第8話 静かな色、騒がしい色
僕は業務スーパーの更衣室で制服を脱ごうとエプロンの紐に手をかけていた。十二畳ほどで両側の壁にはロッカーが敷き詰められている。部屋の中央に白くて安っぽいテーブルがあり、プラスチックの独特な光沢をもつ椅子が周りを囲んでいる。その一つには背もたれ部分に亀裂が入っている。テーブルの上には読み込まれて端がばさばさになったサンデーがぽつんと置かれている。おおよそ誰かが置いていったものを次に来た人が読み、それが二日ほど続いたのだろう。表紙には眼鏡の少年がでかでかと描かれ、新連載やアニメ化という文字が様々なフォントで色とりどりに書かれている。このサンデー以外は灰色と白という空虚な色に包まれている。この空虚さはこの業務スーパーの中の好きな点の一つだ。店内はいつも明るい曲に派手なチラシ、色とりどりのパッケージがあふれている。そんな店内の強い刺激は僕の心を疲れさせ、すり減らしていく。だが、この更衣室は違う。白と灰色という色素の薄い色ばかりが使われ、どこか物静かな雰囲気を生み出す。その空気に体を浸しているだけで疲れは一時的にでも緩和される。そんなゆったりとした空気は時間感覚を引き延ばし、精神的な休息の効果をさらに発揮させる。その雰囲気は物静かさを保つため人に対して何かしらの圧をかけてくる。よって更衣室で騒ぐ奴はあまりいない。
そんなもの静な部屋の中で現在僕と店長は二人きりだ。僕たちがこの更衣室に入ってから一言も話していないが、気まずい空気にもならない。無色透明な空気があるだけだ。布擦れやロッカーから鳴り響く甲高い音がこの乾いた空気になじみながらこの室内に鳴り響く。それがどこか心地が良くいつまででも聞いていたいという気持ちにさせた。
店長は今年で五十歳である。歳の割にはしわも少なく、この半年間体の不調を訴えたことはない。ひげはなくすらりとした顔つきはどこか冷たく見える。それはスクエア型の眼鏡も原因の一つだろう。くっきりとした眉毛に高い鼻はどこか外国人みたいだ。髪型は耳が半分くらいかかる長さのナチュラルな横わけだ。
着替え終わり、使い古されたショルダーバッグを肩にかけ、ロッカーを閉める。すると店長がボタンをかけようとしている手を止め、僕の方を向き、瞬きを二回した後に口を開けた。
「なあ、今夜の飲みにいかないか?」
僕は五秒ほど考えた。室内はしんとした沈黙に包まれる。店長は僕を急かすことなく、ただまっすぐ僕を見つめている。明日は特に予定があるわけでもないし、体調も良好だ。少々生活リズムに乱れが生じても大丈夫だと判断した。
「いいですよ。じゃあ、戸締りを確認してきます」
僕は更衣室を出て、店内を歩き回る。一つ一つの窓やドアを丁寧に鍵がかかっているかを見ていく。確認し終わると同時に店長が更衣室から出てきた。手には白いハーフ方のヘルメットを持っている。僕たちは外に出て、店長はシャッターを閉め、僕はTW200のエンジンをかける。今回は一回蹴っただけではうまくかからなかった。かけ終わったころには店長はヘルメットをかぶっていた。僕もヘルメットをかぶりバイクにまたがる。その後ろに店長もまたがる。エンジンを二三回ふかしてから走り出す。小さなバイクだが一応二人乗りは合法である。だが、車体が軽く体重の影響をもろに受けるのでいつもよりスピードを落とす。
緩やかな冷たい風が僕の体を冷やしていく。だが、肩に乗せられた手の部分だけがほんのり温かい。人のぬくもりというのはどこか安心をくれる。小さな豆電球だけしか闇を引き裂くものがない中では余計にその安心感が際立つ。僕の心を闇の中へと引っ張ろうとする無数の腕を振り払ってくれているようだ。僕の心から逃げるようにアクセルをひねる必要もないし、ヘルメットの中で音楽が流れていなくても平気なのだ。
駅前に近づきLEDライトが鮮やかに町を照らす。赤、白、青様々な色を僕の視界は入っては消えていった。だが、次々と湧き出てくる光は絶えることがなく僕の視界の中に入ってくる。それは、遠くの方から光が生まれてきているような錯覚に陥った。とろとろと走っている白いヴェルファイアの横をすり抜ける。サイドミラーでどんな奴が運転しているか見てみると22、3の若い男だった。この男はこのヴェルファイアを自分で買ったのだろうか?そうだとしたらどこからか来る劣等感が僕のことを狙った獲物のようにかぶりついて離さない。もしかしたら親が金持ちなだけかもしれないじゃないか。そういう話は非常に現実味の帯びた話だしむしろその可能性のほうが高い。だが、一度食らいついた劣等感は僕の身がちぎれるほど深くかみついて何度振りほどこうとしても取り外せるようなものではなかった。ただ、肩に乗った手だけが背中をさする父の手のように僕の苦しさをほんの少しだけ緩和させてくれたような気がした。
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