆けつけたときには、頭部裂傷・全身打撲・両腕両足複雑骨折で骨露呈・腹部強打による内蔵損傷・背骨はなんとか無事、といった所見でした。すぐにタンカーを取るために戻り、医務室に運び、できる限りの応急処置を施しました。ほんの少しだけ残った咲乙女の衣が、雫様の命をとりとめたと思われます」

「あたし……よく生きてたね」

「本当にそうです! なのに、あんなお身体で舞花様にキスをなさるなんて、常軌を逸しているとはまさにこのことですわ!」


 めずらしく本気で怒るルイに、雫はしゅんと身を縮こませた。

 深淵の出来事が本当だとしても、ルイの優れた医療処置がなければ死んでいたかもしれない。

 彼女は医師の資格を持っていて、数年携わっただけなのにも関わらず、救急医療現場の引退を惜しまれたスペシャリストだと聴いたことがある。


「ごめんなさい。だってあのとき、胸の奥が熱くなっちゃって……」

「確かに、あのタイミングで来られたら、誰だってイチコロです。……とにかく、全身を管だらけにして呼吸器もつけました。なのに、一時間ほど前から、バイタルが回復し、急激に傷がふさがり始めたのです。びっくりして、慌てて器具を外しました」


 雫はあらためて、自分の身体を見回した。

 医療用のガウンを着ているものの、手足やお腹はなんともない。

 頭も触ってみたが、痛みがまったくなかった。


「せっかく、お世話する準備もいたしましたのに」


 と残念そうに、尿瓶を持ち上げていた。

 雫はその半分冗談な話を、苦笑して答えた。

 自分の話を聞き終わると、舞花のことが心配になった。


「舞花はどうしてる? あの舞花は巫影体だったんだ」

「雫様、まだまだですわ」

「まだまだって?」 

「鍔凪乙女でしたら、さらわれた記志くん・舞花様・ご自分の順で尋ねるものです。心構えを見直してくださいませ」

「わったよ、説教はもう勘弁してくれ。病み上がりなんだから」

「そうでございますね。舞花様は、ゼロナナと合流して記志救出任務を遂行中とのことです」

「行かなきゃ。……あれ? あれれれ?」


 立ち上がろうとベッドからでたとき、急に力が抜けて床に転びそうになった。

 ルイが慌てて支えてくれた。

 枕のようなおっぱいが、頭を柔らかく包み込んでくれた。


「ダメです。病み上がりだとご自分でおっしゃったではありませんか。傷は癒えても、体力は回復していません。今は歩くことすら出来ないのですよ」

「あ、そうか、そういうことかよ。だったらもっと説明しろってんだよ」


 スノちゃんが別れ際に言ったことが、ようやく理解できた。

 首をかしげるルイに、にっかり笑顔で頼んだ。


「お願い! ご飯作って。それもありったけ」

「ですが、まだ胃腸も」

「大丈夫だから、お願い!」

「わかりました。ですが、まずはお粥で慣らしてからです。いいですね」

「分かった。助かる」


 運ばれてきた食事が、一瞬で胃袋に流し込まれていく。

 ルイは身体を気遣ってペースを落とすように言った。

 でも雫の胃袋は持たれるどころか、あっというまに腸に流し込み栄養に変えてしまう。

 背中から汗が滝のように流れる。

 そして二人が車に乗り込んたときも、雫は串刺しのビフテキを丸呑みしていた。

 その食べっぷりに、ルイは最初こそ驚き、そして快復に喜んだ。でも、見ている方が胃もたれしてきて、お腹を擦るようになっていた。


「まだ召し上がるのですか? トイレは大丈夫なのですか?」

「さっき済ませた。あんなにすっきりしたの、何年ぶりってくらい」

「どうやら、今の雫様は、新陳代謝効率が異常なまでに高くなっているようですね」

「今ならいくら食べても、モグモグ、太らない気がする」

「記志くんを助け出したら、雫様にも買い出しに付き合ってもらいますよ。もう備蓄がなくなりました。そのお茶漬けで最後です」

「分かった。やっと落ち着いたよ。美味かったぜ」

「お粗末さまでございました」


 黒のワンボックスカーは、舞花の元へと向かう。

 雫は冷えた玉露茶を飲みながら、助手席を座り直した。

 ふたりとも咲乙女の衣に着替えており、運転はルイがやっている。

 フロントガラスは空間ディスプレイになっており、赤い点に向かって走っているところだ。


「この赤い点が、図塚さらった殃我のいるところ?」

「はい。舞花様の八咫蝶がゼロナナにセットされていて、その方角をリンクして表示しています」

「正確な場所まで分かるのか?」

「八咫蝶には、距離センサーも備わっていますから」

「そんな高性能な式神つくって、よく巫力持つよな」

「実のところ、ギリギリなんです」

「じゃあ、咲装は?」

「もって、あと二回とうかがっております」

「急がねぇと。ラスボスだけ戦えばいいとはかぎらねぇからな」

「心得ております」



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