夢の随に
宇土為 名
夢の随に
いつも、諦めることには慣れていた。
手に入らないものを欲しいと思う気持ちを隠すのが上手かった。
***
その朝、いつものように支払い期日の迫っていたものを終わらせてしまおうと、銀行に出向いた
ない。
0がない。
いや、0しかない。
0だけ。
0だけだ。
昨日まであったはずの売上金のすべて、自分の貯金の残りもすべて、──なくなっていた。
なにもかもなくなっている。何度見返しても同じだった。
「うそだろ…」
1,528,371円。
全身の血の気が引いた。
僕の、僕のすべて。
全財産が消えていた。
パン屋をやりたいというのは、子供のころからの夢だった。
ぼんやりと、夢の核にはひとつの店の面影がある。
幼いころによく母親が連れて行ってくれた、駅の構内にあった小さな喫茶店。カウンターとテーブルがひとつ、いつもサラリーマンでいっぱいの店内。朝6時から開いている、美味しいホットサンドを出す店だった。
ぜんそく持ちで病院に通うことが日課になっていた北浦の唯一の楽しみは、診察の帰りに寄るその店のホットサンドだった。
なんてことのない食パンに、トマトとチーズとハムを挟んで、フライパンをふたつ繋げたような鉄の器具で焼いただけのサンドイッチ。それが、最高に美味しかった。
『美味しい?』
テーブルをはさんで向かいに座る母親に、うん、と北浦は頷いた。
夜の仕事をしていた母親は、朝起きるのも辛いだろうに、愚痴ひとつこぼさず週3日、病院に息子を連れて行き、帰りにそこで早目の昼ご飯(母にとっては朝ご飯)を食べて帰る。そうして家に帰ってからまた少し寝て、夕方北浦を夜間保育所に預け、仕事に出て行く生活だった。
母ひとり、子ひとり、父はいない。
小学校に上がると、北浦はぜんそくにいいからと水泳を始め、次第に体も丈夫になり、頻繁に繰り返していた発作もそれほど出なくなった。中学生になるころには病院に行くこともほとんどなく、母親と喫茶店に行くこともなくなってしまった。
今では懐かしい、もういない母との思い出だ。
店の鍵を開ける手が小刻みに震えていた。
どうしよう、どうしよう…
裏口をどうにか開け、厨房から入る。店の中は静まり返っていた。磨き上げられたステンレスの調理台や、オーブン、キッチンの何もかもが、熱を失って冷たく銀色に光っている。休みの今日は火の気がない。少し籠った空気、窓を開けなければと思うのに、何もかもが億劫で、北浦はよろよろと作業場の隅にに置かれたままの折り畳み椅子に座り込んだ。
通帳の中の金が消えた理由は大体察しが付く。
あいつだ。
あいつ──仕事のパートナー、御堂。
昨日の昼間、手の離せなかった北浦は休憩中の御堂に頼みごとをした。
『一佐、悪いんだけど、これ振込頼めるかな』
店の裏口を出たところで煙草を吸っていた御堂が、キャッシュカードを差し出す北浦をけだるげに振り向いた。
『いいけど』
──いいけど。
そしてこの
手の中の携帯を握りしめる。何度掛けても繋がらない電話は、12度目の呼び出しに、現在使われておりません、と無機質な声で返答した。
駆け込んだ御堂の安アパートはもぬけの殻だった。
立ち尽くす北浦に、隣から出て来た大学生くらいの男の子が、夜うるさかったんだけど、と北浦に疎まし気な目を向けて苦情を言って階段を降りていった。
僕じゃない。
僕がうるさくしたわけじゃない。
言い返したい言葉を呑みこんで、北浦はその場を後にした。
起こってしまったことはどうしようもない。
自分が悪かったのだ。
時間が巻き戻るわけでもないし、なかったことには出来はしない。前に進むだけ、前に…
「……っ」
それでも悔しさは残る。
滲んだ涙を手のひらで擦った。泣いてどうする。泣いたってなんにもならないだろ。
深く息を吐いて、吸って、吐いて、呼吸を整え、北浦は自分を奮い立たせた。
明日からどうするか、考えなければ。だがその前に、今日はひとつやることがある。それを済ませたら考えよう。明日のことを、自分のことを、考えないと。
数少ない常連客の
期間は3日、衿久の祖母が亡くなり、その間友人宅に行けない衿久の代わりに北浦が一日一度、この店のサンドイッチを持って行くことになっている。
『え、1回でいいの? 1食分? 足りるの?』
その食事量の少なさに驚いて言うと、電話の向こうで衿久が笑った。
確かに線の細い人だったけど…
『うん、少し多めにしてくれたらいいから。ごめん、忙しいのに頼んで』
『こっちは全然いいよ』
一度だけ会ったことのある──偶然に出くわした──衿久の友人の顔を思い浮かべる。
店の前で立ち尽くしていた。
衿久を捜して。
細い体、夜の闇の中でも分かる白い肌、裸足の足先。
年上だと聞いていたけれど、とてもそんなふうには見えなかった。
どんな友人かと、聞いたことはない。
最初に会ったときは、衿久のバイト先の人だと思っていた。けれど違うとすぐに分かった。
学校の友達といった、そんなものではない。友人以上だ。衿久がとても大事にしているのが、彼を語る言葉の端々に現れている。
『うん、じゃあ、裏に回ればいいね?』
玄関は開かないから、と言う衿久の言葉に北浦は頷いた。
手元のメモ用紙に、裏に回る、と書き添える。
『分かった。任せて、大丈夫だよ』
ありがとう、と衿久の安堵した声が心地よかった。
サンドイッチ用にと焼いていたイギリス食パンを取り出して、北浦は料理台でカットした。バターをきっちり端まで塗り、サンドする片方には粒マスタード、もう片方には黒コショウを振っていく。後は間に挟むものを順番に重ねていくだけだ。今日は焼いたベーコンと目玉焼き、レタスとトマトのいわゆるBLTサンドにしてみた。度々衿久が買っていたのを思い出したからだ。マヨネーズソースをかけ、出来上がったものを軽く押さえてワックスペーパーに包んで少し落ち着くのを待つ。
あとは、持って行く前にペーパーごとそのまま半分にカットしてラップに包むだけだ。
「…よし」
一連の作業を終え、調理台を綺麗に片づけて手を洗った。慣れた動作に無心になっていた心が、終わったとたんに揺れた気がした。
今は何も考えないこと。
自分に言い聞かせて、冷蔵庫から作り置いておいたアイスコーヒーを取り出してグラスに注ぎ、ひと口飲んだ。寒い冬でも、北浦はアイスコーヒーが好きだ。作業の合間に、休憩中にと、1日飲んでいる。
冷えた液体が喉を滑り落ち、胃に辿り着いたのを感じた。思えば朝から何も食べていない。あまりにもショックが大きすぎて、まるで食欲を感じなかった。
でも、何か食べておかないと駄目だ。
ちゃんとしないと。
「これでいっか…」
作ったばかりのサンドイッチの余った材料がトレーの上に載っている。冷蔵庫に仕舞おうとして、また調理台に戻した。カットしたパンの端切れに載せて、アイスコーヒーで流し込んだ。何の味もしない。ただ苦いばかりで、ちっとも美味しくないそれを、音のない厨房の中で北浦はひとり飲み込んで食事を終えた。
