脱獄

 このゲームにはたくさんのルールがある。飛ぶ前に確認すべきことは多い。

 でも私たちプレイヤーが常に意識しているのはひとつだけだ。

 100勝。

 その規定の勝利回数を達成したプレイヤーには市民権が与えられる。自分で生きる場所を選ぶことができる。殺し合わなくてもいいし、こんな薄暗い遺跡の中に閉じ込められている必要もない。テレビを通して試合を見ている人間たちが平和に暮らしているのと同じ世界に出ていける。

 それが私たちの希望であり、このゲームを作った人間たちが用意したエサだった。もしその希望がなかったら、私たちは断固として自決する道を選んでいたはずだ。

 みんなで死ぬより、殺し合う方がまだいい。

 そういう心の変貌を見て、テレビの向こうの人間たちは面白がって笑っているのかもしれない。


………………


 次に目が覚めた時、私の体はベッドの上に寝かされていた。ほんの一瞬前まで雲の上に寝転がる夢を見ていたような気がした。マットレスが柔らかいせいだ。掛布団も冬の生き物みたいに膨れていた。

 肩に何かが貼り付いている。コンニャクみたいに大きな湿布だ。右の太腿の方も同じような具合だった。たぶんその下には深い傷がある。それはわかっていたけど、どんな傷なのかはできるだけ考えないようにした。起きるのが嫌になりそうだった。

 どうして人間は傷ついたあとの方が上等なベッドで眠ることができるのだろう。上等なベッドの方が先なら、傷つく必要だってなかったかもしれないのに。


「あなたも不時着?」隣のベッドの女子が訊いた。

 4床部屋で、入っているのは私と彼女の2人だけだった。彼女はミミではなかった。もっと大人びている。

「違う。落とされたんだ。相手の弾が当たって、きちんと降りるところまで行かなかった」私は答えた。喉が渇いていて上手く声が出なかった。

「負けたのでないなら、同じよ」

 彼女は水差しからコップに水を注いでベッドの間のサイドボードの上に置いた。私は起き上がってそれを飲んだ。

「私はエリ。エリダヌス。今12戦。あなたは?」

「ユキ。4戦」

 彼女は首に包帯を巻いていた。あとはどこも問題なさそうだ。

「パラシュートを開く時に紐が首に引っかかって、舌の根元の骨が折れて頸動脈に突き刺さったの。頭に血が行かなくなっていたから、脳の機能が変になっているかもしれないんだって」エリは包帯を撫でながら話した。

「例えば?」

「例え?」

「脳の機能」

「ああ。……そうね、例えば、人を殺すのが嫌になっている、とか」

「正常だ」

「そうね。正常に戻ったのかも」


 私は床に足を下した。傷がある方の脚も力は入った。でもあまり力まない方がよさそうだ。向かいの壁に松葉杖がかかっていたのでそこまでそっと歩いて、脇の下に差し込んでみた。慣れないと体重を乗せるのも難しいものだ。でも新しい道具を試してみるっていうのは悪い気分のすることじゃない。

「トイレは?」私は振り返って訊いた。エリの方が奥のベッドなのだ。

「左に出てすぐ」

 エリの言った通りトイレはすぐそこにあった。私は鏡の前で顔を洗ってワンピースの袖でごしごしと拭い、廊下に出てそのまま先へ進んだ。

 見覚えのない廊下だった。内装がきちんとしているから管理フロアだろうか。でもそれにしては人気がない。そもそも、私がもと居たのと同じ塔なのだろうか。まるで見当がつかない。

 端まで行くとIDカードがないと開かない扉があって、今度は逆の端まで歩いてみたけど、やはり同じ扉があって閉じ込められているのがわかった。その間誰にも会わず、話し声も聞こえなかった。もしかすると廊下の左右の扉のどれかがどこかに繋がっているのだろうか。

 でも私は部屋に戻ることにした。腿の傷に血が溜まってきているような感じがした。

 

「出口を探してみた?」エリは部屋に戻ってきた私に訊いた。

「廊下は閉じてるね」

「私たちが会えるのは、看護師と、あとは飛行機の整備員だけなの」

「整備員」

「ああ、そっか、ユキはここの名前をまだ知らないのね」

 私は頷いた。

「機能回復センター。私たちがまた飛べるようにリハビリする場所なの」

「ああ」

「また飛びたい?」

「……どうかな。でも、飛ばなきゃ進まないし」

「100勝?」

「うん」

「勝って、どんな願いを叶えるの?」

「願いというか、ただ、こんな生き方を終わらせたいだけだよ」

「外に出たいのよね?」

「まあね」

「なら、100勝を待つ必要なんてあるのかしら。逃げたいなら、今逃げればいい」

「無茶だよ。どうせすぐ処刑機スローターが飛んでくる」私はベッドに寝転がって足を上げながら答えた。

「大事なのは最初の一撃だけよ。先に見つければ必ず避けられる。避けてしまえばあとは決定打にならない。私、避けるのは得意なの。このケガだって機体の不調のせいで、相手にやられたわけじゃないもの。大丈夫、そのうち勝てない相手に当たって希望が断たれるより、ずっと確実よ」


