蜘蛛と蓮と夢の糸
「
暗闇の中、そんな甘やかすような声が聞こえた気がした。
異国の祖父から受け継いだらしい青灰の瞳を開き、学生服を着た青年はぼんやりと周りを見回す。何があったのか、どうしてここにいるのか、何も思い出せない。
思考も一枚のカーテンをかけられたかのようにはっきりとせず、どこかぼんやりする。
ただ何も見えない漆黒の中、ひとりでぽつんと立っているとうっすらと人の姿が浮かび上がる。
「こんばんは」
「……お前は、」
周りの景色に溶け込んでしまいそうなほどに見事な黒髪に、菫よりも深い紫の瞳をした青年はいつの間にか髙良の前で微笑んでいた。同じ学校の制服を着ているが、校舎で彼を見たことが無い。
(……ああ、そうだこいつは……)
彼とは最近学校の外で数度会った。今まで親の言いつけも、【友人たち】の命令も破ったことがない髙良にそれを悉く破らせた張本人である。
『どうしてそんなに必死に塾に通わないといけないんだい』
『天辺を取りたいのは君の父親なのに、なんで髙良が頑張っているの?』
母が出て行ってから自分の夢をかなえるための分身のように息子を使う父の異常性を彼は口にしてしまった。そして学年一位を取り続けていた髙良の順位を落とさせた。
『行きたくないなら逃げてしまえばいいさ』
『人なんでどこまでいっても一人だよ、なんであんな奴らに依存するんだい?』
『君は本当に、あんなことをしたいの?』
襲われ、凌辱され、写真を撮られた。友人で居続ければいつか消してくれるという脆い言葉を信じて通い続けたあの校舎裏の用具室に行かなくていいと言われて何故か素直に従っていた。
目の前の男は、あまりに容易く薄氷の上に立っていた髙良の日常を壊してしまった。
そう、この青年は――
「……お前のせいで、俺は……」
今までずっと、人の顔色を窺って生きてきた。
逆らわず、自分の意見もほぼ言わず、波風が立たないように動いてきた。
だって母がいない自分には父しかいないから。
彼らに写真をばらされたら本当に居場所がなくなるから。
耐えて、笑って、なんともないように生きてきた。
それが大人になることなのだと思うしかなかった。
生きることは諦めの連続だ。これ以上苦しくならないためには辛くても絶えないといけない。例えどんな理不尽でも、我慢してしまえばなんとかなる。
そう強く思って生きて来たのに、たった一言でこの男は髙良に自分の手で自分の世界を壊させた。
そして――それがすごく気持ちの良いものだと教えてしまった。
「だって、髙良はそうしたかったろう?」
「……やめろ」
「父親のお人形になって、あいつらの道具になって、足を開いて、髙良はずっと泣いていたじゃないか。顔は笑っていても、心の中で」
「違う!! お前が俺の何を知ってるんだ!」
「知っているよ」
目を見開く髙良の頬に蓮那の指先が触れる。知らない間に流していた涙をぬぐい取り、彼はふわりと花がほころぶように笑った。幼子のようにきょとんとする髙良の頬を両手で包み、男は優しく穏やかな声で語り掛ける。
「髙良は頑張り屋だ。死に物狂いで努力して結果を出している。でも、だから怖いんだ。周りに否定されてしまうのが、心の無い言葉で殴られてしまうのが。ずっと俺は見て来たからわかるよ」
「なん、で」
「でもねえ髙良、どうして髙良だけが我慢するんだい」
「は……」
甘く穏やかな声に絡めとられていくような感覚に怯えながらも、目は蓮那から離せない。
深い紫苑の瞳を細めて、彼は純粋な子どものように髙良に問うた。
「――なんで髙良の事を考えてくれないやつらのために、髙良が耐える?」
「だって、逆らっても、」
逆らったところで状況は変わらない。それは自分が一番知っている。
まだ自力で状況が打開できないならもう我慢して時間が過ぎ、大人になるのを待つしかない。そう思っていたのに。
「なのに、お前が俺に破らせるから、俺――」
ぱちり、と頭の奥が弾けた。そうだ、約束を破ったことで父に殴られ、激昂した彼が包丁を手に持ったのであまりの恐怖に家を飛び出したものの、逃げる途中に呼び出しに応じなかったことを咎めに来た友人たちにこの廃屋に連れ込まれた。
いつものように犯される前に、お仕置きだとナイフを向けられて――そして?