昼過ぎ、言われた道順を辿って、北浦は紙袋を下げて歩いた。衿久の友人──
ふたつの町の境目にある大きな森は、北浦も子供のころから知っている。クヌギやブナ、椛や楓が多く、季節を通して美しい森だ。散策路が町を繋ぐように通り、東側と西側に分かれている。南人の家は西側にあると衿久が教えてくれた。
店を出すと決めたとき、森の近くがいいと言ったのは自分の方だった。緑が多く、少しばかり駅から外れたこの場所を選んだのは、北浦の我儘だったが、不動産屋の言葉が渋っていた御堂の背中を押したのだ。
いずれこの辺りは森が縮小されて、宅地として売られる予定なんですよ。
広大な敷地の森は、増え続ける町の人口の受け入れ先としては絶好の場所だった。それを聞いて少し寂しく思った北浦とは反対に、御堂は俄然乗り気になった。宅地として造成され売られれば、家が建ち、人が増える。この辺りにはまだ店舗はほとんどない。店も繁盛するだろうと──
そうして、噂だけが独り歩きしていると気づいたのは随分後になってからだったが。
思えばあのとき、一番最初から、自分たちは相性が悪かったのだ。金銭の絡まない、利益など関係のない、ただの友人でいれば、それなりにやっていけただろうに。
「あ──ここか」
ぼんやりと考えながら歩いていると、目印だと衿久が言っていた場所についていた。散策路に少し貼り出した木の、その下に小さな傷が斜めに入っている。しゃがむと、重なり合った木立の向こうに煉瓦の壁が小さく埋もれるようにしてあるのが見えた。
ほんとだ。本当に家がある。
その楓の木の脇から枝を避け、北浦は茂みの中に入っていった。
「こんにちは…?」
裏に回ると温室らしき小さな建物があった。
中に人のいる気配がする。
半分扉が開いていて、声を掛けながら近づくと、ちょうど出て来た南人と、目が合った。
南人は、分かりやすく驚いていた。
「こんにちは。食事、持ってきました」
職業柄、にこっと笑って言うと、目を丸く見開いていた南人が、小さく頷いた。
体が強張ったみたいに動かないな。人見知りなのか。
「町田くんから…聞いてません?」
もしや知らなかったのだろうかと聞くと、南人は首を振った。よかった、と北浦はほっと息を吐く。
「じゃあこれ」
紙袋を差し出すと、南人はぎこちなく受け取った。
「少し多めに作ってあるから、食べ切れなかったら冷蔵庫に入れておくといいよ」
こくっと南人は頷いた。かわいいな、と北浦は思った。
見た目は冷たそうなのに、仕草がまるで子供のようだ。
「じゃあまた明日、多分今ぐらいの時間に持って来ますから」
そう言って踵を返そうとすると、あ、と南人が声を上げた。北浦は振り向いた。
「わざわざ、ありがとう」
はにかんだように笑ってそう言われ、北浦の胸の中がじんわりと温かくなる。
嬉しい。
持ってきてよかった。
「うん」
北浦も笑い返し、それじゃ、と言ってその場を後にした。
暖かな気持ちに包まれたまま店に帰り着き、中に入ったとたん、言いようのない寂しさに襲われた。
現実が押し寄せてくる。
信頼を裏切られたことの傷がじくじくと痛む。なんでもない、なんでもない、と自分に言い聞かせる。明日は、ちゃんといつも通りに店を開けないと。
自分ひとりでも大丈夫なように、入念に下準備をして自分のアパートに帰り着いたのは日付けの変わるころだった。
寒々しいアパートの中は人気がない。ひとり暮らしには慣れているが、人恋しかった。
誰かに話を聞いてもらいたい。
でも誰もいない。
大学に入学した3か月後に母親は死んでしまった。たったひとり残されて途方に暮れたあの日がよみがえる。辛くて、苦しくて、どうにもならない悲しみを慰めてくれたのは、大学入試で知り合った御堂だった。同じ学部、同じ講義。話が面白くて頼りになるやつだった。少しだらしないところもあったけど、それも自分にはない魅力だった。母が残してくれた貯金や保険金を授業料に払うのがもったいない気がした。それならば、大学を辞めてパン作りの勉強がしたいと言い出した北浦の後押しをしてくれたのも彼だ。そして御堂も北浦の後を追うように1年で大学を辞め、同じ道に進み、一緒に店を出そうということになった。2年間の修行。
店を持って3年半、楽しかった。
それがこんなことになるなんて。
北浦はクローゼットの奥から古びた箱を取り出して蓋を開けた。その中には写真の束と、銀色の缶が入っている。元はクッキーか何かが入っていたのだ。母が好きな菓子で、なぜかいつもたくさん家にあった。母のものを処分するとき、ひとつだけ手元に残しておいたものだ。その缶の蓋をそっと開ける。中には茶色の封筒があった。
母親が北浦にと残してくれた保険金の入った通帳だ。
店の資本金にと出し合ったその残り、これが北浦の最後の財産だ。
大切にしないと、大切に──したかったけれど。
ぎゅっと封筒を握りしめた。
翌日、普段よりも早めに店に行き、普段と同じ時間に開店した。客は少ないが、それでもいつもと同じ時間に人は買いに来るものだ。冬休みでも学校に行く途中の高校生がやって来て、同じパンを買って行く。散歩途中の老夫婦、犬を連れた若い青年、女子高生の3人連れは今日は私服だった。年末とあってか、近くの道路で工事をしている作業員も昼を買いに来た。
客が途切れたところを見計らって、いったん外出するとの貼り紙を出して、店を出る。今日は時間もあまりないので自転車に乗って行った。
煉瓦の壁に添って裏に回ると、南人は昨日と同じように温室の中にいた。
「こんにちは」
声を掛けると、南人が出て来た。
寒いのに、上は薄いシャツ一枚だ。日差しのない曇り空の今日は、温室の中も外気と温度はそう変わらない。寒くないんだろうか、と北浦は思った。
「こんにちは」
白く息が上がる。
昨日のように南人は硬直しなかった。
北浦が差し出した紙袋を、ありがとうと言って受け取ってくれた。
「寒くない?」
思わず聞くと、南人が困ったように笑った。
「いや、大丈夫」
短い簡潔な言葉。でも、答えてくれたことが妙に嬉しかった。
じゃあまた明日、と言って北浦は店に戻った。
夕方、クリスマスの飾りを外していると、店の電話が鳴った。支払期日を過ぎていると取引先の業者からの催促だった。月末で年末だ。仕事納めの前に、皆支払い関係のことは年をまたいで持ち越したくはないのだろう。立て続けに同じような催促が3件入り、店の大家からも家賃が振り込まれていないと電話があった。
事情を大家にだけは話した。大家はいい人だったが、金が絡めば話は別だ。皮肉を言われ、北浦に当てがないことが分かっているかのように、年内に支払いが出来ないようなら出て行ってくれと言い渡された。
