第参章 雫

-1- 思い出

 満月の夜。

 舞花は別任務で同行していない。

 ここ最近、殃我の出現が多く、ときには一日に三体も発見されたことがあった。

 今回は時間差で、先に舞花が一体目を追っている。


 住宅街からやや離れた人の少ない道で、純白の咲乙女の衣を纏った雫は、光をたたえる満月を見上げてきた。

 そのとき、耳の奥から悲鳴が聞こえた。

 すぐ近くのものじゃない。蛇の式神を中継して聞こえてきたものだ。

 

 すぐさまその方角に駆け出した。

 衣に巫力を流し込んで、身体能力を強化した。蒼光が衣に駆け巡っていく。

 一直線に進むため、壁を家を車を、パルクールで飛び跳ねていった。

 そしてやや広い一軒家を飛び越えたところに、上半身が浮いた鬼である殃我を発見した。

 まさに女性を喰らおうとしていたところだ。


 雫はすぐさま鍔凪を手裏剣のように投げ入れた。

 その回転は、みるみるうちに棒状に伸びて槍となった。

 遠心力を得た槍《氷雪乃牙》は、女性を捕まえようとした腕を見事に切り落とした。


「逃げろ!」


 女性は悲鳴すらあげられず、礼も言えず、ただただ落としたハンドバッグを抱えて逃げていった。

 それを見届けた雫は、手を掲げた

 呼応するように、一直線に主の手元に戻った。 


 殃我の姿は、青白い裸の体躯に足がない。上半身は男の裸で、角以外の特に特徴がない。いわゆる素体と呼ばれるものだ。

 だが外見が素体だろうと、秘めた力を隠し持つ殃我は多い。

 その証拠に、腕を切り落としたのにそこから聖炎が燃え広がらずに消えてしまっている。

 雫は巫力を込めた雹を降らせた。

 三叉の穂から強烈な氷の飛礫つぶて氷剛弾ダイアモンドダスト》が、ガトリング砲のように発射される。

 殃我はそれをかわし切ることが出来ず、まともにくらった。

 それでも聖炎は着火しなかった。

 

 雫が次の手を考えたそのとき、成す術がなくなったか殃我は背を向けて逃げ出した。

 

