第14話 セリーニの夢

 セリーニは目を開けた。目の前ではイリオが大口を開けて熟睡している。どうやらイリオの大きないびきのせいで目が覚めてしまったようだ。体を捻って窓を見ると、空が白んできているのが分かる。自分の上に放り出されたイリオの腕を退かすと、セリーニは上体を起こして伸びをした。もう少しだけ寝てしまおうか、それともイリオのことを見ていようか。彼の寝顔を見下ろしながらしばらく考えた。イリオはぐっすり眠っている。いつもみたいにオプロに行って、割のいい仕事を見つけてくるみたいな、そんな日常と勘違いしそうなほどだった。

 2人用のベッドから滑り落ちるようにして、セリーニは静かに寝室から出た。薄暗いリビング。椅子の背に引っかけたジャケット。テーブルの上には昨夜の夕食の残り物。少しだけ冷えた朝の空気。彼女はいつもみたいにキッチンに行って、昨日買ったばかりの卵を手に取った。サンドイッチでも作った方がいいのだろうか?長旅をしたことのない彼女にはよく分からなかった。ひとまず朝食を作ろう、と思ってセリーニはパンを2枚分切った。それからコンロのつまみを捻ってガスを出す。マッチ箱から一本マッチを取り出して火をつけ、そのままコンロに近づけた。コンロに火が移ったことを確認してから上に鉄のフライパンを置いた。フライパンが軽く温まってから、卵を割り入れる。2つ入れた卵の内、片方だけがベチャ、と潰れた。


「ふわぁー」


 大きな欠伸がキッチンまで聞こえた。床板を軋ませながら、イリオが寝室から出てくるのが分かる。


「おはよ」


 セリーニがそう言うと、イリオは欠伸とも声とも分からないような口ぶりで「おはよう」と言った。いつも1つに結われているイリオの髪は、朝と夜だけはほったらかしにされている。どんな寝方をすればそんな風になるのか分からないが、後ろ側の髪の毛が重力に逆らって立ち上がっていた。まさかそのまま行くわけじゃないでしょうね、とセリーニは思った。朝の挨拶を果たしたイリオはふらふらとリビングに戻り、椅子に腰かけた。

 セリーニは蛇口を捻って水を出すと、薬缶に水をいれてコンロ置いた。フライパンの上では、さっきまで透明だった卵の白身がすっかり白く濁っている。手早く皿を2枚取ると、フライ返しで目玉焼きを皿に移した。それからベーコンを分厚く切り、フライパンに乗せる。ベーコンがジュウッと音を立てた。肉が焼ける、香ばしい匂い。ベーコンの油がパチパチ跳ねる。そのうち薬缶が鳴り出したので、薬缶を置いてある方のコンロの火を止めた。泣きわめくように鳴っていた薬缶は徐々に静かになって、ぐずるような音を最後に出した。


「イリオ、お茶!」


 キッチンからそう叫ぶと、イリオはまるで冬眠から覚めたばかりの熊のようにのそのそとした動きでキッチンにやってきてティーポットを取っていった。リビングの棚に置いている陶器の茶葉入れを取り、そこから茶葉を掬ってティーポットに入れている。目が半分も開いていないので、何か失敗をやらかすんじゃないかと冷や冷やする。イリオは茶葉をティーポットに入れ終わると再びキッチンにやってきて、今度は湯気を吹く薬缶を持って行った。今にも倒れて眠ってしまいそうな彼の姿を見ていると、魔物をなぎ倒している普段の男とは全く別人のようだった。そのギャップにもすっかり慣れてしまったが。


 それから2人はダイニングテーブルについた。パンとベーコン、それから目玉焼き。昨日の夕飯に作ったジャガイモと豚肉の炒め物。炒め物はコンロで温め直すのが面倒だったので、イリオの炎の魔力で温めてもらった。魔力を強めすぎて少し焦げてしまったが、テーブルクロスに引火しなかっただけ上等だ。


