サプライズ
排水路みたいに暗くてじめじめした部屋だった。どこからともなく水滴の垂れる音が響いていた。私たちはその中に閉じ込められ、各々湿布のように冷え切った布団にくるまって縮こまっていた。
私はレーションの箱から取り出した緩衝材の新聞紙を伸ばして壁に立てかけて読んでいた。手に持つと指が凍りそうになるからだ。
「ユキちゃんまた逆さに読んでるね」
ミミが芋虫のようにうにうにと這い寄ってきてそう言った。ロクに手入れもしていないのにさらさらとした黒髪が揺れていた。鳶色の目もきらきらしていた。ミミほど生気に溢れた少女はこの部屋には他にいないだろう。
「面白いの?」ミミは訊いた。
「脳を鍛えてるんだよ」私は言い返した。
きちんと理由があるんだ。
そう言おうとした時、外に天使がやってきて檻を開け、私とミミを呼んだ。
「ユキ、ミミ、おいで。出番が来たわよ」
「ほいきた!」ミミは布団を跳ねのけて飛び上がった。
私たちは16歳になるとコンバット・コンペティションに呼ばれる。そして顔も名前もわからない相手と戦って、殺すか、殺される。
それは私たちが捕虜だから、戦犯だから、らしい。
誰も確かなことは教えてくれない。もしかすると誰も本当のことを知らないのかもしれない。
16歳というのだって、今まで年長順に仲間が減ってきた経験から判断しているだけだ。
私はつい1週間ほど前に16歳になり、一番誕生日が近いのがミミだった。だからペアを組まされるとしたらミミだ。そう覚悟していた。
世話係の天使は少し年嵩で、カササギのような淡い灰色と水色、黒に塗り分けた翼を持っていた。名前はオリヴィアというらしい。ミミがそう呼ぶのでそうなのだろう。
オリヴィアはロッカールームで私たちの手錠を外し、壁掛けのフライトスーツを取って渡した。
着替えを済ませて格納庫に入る。高い天井に試運転するエンジンの轟音が響いていた。
「あなたたちに乗ってもらうのはこの2機。キ84、通称疾風」オリヴィアは声が通るように遠巻きに立ち止まった。
疾風は空冷エンジンを積んだ筒型の機首をシャッターに向けてとまっていた。当時の戦闘機は基本的に尾輪式なので地上姿勢が機首上げになる。
「茶色だかグレーだかわからない色だな」私は言った。塗装の話だ。舟形のシンプルな胴体側面に日の丸の赤と白縁だけが鮮やかだった。
「0」を矢印が斜めに貫通するような図形が垂直尾翼に描かれていた。それが部隊マークなのだろう。
「部隊は104戦隊。1945年中頃の再現」
オリヴィアが説明したが、ミミはそんなことにはろくに耳を貸さずにさっさとコクピットに乗り込もうとしていた。
「待って」オリヴィアはそう言ってミミを連れ戻し、両手を組んで目を瞑った。「旧文明の英霊に祈りを。アーメン」
「「アーメン」」
私たちも手を合わせて復唱し、頃合いを見て駆け出した。
気づけば心臓が鼓動していた。ドキドキしていた。
緊張、とは少し違う。
悪い気分ではなかった。
命懸けで生きているのは今も昔も変わらない。今はただ実物の飛行機に乗れるのが楽しみなのだろう。
20分ほど飛んでベースエリアで適当に島を選んで着陸、しばらく待つと整備班のヘリコプターが降りてきて設営を始めた。弾種と燃料の量を指定して準備完了だ。
「どういう作戦で行く?」ミミが昼食のレーションをかじりながら訊いた。
「最初は相手の出方を見よう。隠れて監視する」
戦闘開始の合図は電信だった。ベースは整備班の設備があって少し目立つ。私たちは別の島にひとっ飛びして機体にカモフラージュネットを被せた。
ハンドホイストを腰のハーネスにかけて塔を登り、滑走路から200mほど高いところで監視に入った。塔は高さ2500mほどの小規模なもので、完全に機能停止しているのか、草木が根づいてさながら巨大な木のように緑が茂っていた。枝葉の間は身を隠すにはうってつけだった。
24時間という制限時間は神経の消耗との戦いでもある。それから5時間ほどは全く動きがなかった。太陽が西に回り、空がほんのりとオレンジ色になってきた。
ミミはほとんど昼寝とスナックで時間を潰していたが、ある時ふと「聞こえる」と言った。
ミミがばりばりスナックをかじるのをやめると確かに「ウーン」という遠い唸りが聞こえた。敵チームが打って出てきたようだ。
木の枝で体を隠して双眼鏡を構えた。
「いたよ。東の方。向かってくる」とミミ。
敵機は右の側面を見せて3kmほど離れたところを通過した。
「機種わかる?」私は訊いた。
「ユキちゃん見えないの?」
「これだけ晴れてればミミの方が目が利くんだよ」
「スピットファイアに見える。赤丸の国籍マークだけど……こっちが日本機だもんね。あ、向かってくる」
「双眼鏡下げなよ、光るから」
感づかれたか? 機体が見つかったらそれで最後だ。一方的に地上撃破を食らうことになる。
だが2機のスピットファイアはほぼ頭上を通過した。
「気づいてたら真上は通らないよね」とミミ。
「真下は見えないからね」
「で、何型?」
「ちゃんと見といてよ。ラジエーターが左右で違うからマーリンエンジンだよ。機首も太いからマーク
「疾風で勝てる?」