待ってくれ、と言うことは簡単だ。だが、待ってもらっても、支払えるかどうかは分からない。運転資金がまるでない状態で、店をやっていくのは困難だ。銀行に融資を頼もうにも、この状態に快く貸してもらえるとは到底思えない。時間がなかった。何よりも、心が冷めきっていた。言葉をぶつけられるたびに冷たく固まっていく。動けなくなっていく。
「…分かりました」
店を閉めた後、明日の準備をして家に戻り、今月の支払い分を用意した。
母の残してくれた預金を使い、残った金額を計算する。あとどれだけやれるだろうかとぼんやりと考える。
母が、働いて働いて、遺してくれたもの。これ以上お金を無駄にしたくない。
もう無理かな、と思った。
せめて、今年いっぱい、仕事納めだと決めた12月29日まで。
あと3日。
あと3日、なんとか頑張ろう。そうしたらいったん店を閉めて、それから──それから。
それから…
「……」
両手に顔を埋めて大丈夫、と呟き、北浦は込み上がってくる悲しみを押し殺した。
翌日、同じ時間に届けに行くと、南人は温室にはいなかった。衿久に言われていたことを思い出して裏に回り、勝手口を見つけて声を掛けたが、返事は返って来なかった。
どこかに行っているのだろうか。
仕方なくドアの取っ手に紙袋を引っ掛けて、北浦は散策路まで戻った。
南人に会いたかったな、とぽつりと思った。ひと言言葉を交わしたかった。
散策路の端に置いておいた自転車の鍵を取り出して外し、跨ろうとして、ふと行き先に目を向けると、道を挟んだ反対側に誰かが立っているのが見えた。
その前を自転車で通り過ぎようとする。
その瞬間目が合い、にこっと相手が笑った。
とっさに返せずに通り過ぎてしまった。
かなり年上の銀の混じる髪の、男性だった。
店のお客さんだっただろうか? だが見覚えは全くなかった。
夜になり衿久がやって来た。
いつも通りに振る舞う。衿久は祖母を亡くしたばかりだ。自分の悲しいことは見せたくなかった。
「お疲れさん。無事終わった?」
「まあなんとか。親父が泣きっぱなしで、俺が挨拶する羽目になったけど」
「はは、それは大変だったね。──あ、はいこれ、請求書」
「ども」
3日分の請求書を差し出すと、衿久は財布を取り出して支払おうとする。何とはなしに衿久が払うのかと聞いてしまった。
「いや、まとめて預かってるから」
事もなげに言われて、北浦はそうなんだ、となぜか慌ててしまった。
「なんか家政婦さんみたいだね。はい、確かに。領収書書くね」
なんだか馬鹿なことを聞いてしまって恥ずかしかった。あげくに家政婦さんみたいだと、心にも思ってないことを口走り、いたたまれなくなる。
何言ってんの、そんなわけないじゃん。
こんなの──好きだからじゃん。
「南人、ちゃんと出てきた?」
でも衿久は何も気づいていなかった。
聞かれて、領収書を書きながら俯いて答える。
「うん、2回ね。水曜日と木曜日。今日は、声掛けたけど出てこなかったから、取っ手に引っ掛けて帰ったけど」
「そっか…」
領収書を渡すと、衿久から礼を言われた。
嬉しかったけれど、もう出来そうにはない。そう言うと、言い方を間違えて衿久を恐縮させてしまって、北浦は慌てた。
「ごめんっ、そうじゃなくて!言い方悪かったね、ごめんね、僕いつも言い方下手なんだよね」
誤魔化すように、はは、と北浦は笑った。
「そうじゃなくてさ…、あの、ここ、今年いっぱいで閉店することになったから」
「…え?」
衿久が目を見開いた。
「なんで──急に」
黙っていると泣いてしまいそうで、へへ、と笑ってみせた。
手のひらを握りしめる。
「相方がさ…あ、パン作ってたやつなんだけど、一昨日売上全部持って逃げちゃって。あはは…」
だからお終いなんだと、北浦は言った。
滞りなく支払うものを済ませ、手元に残った金額は、わずかだった。
早くバイトを見つけないと。
大家は家賃が振り込まれたことを確認すると、手のひらを返したように北浦を引き留めた。もう少し頑張ってみたらどうかと励まされ、当分店はあのままの状態にしておくからと言われた。有り難い言葉だったが、けれどなぜか北浦の心は動かなかった。
なんだかひどく疲れてしまった。
借金がないことだけが救いのような気がした。
最期に衿久が店に来て、とても残念がってくれた。連絡先を交換して彼は帰って行った。
店を閉めた後、閉店のお知らせを書いて入口に貼った。
がらんとした店内。細かな片付けはもう明日にしよう。売れ残ったものをすべて箱に詰めて、家に持って帰った。当分、食うには困らなそうだ。帰る途中のコンビニに寄って取って来たフリーのバイト情報誌を捲りながら、パンを齧った。
冷たくて、でも、温める気も起らなかった。
疲れ切ってそのまま眠った。
目が覚めると朝になっていた。明日で今年も終わる。
店を片付けに行き、なにもかもを綺麗に磨き上げた。3年半、一緒に頑張ってきた道具たち。限られた予算の中で手に入れた店の厨房機器や装飾品はほとんどが中古のものだった。冷蔵庫とオーブンだけはいいものが見つからず、メーカーからのリースだった。夕方引き上げに来た業者に挨拶をして見送ると、がらんとした厨房がますます寂しくなった。床を掃いてゴミを一纏めにして、表に出した。明日はちょうど業者のゴミの回収日で助かった。
表のガラス扉を拭いていないことに気がついて、最後に拭きに行く。この扉だけは奮発して新品でオーダーした。お気に入りだったのに、でも、家に持って帰るわけにもいかなかった。
置く場所なんてない。
磨き上げて顔を上げると、もう日が暮れかけていた。
吐き出した息が白い。
立ち上がって裏に回り、鍵を閉め、不動産屋に鍵を返しに行って、家に帰った。昨日と同じようにして眠る。
翌日の大晦日はバイトの面接を入れていた。面接は相手の都合で昼から夜になった。面接を済ませ、夜の暗がりの中を当てもなくふらついていると、どこからか人のざわめきが聞こえてくる。
ふらふらと吸い寄せられるように北浦はそこに向かった。
神社だった。いつの間にか北浦は家から遠く離れたところまで歩いて来てしまっていた。
これも何かの縁かと、初詣をするたくさんの人に混じってポケットの中の小銭を投げ、祈りを捧げた。
明日はいい日になりますように。
赤いかがり火が冷えた体に暖かい。
境内で配られていた甘酒を手渡され、ひと口飲んだ。誰かが肩にぶつかって、こぼれた涙がぽとりと表面を揺らした。
バイトの面接に無事合格し、年が明けてすぐに北浦は大手チェーン店が経営するスタンドバーで働く事になった。ここは昼間は軽食のテイクアウトランチを出し、夜は酒を出す。いわゆる立ち飲み屋だった。北浦は昼でも夜でもどちらでも構わないと言い、とりあえず昼に回された。空いた夜の時間にはコンビニのバイトを入れることにした。こちらは面接の時点ですぐに採用が決まった。
昼も夜も働いた。働いていれば何も考えなくて済んだ。じっとしていると恨み言が口から出てきそうで怖い。仕方がない、自分が悪いと思いながら、御堂を恨む自分が悲しくて苦しかった。