「逃がすか!」


 殃我の足の速さは人間のそれを遥かに上回る。

 普通ならバイクでもないと無理だ。

 だが氷の鍔凪乙女である雫は、靴裏を凍らせてスピードスケートのように滑走した。

 殃我が分かれ道に出たとき、わざと焦点をずらして《氷剛弾》を放つ。

 そうしてあらかじめ人払いしておいた袋小路に、予定通り追い詰めることができた。

 殃我は腹をくくったのか、両手を構えて臨戦態勢をとった。


 それを見た雫は、両手に構えた《氷雪乃牙》を掲げて、ヘリコプターのように回し、変身の言霊を叫んだ。


咲装しょうそう!」


 咲乙女の衣が瞬間凍結し、刹那粉々に砕け散る。

 一糸まとわぬ姿になった雫に、雪の結晶が胸と腰に寄り集まる。

 それは水着を形作り、青寒い色に染め上げて生地となった。

 小さな花々が咲いたビキニに、ハイレグのパンツ姿。

 その間、〇・〇五秒。

 これが鍔凪乙女雪雫スノードロップの、な咲装姿であった。


「また鎧なしかよ」


 本来あるはずの篭手や脛当てがなく、ただの水着姿に不満を漏らしながらも殃我に連突していく。

 人の目なら穂先が幾重にも分身しているようにみえるほど、鋭く速い。

 たとえ不完全でも、身体能力は尋常を遥かに超えていた。

 殃我はその高速の突きを全て捌ききれず、穴だらけとなった。


「トドメだ! 《氷河牙突弾アイス・マグナム》」


 三叉の穂に青い氷が形成され、それが殃我に向かって弾丸のように弾け飛んだ。

 満身創痍の殃我はそれを避けることが出来ず、氷の弾丸が深くめり込むと、ようやく聖炎が燃え上がった。

 氷が炎を放つという、矛盾する光景はあっという間に終わって灰と化した。

 槍を大きく回しながら残心し、周りに敵影がいないことを確認した。


 一息ついて咲装を解くと、一瞬全裸になったあと純白の咲乙女の衣に戻った。

 《氷雪乃牙》も元の鍔凪に戻した。

 今回は数度目の単独任務だった。

 舞花も今頃は、片付けている頃だろう。

 鍔凪にこの戦いの記録アーカイブを確定保存したとき、人の気配を感じた。

 すぐにそこへ駆けつけると、私服姿で腰を抜かしている女子高生がいた。


「こ、殺さないで……」

「待て待て、べつに怪しいものじゃ……ん? あんたまさか」


 雲が流れて満月の光が照らされると、大きな黒縁メガネの娘が涙目で訴えていたの姿が見えた。

 それを見て、雫は目を丸くして驚いた。


「潤!?」

「え? ……嘘、雫なの?」


 潤だと分かった女子高生は、薄ピンクのワンピース姿だった。

 背は雫より低くて、目が大きくて愛くるしい。

 つぼみのような胸に、スカートからは分からない大きなお尻が魅力的な女の子だ。


「潤久しぶりだな」

「雫!」


 潤は花が開いたような笑顔で、雫に飛びつき狂おしく抱きしめた。

 そして雫を見つめると、唇を小さく開けて近づけた。

 雫もそれに倣うと、二人の唇は深く重なった。

 長い抱擁のあと、潤が名残惜しそうに唇を離した。


「こっちに来ているなら、どうして連絡くれなかったの? 私ずっと寂しかったんだから」

「ごめん。でも、さっきも見たんだろ? 潤が危ない目にあっちまう」


 身を案じた雫だった。だけど、潤は首を振って心配しないでと言った。

 そして潤は、瞳をうるませて雫に言った。


「ねぇ、このまま私の家に来て。今一人暮らしなの。ねぇ、分かるでしょ」

「すぐには行けない」

「どうして? 私もう……」


 だが雫は、そっと頬を撫でて押しとどめた。


「ごめんな。住所教えてくれたら、今夜中に行くから」

「きっとよ。愛してるわ、雫」


 もう一度唇を重ねて、あたたかな舌を絡め合う。

 百を数えた頃、ようやく二人の唇の間に名残りの糸が一つ伸びた。

 潤はスマホを取り出し、連絡先を交換すると手を振って別れた。


 そのころ舞花は、雫たちの様子を冷ややかに物陰で見ていた。

 視線を下に落として鍔凪《万重》を見つめる。それは大きなため息まじりの、あきれた目線だった。


§§§§


 先に屋敷に戻っていたた舞花は、遅れて帰ってきた雫を呼び止めた。


「話があるわ」

「今度はちゃんと車を車庫に入れたぞ」

「それはありがとう。でも違う話。雫の恋人ちゃんについてよ」

「ま、ま、舞花!?」

「見てたんだから。声をかけようとしたら、おっ始めるし……」

「おっ始めるって……、あれはキスしただけで」


 語気が弱くなって顔を赤らめる雫に、舞花は何を色づいているのやらと肩をすくめた。


「やれやれだわ。会いに行っても構わないけれど、気をつけなさい」

「何のことだよ」

「どうして、あの現場で無事だったのか。考えた?」

