第18話 久礼異婦(クレープ)

 天女の部屋はシンプルに整頓されていた。余り女性らしさはなく、意味のない飾り、不要なポスターなど全くない。機能性を追求した合理的な部屋模様だった。

 奈々は服には目もくれず、三段目を探す。

 先ずは唯一のオブジェで、写真立てが飾られる机から。因みに写真は鈴を抱いた天女の後ろから肩を抱く透と云う構図だ。幸せそうな天女に嫉妬が湧く。前夫の写真は見当たらない。

 一番在りそうな所だったが、引き出しの三段目には母子手帳は無かった。

 他の三段目を探す。洋服ダンスの三段目、化粧台の三段目、本棚の三段目と探すが何処にも無かった。

 最後の本棚を探し終わった時に、四段目の家計簿が目についた。「下の家計簿」が頭に浮かぶ。再度三段目をよく探すが、やはり母子手帳のサイズの本らしき物はない。

 ふと[金令 の本]の背表紙が目に留まった。鈴は手書きだ。

 手に取ると箱形のしっかりとした外蓋の付いた本だった。

 外蓋を外す。下半分に母子手帳と臍の緒の箱があった。上半分には摘まめそうな小っちゃい手形が表紙になった小型の本。捲ると命名、出生日、出生時体重やらの情報や写真。

 奈々に赤ちゃんを授かった時の想像が広がり、子宮がドキドキと疼く。 

 自分が鈴を産んだ様な錯覚が起こる。

 ここに天女の鈴に対する愛が甦る。

 そこに天女の喜びが移ってくる。

 奈々が幸せを分けてもらった様に微笑む。

 母子手帳を手に取る。

 中は几帳面に項目が埋まっていた。

 アレルギーや持病はなく健康体で安堵する。

 予防接種もしっかりと埋まっていた。インフルエンザ菌b型、肺炎球菌、B型肝炎、3種混合、ポリオ、BCG、風疹、水痘と乳児期の接種は全て終わっている。

 唯一つ、日本脳炎が未接種だった。推奨は三歳から七歳。几帳面と思われる天女が忘れていたとは思えないが、ここ二年は忙しかったのだろうか。それともこれからの予定だったのだろうか。

 母子手帳を閉じる。

[金令 の本]を元に戻す。

 その時に下段の家計簿が目に入り、鈴の寝言が気に掛かる。

 全部で五冊ある。一番手前を手に取る。

 金額が記入されているから家計簿で間違いはなかったが、それ以外にもメモが無数に記入されていて日記の様相でもあった。

 最終ページが四月七日で天女が亡くなった日だ。

 右上に[355]の謎の三桁の数字だけが記入されていて後は空白だった。

 一ページ捲ると日が戻る。

 四月六日。

[透ちゃん誕生日。10時入籍。19時 二光 ¥38.000]等のメモが書かれ、領収書が貼られてある。

 金額に奈々の血の気が引いた。

 ここにも書かれてある右上の[364]の謎の三桁の数字は意味が判らない。

 その後も似たような内容が続く。

 たまに長文もあるが大抵は箇条書きで有った出来事が書かれてある。共通してるのは暗号の様に右上に書かれた三桁の数字。全てが350~370の間の数字だ。時折、[秀]や[ハートマーク]が付いていた。