済んでしまったこと、起こってしまったことは取り戻せない。
振り向くな。
前に進むだけ。それだけだ。
衿久からは何度か連絡があった。既読だけして返事が出来なかった。悪いと思いながらも読んだだけで携帯を閉じた。今話を聞いてもらったら、立ち直れないような気がした。
何より彼はまだ高校生なのだ。
受験生に年上の自分が甘えるわけにいかない。
半月ほど働いたころ、スタンドバーのマネージャーから、人がひとり辞めたので夜に回ってくれと言われた。承諾し、コンビニのオーナーに掛け合って、こちらを昼のシフトにしてもらった。
「すみません、勝手言って」
「いいんだよ。北浦君よく働いてくれるから、辞められるより全然いいよ」
スタンドバーで夜働くのは、深夜のコンビニのバイトとあまり変わらない。酔った客に時折絡まれたりもしたが、基本は立ち飲み屋なので皆それほど長居はしない。回転が速く、つまみも凝ったものなどではなく、提携している近くのデリで作られたものを皿に載せるだけで済んだので、昼のテイクアウトランチを作るよりも随分と楽だった。
「北浦、手際いいな。なんかしてた?」
指導してくれる先輩従業員が、感心したように皿に盛りつける北浦の手元を覗きこんで言った。
「僕、パン屋だったんです」
「へえ、パン屋!」
気さくな先輩は驚いたように声を上げた。
「もったいねえなあ、酒作るよりもパン屋に行けばよかったのに」
はは、と北浦は笑って誤魔化した。
今は別の仕事をしている方がよかった。あんなに好きだったのに、なぜか全く心が動かなくなってしまったのだ。
「北浦、いいよ、休憩してきて」
深夜に近くなり、客足が少し途絶えたところで先輩から声を掛けられた。じゃあ、と北浦は黒いギャルソンのエプロンを着けたまま裏に回る。制服は白いシャツにニットタイ、黒い細身のパンツ、くるぶしまであるギャルソンタイプのエプロンだ。休憩スペースに置かれたソファに座り、携帯を取り出した。
昨日、衿久からメッセージが来ていた。もう何度も返せていない。北浦は薄い仕切りの向こうから聞こえてくるざわめきの中で衿久の番号を押した。
すぐに繋がった。
『もしもし、北浦さん?』
その声に、じわっと泣きそうになる。
懐かしかった。
「ま…、町田くん?」
慌てて北浦は何でもないような声を出した。
「ごめんね、なんかバタバタしちゃってさ」
表の方が騒がしくなり、北浦は仕切りの隙間から、そっと表を覗いた。忙しそうだ。出た方がいいだろうか。
『北浦さん、あの…』
衿久の声を聞きながら見回したカウンターの先に目が留まり、あっ、と北浦は声を上げた。
知っている顔がそこにあった。
「ごめん、ちょっと──また掛けるから、ごめんね…!」
何かを言おうとした衿久の声を遮って、北浦は通話を切り、表に飛び出した。
カウンターは満席だった。常連客がほとんど、端には初めて見る客がひとりいる。その後ろから手を伸ばして酒を受け取ろうとしていた男に、北浦は叫んだ。
「一佐…!」
誰もが顔を上げた。
御堂も同じように顔を上げ、北浦を見た。
詰るつもりなどは全くなかった。ただ、なぜなのかと聞きたかっただけだった。
何か事情があるのかと、自分でもよく分からない感情のまま、北浦は御堂に聞いてみたいと思ってしまった。
「あそこでバイトしてんの?」
少し時間をもらって、御堂を人気の少ない路地の奥に連れ出した。先輩は何かあると察したらしく、何も聞かずに頷いてくれた。15分だけな、と言って。
それだけあれば充分だった。
連れ出した路地のネオンのわずかに届く暗がりで、御堂は煙草を取り出して咥え、火をつけた。ふうっと吐いた煙が、北浦の近くまで伸びてくる。顔を顰めたいのを北浦は堪えた。
「そうだよ」
「…ふうーん」
感情を込めない声で御堂が呟いた。
「それで?」
それで?
細めた目が北浦を見下ろしている。御堂は北浦よりも背が高い。見下ろされることには慣れているが、その視線が嘲りの色を含んでいる気がして、北浦の腹の底が沸き立つ。
「なんだよ、それでって…」
どうしてそんなふうに見られなければならない?
苦しめられたのはこちらのほうだ。
「金返せとかって言う? …今さら?」
口の端を持ち上げて笑う。
ざわっと体中の血が逆流した。
「ふッ、ざけんなよ! こっちは、どれだけ大変だったと思ってんだ!おまえのせいで…、全部失くしたんだ!全部、ぜんぶ!」
「ああそう」
「ああそうって…!」
「おまえ、俺のこと好きだろ? だから許してくれんだろ?」
カアッと血が上った。
「──おまえなあッ!」
掴みかかった北浦を鼻でせせら笑って御堂は突っ立ったままだ。着ている自分の上着を強く掴み上げる北浦の顔を、面白そうに眺めている。
「あれだけのことで簡単に手放すんなら、大したことじゃねえんだろ?」
「な…、…!」
「おまえは諦め、早いもんなあ?」
言葉が口から出てこない。
喘ぐように口を震わせる北浦の手を掴み上げて、御堂は北浦を突き飛ばした。
「警察に行かなかった時点でおまえは俺を逃がしたんだよ」
冷たい地面に尻餅をついて見上げる北浦に、御堂は言った。
「過ぎたことは戻らない、だっけ? おまえの口癖」
深く吸い込んで吐いた煙を北浦に浴びせるように御堂はしゃがんだ。同じ目線の高さ、わずかな光を反射して御堂の目が笑っている。
「いいなそれ。万能の言い訳」
これは──これは、誰だろう?
今まで、一体何を見てきたんだろう?
「じゃあな、充。おままごとは結構楽しかった」
ぽん、と肩を叩く手の指に煙草は挟まれたままだった。
灰が落ちて北浦の白いシャツの上に落ちる。
「その制服、似合ってるじゃん」
そそる、とせせら笑いながら囁かれる。
言い返せない。
去っていく御堂を、北浦は振り返らなかった。
過ぎたことは振り返らない。起こってしまったことは戻らない。それはいつのころからか北浦が身につけた癖のようなものだった。決して裕福とは言えなかった子供時代、諦めなければならないことはたくさんあった。なによりも、我儘を言って母親を煩わせることだけはしたくなかった。
諦めの良さを詰られたのはこれが初めてだ。
けれど御堂は、北浦のそんな性格を見抜き、忌み嫌っていたのか。
一体いつから…全然、気がつかなかった。
「大丈夫かな?」
気がつくと傍に人の気配があった。
「結構酷いことを言われていたけど、平気?」
暗がりの中に落ちてきた影に、北浦は顔を上げた。
「平気なわけないでしょ…」
見上げると、どこかで見たことのある男が屈みこむようにして、そこに立っていた。銀色が混じる髪、さっきカウンターの端にいた初めて見る客のようだった。
あれ、と思った。
「そうだよね、さあ立って」
「え…と、お客さん…?」
腕を取られて立たされながら、頭の片隅に引っ掛かるものを感じた。
前に、どこかで見ただろうか?