「……潤を疑ってるのか!?」

「私達にははっきりと確かめる手段がある。私の鍔凪にはまだ反応はなかったけれど」

「舞花!」


 雫が詰め寄って、舞花の着替えたばかりのブラウスの胸ぐらを掴んだ。

 恋人を殃我扱いしたことに、我慢ならなかった。


「ふざけんなよ! 姉弟子だからって、やっちゃいけねぇことだってあるだろ!」

「失礼とは思ったけれど、人々を守るためよ。わかるでしょ」

「ふんっ」


 雫はそれ以上何も言うことはないと、突き放した。

 そして屋敷から勢いよく飛びしてしまった。

 傍で静かに見守っていたルイは、襟をなおしている舞花に声をかけた。


「大丈夫でしたか? こちらは肝を冷やしましたよ」

「ごめんねルイ。二人きりで話す必要があったの。それにしても、ああも周りが見えてないんじゃ、心配ね」

「そうですね」


§§§§


 雫は、潤と肌を重ねていた。

 舌で滑らかな肌をなぞると、潤は声を上げて返してくれる。

 慎ましく揺れる双丘をゆっくり登っていくと、期待で身をよじらせていた。

 とうとう登頂すると、大きな喘ぎをあげた。快感の波を逃さないと、雫の髪の毛をつかんで引き寄せた。

 それがますます雫を興奮させた。

 穢れを知らぬ花弁も、お互いに褒めあいながら甘美を味わった。

 そして最後の絶頂を求めて二人の唇を絡める。花弁のビーズを擦り合わせ始めると、またたく間にひかり弾けた。


「潤!」

「イク!」


 二人ほぼ同時に達すると、潤は雫の大きな胸に身体を預けた。

 ほてりが静まったころ、潤は顔を赤らめたままの顔をもたげた。


「雫って、宝石みたいに綺麗な肌をしてる」

「そんなことないよ。潤の肌は白くて羨ましい」

「ねぇ、雫。鍔凪乙女なんて辞めて、私と一緒に暮らそう?」

「潤、それは出来ないよ。あたし、訊きたいことがあるの」

「なあに?」

「鍔凪乙女のこと、何処で知ったの?」


 一瞬とまどうような間が空いた。

 それから潤は微笑むと、雫の乳首をぬめらせてから答えた。


「友達よ。友達ができてね、その娘が行ってたの。学校で噂が広がっているのよ」

「どうして、そんな嘘をつくの?」

「嘘じゃないよ。だってあなたと会ったときも」

「あたしたちの存在は、徹底的に秘匿されている。その気になれば政府機関に要請だって出来る」

「何が言いたいの?」

「あたしが言いたいのは。鍔凪乙女の情報を知ったのがいつか、それだけよ! まだ間に合うかもしれないの」

「いつ?」

「そう。急に頭の中に浮かんできたのはいつ? 何日前なの?」

「それは、……う、頭が痛い」


 潤が乳房への愛撫を辞めて、頭を抱えて苦しみだした。

 間違いない。


「魔骸蟲に取り憑かれてばかりの初期症状だ。完全に殃我になっていない。今ならまだ間に合う」


 体内に寄生してしまった魔骸蟲は、宿主の欲望や深い記憶に霊的に結びつき、身体を急激に変化させる。

 その元ごと絶てば、殃我変化は治まる。

 だがそれは、潤が向けている雫への想い全てを消し去ることになってしまう。

 おそらく、魔骸蟲が寄生しているのは雫への愛だ。

 流止の里に行く前に、たくさん愛し合った。けれどあんなに感じた潤を、雫は知らない。

 感度が異常に高かった。


 舞花の言っていることが正しいか、雫の判断が正しいか。

 枕元に隠してあった鍔凪を取り、祈りをこめて潤の額に当てた。

 聖炎の輝きはなく、そのかわり鍔凪の意匠が点滅していた。

 それは、雫の判断が正しかったことを示していた。

 このまま巫術により、指を鳴らして旋律を奏でれば、潤は助かる。


 だけれども、指が動かなかった。

 雫は大粒の涙を潤の頬におとして、苦しい胸の内を吐露した


「やっぱり嫌だよ。あたしとの思い出を奪うなんて、できないよ……」

「雫何をないているのっ……、うゔ!」


 突然潤が苦しみだした。

 頭を抑えて激しく首を振り、何かに怯えるようにベッドの端に行ってしまった。

 雫が慌てて傍にいくと、潤はそれを信じられないくらい冷たい手で振り払った。


 魔骸蟲の侵食が始まってしまったのか。

 そんなことはないと、再会したとき鍔凪の光を当てなかった。

 嘘であってほしいと、潤をめいいっぱい抱いた。

 まだ間に合うと思った。


 潤の顔がますますこけていき、目が飛び出しそうになっている。

 肋骨の形が皮膚からはっきりと浮かび上がり始め、肌の色がどんどん白くなっていく。


 雫はそれをみて呆然とするしかなかった。

 愛する人が豹変していく様子を、ただ涙を流して見ているしかなかった。

 突然、ガラスが割れた。そこに現れたのは、


「雫! しっかりしなさい!」