 日記の様に使っている家計簿を何冊かパラパラと捲っていく内にその意味が解った。

 女の奈々だから解った。

 この数字は基礎体温だ。排卵日を知り、安全日や危険日を知る。

 ハートマークが何となく判った。

 そして[秀]は……透くんだ……

 嫉妬が湧きかけたが、直ぐに萎んで哀しさに代わる。

 四冊目を飛ばし一番奥の五冊目を取る。五年前の日記だ。

 特に気になる事もなく、一番後ろのページになった。

 それを見つけた時、奈々は目を見張った。

 古ぼけて、霞んで、薄汚れて、寂しい文字で書かれていたメモが貼ってある。


 ―――――――――――――――― 

|  命名 天女[あまめ]   |

|  母  勾玉宮 奈都    |

|  父  千横場 應     |

|  生年月日 xxxx年xx月xx日 |

 ――――――――――――――――


 そこにあった父親の名は―――奈々の父の名だった。

 その下に天女の手記で補足が書かれてある。

 玉庭家に託された時の産みの母のメモ。

 結婚のお祝いと一緒に祖父より―――と。

 奈々は心臓が掴まれた様に硬直した。

 これが本当なら、天女は奈々の実の姉だ。

 この時、奈々にあった違和感の正体が判った。

 不思議だったあの感覚の正体が判った。

 何故か、天女さんの鍵を使うことに、拒否感はなかった。

 何故か、天女さんの服を使うことに、拒否感はなかった。

 何故か、天女さんの文字を読む事に、拒否感はなかった。

 何故か、天女さんの存在を知る事に、拒否感はなかった。

 何故か、天女さんの思いに従う事に、拒否感はなかった。

 何もかも、全然嫌じゃなかった。

 鈴ちゃんのお母さんだからじゃなかった。

 透くんの敬愛するお姉さんだからじゃなかった。

 全部違ってた。

 その答えがここにあった。

 奈々は閉じた日記を胸で抱える。

 だって……血を分けた、お姉ちゃんだったんだから―――

 お姉ちゃん……ずっと一人っ子だった奈々に嬉しさと悲しさが同時に込み上がる。

 ねえ、お姉ちゃん……妹だから私を選んだの?

 お姉ちゃんは、私が妹だって知ってたの?

