第2話 律脂庁



 弧裂と稼頭は、鉄骨の錆を踏みしめ、あるいは握りしめながら、ひたすらに上方を目指した。

 次第に、鉄骨の密集が激しくなりだした。身動きをとることが難しい。尖った金属の先が、衣服を傷つけ、針金が身体に絡みつく。内部がすっかり乾いた太いパイプに、弧裂は腕をかけてよじのぼった。先に行く、と稼頭が主張したが、内部の構造を知っている者のほうがいいと、弧裂はそれを押しとどめた。

 パイプの中で、弧裂は小型の肬幽灯の吸収ネジをひねった。たちまち白と黄色の中間色の光があたりを満たし、香ばしいような甘いような匂いが漂う。

「あとは、二十分も上にいけばいい。勾配がだいぶきついから、滑り落ちないようにね。決して、音をたてないように」

「わかった」

「出口の直前で、灯は消すよ。番所以外には、律脂庁のなかには、おそらくもう誰もいないだろう。けど、一応ね」

 夜警国家の中心、律脂庁。その内部では、普段は大勢の臚士たちが働いている。

 弧裂も、性能を認められてその職につくまでは知らなかったが、臚士の数は多く、仕事は命がけで、対価はあまりにも少なかった。

 それでも、日々の衣食住を保証されているだけ、一生を胚市で生きる民衆よりは恵まれているかもしれなかった。いつ砂胞さぼうが破れて、生き埋めになるかわからない恐怖に怯えながら、僅かな鉱脈をたぐるようにして、地下を掘り続けるだけの暮らし。どれほど犠牲がでても、どれほど重労働でも、目当てとなる屍脂石を見つけなくては、食料の配給は無い。

 労働に耐えられる肉体の強さがない、あるいは失ってしまった者は、地上で膨脳様を称える古代詩を、複写し続ける仕事につく。生き埋めになるおそれはないが、地上には常に夜警が出現する可能性があった。

 砂に埋もれるか。そうでなければ、夜警に食い殺されるか。その暮らしよりは、臚士として認められて、律脂庁に入ったほうがいいと、誰もが考えている。だが、弧裂が実際に始めた臚士の生活は、脚が棒になるまで夜警国家中の胚市を歩き回り、僅かな配給物を届けるだけの仕事だ。どれほど精式せいしきの心得があっても、夜警に食い殺された臚士は数えきれない。また、道中で臚士が死に、配給が途絶え、どれほどの胚市が滅んだだろうか。

 最初、弧裂が元は臚士であると語ると、ヤマイ群は弧裂を殴打した。その後、拘束した。信用してもらうには長い長い時間がかかったが、稼頭の存在が慰めになってくれた。無邪気な青年は弧裂に、外とはどんなものであるのかと聞いた。頭上がふさがれていない世界というものを。

「頭上は塞がれているよ」

 日がな一日、乾いて寒い牢のなかで、食事として与えられたシックの骨をかじる日々の合間に、弧裂は教えた。

暗腔膜あんこうまくが、ずっと空にあるからね」

「あんこうまくって、どんなの?」

「黒くて、暗い膜だ。分厚い布のようでもあるし、煙の塊のようでもある。誰も触ることができないほど、空高くにあるんだよ」

「その向こうに、空があるのか?」

「ああ」

 弧裂は、目の前の青年と同じ輝きをした目で、同じように空の名を語った人のことを、懐かしく思い出していた。その記憶には、苦痛が伴った。

 律脂庁の中央に、臆の間とよばれる場所がある。律脂庁の幹部たちが管理している中央本部、肘爪盤。そのさらに中央。夜警国家の、本当の真ん中であり、心臓部。

 弧裂も、遠くから見たことしかないその場所には、林立する塔のような建造物のなかでもよく目立つ、巨大な三本のアブラ煙突があった。暗腔膜を生み出しているのは、その煙突から湧きだす、精式の煙だ。臚士のなかでも、正体について知っている者は、あまりに少ない。弧裂も、律脂庁の幹部である腆宗てんそうへの昇格の話がなければ、知ることはなかっただろう。

 弧裂は、国家のなかでもおそらく百人いるかどうかの、暗腔膜に覆われる前の空を見たことがある人間の一人だった。

 腆宗に昇格する候補にあがっている、という話がきたときに、大戦以前の光景画像の閲覧が許されたのだ。絶滅したに等しい「青」という色で、一面を覆われた、無限の空間。頭上に無限があるという、奇妙な光景。それが空だった。

 感激する、という情動は、臚士として長く過ごしてきた弧裂にはなくなって久しい。体も、心も、迂闊に動かせば殺される、と感じた。指先一つ動かせず、細い呼吸に集中する弧裂の様子を、下位の腆宗はじっと見つめていた。

 暗腔膜は、「雲」よりずっと低い位置に分厚く展開している。「太陽」の強い光も、膜を貫くことはできない。「月」も「星」も無力だった。

 暗腔膜は、臆の間を中心に、ひたすら円形に膨張を続けていた。弧裂も知識としてしか知らないことだが、隣国との境界をじわじわと浸食し続けているらしい。臚士たちにとっての臆の間は、縁はあれども足を踏み入れたことのない場所だった。

 もし足を踏み入れる時があるとすれば、それは、処刑の時だ。アブラ煙突からでている煙の正体は、誰にも隠されてはいなかった。悲鳴をあげて引きずられる住人__おそらく、食料を胚市で自給しようとしたか、納めるべき屍脂石に到達しなかったのだろう__が、臆の間へ続く銅色の扉の奥に消えると、煙の量は一時多くなるからだ。

 アブラ煙突からは、常に黒い煙が上がっていた。煙は、膜を少しずつ厚く、広くしていく。ある程度の厚さに達すると、地上に気の触れたような雨を降らせる。黒い雨だ。精式がこめられており、大地を真っ黒に染め上げる。そうして大地からは、夜警が生まれるようになる。その範囲は、少しずつ広がっている。

 稼頭を通して、弧裂の存在が少しずつ受け入れられるようになるにつれて、ヤマイ群のなかでも年若い者たちが訪れるようになった。稼頭は、にこにこと仲間を連れてきて、野肪大戦やぼうたいせん以前の話を教えてやってくれ、と言った。

 生まれてからずっと地下を出ることもなく、畑を狙うユカンバの襲撃と絶え間なく戦い続けてきた人生の、一体どの部分があれほどに輝く瞳をさせるのだろう。「空」や「太陽」や「月」や、夜警が食らいつくしつつある「山脈」や「河川」や「湖」について、彼等は知りたがった。

 また彼等は、夜警の存在を知らなかった。弧裂は夜警について、襲撃の前に、懇々と言い聞かせなくてはならなかった。それがどんな習性をもつ生物であるか、地上に出るならば、どうしても知っていなくてはならない。



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