「そういえばイリオ、荷物はまとめてあるの?」


 ベーコンを頬張りながら聞いた。


「いや、何にも?」


 イリオはもうパンもベーコンも目玉焼きも食べつくし、ジャガイモと豚肉の炒め物に手を付けようとしている。


「何にもってアンタねぇ・・・忘れ物でもしたらどうする訳?」

「まぁ、最悪剣さえあればどうにでもなるからなぁ」

「何があるか分かんないでしょうが」

「大丈夫!今までだってどうにかなってたし!」


 ああ、自分は何でこんな馬鹿と結婚したんだっけ?とセリーニは少し後悔したが、今日ばかりはそんなことを考えるべきではないと思い直した。


「砥石、油、汚れをふき取るクロス、それから着替えと替えの靴紐。ナイフ数本と持ち運び用の調味料・・・」

「わ、分かった!分かったって!食い終わったら荷造りするって」

「本当に着いて行かなくて大丈夫か?」

「あのなぁ、妊婦を連れまわすほど外道じゃないっての」

「妊婦を1人置いていく程度には外道だけどね」

「・・・」


 イリオは黙ってしまった。別に彼が悪い訳ではないのに、何でこんな嫌味な言い方をしてしまったのだろうな、とセリーニは少し後悔した。それに、神告庁の神託である以上イリオに拒否権は無い。もし彼の寿命があと数日後だったとしても、神告庁に指示されればその指示に従わなければならない。それがこの国のルールだった。国王と神告庁は絶対だ。

 朝食の時間はたわいもない会話をして終わった。それも、地に足のつかないような中身の無い会話だった。刻一刻と迫る別れの時間を意識しないようにすればするほど、有益な会話が出来なくなってしまった。そうして正午を回った。

 さっきまで寝起きの熊のような動きだったイリオも、すっかり目を覚まして手早く荷物をまとめている。彼は必要最低限の物しか持ち歩かない主義なので、今回も小さめのリュックを1つしか持って行かないようだ。それから愛用の剣。部屋の中で剣を抜き不具合が無いかチェックしていたが、すぐに鞘に納めたところを見ると問題は無いらしい。とはいえ、剣をチェックするのはもう3度目だったが。セリーニもそれに気が付いていたが、何も言わなかった。イリオが5度目のチェックを行おうと剣に手をかけたとき、家の扉を誰かが強くノックした。セリーニは手に取ったカップを見下ろしたまま動かなかった。イリオも剣に手をかけたまま固まっている。


「イリオ!」


 少し低い女性の声。


「準備できたか?そろそろ向かうぞ!」


 イリオはまだ立ち尽くしている。セリーニはちらりと彼の方を見やってから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。玄関に向かって行き、扉を開ける。そこには赤いショートヘアの女性が立っていた。セリーニより一回り背が高く、筋肉も引き締まっている。すっかり外に出られなくなってしまった自分とは正反対だな、とセリーニは思った。リリィの後ろには空色の髪を肩まで伸ばした女性も立っていた。


「リリィ。久しぶり」

「ああ、セリーニ。居たのか。イリオを呼んでくれ」赤髪の女が言う。

「・・・イリオ!」


 呼ばれるよりも早く、イリオはリュックを背負っていた。それから彼は家の中を見渡して、ゆっくり玄関にやってきた。ぽん、とセリーニの頭を撫でる。


「じゃあ、行ってくるよ」

「・・・気を付けて」

「帰ってきたら俺もパパだな。――アクティノをよろしく」

「ああ」


 イリオはじっとセリーニの瞳を見つめた。リリィは苛立たし気に、指で自分の二の腕をトントンと叩いている。名残惜し気に緑の瞳を見つめていたイリオの背中を、バンとセリーニが叩くと彼はやっと苦笑しながら家を出た。リリィとは別の女性は礼儀正しく一礼すると、イリオとリリィに続いてこの家に背を向けた。3人の後姿が遠ざかっていく。イリオが途中で振り返って、此方に手を振ったのが見えた。


◆◆◆


 それから数年後。セリーニは再びキッチンに立っていた。窓の外では雪が降っている。昼だというのに部屋全体が薄暗い。暖炉の中では炎が揺れている。薪が弾けて火の粉が舞った。湯気の立つ片手鍋からはミルクの甘い匂いが漂ってくる。温まったミルクをコップに注いで、トレイに乗せた。トレイを持ったままリビングに入ると、暖炉の一番近くの椅子にイリオが座っていた。その膝に乗っているアクティノは、絵本を読んでいる。何の絵本を読んでいるんだろう。