 エリは昼になってから私を連れ出した。私は決してミミのことを忘れていたわけじゃない。でもそもそも「この場所を出る」という大目標は他の同僚全員を犠牲にしてでも追い求めるべきものだった。与えられたチャンスを最大限生かす、というのは全員が了解している生存戦略だ。

 エリは廊下の扉をひとつ開いて中の通路を進んだ。扉は他の部屋の扉とほとんど見分けがつかなかった。意図的なデザインだ。

 暗い通路と階段を進んで、2階層ほど下がったところが格納庫だった。Bf109Eが2機並んでいた。

 液冷のエンジンを角張った機首に収めたとても小さな飛行機だ。ファストバック――キャノピーの上端ラインがそのまま直線で機体の背のラインに繋がっている。後方が見えないデザインだ。逃げるには向かない機種を用意している、と私は思った。エンジンもさほどパワフルではないはずだ。

 格納庫まだ無人だったが、エリが奥のインターホンを押すと大きな引き戸が開いて整備員たちが入ってきた。見慣れた容貌の男たち。ようやくエリ以外の人間だ。

「飛ばすんだな。燃料はどうする?」

「半分でいいわ。やっと他の子が来たの。早く一緒に飛びたいから」エリが答える。

「自由に飛んでいいの?」私はエリに訊いた。

「空戦の勘を取り戻すためだからね。特に空域も限定されていないわ」

「どう考えても前より好条件だな」

「そういうものよ。死んでいく人間より、死にかけた人間の方がずっと少ない。それだけ手間をかけてもらえるの」


 いつでもすぐ飛べるようにしてあるのか、機体の点検は15分もかからなかった。シャッターを開けてエンジンをかける。目の前は細い誘導路で、滑走路まで塔の外周をぐるりと回る。地上姿勢がかなり傾斜しているので、前を見るためにほぼ立ってペダルを踏まなければならなかった。

 離陸前にエリが一度降りて車輪にチョークを噛ませた。こちらのコクピットに上ってくる。

「まずできるだけ無茶なドッグファイトをして墜落したように見せかけましょう。雲の厚いところでやるの。チャンネルは1194」

 私は無線機を合わせてから親指を立てた。

 エリが機体に戻り、スロットルを開く。

 私も横開きのキャノピーを閉じて後を追った。左に傾いていく機首を右のペダルを踏み込んで押さえる。

 また太腿の傷口に血が集まるのを感じた。大丈夫、きちんと縫い合わせてあるはずだ。そう簡単に破れたりしない。

 そう、体がきちんと動かないうちに逃げるなんてあの天使たちも思わないはずだ。エリの言った通り、逃げるにはいいタイミングなのかもしれない。


 エリの109は滑走路の軸線から右に旋回、高度そのままで西に向かって飛んだ。雲海は1000mほど下に広がっている。

「私が避ける方をやるよ。あと2分飛んで適当に旋回するから、自由に仕掛けてきて」

「ラジャー」

 私は右にバンクしてカーブしながら高度を下げた。コクピットのエリが見えなくなったところですぐ左に切って緩い上昇に転じる。あまり角度をつけると死角から飛び出してしまう。

「下を取るとは、なかなかね」とエリ。

「上じゃ丸見えだよ」と私。ハッタリだ。

 

 2分後、エリは鋭いハーフロールからシャンデルで高度を下げてまるっきり反転、雲海に張り付くように飛び始めた。やはり私が下から来ると思ったようだ。

 だが私はその時彼女の600mほど後ろやや上方についていた。彼女がシャンデルをやったので間もなく直上直下の位置関係になった。

 エンジン音を消すためにスロットルを絞って背面、ほぼ真上、やや後ろから襲い掛かる位置につく。見えていないはずだ。

 109の四角い翼をしっかりと照準器に入れたら撃墜をコールしようと思っていた。

 だがエリはその寸前で左に旋回をかけた。

 私も一拍遅れて食らいつく。機首の軸が合っていなかったので遅れたのだ。

 フルスロットル。降下の勢いで彼我距離50mまで縮まったが、エリがロールしたせいで真後ろを外れた。

 そのまま追い抜かしそうなコースに入ったので私は逆にバンクしてぐるりと旋回した。エリも逆向きに旋回してヘッドオン。互いに左にバンクして躱す。

「今のは勝負がつかなかったね。仕切り直しましょう」とエリ。

「どうしてわかった? 見えなかったはずだよ」

「いると思ったところにいなかったのよ。だったら見えない場所にいるんだってわかるでしょ?」

「回避のタイミングまで完璧だった」

「それは勘かな」

「わかったよ」

 自分の技を説明できないやつの方が強いと相場が決まっているのだ。

「回避の技量はよくわかった。このままシザーズで縺れ合って雲海に入ろう」

「いいわ。南にある2番目に近い塔、木が生えたやつ。そのあとあそこに一度降りましょう」

 エリの言いたいことは理解できた。つまり、私たちが飛ぶ時はいつも上空に処刑機が控えている。奴らが燃料切れで帰るまでやり過ごそう、本当に逃げるのはそれからだ。



 


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