第10話 張り裂ける胸

 しんとした無音が僕の鼓膜を押し付ける。家の中も外も何も音がしない部屋は世界から切り取られ、別次元へと漂流しているような不安定さと儚さが織り交ざったようで、急に泡となって僕ごとすべてを消えていくような気がした。それならそれでいい。ふわふわとしたベッドの浮遊感と無気力感がいつにもまして死にたい渦の中に心を引き寄せる。このまま眠ってしまいたいが、頭だけは妙に冴えていた。それは帰ってきてからの二時間、店長に言われた僕の宗教を破壊することについて考えていたからだろう。考えれば考えるほどその僕の理屈はどんどんと厚く固くなっていく。確固たるものとして実体化し、僕の現実までも侵食していきそうなほどだ。今まで見ないふりをし続け、気づかないふりをし続けていた。そのつけが今、回ってきたのだろうか。

 比較によるアイデンティティーの確立。これ自体には問題はない。というか、アイデンティティーというもの自体が自分との違いを見つけることから生まれるものなのだからだ。僕の場合は、比較によるアイデンティティの消失。つまり、良いと悪いという二極化した見方をして、劣っているのなら存在意義がないということだ。僕はこれを狭い世界の中で、狭い観点でやってきた。勉強、テストの点数だ。僕自身そこまで頭の悪い方ではなかった。やればそれなりに結果はついてきた。だが、これと言って得意科目があったわけではない。すべて、六から七番目という感じだ。どこか秀でた科目もなければ、総合で一位というわけではない。僕は僕自身に必要性を感じられなかった。それは中学の時からわかっていたことだった。その時は僕の周りにいる友達が僕よりも頭が悪いか同等くらいだった。そこに付け込んで、視界を狭めほかの人を見ないようにしていた。そして、人一倍承認欲求の強い僕は流行りに乗らないことで人との違いを求めた。教室でも行事ごとでワイワイと騒ぐ奴らとは違うグループに所属していた。そのグループではわいわい騒ぐ奴らを馬鹿にしていたし、卒業式で泣くような人間なんか気持ちの悪い油がギトギトのゴキブリのように見ていた。

 そして高校に入るとそこは地獄だった。○○君なんて呼び方が普通でみんな一緒にワイワイしていた。中学の時は苗字の呼び捨てが当たり前で、露骨ないじめは存在していた。どこかピリピリとしていたが人間としての本当の部分というものが感じられた。だが、ここは生ぬるく甘ったるいメープルシロップでできたの空間。琥珀色のねっとりした物質がすべてをぼんやりとさせ、屈折させ、虚像を見せる。そこには本物なんて何もないし、偽物すらも存在しない。すべて曖昧で、すべてがうわべだけだ。

 僕はそんなでおぼれて死んでいきたくはなかった。このあいまいな世界でも確固たる自分を持ちたかったのだ。そのために僕はの足掛かりとなる仲間を探した。集団の中で一人で独立できるほどの勇気と力はなかった。こういうところも僕が一番になれない理由なのだろう。

 仲間を見つけたのは九月の初めだった。文化祭が近づき、皆がお祭り気分が漂う中、僕は吐き気をこらえながら学校生活を送っていた。まったりとした空気の中適当にクラスメートと会話をする。あたりさわりのないことだけを話し、生産性のない言葉の羅列は左から右へと流れていく。こんなメープルシロップのような学校でもある程度のつながりを作らないと生活することは難しい。帰り支度をしに、後ろにある棚から自分の赤と黒を基調としたプーマのエナメルバッグ取りに行く。ふと教室の隅で本を読んでるやつを見つけた。そいつは誰とも群れずに一人で周囲を気にせず黙々とページを進めている。あえて遠回りをして、ちらりと本の中身を見てみようとした。座っている人の邪魔にならないようにエナメルバッグを抱えるように持つ。奴の席の横に来た時に一瞬だけ本のほうに視線をやった。コインロッカーベイビーズだった。それを見た瞬間、僕の内側からサイレンが鳴り響き、サハラ砂漠で水のにおいを感じ取ったようだった。このまま立ち止まって声をかけてもよかったのだが、どう声を掛けたらよいか分からなかったのでそのまま通りすぎていった。

 

 

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