「もし、救われるとしたら?」
信じられない言葉が降ってきて、今度こそ言葉を失った。
「髙良のことを誰よりも一番に考えて、周りの奴らを壊すことができる存在がいたら、髙良はどうする?」
「そんなやつ、いるはずない」
「思い出してごらん、知っているよ」
首を横に振ると、即座に否定された。徐々に意識がはっきりしてくる感覚の中で困惑しながら髙良は周りを見渡す。何も視えなかった暗闇から視界が少しづつ明るくなっていく。
埃っぽい廃屋の中、足元に転がるのは自分にいつも乱暴をしていた男たち。
なのに――それよりも気になったのは室内のあちこちに張られた蜘蛛の巣だった。
「……あ」
そういえば、まだ小学校低学年だったころに教室に入り込んでいた蜘蛛を学校から外に逃がしてあげたことを思い出した。
この街は蜘蛛を信仰しているので、無暗に殺すことは禁じられている。それを守っているからこその行いだったが周りからいい子ちゃんぶってると言われて苦い思い出になっていた。何故、今それを思い出すのか。自分で自分に困惑していると、にっこりと目の前の蓮那が笑う。
「正解」
「え」
「髙良は何気ない、気紛れのつもりだったのかもしれない。でもその蜘蛛は心を奪われずっとずっと助けてくれた恩人を見ていた。いつか自分が救うのだと見守ってきたんだよ」
視界がまだ揺らぐ。先ほど拭われたのになんでまた涙が流れているのか髙良自身もわからなかった。否――本当は気付いている。
「ねえ、髙良」
この青年に初めて会った時に感じた謎の懐かしさを。恐怖を通り越した安堵に似た感覚を。
「君はもう手段を持っているんだよ、君を取り囲む状況から逃げ出すための方法を」
言葉を交わす度に感じるものが、好意に近いものでありそれは決して周りに流されたものじゃないとうっすら予感していた。でも気付きたくはなかった。
「君を地獄から引き上げるための糸は――目の前にある」
何故ならば、気付いてしまえば戻れないからだ。
当たり前の日常に。父がいる日々に。学校に通う毎日に。
そして――生まれて初めて表に出す自分の望みがこの世の何よりも醜いことに。
「さあ、俺とおいで。俺の手をとってくれたら、君の為になんでもしよう。望みどおりに【壊して】【戻れなくして】これからずっと髙良を守り続ける」
従う事はつらかった。父に殴られるのが苦痛だった。深夜に寝室に来るようになってからはもう耐えられないと泣いた。
高校は牢獄のようだった。自分を玩具のように扱う奴らと教室で友人の顔をして笑い合うだけで吐き気がした。
「……おれ、は」
望んで、いいのだろうか。
今までずっと我慢してきたのだ。助けを求めても手なんか差し伸べられなかったから耐えるしかなかった。今までずっとやられるばかりだった自分が、相手にも同じ苦しみを与えたいと願っていいのだろうか。
そんなのは駄目だ。復讐など何も生まない。ただ連れ出してくれればいい。
そう口にしたいのに出ないのは、それが嘘だから。
「髙良、いいんだよ」
「はす、な」
「心を殺されて、体を傷つけられて、耐えて耐えて復讐しなくても――誰も髙良を褒めてはくれないよ。当然だって他人事だと気にも留めない」
「……」
「そうして、君をめちゃくちゃにした奴らは笑って何もなかったように毎日を生きていくんだ――苦しいのは髙良だけなのに」
このひとは――この怪物は本当に自分をよくわかっている。それに恐怖ではなく喜びを感じている時点で、もう自分は駄目なのかもしれない。
「ごめんね、ギリギリじゃなければ髙良は我慢してしまうと思ったんだ――だから、今にした。君の心が壊れる寸前に、ちゃんと俺の手を取れるように」
目の前に、糸がある。ああ、なんの小説だったろうか。
天上から伸びてきた一本の糸。それはきっと掴んでも切れることはないのだろう。
だってその糸が導くのは天じゃない――新しい地獄だ。
でもそこはきっと、髙良にとって今居るこの世界よりずっと良い場所の筈だ。
異形だとしてもかまわない、そう素直に思える程に自分に語り掛ける低い声が愛おしくて。
「愛しているよ、僕の髙良――さあ、一緒に行こう」
君の望みを言ってごらん、と彼が囁くのと同時に周りの倒れていた友人たちが意識を取り戻して立ち上がる。同時に、包丁を手に持った父親が廃屋に飛び込んで来る。
彼らは髙良の後ろにいるだろう蓮那を指さして怯えた顔で叫び出す。逃げようとしても腰を抜かし、地を這いずっている者すらいた。
きっと、髙良が見る蓮那と彼らが見る蓮那は見え方が違っているのだろう。それでも、もう彼らの声は髙良の耳には入っていなかった。
「俺は――」
そっと差し伸べられた手を取る。美しい顔が近づき、頬を伝う涙をぺろりと舐められる。
まるでずっとねだっていたおもちゃを与えられた子どものように無邪気な笑顔を浮かべた青年は、髙良の続けた言葉にそれはもう満足そうに微笑み――頷いた。
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