第8話 胙



「ひでえ」

 ヤマイ群の一人が呻いた。

「なんだって、こんなこと」

「肉体につめられた情報が多いほうが、よりたくさんの脂力を出すからだよ」

 止まりそうになる呼吸を無理に吐きだしながら、弧裂は必死で視線を巡らせた。顔の見えない胙が多すぎる。

「だから、誰一人きれいな身体でいさせてもらえない。殴られたり切られたりしすぎて、今にも死にそうなのものいるはずだよ。静かな心持ちでいるより、痛いとか、苦しいとか、そういう情動で満たしていたほうが、多くの脂力を出すんだ。でも一番たくさんの力がでるのは、身籠った女だからね」

「じゃあ、律脂庁が、儀式のずっと前から胙を集めだすのは」

「腹のなかの赤子が、育っているほうがいいのさ」

 あまつさえ、彼女等の多くは、眠るように苦しみなく死ねると言い聞かせられてここに来ていた。嘘だ。そう言い聞かせなければ、理想の数の胙が集められないからである。

 約半年前、最初の胙が到着するのとすれ違いで、弧裂は律脂庁を離れた。思っていたよりも、ずっと簡単だった。誰もが胙に夢中になった。繁殖目的の専用の地下空間をもっている胚市とは違い、律脂庁の構成員は、構成員同士でさえ子孫を残してはいけないことになっている。あえて声にも態度にも出さないようにしながら、どの男も、胙を待ち焦がれていた。嘗精祭を待ち望んでいた。女たちは、口をつぐんでいた。

 弧裂は、外の気配を探ろうとして、諦めた。中の騒動が大きすぎる。気配を探ることに慣れた弧裂でも、建物の外の気配など、到底探れたものではない。

 稼頭の気配が、ぐっと膨らんだ。

 腆宗の一人が、羽交い絞めにされている湯禍の装備を剥いで、布地を引き裂いた。真っ白い肌が露になる。

 周囲を取り巻いていた臚士も腆宗も、声をあげ、手を叩いて、先をうながしている。湯禍は、ぐったりと身動きをしない。

 弧裂は手早く、腰から下げていた菌規銃を外して、稼頭にさしだした。稼頭は面食らった顔をした。

「おそらく、あともう数分だ」

 周囲のヤマイ群に、弧裂は告げた。

「それまでの辛抱だからね。動くなよ」

「弧裂。駄目だ」

 稼頭が止めた。

「行くなら俺が行く」

「時間を稼ぐだけだ。あとを頼むよ」

 視線が合った。稼頭は身体が痛むような顔をしていた。弧裂は己のマトイ布にかかった、稼頭の指先をそっと外した。

 そろそろと体を動かし、下の回廊へ向けて柱を抜ける。

 仲間から離れると、途端に押し寄せる重い空気が伝わってきた。あと数分のような気もしたし、もっとかかるような気もした。今にも来るかもしれないという気はもっとした。

 このまま、何もかも捨てて、地下へ逃げてしまいたいと、身体のどこかが言っていた。

 そんな命令は聞けなかった。弧裂は、己が短絡な存在であることを恐れ、恐れていることを思い知らせてくれた者へ報いるために、律脂庁を出たのだ。

(あと少しだ)

 強く己にそう思い知らせる。

(襲撃が失敗したっていい。あと少しだ、どうせ)

 弧裂の過去の、何かが一つ欠けただけで、己もまたあの集団のなかにいただろう。あるいは、足り過ぎてしまったが故に、今ここで心臓を鳴らしながら這いまわることになっているのかもしれない。平らではない。真っ平ではないから。

 どちらにしても、弧裂は今の弧裂に満足していた。そんなことを思うのは初めてのことだった。

 一段下の回廊に出た。広大の臆の間が近くなり、肬幽灯と、欲にまみれた人いきれの、どうしようもない腐臭がした。

 湯禍の乳房に手をかけ、五指をばらばらに揉みしだいている、その男の名を知っていた。

捲眼怒めくめど!」

 フードを目深にかぶった男が、ずるりと頭をもたげた。

 臆の間の視線のいくつか、捲眼怒の取り巻きたちが、そろって首を上げて弧裂を見つけた。

 たちまち、混乱の波紋が生まれた。突如姿を見せた元臚士を、どのように扱えばいいのか、誰にもわからないようだった。冷静なのは、捲眼怒ばかりだ。

 五脂から十二脂まである、律脂庁の上位幹部・腆宗。その最高位である、たった三人しかいない五脂のうちの一人。戒律の体現者。

「弧裂」

 射抜いてくる視線には、色というものが無かった。周囲の獣のような男たちとは違う。どこかが、一つ抜けている。あるいは足りている。

「臚士。裏切り。面汚し者め」

 ぐぶぐぶと奇妙にくぐもった、単語を繋げるような奇怪な喋り方だった。

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