「頼まれてね。遅いから様子を見に来ただけだよ」
「そ、そうですか、すみません…っ」
立ち上がった北浦のエプロンについた汚れを払われそうになって、慌てて北浦は男を押しとどめた。自分でぱたぱたと服を叩き、土を落とした。黒い服なのでそう目立ちはしないだろう。
「ありがとうございました、じゃあ行きましょう」
お詫びに一杯奢らせてください、と店の方に足を向けて歩き出そうとしたとき、男の手が、すっと肩に伸びてきた。
「北浦くん、待って──付いてる」
え、と振り向くと、男が鎖骨のあたりを指差した。
御堂の煙草の灰がシャツの上に黒く広がっている。
「あ…」
「そのまま、じっとして」
男の指がそっとそれを払った。綺麗に取れずに、薄墨を垂らしたようにかすかな濁りが残る。
「ああ、駄目だったな…」
呟いた男を北浦は見上げた。背が高い。御堂よりも。かなりの年上のようだが、その年齢を正確に言い当てられるかどうかは自信がなかった。
「新しい制服を出してもらおう。おいで」
「え、えっ、え?」
北浦が戸惑っていると、かすかに笑いを浮かべて男は北浦の腕を取り、店の方へと引っ張って行った。
ああ、あの人?と先輩は何でもないように言った。
店に連れて行かれると、男はカウンターの中にいる先輩に、「制服出してあげて、汚れてるから」と言って北浦を中に入れ、それじゃと手を上げて帰って行った。
「あ、ちょっと待って…!」
呼びかけて追いかけたときにはすでに男は大通りまで出てしまっていて、客待ちをしていたタクシーに乗り込み走り去って行った。
北浦は仕方がなしに店に戻り、奥から予備の制服を出してくれた先輩に聞いてみたのだった。
「あの人、ここのオーナーだよ。時々様子見に来てる」
「え…オーナー?」
「会ったことなかったろ?面接とかには基本、出てこねえもんなあ」
確かに、北浦はマネージャーにしか会ったことがなかった。
受け取った制服に着替えながら、北浦は言う。
「じゃあ、チェーン店の、大元?」
「あー違う違う、全く別だよ。ウチのは投資、財産管理の一環」
「投資…」
あまり縁のない言葉だ。
身なりを整えて北浦は表に出た。
深夜を過ぎ、人はあまりいない。
「どっかの金持ちの資産を管理してるとかで、そういう会社の社長なんだと。伸びそうな事業に財産を投資して減らないように管理する、だったかな? よく分かんねえけどそういうやつだよ」
「へえ」
溜まっていたグラスを洗おうとスポンジを手に取った。世の中には自分の知らない世界がたくさんある。
「なんて名前なんですか?」
とくに意味もなく北浦は聞いた。
「ああ、
「奥村さん…」
ふと、手を止めた。
北浦くん、と奥村は名前を呼んでいた。教えただろうか?
それとも…どこかでやはり会っていたんだろうか。
「──あ、そっか…」
オーナーだから。
履歴書でも見たのだろうと、北浦はひとり頷いていた。
それから間もなくして、北浦はまた昼に出てくれないかと打診された。マネージャーが直々に店にまで出向いて来て、書類整理の合間に北浦を呼び出して言った。
「何度も悪いな。掛け持ちしてるんだっけ、他のは大丈夫か?」
「ええまあ…聞いてみないとなんとも…、でも多分大丈夫です」
「そう? じゃあ頼む。都合が悪ければ連絡して」
はい、と言って北浦は仕事に戻った。
カウンターの中で先輩が何だった? と目で問いかけてくる。それに、北浦は困ったように笑った。
「なんか、また昼に回って欲しいそうです」
「はあ、またか?」
少し呆れたように先輩は言った。
「まあおまえ器用だもんなあ。弁当作る方が向いてっかも」
「はは」
そういうものだろうか。人手が足りないといって回されたのに、もういいのだろうか。そう思いつつ入って来た客に、いらっしゃいませ、と北浦は声を掛けた。
北浦から話を聞いたコンビニのオーナーは、今回はあまりいい顔をしなかった。それはそうだろうと北浦も思う。何度もシフトをころころと変えられては、他のバイトにも迷惑がかかる。それに、夜の時間帯に新しいバイトが入ったばかりで、北浦を入れられる余裕はなさそうだった。
「悪いね北浦君」
申し訳なさそうに言うオーナーに礼を言って、北浦はコンビニのバイトを辞めた。時給で言えばスタンドバーの方が高かったので、優先するのはそちらのほうかと、諦めて別のバイトを探すことにした。
夕暮れの駅前、人の流れの中をとぼとぼと歩いて家に向かう。
時間が空いてしまうのが怖い。
ぽっかりと空いた隙間に何かが入り込んで来るような気がする。
家に帰りつき、倒れ込むようにベッドに横になった。
何も考えたくない。
手の中の携帯を弄ろうとして、衿久からのメッセージに気づく。
『元気ですか』
たったそれだけの言葉に心が震える。
しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、ぎゅっと目を閉じてアプリを落とした。ネットを検索し、求人情報を探し始めた。
見つかったバイトは早朝6時から11時までの花屋のバイトだった。駅前のビルの中に入る店舗で、ターゲットは駅を利用する若い世代から、中年層まで。気楽にワンコインで買えるような価格設定で、小さなブーケを作っては店頭に並べるというものだ。
場所的にもスタンドバーに近く、終わってすぐに走って行ける距離だ。夜がぽっかりと空いてしまうのが気になったが、とりあえずその店舗の面接を受け、男性が来るのは珍しかったのか、その場で採用となった。
「北浦くんみたいな若い男の子がいると、なんか新鮮だねー」
研修指導の30代の先輩が、しみじみと言ってくれるのを聞きながら、北浦は手を動かして小さなブーケを作り上げた。黄色と紫のビビッドな色使いで、ぱっと人の目を引く、美しい花束だ。
「わ、上手!北浦くん器用なんだね!」
他のバイトも寄ってきて覗き込み、すごいすごいと褒めてくれた。なんて返したらいいのかもわからず、ただ笑って北浦はやり過ごした。
3週間ほどなんの変化もなく、穏やかに時間は過ぎた。時々奥村が顔を出しランチを買って行った。2月になり、とても寒い日が続く。
花屋のバイトにも慣れ、配達も任されるようになった。
「北浦くーん、ガレットさんに配達お願いしまーす」
「はい」
水切りをしていた手を止めて、北浦は立ち上がった。手を拭いて伝票を受け取る。ガレットとは、ショッピングモールの近くの大通り沿いに最近出来た、カフェベーカリーだ。店内を多くの植物で飾り、何かと話題になっている。
「あと、表の鉢を変えたいんだって」
大きなオリーブの鉢植えを指差され、分かりましたと北浦は頷いた。配達用の車の荷台に、台車から鉢を抱えて運び込む。持ち上げた瞬間、ピリッと指先に痛みが走って、ひやりとした。鉢をそっと荷台に乗せ、動かないように固定して他の荷物も積みこんだ。終わってからようやく指先を確認すると、右手の人差し指にあかぎれが出来ていた。まっすぐ横に血が滲んでいる。手は水仕事で荒れていた。だがよかった。冷たい指先にはあ、と息を吹きかける。
「じゃあ行ってきます」
「うん、気をつけてね」
事務所の引き出しから絆創膏を取り出し、さっと指に巻いて、北浦は配達に出た。
「おはようございまーす、モスリです、確認お願いします」
ガレットに着き、開店準備中の店内に声を掛けると、中から見知った顔が出迎えてくれる。ガレットの店長だ。少し年が上の、ショートカットがよく似合う綺麗な女性だった。
「おはよう、ごくろうさま」
伝票を差し出すと、あれ、と店長が言った。
「手、どうかした?」
「あ──あかぎれです」
「そっか、水仕事だもんね」
奥からパンの焼けるいい匂いがする。ベーカリーはガラス張りのオープンキッチンになっていて、客席からよく見えた。口にするものを手作りする工程が見て楽しめるようになっている。
「北浦くん、ちょっと覗いていく?」
「え?」
流れる作業に見惚れてしまって慌てて振り向くと、優し気な目が北浦を見つめていた。自分の事情を、花屋の誰にも話したことなどはない。ましてやこの店長が知るはずもなかった。
「興味ありそうだったから。好き?パン作るの」
「……」
好きだと思う。
ひとつのものを一から作り上げる、あの作業。
きっととても好きだ。
でも、なぜか言葉は口から出てこなかった。
「鉢、運びますね」
誤魔化すように笑って、北浦は彼女のそばをすり抜け、表の車に走った。
その夜、ALTOの店舗の大家から連絡があった。
あの店を借りたいという人が現れたというものだった。
『それで、あのガラスの扉なんだけどね、あれはどうする?』
「どうするって、何ですか?」
『不動屋さんも言ってたけど、あれ特注品じゃないの?』
「そうですけど、でも…」
『高かったんだろう?』
「はあ」
だからといって、どうしろと言うのだ。
今さら取りに来いとでも?
