夜警国家

多々良

第1話 ヤマイ群



 頭上遠くに、やっと空が見えだした。


 弧裂こさきにとっては半年ぶりの空だ。背後の一団にとっては、人生で初めての空である。

 弧裂の斜め後ろを駆けている稼頭かずが、首を僅かに上に振った。弧裂はちらりと振り返って「空だ」と言った。肬幽灯ゆうゆうとうも使えない深い暗闇、頭からかぶった覆面の下で、稼頭の灰色の目がぴかりと輝いたように見えた。

 寡黙で実直なヤマイ群のなかにあって、稼頭は珍しく根の明るい男だった。まだ二十歳にもならない年齢のせいもあるのだろうが、それにしては落ち着いた目をして、狩りに関しては生半可でない勘の良さを持っている。彼の橋渡しと、こっそり与えられたいくつかの助言がなくては、弧裂がヤマイ群に迎えられることはなかっただろう。

 ヤマイ群は、地下生活者だ。夜警国家への、隣国からの刺客である。もっとも、弧裂の背後に一団となっている彼等彼女等は、もともと侵入してきたヤマイ群の子供や孫たちだ。

 侵入が成功した日から、故郷の土を踏むことは二度と叶わないことを、理解していたはずの人々の子孫。夜警国家との出入りが叶うのは、八十二年に一度しかない。シックやユカンバといった獣どもに脅かされながら、古代遺跡の痕跡を辿り、夜警国家の中央への旅を続けてきた人々の子孫である。

 地上へ発つ前。ヤマイ群は真っ二つに分かれた。

 地下に残り、現在の細々とした暮らしの安寧を護りたい者たち。それから、地上へ出て、敵対国家の打倒という宿願を果たしたい者たちに分かれた。

 両者とも譲らず、折れなかった。彼等は抱き合い、泣きながら、それぞれの家族と別れた。

 弧裂は、いたたまれない思いでそれを見ていた。夜警国家の地上に生きる民衆は、産まれてからすぐに親元から離され、一年ごとに育て親を変えながら成長する。誰も家族を知らない。家族という絆がもたらす、情動の熱さや重さを知らない。

 それに、弧裂がここへ来なければ、なかったはずの分裂だった。ヤマイ群の宿敵、律脂庁りっしちょう。弧裂は、その下級構成員である臚士りょしの一人だった。弧裂が、裏切りの意図をもって味方につかなければ、ヤマイ群の人々は、今日という日を、これからの長くを、日常を守って生きていくことができたはずだ。

 あらゆる出来事が、枯れ切った鉱脈から大粒の屍脂石ししいしを掘り出すような、震えるほどに小さな可能性の上に成り立っていた。弧裂が生きて律脂庁を抜け出せたことも。地下へ潜ることができたことも。多くの獣に食われることなく、ヤマイ群の集落へ辿りつけたことも。ヤマイ群に殺されなかったことも。

 安寧を望み、地下に残った者たちのなかには、稼頭と湯禍ゆかの兄妹の両親もいた。兄も妹も、他のヤマイ群と同様、気丈に振る舞っている。弧裂にも、配慮してやる余裕はない。

 始まったのだ。もはや逃げられない。

 巨人の骨のような金属の梁が、地下と地上を繋ぐ、広大で複雑な縦穴を、縦横無尽に走っている。その上を、時には駆け、あるいは這うようによじ上りながら、一団はひたすら頭上を目指した。

 遠くで音がした。

 一団は、動きを止めた。

 真っ黒い空に反響して、ごおんという低い音が響いてくる。弧裂も初めて耳にする、地上では知識にしかなかったモノの音だった。

「カネだ」

 呆然と、弧裂はつぶやいた。

「鐘?」

 声をひそめて、稼頭が返した。

「うん。初めて聞いたけれど、間違いないね」

「大きな音だ……」

 背後の一団から、一人がそっと訊ねた。

「地上で、あんな音を出してしまって、いいのか」

 弧裂は、ゆっくりと首を振った。

肘爪盤ちゅうそうばんの塔に、鐘があるのは知っていたが、鳴っているのは初めて聞いた。誰も鳴らそうなんて思わなかったはずだよ」

「空の下では、鐘はこんな風に聞こえるのか」

 どこか、目を輝かせて、稼頭がつぶやいた。弧裂は、彼の無邪気さが羨ましいほど、怯えきっている自分を感じていた。

 地上では、大きな音をたててはいけない。それがたとえ、脈々糸みゃくみゃくいとに守られた、胚市はいしの内側であったとしても。強すぎる音や光や、それに情動は、夜警を呼び寄せてしまう。

「儀式が始まったのなら、急がないと」

「焦らないがいい。慎重が一番だ」

「出口までは、どれくらいかかる?」

「あんた方は、あと三十分くらいだ。私と稼頭は、もう少しかかる」

 巨大な、錆がびっしりと浮いた横倒しの鉄骨の上で、弧裂と稼頭は一団と別れた。

「忘れるなよ。でかい煙突の脇からでている、六角形のパイプだからね。嫌な臭いがするが、我慢だよ」

 弧裂と稼頭の二人以外は、先に臆の間おくのまへ向かう。

 律脂庁内部の構造と、臆の間で行われている儀式について、弧裂は何度も何度もヤマイ群に言い聞かせていた。

「ことが起こるまで、耐えておくれよ」

「わかった」

「二人とも気をつけてくれ」

 傍らで、稼頭と湯禍が抱き合っていた。

 離れ際、湯禍は兄の肩ごしに、すさまじい目で弧裂を睨みつけた。

 娘の身にも関わらず、肉挿しししざしを背負い、菌規銃きんきじゅうを腰にさげ、両親の懇願も聞かず襲撃の道を選んだ湯禍である。小さな体のどのようにして、弧裂への疑念と、兄への情愛が同居しているのか、弧裂には想像もつかない。

 振り返りもせずに、両者は別れた。






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