「ありがとう」


 セリーニがミルクの入ったコップをテーブルに置くと、イリオはそう言った。真似をするように、アクティノも「ありがと!」と大声を出した。我が娘ながら何て可愛らしいのか。セリーニはアクティノの頭を撫でた。アクティノは嬉しそうに笑ったが、思い出したようにそっぽを向いた。最近、子供扱いされることが不服らしい。「自立心が育っている証拠だ」とイリオは言うが、ついこの間まで隣にいないとすぐに泣いていたというのに何だか寂しくなってしまう。手がかかるとうんざりするが、手が離れると寂しくなる。子育てというのは不思議なものだな、とセリーニは思った。


「アクティノ、はちみつは?」とセリーニ。

「いらない!」

「いらないの?いつも入れてたじゃん」

「アクティノはね、もうおねえさんだから」


 別に好きな物まで我慢しなくてもいいのにと思うが、可愛らしいので放っておくことにした。3人はホットミルクを飲み干すと、一緒に歯を磨いた。アクティノは歯磨きも着替えも全部自分でやりたがった。そのくせうまく行かずに癇癪を起こしていたが、イリオが上手くあしらっていた。それから、2人用の少し手狭なベットに川の字になって寝た。暖炉の炎は既に消したので家の中は酷く冷えたが、3人で寝ているとお互いの体温で寒さを感じない。昔から寝つきの良かったイリオはすぐにいびきをかき始めたし、眠気を我慢していたアクティノもベッドに入るなり眠りについた。その幼い寝顔を見ていたセリーニは、ふと何かを思い出しそうになった。何かを考えていた気がする。だが、突然部屋の中が冷えた気がしてぶるりと身震いをすると掛け布団を深くかぶった。そしてそのまま眠りについた。


 翌朝、何か違和感を覚えて目が覚めた。隣にイリオが居ない。朝は大体セリーニの方が早く起きるので、イリオが彼女より先に起きているのは珍しかった。セリーニはベッドから降りた。どこか遠くから泣き声が聞こえた気がして振り向いたが、そこにはシーツに皺が入りもぬけの殻となったベッドしか無い。寝室から出てリビングに行ったが、リビングは静まり返っていた。窓から朝日が注ぎ込んでいる。暖炉の中には黒く焦げた薪が残っていた。キィキィと軋む音を立てて、玄関のドアが少しだけ開いていた。外から冷たい空気が入り込んでいる。

 何故かは分からないが、嫌な予感がした。セリーニは恐る恐るドアに近づいて、ドアノブに手をかけた。ゆっくりと外を覗くと、ずっと先まで続く草原の中にイリオが立っていた。彼の隣には、リリィが居た。2人はじっとお互いの瞳を見つめ合っている。


「・・・イリオ?」


 驚くほどか細い声しか出なかったが、イリオはこちらに振り向いた。


「なに、やってんだ?」

「あぁ、セリーニ」


 イリオがうんざりした表情を浮かべたのが、セリーニの位置からでも分かった。


「悪い、俺行くわ」

「行くって・・・?」

「リリィと一緒に旅に出ることにした」

「えっ?」


 魔王はもう倒したんでしょ?そう言うよりも早く「彼は嘘つきですよ」と横から声がした。驚いて左側に振り向くと、そこにはレオが立っていた。


「彼は嘘つきです。魔王なんて倒していません」

「どういうこと?」


 セリーニはイリオを見た。


「魔王を倒す?命を懸けてまでそんなことしたくない」

「私たちを騙してたってこと?だって――」


 だって、何だっけ?セリーニは頭の中に靄がかかったように感じた。どこかで「セリーニ」と呼ぶ声がした。イリオの声でもレオの声でも無かった。一体誰だろう、家の中にも誰もいないのに。


「イリオ、いつ帰ってくるんだ」

「それは――」

「私は、いつまで待ってればいいんだ」


 また、どこかで泣き声がした。幼い子供の泣き声だ。とても聞き覚えのある声。一体誰だろう?とセリーニは考えた。忘れてはいけない、大事な事がある気がする。突然、体中を氷のような冷気が通り抜けた。外はこんなに晴れているのに、どうして寒いんだろう。それに、とても埃臭い。「セリーニ!」と誰かが呼んでいる。泣き声が一層強くなる。イリオの空色の瞳を見て、セリーニは思い出した。ああ、この泣き声はアクティノの泣き声だ。アクティノが呼んでいる。自分は行かなくてはならない。どこに行けばいいのかはよく分からないが、とにかく娘の所に戻るのだ。


「・・・じゃあな、イリオ」

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