「……戸頃」

「でだよ、お前何やってたの?謝りにも来ねえで」

「それは、お父さんとお母さんが行くなって」

「いい年してそれかよ。これだから人殺しはよ」

「けじめをつけるまでは会っちゃダメだって」




 人殺し。やっぱり、何にも間違ってない。未必の故意とか何たらかんたらとか言うけど、少なくとも私が彼女を傷つけようとしたことは事実だ。


 藤森君でさえ気を使うほど重篤な症状持ちがどうなるか、考えもしないだなんて我ながら何様だったんだろう。


「すると何だい、そのためにずーっと金稼ぎに勤しんでたのかよ。で、いくらほどだよ」

「500万円……」

「500万って、本気で貯めてたかのよ。本当まあ、ご苦労様だね。呆れたね。おい何か言い返せよ」


 あるいはその気になれば、もっと早く挨拶でも何でもすべきだったのかもしれない。

 その結果がふざけんな帰れだとしても、何らかのリアクションがあればもう少し藤森君の心も揺らいだかもしれない。


「お父さんやお母さんからは……」

「なかったよ。あいつにばかり目が行ってて、たかが同じ学校の生徒だった俺には何もねえよ。まあ正しいけどな、俺はただお前を人殺し呼ばわりしたその他大勢だったしな」




 老若男女ろうにゃくなんにょならぬ先後男女せんこうなんにょ、みんなして私をそう呼んでいた。たった一日と言うか数十分だったけど、おそらくその後の全校朝会辺りで私の犯行をみんな知ったんだろう。

 みんなが私を人殺しと呼ばわるのはまったく簡単だった。そんな中でのモブキャラひとりに気をかける余裕なんか、お父さんお母さんにあるはずがなかった。


 一応好きな子が、カッコイイ子がいるって言っちゃいたけど、ぶっちゃけそれにしたって一番人気だからああやっぱりでしかない。当たり前のことだ。



「でよ、お前はどれだけ俺の個人情報を知ってるんだ?今俺が高校教師やってる事は知ってんだろ?」

「それしか知らない……高校も、行ってなかったから……」

「ああそうだよな、こうして十年かけてやり直すんだからよ。チッ、お前なんぞと一緒になりたかなかったけどよ…………」




 コンビニバイトもやめて、三年(一年分の単位はあったから)かけて卒業する。それで何が変わる訳でもないかもしれないけど、そうでもしなければ何も始められなかった。


 藤森君が、私にとって一番手近なそういう学校の教師になっていたと聞いた事を知ったお父さんや大叔父さんが、こうして私を送り出してくれたのかもしれない。口では浅村さんの家を探した結果たまたま藤森君と一緒だって事が分かったとか言ってるけど、どうなのかはもうどうでもいい。


 もっとも、その藤森君は私の顔を見ながら派手に舌打ちをしてるけど。







「プロ志望届も出したけど引っかからず、大学野球やってそこでチャンスうかがってたけどそれも空振り。っつーか大学では控えにすらなれなくてよ、もうそこで心折れちまってさ。そんででもしか教師っつーのになった訳よ」




 両手を上に向けながら、少し遠い目になって藤森君は歩く。


 ドラフト会議にも引っかからず、スポーツ推薦で大学野球に入ったけど控えですら出番はなく、それで野球をやる気がなくなっちゃって教師になったらしい。


 それ以上の事は言ってくれない。私が人殺しだから。あるいは……と思う間もなく、藤森君は私のスポーツバッグに手をかけた。


 藤森君の手のひらが、私の手の甲に当たる。実にゴツゴツしてる、まさしくアスリートってものの手。思えばこの手のために、私は頑張って来たはずだった。


「怪しい人でもいたの」

「いたように見えたが気のせいかよ。まったく、まるで俺のおふくろみたいになっちまってよ……」

「いくつだっけ」

「自分で考えろよ人殺し」


 お義母さんと呼びたかった人の手、たぶん今は五十代前半ぐらいだろうか。

 工場労働とは言え、私の仕事は最初使い走りや雑用だった。これならばきついけど何とかなるかと思ったけど、すぐさま全く知識のない機械を動かす仕事に回され、それこそ箸より重いものを持った事のない手で金属の塊との戦いを強いられた。


