-4- テスト

 記志は昨日舞花から聴いた待ち合わせ場所で、メモを取りながら立っていた。

 ここに来るまでに見聞きした全ての、記憶させられてしまった事柄を書くのが、彼の習慣であり対処療法だ。


 生まれた頃から、見聞きしたもの全てを記憶してしまう完全記憶能力は、周りから見れば便利かもしれないが当の本人は厄介なものでしかない。

 しかも記志の場合は他の完全記憶能力と違って、意識していない視界や音すら記憶してしまう。

 人は集中すると視界が狭まったり、音を聞き分けたりできる。    

 だが記志はそうではない。

 リラックスしていようと集中していようと、眼球の視界範囲と耳の集音範囲全てを記憶してしまうのだ。


「風の方向は東南東。メジロが上を飛んでいた。石ころの数はここまでで一七○二個。今通り過ぎた車のなかで、運転手はあくびをしながら片手運転だった。車内は散らかっていた……痛っ」


 記志は急いで追加のメモ帳を取り出し、全てのことを書きなぐっていく。

 その時見えなくても聞こえなくても、思い出すと情報の嵐に襲われるような感覚に陥り、激しい頭痛や吐き気や目まいで気を失ってしまうことも珍しくない。

 余計なことに、そのときの感情までセットで覚えてしまう。


 楽しい事ばかりじゃない。むしろ辛いことや怒ることのがおおい。悲しいことだってある。

 小さい頃に飼っていた猫が早くに亡くなってしまったときの悲しみは、今でも当時のことのように追体験フラッシュバックし、泣いてしまう。

 悲しみが癒えることなんて、この先もないだろう。


 そこでカウンセラーから提案されたのが、メモ帳に出来事を書きなぐること。

 頭の中にずっと入れっぱなしにするより、吐き出す感覚でメモっていく。

 見聞きしたこととその時の感情を、文章の体裁を一切無視して書きなぐるのだ。

 記志はこの対症療法を取り入れてからは、ストレスがずいぶんと軽くなった。

 今あるメモ帳が何万冊目なのか、もちろん覚えているが、できるだけ考えないようにもしている。メモ帳に通し番号もふっていない。


 こんな厄介な能力でも、記憶することが出来ない殃我をずっと頭の中にとどめておける。

 だから舞花たちの役に立てるのではないかと、伝えたのだ。


 待ち合わせ時間の五分ほど前に、自動車が記志の側を付けた。高級セダンとも言うべきピカピカのクロムシルバーだ。

 運転席のドアが開いて、そこから見えた頭にメイドキャップが付けられていた。

 その女性が周囲の安全を確認しながら、記志のところまで歩いてきた。その度に大きな胸が、ゆっさ、と揺れていた。

 グラビアアイドルが裸足で逃げ出すような爆乳に、見事なまでのくびれ。

 生まれてはじめて見る、女神ヴィーナスがそこにいた。


 彼女は濃い緑の落ち着いたメイド服のスカートをつまみ上げて、記志に挨拶をしてきた。


「おはようございます。図塚記志様でいらっしゃいますね」

「はい、あなたは確か」

「申し遅れました。私は鳳凰院舞花様のメイドを仰せつかっております、ルイでございます」

「おはようございます! 今日は、よろしくお願いします。お世話になります」

「こちらこそ。ご丁寧にありがとうございます。それでは、後部座席にお乗りください」


 柔らかく微笑む三日月型の瞳に促され、記志は畏まりながら後部座席に乗った。

 車が発進する。車内は済んだ空気と高級感のある香りが漂っていた。

 ルイがバックミラー越しに記志に話しかけた。


「舞花様からおおよその事情は伺っております。今、舞花様はお勤め中ですので、お帰りまでの間にキッチンのご案内などをさせていただきます」

「よろしくおねがいします」

「図塚様が舞花様に恩義を強く思う気持ち、とても良く分かります。ですが、我々の勤めは死と隣り合わせです。メイドの私ですら身を守る術を学びました。そのことをどうぞ、よくお考えの上テストに望まれてください」

「ルイさんも、舞花ちゃんに助けてもらったのですか?」

「ちゃん……。ええ、それは感謝しきれないくらいの」


 記志の馴れ馴れしい呼び方を咎めることはせず、一時の沈黙が流れた。


 ――神よ! 俺に今、透視能力を与えてくれ! 俺の完全記憶能力を犠牲しても構わない!