 もう決して返ってこない答えを求める。

 奈々は日記を再び開いた。そこに答えを求める様に。

 懸命に何か手掛かりが無いか探す。

 見つからないと他の簿冊を漁る。

 四年前の家計簿だった。

 そこに見慣れた名前を見つける。


 ―――――――――――― 

| ○○銀行院叡寺支店 |

| 支店長 千横場 應 |

| 住所  ××××× |

| 電話  ××××× |

| e-mail ××××× |

 ――――――――――――


 父の名刺が貼られてあった。

 姉は父と会っていたと思われる。

 その他には何も書かれていないので詳細が判らない。

 注意深く数ぺージを探る。

 一週間後にあった。

 千横場應が妻と娘と出かける姿を見かける、の記述。

 姉はこっそり見張っていたのだろうか、それとも偶然見かけただけだったのだろうか。

 それは別にどうでもいい。

 姉はどんな気持ちで見ていたのだろうか。何で名乗り出なかったのだろうか。

 今となってはそれも判らない。

 姉の心情を偲ぶ。

 涙が勝手に溢れてきた。

 お姉ちゃん……わたしは、会ってみたかった、話してみたかった……

 お姉ちゃん…………ごめんね、やっぱり会えないよね…………


 誰かが部屋のドアを叩く。

 間をおいて透が部屋へ入ってきた。

「奈々、どうした? まだ着替えて―――」

 奈々が泣き顔を上げ透を見る。

 透は奈々の有様に驚愕する。 

「どうした、奈々? 何があった?」

「……透くん」

「何だ」

「透くん」

「何だ、奈々」

「透くん!」

「な、何だ? どうした?」

「これ見て!」

 奈々が日記の家計簿を差し出す。

 怪訝に透が受け取る。

 透が見た。

「ほ、本当かよ……」

 奈々が頷く。

 透が見つめる。

「この千横場って、奈々のお父さんなのか?」

 奈々が頷く。

「これは、天女の日記か…… 天女が里子だったなんて、知らなかった……」

「それからこれ」

 奈々がもう一冊を差し出す。

「お姉ちゃんは、お父さんに会ってたみたい。それから、わたしのことも観てたみたい……」

 透が見る。

「本当だ。じゃあ、奈々は天女の妹で間違いないのか?」

「そうだよ。ねえ透くん、今日、お父さんに会って話を聞こうよ。鈴ちゃんにもお爺ちゃんとお婆ちゃんに会わせようよ」

「解った。じゃあ、病院に行ってからな。それより、鈴は元気になってからだぞ」

「そ、そうだった。鈴ちゃんの容体はどう?」

「あっ! そうだった。鈴、熱が下がり始めたぞ」

「ほ、本当? よかったぁ~」

「それより、奈々は、どうやってこれを見つけたんだよ?」

「母子手帳を見つけたの、そうしたらこれが近くにあったの」

「そうか……」

「ねえ透くん、これ少し借りててもいい? お父さんに見せてみたいの」

「ああ、でも天女の日記だろ、関係ない処は勝手に見せるなよ。俺も後で見てみたい……否、俺は見たくない」

 透が悲愴に口を噤む。

「じゃあ、わたし着替えるから、向こうにいっててよ」

「お、おう、そうだったな」

 透が消えると洋服ダンスを開ける。

 適当にパンツとシャツを選んで来てみるとぴったりだった。胸がきつい以外は。

 姉に包まれた様で穏やかな気分になった。


 熱は三十八度二分にまで下がっていた。

 鈴を抱く透に並んで病院に向かう。

 ゆっくり歩いて三十分程で病院に着く。

 町医者と言っていたが中病院程度の医療法人だった。内科、産婦人科、小児科とある。土夏家の人間は皆ここで産まれたそうだ。

 そこそこ混んでいた待合室で奈々に鈴を預けると、透が受付をする。

 鈴がうなされてママと呼んだ。

 隣の世話焼きそうな小母さんが言う。

「あらぁ、凄く若いお母さんね~ その子、娘さん? あなたが自分で産んだの?」

「はい、家の娘です。だけど、産んだのは、死んだお姉ちゃんです」

「そ、そうなの。ごめんなさいね、余計なこと訊いちゃって」

 小母さんはそれ以上訊いてこなかった。

 鈴が目を覚ました。

 周りを見回し病院と気が付いたのか、奈々にぎゅっとしがみ付く。

「すず、どこもわるくないよぉ」奈々を見上げ元気をアピールする。

 実際に、病院と知って急に元気が出た様だ。

「大丈夫だよ~」奈々が頭を撫でる。

「すず、おちゅうしゃするほど、わるくないよぉ」また、しがみ付く。

 奈々が額に手を当てる。まだ熱いが、本当に熱が下がっていた。

「ふふふ、そうだね。でも、念のために見てもらおうねぇ~」

「え~ なおったから、かえろうよ~」

「鈴ちゃん、ダメよ。ちゃんとお医者さんに診てもらって、何でもないって調べてから帰ろうねぇ」

「え~ ななちゃんのけちぃ~~」

「えっ、奈々ちゃんはけちじゃないよ。鈴ちゃんのためにはお医者さんに診てもらった方がいいんだからね、鈴ちゃんのためなんだよぉ」

「じゃあ、いけずぅ」

「ダメだよ、何を言ってもダメなものはダメです」