 それを何年も続けた結果色は黒くなり、乙女の手はすっかりおじさんの手になっていた。顔もすっかり黒くなり、肌も荒れた。ガテン系女子とか言う格好いいそれじゃなく、文字通りのおじさんの手になっていた。


 二度とは戻らない手の事を泣く暇もなく、彼の自宅マンションまで連れ込まれた。




「ここの505号室だ」


 必要な事だけ言って藤森君はエレベーターのボタンを押し、そのまま無言で私を先に入らせた。誰もいない二人きりの密室で、藤森君はスマホを握りしめる。

 私用のスマホなんて持っていない私が好奇心に負けようとするのをこらえてやけに遅いエレベーターの壁ばかり見ていると、チーンという音が鳴った。


「大丈夫だよ、早く来い」

「ずいぶんときれいだね」




 築二十六年とは思えないほどにきれいなマンション。その505号室の扉を開けた女性は、私の存在に気付いたようだった。

 ずいぶんときれいな女性だった。ふくよかだが見苦しくはなく、どちらかと言うと母の強さを感じさせるそれだ。



 そう、母になったのだ。藤森君が言ってた通り、母になっていた。

 その顔には決して嫌味がなく、その上で戸惑いを隠さず表に出す目。





 間違いなく、浅村伊織さんだった。




 浅村、いや藤森伊織さんはにこやかに頭を下げながら、私を案内してくれる。ずいぶんと豪華なおうちですねと言いたくなるほどには大きな部屋であり、私のような荷厄介をひとりぐらい置いていてもなんとかなりそうに思える。


 リビングで差し出された座布団を断って床に座り、スポーツバッグを藤森君に差し出す。


「何やってんだよ、開けていいんだな」

「…………はい」

「どれどれ……ああ、ピッタリだな……」


 スポーツバッグから取り出した500万円の数字が入った通帳を眺めている藤森君の前で、私はただひたすら床を眺めていた。


「人間、いざってー時に本性が出るもんだ。これがお前の本性なんだろ。三畳一間の部屋で延々十年かけてため込んだよな」


 えへんと威張るには、あまりにも情けない話だった。

 よくもまあ一年平均で50万円も貯め込めたのかと思うと、我ながらこれまでの生活を思い出さずにいられなくなる。

 バラエティー番組でひと月1万円生活とか言うけど、実際社員食堂代を加味していなければ本当の本当にそのレベルまで削りまくった事もある。衣料品代もほぼゼロであり、たまに追加されたとしても大叔父さんの意見に全く逆らえない、およそおしゃれからはほど遠い実用一点張りの代物ばかり。


 夏などはそれこそセキュリティだなんて知った事かいとばかりに窓全開にして半裸で寝たせいで軽く騒動になり、三ヶ月だけクーラーの付いてる事務所での雑魚寝を許可された。ソファーは私のベッドと化し、助兵衛なおじさんや若い男の社員を適当に癒していたらしい。