「マークIXだからなあ。旋回もいいし、急降下も速いし、なんとか捕まらずに回り続けたら向こうの方が先にヘタりそうだけど」
「よし、ドッグファイトだ」
「ドッグファイトなんか絶対しないよ。性能で勝ちに行こうってのが一番バカな手だ」
「じゃあどうするの?」
「不意打ちだよ」私はホイストをリリースしながら答えた。「行くよ、ミミ」
カモネットを剥がしてミミ機の機首下に入り、慣性始動機の牛のように重たいクランクを回した。ウウーンと唸りが高まったところでクランクを抜いてコンタクトの合図。
プロペラがゆるゆる回り、排気管がボフッと黒煙を吐くのと同時に暴力的に自転し始めた。エンジンに火が入ったのだ。
ミミはちょっと吹かしてエンジンの回転を安定させた。
役割を入れ替えて私の機も始動、車止めを外し、わずかに動き出す機体に飛び乗る。
「離陸後高度そのまま。スピットを追うよ」私は無線機にヘッドセットのプラグを挿し、スイッチを送話に切り替えて言った。
「りょーかーい!」ミミが答える。
滑走路から飛び出せば高度はすでに2000m。水平飛行でスピードを上げる。敵機はすでに塵くらいの大きさになっていた。
「どうやって不意打ちするの?」
「着陸したところを狙うんだよ」
「警戒して降りないかもよ」
「待ってれば燃料が切れて降りないわけにいかなくなる。絶対こっちの方が長く飛んでられるんだから」
「どうして?」
「どうしてって……んなこと訊かないでよ。敵は偵察のためにもうかなりの時間飛んでるだろうし、スピットファイアはあんまり燃料を積めないんだ。こっちはさっき満タンにしたでしょ」
話している間に敵がぎりぎり飛行機の形に見える程度の距離まで近づいていた。相手の真後ろよりいくらか下方を取っている。かなり念入りに振り返っても見えない位置だ。敵が旋回したり背面になったりしない限り気づかれることはないだろう。
敵は2機で付かず離れず巡航速度で横並びに飛んでいた。それでも一応の警戒はしているのか、とある塔の上空でぐるぐると旋回を始めた。
「私たちが襲ってくるのを待ってるみたいだ」私は言った。
「気づいたのかな?」
「いや、警戒してるだけだと思う。たぶんあの下がベースなんだよ」
私たちは見つからないように少し距離をとって隣の塔の影の中で旋回を続けた。30分くらいは待ったはずだ。
「上昇して上から突っ込めばいいんじゃない?」とか、「左足が攣りそうだよ」とかミミ、は何度も痺れを切らしそうになっていた。
「ミミ、あまりやたらと無線を使うと気づかれるよ。相手もサーチしてるかもしれない」
「まったく、待つのも戦いだぜ」
少しずつ時計が進み、空は暗くなり、燃料計が下がっていった。
そしてその時はやってきた。
2機のスピットファイアが高度を下げて滑走路の延長線上に乗った。スピードを殺して翼の下に着陸脚を突き出している。
「行くぞユキちゃん」ミミが叫んだ。ヘッドフォンのネットがビリビリ震えた。
「待て待て。完全にエネルギーが死んでからだよ」
「なんで」
「今突っ込んで気づかれたらまだ多少動けるくらいまでスピードを戻せるでしょ」
「あと何秒?」
「20秒、いや15でいいよ。水平に飛んでいって直上から翼の付け根を狙って。私はミミが抜けてから真横を狙う。別行動、いいね?」
「りょーかーい」
カウントがゼロになったのか、ミミ機はパワーを上げてぐんぐん加速していった。エンジン音にババババッと破裂音が混じり、排気口がアフターファイアで光った。
私はスロットルは開かずに操縦桿を押し込んで機首を下げた。照準器のガラスの上端に地平線が重なる程度。どちらにしろもう塔の陰に隠れる必要はない。
敵のスピットファイアはもうどちらも着陸していた。1機は駐機場、1機は滑走路上で減速中だった。
途中でこちらに気づいたのか、減速中の方はふらふらと走りながら再び滑走路の軸に向きを合わせて加速し始めた。
しかし、そこにほぼ真上からミミ機が降ってきて曳光弾の雨を浴びせた。
翼の上で焼夷弾が爆ぜ、翼を突き抜けた徹甲弾がタイヤを貫く。脚が折れて翼で滑走路に滑り込み、そのまま火花を散らしながら燃え始めた。
ミミ機は滑走路甲板を掠めて下に突き抜け、大きく旋回して高度を戻した。
「ごめんごめん、1機しか撃てなかった」
「よく見えたよ」
私は先に駐機場に入った1機を狙って滑走路すれすれに水平に突っ込み、相手の機首を照準の真ん中に置いて撃った。銃口のスパークで一瞬視界が塞がる。
左に舵を切って離脱しながら振り向くと、空になった燃料タンクに焼夷弾が入ったのだろう、ちょうど爆発が起きた。走って退避するパイロットの背中に機体から吹き飛んだ何かの破片が直撃するのが見えた。それからしばらく見ていたが、パイロットが起き上がる気配はなかった。
たとえ襲われるのがわかっていても燃料が切れる前に滑走路に戻らなければならない。それが飛行機の宿命であり、ゆえにどれほど飛行性能が高い戦闘機でも足が短ければ長時間の戦闘でイニシアチブを握ることはできない。単純な空戦性能だけで勝負がつくほどこのゲームは甘くないのだ。
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