第9話 腆宗



 途端、取り巻きたちがざわめき始めた。捲眼怒が言うなら、弧裂は裏切りの面汚しなのだ。どのように扱ってもよい存在なのだ。彼等は、そういう存在はとにかく苛め抜いた。

 罵言の底から、捲眼怒の声も視線もまっすぐに届いた。背筋が凍りそうだった。

「手引きだな。お前がそうだ。この者ども」

「その娘を放せ。その娘は胙じゃないぞ」

 己が今ここで名乗り出ることは、この男にとっても予測もつかないことのはずだ。それに、彼我のあいだには距離がある。普段ならば、腆宗が指一つ振っただけで、数多の臚士がこの回廊まで押し寄せてくるだろうが、今は儀式の混乱の真っただ中だ。

 それに捲眼怒は、弧裂がここに来るまでにしたことを知らない。あともう、ほんの少しのはずだ。

「胙は、膨脳様に捧げる聖なる肉だと言って、お前は女たちを集めたんじゃないか。夜警国家に住まう聖なる民でないといけないと言って」

「胙。しない。邪悪にして醜悪。臭い肉」

 捲眼怒はふんと鼻を鳴らし、異様に指が長い手で、湯禍の頬を張った。鞭のような音がした。

「お食事。捌いて、後日」

 手を振って示された取り巻きたちが、どよめいた。

「餌。好きに食べる。それまで貴様等。この女」

 取り巻きたちが、両手を挙げて祈りの言葉を叫んだ。弧裂はどうにか、湯禍の生死を確かめようと、目をこらした。

「釘。針。焼き鏝。裂いてやる。弧裂。お前も」

 下りてこいと、目が責めていた。

「すべて。膨脳様。夜警。ご守護」

 祈るように、歌うように言う。この男は、夜警国家が成立してから、今にいたるまでに編まれた万を超える詩編、膨脳様を称える歌を、端から端まで諳んじることができた。

「お返し。すべて。何もかもは当然のことだ。憐れ。何を恐れて此処より逃げた」

「貴方には解らない」

 死は怖い。だが単に死が怖いだけなら、生きていけばいい。眼下の光景の一員になるという想像は、弧裂には死ぬよりも怖かった。

「獣になることを恐れたのだ」

「愚か。折角。胙にしてやった。女。お前の」

 殴られたような衝撃が、弧裂を襲った。

「何だって?」

 己の声が割れている。捲眼怒は淡々と告げた。

「腆宗。なる。触れる。望み。叶えるがよかった」

 ずっとひっかかっていた疑問が、一瞬で解けた。衝撃が生まれて、弧裂の何もかもを歪めた。かつて、どの育ての親よりも深く信頼していた男を、弧裂は睨みつけた。

「どうして……どうして彼女がと。ずっと」

 地下空洞で交わしたいくつもの言葉。知られていたのだ。

「愚か」

 己を律することに慣れた臚士でいたならば、永久に知ることもなかっただろう激情が、内側から弧裂を焼いて責めた。

「なるべき。腆宗。ふさわしい。お前の如き。夜警国家の平和な明日を担いたまえ。お前のような」

 言われていることがわからなかった。

「優れたる国家。夜警を生み出すのみ。あとは、生を目指す、よい、ひたすら。民は皆、民として生きよ。自由。完全なる自由。生み出すのみ。国家は夜警を」

 諳んじながら、捲眼怒は恍惚とした。

「覚悟。進め。勇気。国家の存続」

 捲眼怒には一欠けらの迷いも無かった。

「下りてこい。特別。還すお前を膨脳様に」

 呪いをこめて、弧裂は告げた。

「もう遅い。何もかも」

 捲眼怒は怪訝な顔をした。


 砂が。

 宙から浮き出るように、白い砂の粒が。


 ずるりと立ち上がる体に、空洞だけの両目と口。短い脚、長い腕。

 薄い虹色の紋様が浮く、砂でできた体。

 それはあっさりと口を開いて、今しも服を脱ぎ捨てようとしていた裸の臚士を、ぽかんとしたままの顔を、両手で捕まえた。

 ぱくん、と空洞の口を押し当てる。途端、なくなっていく。

 髪が。

 耳が。

 頬が。

 ぱくぱくという擬音とともに、何も無くなっていく。

 血さえでなかった。首がなくなり、肩がなくなった。

 中途半端に宙に浮いていた手が、腕を食われて、ぽとんと落ちた。

 夜警は咀嚼をしない。情報を食う、精式の生物。空っぽの口に、ただぱくぱくと、情報そのものを取り込んでいくのだ。

 これが肩であると、これが胸であると。

 おそらく、その胸をいっぱいに満たしていたはずの、情動にいたるまで。

 ぱくん。


 その後ろにいた男が、絶叫した。絶叫した男を見て、誰もが絶叫した。その絶叫した者にも、ずるりと虹色の光を纏う、砂の塊がまとわりついた。

 ぱくん。ぱくん。ぱくぱく。

 捕食音が響いた。同時に絶叫が。その絶叫を聞いて__空気を震わせる声と、その声を生んだ喉と、声を出させた恐怖に導かれて、それを食らうために__また夜警が集まってきた。

 夜警だと、誰かが叫んだ。



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