 中身がこんなんだとわかっていても受け入れてくれるほどには、みんな優しかったし、同時に飢えてもいた。


「あのさあ、くどいけど今日その時まで一度でもいいから先に頭を下げに来るって発想はなかったわけ?」

「とても会う資格なんかないと思ってたから」

「資格か、腐敗しててもユートーセーサマらしき思考パターンだよな」



 ストレートティーを口に運びながら、藤森君は私の頭を眺め続ける。少しでも機嫌を損ねればその紅茶が頭に振りかかって来そうな気がして、まるで動けない。

 藤森君には、私に何をする権利もある。私をぶん殴っても、服をすべて剥いで放り出しても。



 何せ浅村さん、いや私が殺そうとした奥さんの夫なんだから。




「ああ俺のカミさんだけどな、俺がこういう仕事だからすぐさまは復帰できねえかもしれねえけど、大学で栄養学やっててな」

「やっぱり、それって……」

「ああ、そういうこったよ。よくもまあ本性をむき出しにしやがって」

「…………」

「何とか言えよ、お前」




 藤森君の奥さんは、間もなくお母さんになる。そして、子育てと共に栄養士となり、そこで自分の病気との戦いを通じて同じ病気に苦しむ人のために戦うのかもしれない。実にカッコいい。



 その一方で、この後の自分が何を目指すのか、正直分からない。死ぬまで生きる、それだけかもしれない。




 お嫁になんか行けるはずもない。人殺しだから。

 ファッションなんか楽しめるはずもない。人殺しだから。

 美味しい物なんか食べちゃいけない。人殺しだから。




「何とか言えよ!何とか!」

「ごめんなさい……!」

「聞こえねえよ!」

「あなた、声が大きいですよ!」


 浅村さんが藤森君を抱き留めると、藤森君は抱き合いながら頬を寄せる。少しだけばつの悪そうな顔をして、二人して唇を頬に寄せる。キスをしたそうに顔を赤らめている。



 本当はあそこに私がいるはずなのに。私のいる場所を彼女は奪、いや私が自ら明け渡した。目の前で人を土下座させておいて、まるで借金取りのように500万円をむしり取っておきながら、実に幸せそうにしている。


「…………」


 私が押し黙って二人を眺めていると、浅村さんが藤森君を放した。依然として名残惜しそうに藤森君は浅村さんを見つめ、浅村さんは私を見下ろす。




 もう、何もかもがどうでもよくなった。




「何か言いたいことは?」

「私は藤森君が欲しかった!彼女なんかが藤森君に、いやと言うか野球部全員に大事に大事にされているのが腹が立って腹が立って仕方がなかった!

 ブサイクで瘦せぎすのくせにかわい子ぶって藤森君にいい子いい子されているのを見るとそれだけでダイエットできそうなぐらいだった!だから化けの皮を剝がしてやりたかった!

 はっきり言えば、それで死んじゃってもいいと思ってた!倒れた瞬間、何だ嘘じゃなかったんだとか、してやったりとしか思えなかった!藤森君に言われるまで一体何が悪いのって逆ギレしてたの!」








 言うだけ言い切ってああしまったと思う間もなく、私は土下座からあぐらに体勢を変えた。



 本当に数少ない楽しみとして、大叔父さんと一緒にテレビで時代劇を見ていたからこれぐらいは知っている。


 そう、切腹ってやつ。お腹に刀を当ててお腹を裂き、その上で後ろの人が首を斬り落とす。


 奉行は藤森君、処刑人は浅村さん、そして死ぬのは私。


 本当の本当に、筋道通りの結末。その結末を引き出すために、二人して私の口をこじ開けた。何もかも、格が違う。違い過ぎる。




「ったくよー…………人殺しの分際でどうしても俺を悪者にする気かよ」

「悪者は私よ!私だけ!」

「想像力のねえ奴だったんだな、お前って。詰まる所、てめえはとんだええかっこしいじゃねえか」


 ええかっこしい、実にぴったりだ。


 本当はこの500万円は、お父さんとお母さんに返すためのお金。


 500万円も私のために使ったせいで、お父さんの旅行もお母さんの指輪も、マイホームも全部吹っ飛んだ。

 少なくとも、マイホームだけは絶対に無理。だって私なんかと一緒に住めるわけがないから。もうあと数年で退職するお父さんとお母さんが家を買った所で、その後どうしようってんだか。