 記志はルイの運転席を凝視して神に祈っていた。

 その願いはとうとう聞き届けられず、鳳凰院の屋敷に到着した。

 自動で開閉する大きな門、車で移動する広い庭、それらを見下ろす大きな屋敷に、記志は目を丸くして驚いていた。

 何より記志の目線は、ルイの爆乳を追いかけていた。

 

§§§§


 昼を回った頃、舞花たちが帰ってきた。

 ルイが屋敷の大広間である玄関から、うやうやしく出迎えてくれた。

 

「舞花様、雫様、おかえりなさいませ。ご昼食はいかが致しましょう」

「お願いするわ。図塚記志くんは?」

「お申し付けどおりに、お屋敷の掃除をさせてみました」

「どうだった?」

「男性の方は力仕事で本当に頼りになりますね。その他については、ご家庭レベルといったところでしょうか」

「他に気がついたことはある?」

「そうですね」ルイが胸元をギュッと握りしめた。「その……、視線が気になりました」

「視線? ルイが監督したなら当然気にするでしょ」

「そうではなく……」


 次第に頬を赤らめるルイを見て、舞花はようやく気がついた。

 記志が異性の男だということに。

 同性がみてもすごく大きいと思うおっぱいを、男が放っておくはずがない。

 舞花はルイの手を両手で優しく包み込んで、伏せがちな視線に目を合わせて聞いた。


「ごめんなさい。私ったら気が付かなくて。ルイ、大丈夫?」

「何もされていません。舞花様、ご心配して下ってありがとうございます」

「あなたは私の家族ですもの。当然よ」

「舞花様」


「あのさ、イチャイチャしているところ悪いんだけど。そろそろランチにしね? 腹減った」

「雫、あなたね」

「ふふふ。失礼しました。そうでございましたね、すぐにご用意します」


 思わず吹き出したルイに免じて、雫にはそれ以上なにも言わないことにした。

 後方支援として、掃除などを任せてみようと思ったが、思いもしなかった問題に頭を抱えてしまった。

 ルイと二人っきりにさせたら、いつ襲われるか分からない。

 舞花も触りたい衝動をがまんしているのだから、男なら今すぐにでも飛び込みたいだろう。

 触られる前に大浴場に入って、お願いしようかしら。

 舞花は慌ててかぶりを振ると、当面の問題に頭を悩ませた。


 食事の後、記志にテストを受けてもらうことにした。

 自分の身を自分で守れるか、護身術のテストだ。

 中庭で行うことにした。

 舞花は先に体操服に着替えて待っていた。咲乙女の衣では力の差がありすぎるからだ。

 上は白いスウェットTシャツに、下は黒いスパッツである。下半身のラインがくっきり出ていて、太ももとクロッチが織りなす隙間で向こう側が見える。

 舞花と同じく体操服に着替えてきた記志に、舞花は腕を胸下に組んでズバリと言った。


「図塚くん、ルイのおっぱいを凝視してたんですって?」


 不意をつかれた記志は、冷や汗をかきながら狼狽した。


「それはあの、その、ごめん! 見ないように見ないようにと思うと、余計に目が……」

「ルイは責めることはしなかったけど、恥ずかしがっていたわよ」

「すぐにルイさんに謝りにいくよ」

「待ちなさい」

「え? だって」

「今から行う、護身術のテストに合格すること。そうしたら気が済むまで謝罪しなさい。不合格なら、今後一切ルイに顔を合わせることはゆるしません。そのまま帰ってもらいます」

