ドッグファイト
旧文明のいつ頃どの国とどの国が戦争をしていたとか、ある戦いでどちらがどんな勝ち方をしたとか、そんな歴史には私はまるで興味がなかった。
ただ、腕の立つパイロットたちが残した操縦のノウハウだけは本物だった。あるパイロットは敵の腹下にこっそりと忍び寄るのが得意だった。あるパイロットは激しく動き回る敵の機動を読み澄まして一撃で仕留めるのが得意だった。
私がドッグファイトを嫌うのも彼らの影響だ。彼らは見張りと先手取りを欠かさず、ほとんどの場合相手が反撃する前、いや相手が気づく前に有効打を撃ち込んでいた。私たちが初戦から上手くやれたのも彼らの手記を読んで頭に入れておいたからだと思っている。
本はオリヴィアに言えば用意してくれた。いくらでも、というわけじゃない。そういうものを頼むと彼女はすごく渋る。次のゲームが終わったらね、とか、今月はその1冊で我慢して、とか。
べつに怒るわけじゃないけど、彼女の優しい言い方にはむしろなんだか逆らってはいけない感じを受けた。
「ねえ、どうしていつも逆さまに読んでるの?」とミミが訊いた。鼻息を感じるくらい顔が近かった。
「空間認識能力を高めるためだって、前に言わなかった?」
「そうだっけ?」
「逆さにした文字って読みにくいだろ?」
「オオ、ソラ、ノ、サ、ム、ラ、イ?」
ミミは首を傾げて本の表紙を読み上げた。
「90度寝かせただけで文字もすごく読みにくくなるし、人間の顔も認識しにくくなる。人間の感覚はそれだけ『逆さま』に弱いんだよ」
「おお、だから鍛えてるのか!」
「そうだよ」
「で、効果出た?」
「出てると思う」
「なんだ、思う程度じゃん」ミミはエヘヘと笑った。
「うるさい」
次の戦闘はやや雲の厚い一昼夜だった。
敵は一晩姿を見せず、仕方ないのでこちらから偵察に出かけてみたものの成果ゼロだった。空の増槽を吊り下げたまま機内燃料の3割ほどを残してベースに戻るところだ。
こっそり背後につかれるおそれがあるので時々バンクを切り替えてジグザグに飛んでいた。
「ユキちゃん、後ろにいるよ」
ミミの声で私は操縦桿を右に倒し、機体をナイフエッジにして後下方を振り返った。
確かに銀色に輝くシルエットが見えた。
「燃料」私は訊いた。
「40分」ミミが答える。
「30分」
「あれれ、リーンしなかったの?」
「エンジンがぐずってたんだよ。とにかく高度をとってやり過ごそう。向こうも燃料に余裕がないかもしれない」
こちらが上昇を始めると敵は後下方から真後ろに移ってきた。まだ2km近く距離があるから撃たれる心配はない。ただこちらが気づいたということに敵も気づいたのだろう。
「機種わかった」とミミ。
「何?」
「P-……なんだっけ、マスタング」
「51。増槽は?」
「主翼に2つつけてるやつ?」
「そう、それ」
「燃料入ってるのかな?」
「そうだよ」
初戦と真逆の状況だ。
P-51は航続距離が長い。追いかけてきたということは燃料も持っているはず。このまま逃げ続けても私たちが先に燃料切れになる。
かなりまずい。
「やるしかないか。――ミミ、戻るよ」私は送話に切り替えて吹き込んだ。
「お、ドッグファイト?」とミミ。
「振り切れなかったら、ね。ターンしてヘッドオンから回避、降下して2000メーター以下で西に逃げる」
「そしたらかぶってこない?」
「来たら上手く捻って加速で逃げる。低空の加速とスピードなら疾風が上だ」
「ドッグファイトになるとしたら?」
「最初の交差より早く敵が切り返してきたら逃げられない」
直進同士の交差後は距離が開くのでスピードがあれば逃げ切れるが、敵が前もって旋回を始めていると距離が詰まってただただ背後を晒すことになる。そのまままっすぐ飛んでいたら格好の的だ。
「――その時はドッグファイトだ」
「りょーかーい!」
「増槽切り離し用意、テッ!」
増槽を捨てて機体を軽くする。再び翼を立てて全力で操縦桿を引く。チンタラ旋回していたら背中に食いつかれるからだ。左を見ると50mほど高いところにミミもついてきていた。
敵は翼を傾けてこちらの進路に機首を合わせてきた。2機ともやはり増槽を捨て、プロペラをぶんぶん回して増速している。
正対する頃には距離1500m、射程外ぎりぎりまで近づいていた。単発機の翼幅がだいたい11mと頭に入れておけば照準円との比率で直感的に距離が掴める。
ロールして敵の腹下に潜り込むように進路を変える。敵もロールして機首を合わせる。数秒の間にその応酬。私を狙っているのは敵の先頭機だ。
牽制だけでもしておくか?