「うぅ~うん」口が尖る。

 それから鈴はずっと不機嫌だった。

 透が戻る。

「鈴、起きたのか」

「おとおさん、すずもうなおったよぉ」

「そうか、良かったな。でもちゃんと診てもらおうな」

 鈴が顔を背ける。

 かなり待たされてから鈴の名前が呼ばれた。

 鈴がびくんと肩を揺らす。

 奈々は泣きそうな顔の鈴を抱き抱えると拉致していく。



トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト



 帰りの鈴は機嫌が直って、るんるんとスキップを踏む。

 検査の結果、鈴は何でもなかった。今はもう平熱にまで戻っている。医者の見立ては知恵熱だった。脳に負荷が掛かったのだろうと。一応と熱冷ましを処方されただけだった。

 注射されなかった鈴はずっと上機嫌だ。

 途中の汽車公園を通りかかった時だ。汽車公園とは廃棄されたSLが設置された児童広場だ。その脇に古い電車の食堂車両を使用して建てられているレストランがある。

 鈴がお腹が空いたと駄々をこねる。

 隣の奈々も安心したのか空腹を訴える。

 甘々な透は自分も腹減ったと言って信念を曲げた。もう倹約家などとは呼べない。

 食堂車レストランはイタリアンだ。パスタとピザで腹を満たす。

 隣にクレープの屋台が併設されている。鈴が苺クレープを所望した。奈々にも伺うとバナナチョコを所望した。透は無意識に抹茶アイスを注文する。

 透は思い出す。前に一度ここで食べた日の事を。

 思い出したその時の記憶で戦慄した。今とぴったりと被る。席も同じ。人数も同じ。注文したクレープも同じ。違うのは天女が奈々に代わっている事だけだった。

 天女はもういない。でも奈々がいる。

 今の透にはもう、寂寥感は湧かない。

 だって、奈々が居てくれてるから―――

 三人が幸せの笑みでクレープを頬張る。

 言葉一つないが笑顔で満たされている。

 静けさの中に幸福感が漂う。

 三者三様に満たされた思い。  

 透の微笑みが言う。

 ありがとう、奈々、鈴。

 奈々の微笑みが言う。

 愛してるよ、透くん、鈴ちゃん。 

 鈴の微笑みが言う。

 おいし~い、お父さん、奈々ちゃん。

 透は思う。

 この幸せは当たり前の事なのだろうか、当然の事なのだろうか……そう思うことは、本当は、とても傲慢な事なんじゃないのだろうか。

 天女がいなかった時に比べたら、なんて幸せな事だろうと感じる。

 このしあわせをありがとう、奈々。

 透の腹が決まった。

 天女の四十九日までは待とう。天女に対する礼節と喪に服す義務感。最低これだけは守りたい。



ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ



 奈々は鈴が食べ終わるのを見届けると真剣な表情に変える。

「鈴ちゃん、あのねぇ。鈴ちゃんはお母さんのお父さんのこと知ってる?」

 鈴が首を横に振る。

 透は奈々が言い出すのを待ってた様に見届ける。

 鈴が答える。

「おかあさんがこどものときに、しんじゃったんだって……」

「そう…… それでね、そのお父さんとお母さんっていうのは、本当のお父さんとお母さんじゃなかったのよ。鈴ちゃんのお母さんはね、赤ちゃんの頃に貰われたんだって。さっき日記で奈々ちゃんが見つけたんだ」

 鈴が何が言いたいのか解らず戸惑う。

「それでね、鈴ちゃんのお母さんの本当のお父さんなんだけどね……奈々ちゃんのお父さんだったの」

「へぇ?」

「奈々ちゃんのお父さんと天女さんのお父さんは、同じ人だったの」

「えっ!」

「鈴ちゃんのお母さんは奈々ちゃんのお姉ちゃんだったの」

 鈴の口がぽっかりと空き、瞳が一回転する。

 鈴を見つめる奈々の視線も一緒に回る。

「鈴ちゃん? 理解できた?」

「え~とぉ~ おかあさんのおとうさんが、ななちゃんのおとうさん?」

「そうよ! 凄いよ、鈴ちゃん」

「へへぇ」

「それじゃあ~ 奈々ちゃんは鈴ちゃんのぉ、叔母ちゃんかな?」

「ななおばちゃん?」

「きゃあ~ ヤダ! 鈴ちゃん、絶対にそんな呼び方はしないで~ 今まで通り奈々ちゃんでいいから!」

「うん、わかった」

「それで、どう、鈴ちゃん。お爺ちゃんに会ってみたい?」

 鈴が透に顔を向ける。

「鈴の好きにしなさい」

 鈴が奈々へ顔を向ける。

「すず、よくわかんない」

「じゃあ、会うだけでも会ってみようよぉ」

 奈々に父へ会わせたい願望とその強引さが窺える。

 鈴が忖度する。

「ななちゃんがいうなら、いいよぉ」

「ありがとう、鈴ちゃん。じゃあ、透くんもいいかな、これから家に来るってことで」

「ああ、解った。それで何時頃に行くんだ?」

「う~ん、それは今から確認してみる」

「そうか、それなら取り敢えず、今日の鎮魂祭の練習は中止だな」

「そうね、ごめんね透くん」

「じゃあ、早い方がいいから、直ぐに帰って連絡しよう」

 