置き場所も使い道ももうないのに。
『大事にしてたみたいだから、気になってね。店舗の改装は来週からだから、それまでに取りに来れるようなら来なさいね、その後は少しの間ならウチで預かっておくから』
いいときに取りにおいで、と言われ、北浦は返す言葉に詰まる。
「…はい、ありがとうございます」
『北浦さん、なあ…大丈夫かい?』
気遣う言葉に、かすかに胸の奥がざわめいた。
「大丈夫です。ちゃんとやれてますから」
それだけ返すと電話を切り、電源を落とした。
奥村がスタンドバーの昼の時間帯に姿を見せたのは、それから1週間ほど後のことだった。
「やあ北浦くん」
「あ──、オーナー…」
「いい加減名前で呼んでよ」
にこっと奥村は笑って、今日のメニューを聞いた。鶏のトマト煮込みだと言うと、美味しそうだとランチをふたつ買った。いつもひとつだったのに珍しい。誰かと昼食を取るのだろうかと思っていると、ちょっといい?と呼び寄せられる。
「矢島さん、北浦くん借りるね」
ぐいっと手を引かれ、ぎょっとする。矢島とは昼の責任者で、いわば店長のようなものだ。子供がふたりいて大らかな性格の矢島が、こちらを振り向いた。
「はあーいどうぞー」
「え、ちょ、待って仕事が」
「いいからいいから」
「いやでもっ」
強引に外に引っ張り出される。昼時に抜けるのはいくらなんでもマズ過ぎる。
「オーナーは私だよ」
店長の矢島を振り返ると、矢島はにこにこと手を振って、並んでいる客の対応に戻って行った。
連れて行かれた先はオフィス街の中にある小さな公園だった。木々に囲まれた芝生の公園内のあちこちにベンチが置いてある。中央には小さな噴水があり、止まったままの水に枯れた木の葉がたくさん浮いていた。
「ああ、まだ外で食べるのは早かったかなあ」
ベンチに北浦を座らせながら、奥村が言う。まだ2月、確かに晴れて天気はいいが風は冷たい。見渡せば、公園内に人は少なかった。上着を着ていてよかったと北浦は思った。オープンスペースでのテイクアウトランチ販売なので、ほとんど外にいるのと同じなため、いつもエプロンの上から薄いダウンジャケットを羽織っている。
「北浦くん、飲み物何にする? お茶?」
「あ、えと、自分で──」
「いいからいいから、私がオーナーだし、買って来るよ。お茶? お茶だね?」
オーナーって関係ない…
妙な迫力にこくこくと頷くと、さっとコートを翻して奥村は公園の隅にある自販機まで足早に行ってしまった。
なんなんだ…
変な展開に深く息を吐いていると、奥村が戻ってきた。足が長いので歩くのも早そうだ。三つ揃いのスーツ、黒いロングコートが優雅にたなびいている。
「はいお待たせ、じゃあ食べようか」
「え、は、はい…」
渡されたペットボトルのお茶は熱いほどだった。ぎこちなく北浦は頷いた。
奥村と並んでベンチに座り、ランチボックスを開ける。まだ温かく、ふわっと湯気が上がった。
「美味しそうだ。ね?」
「はい」
プラスチックのフォークを取り、煮込んだ鶏肉に突き刺すと、それだけでほろりと崩れた。奥村が口に運ぶのを待ってから、北浦も食べる。美味しい。甘い酸味が口いっぱいに広がって、美味しい、と北浦は思った。
美味しい。
温かい味がする。
「美味いね」
「はい」
柔らかな肉が口の中でほどけていく。煮込みの下に敷いた雑穀米は土鍋で炊いている。もちもちしていて、噛むほどに甘く、食事が進んだ。
「矢島さんは元々パティスリーで働いていた人でね」
奥村が綺麗な指使いで食べながら話し始めた。
「若くして主任に抜擢されたところで子供が出来て、辞めざるをえなくなった。すぐに復帰するつもりだったらしいけれど、二人目もあっという間に出来て…仕方がなかったんだそうだ」
「そうですか…」
いつも快活に働いている矢島は明るくて面倒見がよく、北浦によくしてくれる。顔を思い出しながら北浦は口に運んだ。
「子供が少し大きくなってから、ある日突然一念発起して弁当屋を始めた。何かを作りたくてたまらなくなったんだそうだよ。それがちょうど、私の会社の近くでね」
「それで、オー…奥村さんが…?」
「うん。美味しすぎてすぐに声を掛けた」
フォークで掬ってランチボックスの中のものを口に運ぶ。奥村もそこで言葉を切ったまま、黙々と食事に集中している。会話がなく、沈黙が降りてくる。空の高いところで知らない鳥が鳴いていた。
「北浦くん」
呼びかけられ、北浦は奥村を見た。
「ちゃんと食べてるかい?」
「え…?」
奥村はまっすぐに前を見ていた。
「店を手放すのはとても辛かっただろう?」
ゆっくりと奥村がこちらを向いた。
目が合って──北浦は目を見開いた。
店を、どうして、そのことを。
「ALTOはきみの店だね?」
ドクッと心臓が跳ねた。
その名前が胸に突き刺さる。
「どうして…」
履歴書にはあえて書かなかった。面倒だったから。誰かに話しただろうか? 夜のシフトのとき、先輩にパン屋だったとは言った覚えがあるが、経営していたとは一言も──
「どうして、知ってるんですか?」
奥村は微笑んだ。
「私の主人が、きみの作るものが大好きなんだ」
主人?