私は敵の正面を横切るように機首を動かしながら引き金を引き、発射ボタンを押した。引き金が機首の12.7mm、ボタンが両翼の20mm砲につながっている。4門斉射だ。
機首のマズルフラッシュが視界を塞ぐ。
その向こうで敵も撃ったのが見えた。
曳光弾の光が頭上に流れる。
互いに命中なし。
もう急降下に入るか、と右手に力を入れた時、敵が先に旋回に入るのが見えた。
「動いた!」とミミ。
ミミからも見えたようだ。
今から機首を向けて追える間合いではない。
「ドッグファイト!」私は吹き込んだ。焦ったので言葉の頭が切れたかもしれない。
予定通り背面から操縦桿を引き、だが真下を過ぎてもそのまま旋回を続けた。
敵に目を向けながらラダーを踏み込んで旋回の軸をずらす。
敵はすでにキャノピーの真上の枠より後ろ側に見えた。敵の方が旋回が1回少ない分スピードが残っている。大回りだが旋回率は敵が上だ。
こちらはすでにスロットルは全開、操縦桿も両手で引いている。Gも限界だった。
――いや、そうだ、まだフラップがある。
そう思った矢先、敵の主翼から火線が伸びてきた。目の前を通り過ぎるように見えたが、まるで曲がったように頭上に降りかかった。
キャノピーが割れ、計器のガラスが砕けるのが見えた。飛び散ったガラスの欠片が太陽を反射してキラキラ光った。
銃弾の衝撃波がコクピットを縦に突き抜け、ドッ、ドッっと主翼や胴体に刺さった弾のインパクトが遅れて伝ってくる。
でも私は操縦桿を引き続けた。
たとえ負けを確信しても、意識がある限り戦い続けなければならない。体に刷り込まれた何かが両手に力を与えていた。
そして射撃は止み、敵はいつの間にか姿を消していた。
ミミが2機とも撃墜するのに要した時間はほんの10秒ほどだった。
1機目はヘッドオンの最中、敵が旋回に入る一瞬を的確に捉えて一撃で腹下からパイロットを撃ち抜いた。
2機目はそうして味方がいなくなったことなど知らないまま夢中で私を追いかけていた。スピードを殺しながらまっすぐに旋回しているそいつの背後に近づくのはとても簡単なことだった。
ミミは絶好の射撃位置について4門斉射を叩き込んだ。高Gに晒されたまま20mm弾を浴びた敵の主翼は文字通り弾け飛び、揚力の均衡を失った機体は電動ドリルのようにものすごい速さで回転しながら落ちていった。
――のちほどのミミ本人の回想によるとそういうことらしい。
「大丈夫? ユキちゃん、生きてる?」
キーンという耳鳴りの向こうからミミの声が聞こえてきた。少しずつ聞こえるようになってきたのだ。
どうやら私はまだ生きているようだ。
ただ体の感覚がぶっ飛んでいた。
落ちているのか、水平飛行なのか、よくわからなかった。
現実の視界がまるでトンネルの先に見える景色のように遠く感じられた。
私はそれを手繰り寄せるように腹の底から息を吸って気合を入れた。
手の感覚が戻る、水平儀が見える。
右にハーフロール、ちょい機首上げ。
水平儀が水平を指した。だがガラスがなくなっている。まともに動作しているのか?
「ミミ、水平か?」私は聞いた。
「わあ、生きてた」
「水平?」
「水平、水平」
ミミ機が真横に並んで飛んでいることに気づいた。
「敵は?」
「ふふん、私が2機とも落としました」
「そうか。私の機体は?」
「左の水平尾翼がオシャカだよ。燃料も漏れてるね」
私は振り返った。確かに水平尾翼が片方行方不明だった。右だけで昇降舵が効いているのが不思議だ。
「そんなことより、ユキちゃん、ケガは?」
ああ、そういえば。
敵弾がコクピットに入った時、膝のあたりで赤い霧状のものが吹き上がるのが見えた。あれは自分の血か。
確かに飛行服の内股が赤く濡れつつあった。銃弾が床板に当たって弾けたのか、ふくらはぎの裏にも痛みがあった。
そして右肩も撃たれていた。服の破れ方からして腿と肩は貫通ではなく擦過傷だ。ケガをしている、という自覚のあとからじわじわと痛みが大きくなってきていた。
止血しなきゃ。でも傷口を見ると肝が竦んでおしっこを漏らしそうな気がした。いいや、マフラーで脚の付け根だけ縛ってあとは着陸後にしよう。
最寄りの島まで5分とかからない距離だったけど、それでも想像した以上に意識が朦朧としてきて、きっちりミミと並んで高度と速度を落としたところまでは良かったのに、肝心の着陸脚を下ろすのを忘れていた。ミミは何度も注意していたのに、その声が全然耳に入らなかったのだ。
私は胴体着陸で滑走路に滑り込み、ミミにコクピットから引きずり出された。間もなく飛んできたヘリコプターに乗せられたところまでは覚えているけど、そこから先はエンジンとローターの音が聞こえるばかりで、具体的な光景は何も記憶に残っていなかった。
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