第6話 肘爪盤
稼頭の行動は早かった。
足元もままならない弧裂を半ば背負うようにすると、階段を上って外に飛び出す。もう、周囲の空気が変わっていた。稼頭が顔を向ける。弧裂はよろよろと立ち上がって、行き先を示した。
弧裂を支えながら、数は階段を駆け上がった。高所に立って、何が起きつつあるのかということが、稼頭にもすぐにわかったようだった。
最も外側の壁。その、内と外。真っ平らな平地と、律脂庁の中。
見ることも感じることもできず、けれど先ほどまで確かにあったはずの境界が、揺れていた。何かが押し寄せてきているらしいことが、稼頭の神経に確かに触れたらしい。
後戻りのできない場所にいた。取返しのつかないことをしたのだ。
弧裂はまだよろめきながら、しっかりと行き先を示した。
「あそこだ」
それは、肘爪盤だった。
アブラ煙突の先からは、いつもの煙が上がっていない。林立する歪な塔の下、薄い屋根を幾枚も重ねたような奇妙な円形の建物に向かって、二人は足を進めた。
奇妙なことに、道中、誰の姿を見ることもなく、声を聞くこともなかった。最初は弧裂も稼頭も訝しんだが、そのうち急ぐことを優先し、身を屈めることをやめた。
一度だけ、弧裂はそっと臚士の住居のなかを覗きこんでみた。窓はないので、棘の頂付近に空いた空気取りのための穴から。中は薄暗く、かすかな肬幽灯の光のなかで、女の臚士が部屋の中央にうずくまり、膨脳様を称える詩を唱えていることがわかった。
嘗精祭の夜の臚士として、あるべき姿だ。おそらく、大半の臚士は、ああして己の住居にとじこもり、儀式が終わるのを待っているのだろう。外部での行動を許されているのは、一部の者たちだけだ。
その一部の者たちの、姿が見えない。何が起きたのかはわからないが、弧裂はだんだんと察し始めていた。
確証はないが、弧裂も元は臚士だった。思考や行動をある程度は知っていたし、それがどういった結果を呼ぶのかも、ある程度わかっていた。確信は不安に変わって、胸をざわめかせた。同時に、期待が生まれた。
弧裂が想定していたよりも、上位の腆宗たちは、下位の臚士を律することができていなかったのだ。嘗精祭の間、律脂庁を守護するための最低限の精式を動かしたり、警備を担ったりするはずの臚士たちは、分け前を求めて動き出したのだろう。それが自分たちにとって良い結果をうむか、悪い結果になるかはわからない。だが、混乱は大きければ大きいほど良かった。
壁面のケーブルをよじ登り、巨人が入ることもできそうな窓の石枠を乗り越えると、空気が変わった。
人がいる。この建物の中に、大勢。
人間が百人、横に手をつないで歩けそうな通路の向こうから、諍いと憤りの気配が伝わってきた。
二人は顔を見合わせた。遠くから届く声の響きは、不穏でしかなかった。
「儀式のことは言ったね?」
小さく、弧裂は言った。稼頭は肯いた。
「忘れちゃいけないよ。その時がくるまでの辛抱だからね」
「わかった」
通路を走り抜け、通風孔にもぐりこみ、パイプを辿り、壁の裏を這いあがって、二人は進んだ。
遠かったざわめきは、次第に輪郭が確かになってきた。もはや、人の声は声であるとはっきりわかる。諍いの声が、矢のように飛び交っていた。その背後から、楽器をブーブーと鳴らす不協和音が聞こえる。頭上で、鐘が鳴った。人間を腹の底から震わせるような音だった。
「そろそろだ」
パイプの切れ目から、鈍い橙色の灯りがもれている。狭いパイプを這いあがって進み、二人は臆の間を見下ろす壁際、入り組んだ細い柱の隙間にはい出た。
眼下の臆の間は、人の渦だった。
二人は、円錐形の天井にほど近い位置の、回廊とも、天井の装飾ともつかない華奢な段差の上にいた。目の前にも、後ろにも、鉱石できた柱のようなものが、縦にも横にも斜めにも交差している。二人は、態勢を低くした。床は、遥か遠い眼下にある。
弧裂には見慣れた衣装の、臚士たちがいた。腆宗たちがいた。そして、数多の
壁際に、ずるずると長い衣装を着込んだ臚士たちが、音楽らしくない音楽を鳴らしていた。息を吹き込んで音をだす、ねじくれた金属の筒を抱えている。聞いているだけで、少しずつ呼吸がしにくくなるような、奇怪な不協和音だ。
二人は、そろそろと柱の下をくぐって、眼下を見下ろした。下のほうが明るく、天井付近は暗い。こちらの姿は見えないはずだが、もし見とがめられれば、一貫の終わりだ。
弧裂は、ひゅっと息を呑んだ。視線の先を見つめた稼頭が、声もなく呻く。見下ろした眼下に、湯禍がいた。
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