 帰宅した透は真夜や諸乎奈に鈴の発熱を理由に延期を依頼する。

 鈴の熱は下がったが奈々の父親へ件の真相を聞くまでは身が入らないだろうから。何かの勘違いと云う線も在り得るので早く確証が欲しい。

 奈々はまず真音へ連絡を試みる。

 今日の真音との長い履歴を眺めていると、突然、新しいメッセージが入る。

『その後、鈴ちゃんはどう?』

 奈々は咄嗟に電話を掛ける。丁度、時間は昼休み。

『奈々、中止にするなら早く言ってほしいんだけど。こっちも部活の都合があるんだからね!』

 突然の叱責に戸惑う。

「ごめん、真音。今日は中止でお願いします」

『そう、解ったわ。それで、姉妹だったって本当なの?』

「うん、ほぼ確定で間違いないんだけど、これから家に帰ってお父さんに確認してみるつもりだから」

『そうかぁ、じゃあ確定したらまた教えてよ』

「うん、分かった。じゃあね真音」

 奈々は次いで母親へメールを送る。

 直ぐに既読になり返信が来る。

『今日はお父さんもお母さんもお休みしました』

「えっ!」思わず奈々の口から洩れる。

 直ぐに続報が来る。

『お父さんに全部話したからね』

「うっ!」思わず奈々の口から洩れる。

 奈々が恐る恐る電話を掛ける。

『奈々ちゃん? 取り敢えず早く帰ってきなさい』

「分かった。今から帰ります」

『え? あなた学校はぁ?』

「ごめんなさい、今日お休みしました。鈴ちゃんが熱出したので病院に連れて行ったの」

『はぁ? 何であんたが連れて行くのよ?』

「何でじゃないよ! 私の娘だもん!」

『そ、そう……あんた完全に落ちちゃってるのね』

「はい、そう―――」

『奈々、俺だ! おまえは何やってるんだ! おまえは女の子で学生なんだぞ!!』

 突然、父親が乱入する。

「お父さん、そんなに怒鳴らないでよ! 今から帰って事情は話すから!!」

「事情? 男の家に押し掛ける事情とは何だ!」

「だから、帰ったら説明するって。でもお父さん、心配してくれてありがとう。わたしね、やましい事なんか何もしてからね、それだけは安心してほしいの……」

『本当か?』

「本当だよ。それよりお父さんにどうしても直ぐに聞きたいことがあるんだけど、勾玉宮奈都(まがたまみやなつ)さんって女の人知ってる?」

『な、何で奈々がその名前を知ってるんだ! それより勾玉宮奈都(まがたみやなつ)が正しい読み方だ』

「し、知ってるのね! その人はお父さんの昔の女の人なの?」

『ああ、母さんと知り合う前に付き合ってた女だ』

「実はね、お父さん。落ち着いて聞いてほしいんだけど、その女の人がお父さんの子供を産んでたらしいの。その子は女の子で玉庭天女って言うんだけど、生まれてから直ぐに里子として受け入れたらしいの。その子がお父さんと勾玉宮奈都さんの娘だったの」

『…………その子は今、何処に居るんだ!』

「もう死んじゃったよ。お母さんから聞いてるなら誰だかもう分かってるでしょ?」

『ああ、それが例の同級生の奥さんか?』

「そう、それと天女お姉ちゃんには娘が一人いるんだよ。鈴ちゃんって言うんだけど、これからお爺ちゃんに会わせに行くからね」

『お、お爺ちゃん……」

「じゃあ、待っててね」

 奈々に突然降り注いだ姉であった事実は、あたかも天女が言い訳を用意してくれた様だった。


 奈々は透と鈴を引き連れ実家のリビングへ入る。

 父と母が神妙な顔で迎える。

 奈々が透と鈴を前に即す。

 透が緊張感をうまく隠し言う。

「初めまして、土夏透です。奈々さんにはいつもお世話になっております。この度は、娘さんに大変なご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

「違うよ透くん! わたしが勝手に押し掛けたんだから、迷惑をかけたのはわたしの方だよ。だから謝らないで!」

「え! でも結果的にはそうなったんだから……」

「いいの! 謝ったら透くんが悪いみたいじゃない」

「でも……」

「はい。じゃあ次、鈴ちゃん」

 奈々が委縮している鈴の後ろに周り肩に手を置く。

「はじめまして、どなつずずです。ごさいです」

 鈴がぺこりとお辞儀をすると、奈々の両親の顔が途端に綻ぶ。

「わっ!」突然、母が口を押える。

「ま、間違いないわ、應(あたる)さんにそっくりだわ。あっ、ごめんなさい、奈々の母親の多和芽(たわめ)です。はじめまして」慌てて猫をかぶってお淑やかにお辞儀をする。