 それで自分のやった事の責任は自分が果たす、それの一体何が悪いのやらだなんてどれだけうぬぼれてるんだか。




「結局さ、最初からさっきのように言や良かったんだよ。ああ言っとくけどあん時の俺はあん時の少女を実にいい女だって思ってたぜ、その他大勢のように」

「あなたもう」

「でもそん時の俺はやっぱ野球のが大事だった。野球で飯食ってやろうとか考えて、一つの結果を出すまでは我慢するつもりだった。カミさんとも半ば栄養学に関するアドバイス目当ての付き合いでな、その事を先刻承知だったからだよ。

 ああ、でもこれだとやっぱ俺も悪者か」



 浅村さんは甘ったるく藤森君に頬を寄せる。


 本当に正しい。実に正しい。


 プロ野球選手って言う大事な夢のために青春を燃やしていた藤森君にとっては、高校三年生の甲子園まではそういう事はシャットアウトの対象だったんだろう。その上で大学野球を目指すついでに教職課程まで取ろうとしている以上、自ら女に現を抜かしに行くなど論外だった。


 だとしても、それを承知で突っ込んで行くのがありなのかなしなのかと言えばありでしかない。甲子園が終わったらとか、大学合格が決まったらとか、その時まで待ってもらっても別に良かったはずだ。


「とにかくよ、すべてはカミさん次第なんだよ、わかるだろ?お前なら」




 その通りだ。本来頭を下げるべきは、藤森君じゃない。


 私が人殺しの烙印を押されることになった対象である、あの時の浅村さん。



 あの時まったく呆れた事にお父さん・お母さん・先生誰に言われても感じられなかった罪悪感が、藤森君に言われた途端にいっぺんにあふれ出て来た。


 浅村さんの夢、浅村さんの希望、浅村さんの高校生活、そして浅村さんの命さえも私は奪う所だった。500万円ごときか、命まで奪う権利も彼女にはある。藤森君のように、どこまでも言いくさす権利もある。







「もう、青春しなよ」

「えっ」

「だから、もう青春しなよ」




 —————————青春しろ。それが浅村さんの言葉の全てだった。




 あの時、私は自分で自分の青春を殺してしまった。




 延々十年間、ただその時の負債を返すためだけに生きて来た。




 得た物と言えば、現金とちっぽけなキャリア、あとシミと皺と白髪だけ。二十代でも白髪って出るんだなと不思議に感心して大叔母さんに笑われ、白髪染めを使われそうになった事もある。



「ねえ、青春がもう一度あったら、何をしたい?」

「…………」

「私だって考えたよ、でも答えは同じだった。このひとを支えるマネージャーになって、それで優勝を祝ってあげたかった。だったら同じでいいじゃない」

「無理です……」

「じゃ探せよ。何でもいいだろ、言っとくけど自分で考えろよな」

「藤森君のお嫁さんに」




 大真面目な答えだった。そうでなければ外資系企業の社員だけど、この十年間ですっかり英語も忘れちゃった私には土台無理な相談。もう十年かけてやり直すだけの気力があるかないか、もうわからない。



「わあったよ、しゃあねえ奴だな。お前、ちょっと目をつぶっててくれよ」

「うん……」

「今のはカミさんに言ったんだよ」




 藤森君が、私に近付いてくる。音を立てる事はなく、ゆっくりと、ゆっくりと。


 後ろに回り込んだ藤森君は介錯人かバッターのように大きく右手を振り、肩に手を乗せる。

 大きく揺らいだ私の体を左手で抱き、そのまま落ちた首を受け止めながら自分の首を同じ高さまで持って来た。










「……戸頃」










 そうささやいて今度は足音を立てて浅村さんのとこに戻り、今度は優しく浅村さんを抱いた。




 私が浅村さんになった気がした。全身が熱くなると共に泣き出し、消えそうになっていた。十年前の私が真っ白になり、五階の窓から去って行った。セーラー服だけを残したまんまで。

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その日、戸頃祥子は出会った @wizard-T

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