第3話 野肪大戦



 パイプの表面は冷たく、乾いていた。地下で何百年も朽ちていくだけだった金属のあちこちが、内部を移動される苦痛にぎしぎしと唸る。弧裂も稼頭も、必死にそれを抑えようとした。見つかってしまえば、今夜の襲撃の全てが終わる。

 ぎぎ、っと一際大きくパイプが鳴った。

 二人はそろって動きを止めた。明らかに、どこか遠くない場所でネジが飛んだような衝撃があった。

 息を潜めて、己には体重がないのだと、弧裂は自分に言い聞かせた。パイプの表面に当てた手の、手袋の内側がぐっと緊張で冷たくなった。

 何の音も、これ以上の衝撃も来ないことを確かめてから、二人はまたそろそろとパイプをよじ登り始めた。

「見つかったかな」

 稼頭が声を潜めて聞いた。

「いいや。まだまだ深いし、このパイプの先はどの番所とは離れているからね」

「このあたりには、誰か来ないのか?」

「来ることはできるが、誰を見たこともないね」

「見張りは? 唯一、地下の空洞と通じているんだろう。ケズ獣が入ってくるかもしれない」

「ケズ獣の類は、決してこの近くには近づかないのさ」

「なぜ?」

脂力しりょくの臭いが嫌いなんだ」

 正確には、おそらく精式の臭いが嫌いなのだろう、と思われた。夜警を生み出す精式に満ちた地上では、決して獣の姿を見ない。

「それに、ここで働く人間は、皆ここを嫌っていたからね。私も、自分以外では一人しか、ここに来た人間を見たことがない」

「そのもう一人というのが、あんたの言っていた?」

「ああ」

 稼頭は黙った。弧裂は、空のことを教えてくれと、声をかけてきた人物のことを思い出していた。初めてここで、パイプから足を踏み外せば落ちて死ぬしかない沈黙ばかりの空間で、他人と向かい合っているという事実に、感情を律することもできずに驚いた。

 ここは、律脂庁のほぼ中央部の地下だった。律脂庁は、中央部に近いほど、地上と地下の区別が曖昧になる。肘爪盤の真下に、どうしてこんなにも巨大な穴があるのか、少なくとも弧裂は知らない。穴をふさぐように、隠すように、巨大で複雑な肘爪盤は今も増築を繰り返している。

 弧裂は、この空洞に親しみを感じていた。地下へと通じる、覗き込む先に永遠と思えるほどの暗闇が満ちていることが、その先に何があるかわからないことが、情動を殺すことに慣れた弧裂の胸の内を、かりかりと微かな力でひっ掻くのを楽しんだ。

 律脂庁は、夜警国家のどの胚市よりも強い脈々糸で守られているので、夜警は侵入しないものとされていた。けたたましい嘲笑や、大声での叱責を人生で初めて耳にしたのも、律脂庁に来てからだ。これが特権なのだとばかりに、人々は大声でしゃべり、音をたてて歩き、走り、時には意味も無く何かを壊して、その音が響くのに恍惚と聞き入ったりした。げらげらと笑い、担当地区の胚市から連れてきた罪人たちで遊ぶことを楽しんだ。意味もなく、取り囲んでは着ているものを大勢でびりびりと破いたり、肬幽灯の熱を近づけたりするのだ。罪人たちは、最初はただおどおどと戸惑い、遊びがもっと激しくなると、声をあげて泣いたり叫んだりするようになる。それを楽しむのは、律脂庁の人々の一般的な娯楽だった。

 弧裂は、臚士になって何年たっても、そういった騒々しさに慣れなかった。感情を発散させることを厭い、一部の臚士がそうであるように、いつも一人でいた。何の音もしない、一人きりになれる場所を求めて__そんな場所を求めるのは初めてのことだった__、この地下空洞のあたりに足を踏み入れるようになった。

「ここは遺跡なんだよ」

 弧裂は、ぽつりと言った。こんな手足をつっぱって、命がけの登攀に挑んでいる最中でも、稼頭は己の好奇心を満たす話が楽しいようだった。

「遺跡って、地下にあるのと同じ?」

「そう」

「でも、こんなに巨大な遺跡は見たことがないな」

 夜警国家ができる前。律脂庁が、まだ世界を統一していた組織が崇拝していた宗教、その一部でしかなかった時代の遺物。

 野肪大戦で、土砂爆弾が地上を埋め尽くす、その前の時代の遺物。

 土砂爆弾の効果なのか、建物自体の効果なのか、朽ちる速度がすさまじく遅い数多の建造物。その後、土砂が埋めた地上を、暗腔膜が覆った。精式の雨が夜警を生み出すようになり、夜警は世界のあらゆる差異を喰らい尽くして、真っ平らにしてしまった。

 どの胚市にも、地下世界への入口があるが、律脂庁に地下に開いた空洞の大きさは群を抜いていた。

 時間をかけて朽ちるばかりの建造物の欠片と、その奥の無限に続く暗闇を眺めながら、弧裂は、これが自分の空なのかもしれない、と考えたことがある。

 暗腔膜に覆われた重い空より、先の知れない地下のほうが、見つめていて安心することに気がついたからだ。儚いような、切ないような気になった。臚士として、精神を地面と同じくらい真っ平らにすることに慣れてしまった弧裂には、危険な情動だった。だがどうしても、この空間へ通い、歩き回っては地下の深さを見詰めることがやめられなかった。魅入られたように続けた。

 他人に初めて会った時、弧裂は真剣に、相手を極秘裏に殺害することを考えた。結局はやめた。

 今。

 弧裂は、焦がれ続けたあの地下から、進んできた。住み慣れ、目をつぶっても歩くことができるほどに慣れた律脂庁のなかへ、侵入しようとしている。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る