主人って…
「奥村さんは…社長、ですよね…?」
「そう、ある人の財産を管理してる」
「その人が、主人?」
「うん。きみも会ったことがあるよ」
そんな人に会ったことがあっただろうか。自分の店にそんな人が来ていたとは思えない。
「南人さんはきみがいなくなって、すごく残念だと言っていたよ」
「…みなとさん?」
その名前を知っている。
南人──衿久の友人。
「えッ、南人さん⁉」
がた、と立ち上がりかけて、膝の上にランチボックスが置いてあるのを思い出して押しとどまった。
にこっと奥村が笑う。
「うん。彼が私の主人なんだよ」
「そ…」
そんなことがあるのだろうか。
奥村が主人だと言うのなら、てっきりかなりの高齢の人だと思い描いてしまった。
南人。あの冷たく整った容貌の、けれど笑うと胸が温かくなる彼を思い出す。思えば食事を届けに行った2日目のあの日から、彼とは当然会っていなかった。
「そう、ですか…。南人さん、すごい人だったんだ」
衿久はそれを知っているんだろうか。
「いや、彼は何も──金のことなどに興味はないよ」
「え?」
「彼の義父がそういう人だったんだ」
可笑しそうに奥村は言って、食べてしまったランチボックスを閉じた。
「私の父がその人に仕えていて、自然と…私もそうなったというわけだ」
時間で動くようになっていたのか、止まっていた噴水の水が小さく流れ出した。
鳩に餌をやる人がその向こうを歩いて行く。
「もう戻らないの?」
奥村は北浦を覗き込むように見つめていた。
北浦が返答に詰まっていると、膝の上に置いた手を、そっと取られる。
「こんなに荒れて、痛いだろうに」
暖かな手が冷えた指先を温めていく。
北浦の指のほとんどに巻かれた絆創膏は、花屋のバイトで出来たあかぎれが主だった。ランチ販売のときは衛生上色付きの手袋をずっとしているので、誰も気がつく者はいなかったのに。
「へ、平気」
目の奥が熱くなって慌てて、はは、と声を上げた。
「体質かな、すぐ荒れちゃうんですよね」
「笑わないで」
へらっと笑って誤魔化すと、奥村が真剣な目をして少し強い声でそう言った。
びくっと揺れた北浦の肩を見て、両手を奥村の大きな手が癒すように包んだ。
「自分のことをそんなふうに苛めるんじゃない」
ぽたぽたっと涙が奥村の手に落ちた。
笑おうとして、顔が歪む。笑えない。取り繕えない。もう誤魔化せない。
どうして、どうして──
「諦めたふりが下手だね」
「──」
もう駄目だ。
忘れたかったのに。諦めたかったのに。
あとからあとから溢れ出してくる。
苦しい気持ちが声になって飛び出していく。
「ア…──」
寂しい、寂しくて苦しい。
戻りたい、戻りたい、戻りたい。
泣き声を上げる。
恥もなく、上げ続けた。
そっと抱き締められる。
「我慢するのはもういい」
子供のように縋りつくと、肩口に顔を埋めた奥村がそう言った。
その後、泣きすぎた目が腫れてしまって、バイトには戻れなくなった。奥村が矢島に連絡を入れそのまま帰ると了承を得ると、奥村は北浦を車に乗せて少し気晴らしでもしようと、車を走らせた。
忙しいのではないのか、と聞くと、奥村はかすかに笑って仕事は少し落ち着いたから大丈夫だと言った。
「色々ひと段落ついたところでね」
「いろいろ?」
「役目がひとつ終わった感じかな」
運転する奥村の横顔を見る。相変わらず、年齢の読めない人だ。
四〇代とも五〇代とも、それ以上とも、見る人によって変わる。
その目元に、うっすらと疲れの影が落ちている気がした。
淋しそうだ。
「なに?」
「いえ…」
北浦の視線に気がついて、奥村がこちらを見た。慌てて逸らすと、おかしそうに奥村が笑った。
やがて車の向かう先が見覚えのある景色になっているのに北浦は気がついた。知っている道。
通い慣れた風景。
「奥村さん」
「まあいいから」
身を乗り出し、声を上げた北浦に奥村は宥めるように言った。
「大丈夫だよ」
見慣れた場所に車は辿り着いた。
路肩に停車して、奥村が先に降りる。
「おいで」
助手席で固まって動けない北浦に手を差し伸べて、奥村は言った。
促され、その場所を見ないようにして、北浦は奥村の手を取った。
「北浦くん、見てごらん」
車から降りても俯いて顔を上げない北浦に、奥村は囁いた。
首を振る。
「いやだ、帰りたい…っ」
見なくても分かる。
改装中の工事の音が聞こえてくる。
ここは自分がいた場所だ。でも今はもう違う。他の誰かのために作り替えられている途中だ。そんなものを見たくはなかった。
「あれはきみのものだろう?」
何のことだ。
「一緒に持って帰ろう?」
「…え?」
ほら、と言われおそるおそる視線を上げると、そこはALTOの入り口だった。かつての入口はぽっかりと口を開け、中で改修工事をする人たちがよく見える。
その入口の脇に、丁寧に幾重にも梱包材で巻かれた大きな長方形のものが立てかけてあった。
「あ──」
あれは。
北浦は目を見開いた。
「あれ…」
「きみの大事なものだ」
奥村を呼ぶ声がした。
「ああどうも」
作業場の奥から出て来たのは大家だった。
「どうも奥村さん! お待ちしてました」
「遅くなりまして」
交わされる挨拶に北浦は唖然とする。このふたりは知り合いだったのか? お待ちしてたって何?
奥村の横に立っている北浦に、ほっとしたような顔を大家は向けた。
「北浦さんも元気だったかい? よかったよ、来てくれたんだねえ」
「え…?」
来てくれた?
そこまできて、はっと北浦は思い出した。
そういえば電話をもらっていたのだった。
「じゃあ後で声を掛けますので」
「はい、じゃあ、よろしく」
ふと、もしかして、と思う。
大家が会釈をして奥に戻った後、北浦は聞いた。
「奥村さんが、ここを借りるの?」
ぷっ、と奥村が噴き出した。
「違うよ。私はきみを連れて来ると連絡しただけ。そうしたいのは山々だけど、それだとつまらないだろう」
つまらない?
首を傾げていると、奥村が北浦の手を取って、入り口に導いた。
「南人さんに話を聞いてここに来てみたときには、もうきみはいなかった。でも、どうしても会ってみたくて捜してたんだ」
「僕を?」
「うん。それで、うちの店にいるって分かって顔を見に行ったのが、あの最初の日」
御堂が店に来た日だ。
だから──名前を知っていたのか。
「僕が昼のシフトに戻ったのって、奥村さんの指示ですか?」
奥村は笑って、綺麗に包まれたそれを指先で撫でた。
それは店のガラス扉だ。
これだけはと、御堂の反対を押し切ってオーダーした、特注の美しいガラスの扉。
ALTOと名前が刻まれている。自分の場所の証。
「きみの手は何かを作り出す手だよ。花屋も似合ってるけれど、きみはそこにいては駄目だ」
息が止まる。
奥村の目はまっすぐに北浦を見ていた。真剣に、冗談で言っているのではないと分かる。
「でも、僕は、働かないと」
少しでも多く働いて、自分の不注意で失くしてしまった母の残してくれた財産を、わずかでも取り戻したかった。
「働いて、…──」
どう言えば伝わるだろう。
上手く言えずに言い淀むと、柔らかな笑みを浮かべて奥村が言った。
「じゃあ、花屋を辞めてうちにおいで」
「…え?」
「手が治るまででいいから、来てくれないかな」
「うちって──」
「うちだよ」
言っている意味が分からずにぽかんとしていると、困ったように奥村が喉の奥で笑う。
「雇っても雇っても秘書が辞めて困っているんだ」
秘書?
僕がこの人の秘書?