「はじめまして、父親の應です」若輩者と侮らない誠実なお辞儀をする。

「取り敢えず座って話そうか」いつもの優しい父が言う。

 テーブルに椅子は四つしかないので、奈々が鈴を膝に乗せる。

 その自然な母親の所作に両親が唖然とする。

 奈々が鞄から天女日記を取り出す。

「これは亡くなったお姉ちゃんの日記です」例の頁を開いて示す。

 父が食い入るように見つめる。

「この生年月日は……間違いない俺の子だ」

 全員が次の言葉を見守る。

 父が神妙に話し始める。

「俺が大学生の頃だった。当時、ホステスだった彼女と知り合って半年ほど同棲してたんだ。そんなある日、彼女は置手紙を残して突然いなくなってしまった。[あなたに飽きたから さよなら]ってね。俺は遊ばれていたんだと思った。でも……あの時、彼女は妊娠三か月だったんだな。多分、俺に話したら絶対に堕胎(おろせ)って言われるとでも思ったんだろう。現にその当時の俺には子供を育てる経済力なんてなかったから。そうじゃなかったら、学校を辞めて無理にでも働きに出たかもしれない。今の銀行員なんか成れていなかったよ。彼女が消えた理由は、多分、そう云う事だ……」

 父は必死に涙を堪えていた。

 娘の前で泣き顔は見せられないと顔を顰める。

 奈々は目を赤くして遺影を取り出す。

「お父さん、お姉ちゃんだよ」

 父が震える手で遺影を掴む。

 しばらく見つめていると抱きしめて嗚咽した。

 父は人目も憚らず泣いた。

 奈々は初めて父の泣き顔を見た。

 奈々がまだあると続ける。

「お父さんは、一度、天女お姉ちゃんに会ってるよ」

「な、何だって!!」

 奈々がもう一つ天女日記を取り出す。

 例の名刺の頁を開いて示す。

「覚えてない?」

 父が日付を見つめ考え込む。

 視線が遺影に戻ると言った。

「思い出した! 確かにこの子だった! 窓口嬢が名刺を欲しがっていると俺の所に来て、名刺を渡したんだ。その後、『娘さんですよね。隠しても判りますよ。お顔がそっくりですもの』って言われてな。俺は娘は今、中学校だよって言ったんだが、そうか、あの時に会ってたのか……」