「そんな……」


 舞花は大げさに構えをとった。


「始めるわよ」

「お手柔らかに、お願いします」

「安心しなさい。本気でやらないようにするから」


 本気でやれば記志は一分ももたずに絶命してしまう。

 舞花は鳳凰院流古武術の継承者なのだから。

 だから見え見えの攻撃を行う。

 空手家のように拳を振りかぶって、力み気味に突いた。

 基本とは全く違う正拳突きだ。

 これくらい対応できなければ、流止のバックアップは勤まらない。

 記志はその拳を掌で受け止めてみせた。


「あら、やるじゃないの」

「昔、空手の本を読んだからね」

「ま、そうでしょうね。素手で突きを受け止めるなんて危ないわよ。武器を隠し持っていたら、図塚くんの手はなくなっているわ」

「手厳しいな」

「私たちのいるところは、命を賭けた実践なの。きれいな空手の試合会場じゃないのよ」


 続いて舞花はローキックを放った。

 もちろん、怪我をさせないように足払いふうに蹴った。

 記志は視覚外からの攻撃に対応できず、地面に転んでしまう。

 舞花は追撃の突きを放つ。

 図塚はすぐに寝転がり、間合いを離して立ち上がった。

 そこに後ろから、突然現れた雫が羽交い締めした。


「うわ!?」

「へへっ。実践じゃこれくらい当たり前だぜ。さあ、どうする?」

「くそっ」

「お?」


 記志が一瞬腰を鎮めると、柔道の体落としの体勢をとった。

 しかし見習いとはいえ鍔凪乙女にそんな崩し技は通じるわけもなく、投げるどころか全く傾かなかった。

 そこに舞花の鋭い突きが、記志の顔面をとらえた。

 記志は目を真っ直ぐに見開いていた。

 当たるかと思われた舞花の拳は、鼻先寸前で止まった。


「目をつむらず開けたままだなんて、あなた格闘技の経験あったの?」


 ここに招待するとき、記志の身辺調査はある程度済ませてあった。だが細かいところまでは流石に分からない。


「本に書いてあったから」


 記志はさらっと言ってみせた。

 本で読むだけで体得できることじゃない。

 素人なら意識したって目を閉じてしまう。

 最後の最後まで目を開けて、ギリギリを交わすかチャンスを伺う。または相手の暗器を警戒する。

 本には大方このように書かれていたのだろう。

 ただ記憶力がいいわけでもなさそうだ。


「なるほどね、いいでしょう。合格よ」

「でも、俺はあんたに一本も取っていない」

「素人に毛が生えた程度のあなたが、活殺術に長けた古武術の私に勝てるわけないでしょう。最初に言ったはずよ、護身術のテストだって」


「でもよかった。これで舞花ちゃんたちの役に立てるんだな」

「安心するのはまだ早い。鍛える見込みがあるってだけよ。これから毎日、護身術の鍛錬を受けてもらいます。それから、ルイに謝ること。護身術の師匠になるのだから」

「マジで! ヤッホウ」

「なに鼻の下伸ばしてんのよ! 合格取り消すわよ」

「じゃ、俺謝ってくる!」


「あ、こら……。まったくもう、困った男の子ね」

「男なんて単純だから」

「雫はどうせ、自分の後輩ができたからこき使ってやろうと思ってんでしょ」

「ぜんぜん。あたし、男の子苦手。羽交い締めだって、顔合わせないからなんとかやれただけだし」

「あら。そっちの趣味なの」

「言わなかったか。あたし百合だから」


 それを聞いた舞花は顔が蒼白になった。

 ここにも獣が潜んでいたとは。


「まさかあんたもルイを狙っているんじゃ」

「あ、ルイは好みじゃないから。安心して」

「そうなの」

「あたしの好みは」

「いや、言わなくていいから。聞きたくない」


 女性を性的に見る視線がふたつもあったことに、舞花はため息を付いてしまった。

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