「僕には何も出来ませんけど」
「出来なくてもいい」
「だって、それじゃ意味がない」
「意味ならあるよ」
言い切られるようにして北浦は息を呑んだ。
扉に触れたまま、奥村がそっと言った。
「きみを助けたい」
「──」
「ろくに食事も取っていない。あまり眠れていないね? 随分…痩せただろう? 顔色が悪い」
言われて、北浦は言葉に詰まった。
「この扉は私が大事に預かっておくから、うちで働いて、体を休めて、それで私にきみを手伝わせて欲しいんだ。またきみの店を出そう。援助は惜しまないと約束するよ」
「…なんで」
ひゅっと吸い込んだ息が音を立てた。
ふと思い、聞いてみる。
「南人さんが…?」
彼が好きだと言ったから、気に入ってくれているから、助けてくれるのだろうか。
奥村は困ったように笑った。
「違うよ。まあそれもなくはないけど、彼はこのことは知らないんだ。私がそうしたいからしてるんだよ」
「……っ」
甘えてはいけないと思うのに、ぐらりと心が傾いていく。
緩んでいた涙腺がまた熱くなる。
北浦の頭をそっと撫で、奥村は微笑んだ。
「私もきみが作ったものが食べてみたい。一番に。…それじゃ駄目か?」
心臓が音を立てて軋んだ。
返事の代わりにコートの端を掴むと、その手を上から包み込まれてぎゅっと強く握りしめられた。傷だらけの手に、奥村の温もりが染みるように伝わってきた。
冬が終わり、春になった。
社長室の扉をノックして返事が聞こえると、北浦は失礼しますと言って中に入った。
「奥村さん、おはようございます。承諾書取って来ました」
「おはよう」
開け放した窓から柔らかな風が入ってくる。窓を背にして座る奥村が、執務机から顔を上げて北浦に笑った。
「ありがとう。そこに置いてくれるかな」
「はい」
机の端にあるトレイの中に収めていると、奥村がじっとこちらを見ていることに気がついた。
「えと…なんですか?」
「楽しそうだね」
何かあった? と聞かれ、北浦は頬を押さえた。そんなに顔に出ていただろうか。
「良いこと?教えてくれないのか?」
手を止めた奥村に見つめられ、照れたように北浦は笑った。
「さっき、町田くんから連絡があったんです。町田くんのお母さんが、こないだのイベントで僕の作ったの、偶然買ってくれてたみたいで」
先日、町の商店街で催された30周年記念のイベントで、新装開店するパン屋があり、そこに奥村のツテで小さなブースを設けてもらい、北浦はサンドイッチを作って販売した。そのとき衿久の母が買いに来ていたのだという。母親の買って帰ったものを食べて北浦のだと気づいた衿久から、今朝久しぶりに電話があったのだ。
奥村は目を瞠った。
「へえ、気づいたのか」
「はい」
店の名前など出していなかったのに、気づいてくれた。
感心したように言う奥村に答えて、あ、と北浦は言った。
「ん?」
「あの…、正確には、南人さんが真っ先に気がついたらしくって」
『南人が、これ絶対北浦さんのだって言ったんだ』
電話の向こうで嬉しそうに話す衿久の声。
ふたりは一緒にいるのだ。きっと、衿久の家族の中に南人もいる。
冬の夜に裸足で衿久を捜していた姿を思い出す。
もうあんなことはない。
これからも衿久が傍にいるんだろう。
胸の奥がふわっと温かくなった。
いいなあ。
「そう、…南人さんが」
南人のことを話すとき、奥村は少しだけ寂しそうな顔をする。
奥村の仕事中、執務机の上にはいつも何かのお守りのように、古い鍵が置いてある。それが南人の家の鍵だと最近北浦は知った。
時々手の中で弄っている。
もしかしたら彼のことを好きだったのかもしれないと思うことがある。かなり歳は離れているが、そういうこともないとは言えない。
奥村の跡を、いずれ衿久が継ぐことを、このとき北浦はまだ知らされていなかった。自分が奥村のところにいることもまだ誰にも話していない。
互いが知るのはもう少し先の話だった。
「よかったね、
「はい」
いつの間にか奥村は北浦のことを名前で呼ぶようになった。
なぜか社長と呼ぶと嫌がる。他の社員は呼んでいるのに。名前でいいとしつこく言われて、相変わらず北浦は奥村のことを「奥村さん」と呼んでいる。下の名前で呼んでと言われたときにはさすがにかなり抵抗したので、あれ以来言われたことがない。
掴みどころのない人だ。
「充、お昼にしよう」
「え、まだ早いですよ?」
言われて腕時計を確認すれば、まだ11時前だった。
「まだ11時前…」
「いいから、さあ座って」
「仕事…っ」
「社長だから」
立ち上がった奥村にソファに無理やり引っ張っていかれ座らせられた。奥村も隣に座り、北浦が手に持っていたトートバッグを取り上げる。いそいそと中身を取り出す奥村は楽しそうだ。
「今日は何?」
「今日は鶏ハムと胡瓜とチーズ、焼いたアスパラです」
「美味しそうだ」
さっとまた立ち上がって、部屋の隅の給湯器で奥村は紅茶を淹れだした。
彼の秘書になったころ、北浦がお茶を淹れようとしたら火傷したらどうすると言われ触ることを禁じられた。来客時もそうなので、それこそ秘書の仕事だと言う北浦と押し問答となり、結果北浦が根負けした。以来、お茶淹れは奥村の仕事になっている。
あまり秘書がいる意味がない。意味はないが、奥村が楽しそうならそれでいいかと北浦はほとんど諦めている。
彼にとって秘書とは何だろう?
数々の歴代の秘書たちが皆、1週間と立たずに辞めていったのは、これが原因ではなかろうか。
まあそれより──
「奥村さん、また若くなってませんか?」
「そうかな」
絶対そうだ。
不思議なことに、なぜか奥村は少しずつ──気がつけば若返っている気がする。
「充の作るものが美味しいからだろう」
「いや、それは違う…」
昼は北浦が手作りしたものをふたりで食べるのが日課になっていた。雇われた初日、少しでも恩を返したくて奥村に作って持って来たら、あまりにも喜んでくれたので、それからずっと続けている。今では朝も夜も一緒に食べることも少なくはない。
奥村の自宅は意外にも北浦のアパートと近いところにあった。
今日も夜は一緒に食べることになっている。
「絶対若くなってる」
小さく呟くと、振り向いた奥村と目が合った。
にこっと奥村は笑う。
「それは私が魔術師の子供だから」
「またそれ?」
いつもの台詞に北浦は笑った。
そんなわけはないのに、奥村が言うと本当のように聞こえる。いつか信じてしまいそうだった。
「じゃあ魔法を使えるんですか?」
「もちろん」
おかしくて笑うと、奥村も笑った。
淹れた紅茶を持って奥村が戻ってくる。ソファに座り、北浦の分をそっとテーブルの上に置いた。
ふたりで手を合わせて、早い昼食を取る。
暖かな風が窓から入り、北浦の髪を撫でた。
こうしていることのすべてがまるで魔法のようだと思う。
諦めることはもうやめた。
きっといつか、思うようになれるだろう。それはしがみつき、離さない自分にしか出来ないことだ。
夢の波間を漂うように、辿り着く。夢の
必ず。
「ああ、今日も美味いね」
北浦は笑った。
何も言わなくても思いが伝わったかのように、奥村がそっと、傷の消えた北浦の手を握りしめた。
夢の随に 宇土為 名 @utonamey
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