第9話 9サイコ9

「君は自分の人生が失敗したものだと思うかい?」


 落ち着いたジャズが流れているバーは一定のリズムを刻むシェイカーの音に包まれ優しい世界を作り出していた。店の名前である「Mālie」はハワイ語で静かな、穏やかなという意味らしい。実際にここは静かと感じさせるのだが、音というものは存在しており完全な静ではない。それが逆に穏やかにつながっているのだろう。図書館のように耳の奥に圧をかけてくるような静とは違う。究極の無音と言っても変わりない場所なのだが、あそこほど心をざわつかせる場所はないかもしれない。そんな静とは比較にならないほどに穏やかで優しく人を包み込む。そんな空気とは裏腹に店内は黒を基調としたものでところどころに黄緑色の点が見える。それはどこか宇宙をイメージさせる。広大で、虚無で、冷たい。なのに、恐怖は感じない。むしろ、あたたかく安心を感じる。僕の心に何かが共振しているようだ。

 客はところどころに座っている。12席しかない店内は人が少なく僕と店長を合わせても4人しかいない。正直、この店は大丈夫なのかと心配になる。こちらとしては人が少ない方が落ち着けるのでいいのだが。

 カウンターの椅子は高く僕の足はぶらぶらと宙を漂っている。カウンターに置かれたジンジャエールには雫がたくさんついている。一つの雫が重力に耐えられなくなって落ちていく。その時に周りを巻き込み大きくなって、最後にはカウンターにつき、グラスの底縁に沿って消えていく。持ち上げて口に運ぶとき、さっきまで水滴だったものが平べったく円形になっている。きらきらとしていた水滴が汚らしく這いつくばっているのを見ると悲しい気持ちになった。カウンターに瞬間、一番大聞くなった水滴がきらきらと発した光が今は物悲しく思う。

 隣に座っている店長はジントニックを頼んだっきり口を開かない。かれこれ店に入ってから30分は経っている。ただ、ぼーっとカウンター奥に並べてある瓶を眺めたりしている。僕は店長のこういう部分が好きなのだ。無理に話さなくてもいいところが自然体でいれる。必要以上にしつこく誘ってきたりもしないし、大人数で騒いだりもしない。

 僕は店長とサシでしか飲んだことがない。「昔は~」なんていう愚痴もなければ武勇伝もない。ただ、少し話すだけ。ただそれだけなのだ。まれに一時間以上黙ったままのことだってある。逆に店内に入ってからすぐに話すことだってある。どちらが先に口を開けるかもばらばらだ。今日はどうやら店長が先に口を開くようだ。

「なあ・・・・・・」

 僕は店長のほうを向く。店長は三分の一くらい残ったジントニックのグラスに刺さったライムを凝視している。その表情はいかにも真剣でライムの細胞一つひとつを観察しているのではないかと思った。

「君は自分の人生が失敗したものだと思うかい?」

 店長はグラスに顔を向けたまま、目だけを僕の方へと向ける。さっきと同じような細胞の一つひとつを観察しているような目を僕に向けてくる。僕の表情を一瞬たりとも見逃したくないのだろうか。僕がここで言う答えと表情を照らし合わせて店長なりの答えを見出すのだろう。

「はい、僕の人生は失敗です」

 僕は店長の目を見て即答した。質問を言い終わる前にすでに答えは頭の中に浮かび上がっていた。そこに迷いは一切出てこなかったし、一切の疑問がなかった。ただその答えを掴んではっきりと口にしただけだ。

 店長は少し黙ったまま一瞬だけ目をそらし、また僕の方へと戻した。

「君が初めてだよ。こんなに速く答えたのは。みんな少しは悩むんだよ。どちらの答えを出しても。人生を振り返って、良いことや悪いことを思い出す。そしてそれらを合算させて良し悪しを決める。でも、君はその時間すらなかった。まるであらかじめ決められた答えを言っているようだった。それに、僕が数々の答えを聞いてきた中であいまいに答えなかった人間も君が初めてだ」

 確かに僕はあいまいな答えなんて持たなかったし、人生を振り返り良し悪しを判断しなかった。ならば、僕はどうして人生が失敗したと考えたのだろうか。何を基準にして判断したのだろうか。

 それは今だ。

 今自分のことを不満で不幸な人間だと思ってるからだ。過去の流れでここまで運ばれたことを不幸だと嘆きつつ、現状を打開せず、怠惰に過ごしているからだ。いや、打開しなければならないこの状況こそ不幸の原因だと言えるだろう。そして僕が強欲で怠け者だ。何もせずに何かを手に入れられない現状にイライラしている。やったこと以上のリターンを求めるのだ。ならば、この状況を受け入れることをしなければならないのか?そんなことはできないし、したくない。かといって、変えることもしない。努力したくないからだ。

 じゃあ、僕はどうやって幸せをつかむのだ?

 大体幸せってなんだ?

 店長は僕が思考しているしている間もずっと僕の目だけを見ていた。視線や瞳孔の動き、それらすべてを入念に見ていた。

 店長はジントニックを一口飲んだ後、ライムを視線を落とし、口を開いた。

「幸せとはふり幅なんだ。自分の基準値からどれだけいい結果があるかという単純なものなんだ。不幸は下に振り切っているだけのこと。単純な例を挙げるなら、今と縄文時代の生活は明らかに今のほうが豊かだ。これは日本国内すべての人間が知っていることだ。だが、自殺者は絶えない。その人たちにとって今は基準値よりも大幅に下回っているのだ」

「基準が自分の中にあるというならば、なぜ僕は他人の不幸を見ると幸せになるのですか?」

「それは君自身の基準値が揺らぐからだよ。僕はこいつよりまし、つまり、相手の状況が君の基準値に影響して少し下がるというだけだ。だが、これは一時的なものですぐに元に戻ってしまう」

 僕はジンジャエールを一口飲む。ほのかな甘みとさっぱりとした風味が口いっぱいに広がっていく。

「その基準値を操作できれば僕は幸福になれるということですか?」

「端的に言えばそうだ。だがその基準値は自分で操作することは難しい。だから、宗教が存在するのだ。宗教は疑似的に基準値を上げる。人は何かに期待した時点で基準値とともに幸福の値も上がっている。たとえそこに根拠がなくてもだ。この作用を逆手に取ったのが宗教だ」

「じゃあ、僕は宗教に入ればいいということですか?」

「多分君は宗教に合わないと思う。君は現実主義者で理想主義者だ。自分の思いどうりにならないことを当たり前だと感じているが、なぜそれが当たり前なのかが分からない。自分の理論を確固たるものにしている。それは、ある種の宗教だ」

 店長はジントニックを最後まで飲み干すと僕の目をのぞき込む。

「だから、君は自分で自分の宗教を崩すしかないのだよ」

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