 漆黒の咲乙女の衣を着た、舞花だった。

 万が一に備え、蝶の式神に見張らせていたのだ。

 潤の容態をみて、すぐさま額に鍔凪を当てる。

 しかし、舞花はゆっくりと顔を振った。


「手遅れだわ」


 舞花が剣を顕現させたとき、震える手でその腕を引っ張った。

 雫は目を腫らしながら言った。


「あたしが……やる……」

「無理よ」


 雫はそれを否定するように首をふった。

 その真剣な、そして後悔の眼差しに、舞花はしずかにうなずいた。

 もう脚が消えかかりもがき苦しむ潤を前にして、雫は愛を確かめた姿のまま膝立ちした。

 鍔凪を握りしめて、祈るように深呼吸する。

 そして《氷雪乃牙》を顕現させた。

 苦しむ潤に向かって、その三叉の槍をゆっくりと突き立てた。


「ごめんね、潤。せめて、人であるままで」


 槍が急所を深く貫く。潤はうめくことなく、そのまま息を引き取った。

 血しぶきは即座に凍り、シーツには一滴も血は流れなかった。


§§§§


 翌朝。

 舞花は潤の親族を訪ねた。

 知り合いですというと、首を傾げてこう言った。


「人違いじゃありませんか? 潤なんて娘はうちにはいませんよ」


 と言われてしまった。

 殃我に完全にならずとも、末期症状になると記憶改変が行われてしまう。

 あと一歩、遅かったのだ。

 

 近くのマンション屋上まで四つステップで登ると、そこに黄昏れている雫がいた。

 腰を落として体育座りをし、ふさぎ込んでいる。

 舞花はわざと足音を立てて近づくと、その後ろに立った。


「潤さんの記憶、親族の方にはもう残ってなかったわ」

「そう」

「気がすむまでここにいてもいいわ。だけれど、私達は鍔凪乙女なの。同じような犠牲者を増やしてはいけない」

「分かってる」

「雫」

「なに」

「潤さんの記憶を私達が失っていないこと。それにはきっと意味があると思うの」

「意味なんてねぇよ……。忘れちまったほうがよかったよ……」


 舞花は一歩、二歩踏み出して雫の傍に座った。

 そして両膝を抱えてから、優しい口調で語り始めた。


「私の両親は、殃我に殺された。らしいわ」

「え?」

「そのせいで、両親の記憶なんて一切残っていないの。どんなお話をしたのか、どんなご飯を作ってくれたのか、どんな遊びをしてくれたのか。みーんな、覚えてない。しかも、失った悲しみまでないの」

「舞花……」

「識子さまが両親のことを少しだけ教えてくれた。鍔凪の記憶からね。でも私にはまるで他人事のようだった。だからね、これだけは言えるわ。潤さんと雫の絆は消えていないのよ」


 雫は顔を上げて、泣きはらした目で舞花を見上げた。

 その表情は、ただ遠くを見ているだけだった。

 思い出がないから悲しくないなんてことは、ただ虚しいだけなのよ。そう言っている気がした。

 そんな舞花に何も言えないまま、話が続いた。


「残った絆を胸に、これからどうするか決めるのはあなたよ。もしもどうしても鍔凪乙女をやめ、流止を抜けたいなら止めないわ。言いたいことはそれだけよ。じゃあ、待ってるわ」


 舞花がゆっくりと立ち上がったとき、雫がすぐに引き止めた。


「待てよ」

「なにしから」

「どうしてあたしを責めないんだよ。潤がああなったのは、あたしがぐずぐずしていたからだろ」


 良心の呵責と自分自身の不甲斐なさと後悔の念が入り混じって、雫は思わず立ち上がった。

 そんな雫に、舞花は肩に手をおいた。


「今のあなたを見て、叱れるわけがないでしょ? 十分反省している人に追い打ちをかけるようなことは、私の流儀に反するの」

「でも!」

「叱られたいなら、これだけは言っておくわ。今回の失敗を糧にして、強くなりなさい! 鍔凪乙女《雪雫》」


 舞花はそれだけを言うと、雫の返事を待たずにマンション屋上から飛び降りた。

 それから空の雲が流れてしまったころ。

 舞花は、ゼロナナの仮想ディスプレイに流れ始めたお昼のヘッドラインニュースを眺めて跨っていた。

 足音が聞こえたので、後ろを振り返えった。

 そこには、すっきりした顔の雫が立っていた。


「あら、顔でも洗った?」

「なんで分かるんだよ」

「すっきりしているから」

「どうでもいいだろ。さあ、もう帰ろうぜ」

「どこに?」


 舞花が改めて聞くと、雫は可変ヘルメットを奪い取って、精一杯の笑顔を見せた。


「お前の屋敷に決まってんだろ」

「そうね。魔骸蟲も探知できなかったし、帰りましょうか」


 雫が腰に手を巻いたのを確認した舞花は、ゼロナナのアクセルを開けて帰路についた。


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