 奈々が一週間後を捲る。

「それから、これ」

 父が固まった。

「わたし、今なら分かる。何でお姉ちゃんが名乗り出なかったのか。多分、お姉ちゃんは、家の家庭を壊したくなかったんだよ」

 母が突然嗚咽する。

 しばらくすると言った。

「なんて馬鹿な事を、私の事なんか、気にしなくてよかったのに…… 應さんの娘なら、私の娘なのに」

 奈々まで釣られて泣き出した。

 透と鈴は千横場家の惨状に見詰め合って戸惑う。

 奈々が気付いて言う。

「ごめんね、鈴ちゃん、透くん」

「否、気にするな」

 最初に母が復帰した。

 鈴を奪って言う。

「だから鈴ちゃんは私の孫だからねぇ」

 母が鈴を抱きしめる。

 鈴は為されるままに立ち尽くす。

 父が慌てて近づく。

「勿論、鈴は俺の孫だぞ」

 鈴が二人に揉みくちゃにされる。

 鈴は忖度が出来る子だった。

 父が立ち上がり突然言った。

「今夜は天女の弔いと鈴のお祝いでもするか」

 母が立ち上がり言う。

「そうね、じゃあ私はお買い物にいってくるわ。奈々も一緒に来なさい。それと鈴ちゃんも一緒に来る?」

「うん、おばあちゃんといっしょにいく~」

「まあぁ~ お婆ちゃんだって、ふふふ」

 奈々はお婆ちゃん呼びを嫌がらない母へ驚愕した。



トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト



 透は應との二人きりに居辛さを感じた。

 咄嗟に土産を思い出す。

「そうだ、お土産があるんです」

 透が持参したクーラーボックスを開ける。

「何だ、子供がそんな気を使わなくていいんだぞ」

 應が謙遜気味に窘める。

 透が一升瓶をテーブルに並べた。

「こ、これは……」應が目を見張る。

「奈々さんからお酒が大好きだと伺っていましたので、家の秘蔵の地酒をお持ちしました」

 應が生唾を飲む。

 一本目を手に取る。ラベルには[白山姫]の銘柄。

 二本目を手に取る。ラベルには[クシヰ]の銘柄。

 三本目を手に取る。ラベルには[ぬな加]の銘柄。

 四本目を手に取る。ラベルには[陰陽師]の銘柄。

 應は手を震わせ戻す。

「こ、これは、幻の地酒じゃないか、それも全部、大吟醸……」

「僕はお酒を飲まないんで困っていたんです。年々溜まる一方なんで、どうか遠慮なく貰って下さい」人によって俺と僕を使い分ける透。

「た、堪る一方だと?」

「家の亡き父が若い時に、蔵元が存亡の危機だと融資したらしいんですよ。それで株主になってたみたいで、それを相続した僕の所に毎年無料で送ってくるんです。既に五本ずつ溜まってるんで困ってたんです。だから、本当に遠慮なさらずに貰って下さい。お酒が好きな人に貰って頂ければ、こいつらも喜びますんで」

「ほ、本当に、貰ってもいいのかね? これは幻の地酒で簡単には手に入らない物なんだぞ?」

「ええ、本当に構いません。奈々さんにはこんな物じゃ払い切れない程の恩がありますので」

「と、透君! 是非、娘の奈々を貰ってくれないか!」

「それだと酒で娘を売るみたいですよ?」

「あっ! そうだな、今のは無かった事にしてくれ」

「勿論です。お酒なんかで大事な一人娘を売ったら大変な事ですよ」

「そ、そうだな」

 奈々のポンコツは父親譲りなんだなと思う透だった。

 これで銀行の支店長が務まるのかと訝しむ透だった。

 天女と正反対で本当に親子なのかと怪しむ透だった。

「それで、その株価はどのくらいなんだ?」

「え~と、ごめんなさい。売る気はないんで覚えてません。けど、毎年の配当は全部合わせて五百万ぐらいです」

「ご、五百万! なんと! 透君! 是非、娘の奈々を―――」

 透が無言で軽蔑の目を向ける。

「じょ、冗談だよ」應が堪らず立ち上がる。

 食器棚がらグラスを二つ取り出す。

 どれにするか迷って一本を選ぶ。

 何故か二杯のグラスに適量を注ぐ。

 ワインの様に香りを嗜んでから口に一口含む。

「うおぉ~ この芳醇な味わい。流石は幻の逸品だ!」目が爛々と輝く。

「もしかして、これは僕にも飲めと云う事ですか?」

「そうだよ、せっかくの逸品なんだ、味見ぐらいしてみなさい」

「でも、僕は未成年ですよ」

「いいから、いいから。味見なんだから気にするな。それにいい酒は悪酔いしないんだよ」

「でも、未成年なんで」

「透君、結婚して収入がある男は、もう一人前なんだよ。充分成人と呼んで差し支えないんだ。ましてや家の中なら令状がなければ捜査何かされない。だから安心して飲んでみろ。今までに飲んだ事はあるんだろ?」

「はい、正月とかに一口だけ」

「じゃあ、拒否反応とかは問題ないな。一杯程度なら大丈夫だろう」

「そ、そうですか?」

「そうだ、おれの息子になるならぐいっといってみろ」

「は、はい」

 透が一口飲む。

「うっ! えっ! 凄く口当たりがいいですね」

「そうだろ、そうだろ。これが銘酒って奴だ」

 透は一口で顔が真っ赤になった。

 應は水の様に二杯三杯と飲み続ける。

 酒が入った瞬間、雰囲気ががらりと変わる。

 親しみがじわりじわりと溢れ出す。

 少し酔い始めると應が言った。天女の話を聞かせてくれと。

 透は知っている天女の半生と逸話を話す。天女の実の父親に。

 應は始終、頷きながら聞いていた。

「天女は何で過労死する程、働いていたんだ。経済的に逼迫はしてなかったんだろう?」

「それは、天女は責任感が強かったんです。それにワーカホリックでした。仕事が楽しいって言ってましたので」

「会社には訴えなかったのか?」

「はい、強制されていた訳ではなかったので、逆に子供がいるんだからと早く帰れって言われていたそうです」

「それは誰から?」

「本人です」

「そうか、取り敢えず、その会社の名前を教えてくれないかな」

「え? 何か気になる事でも?」

「ああ、ちょっと気が済むまで調べてみたいんだ。何もなければそれはそれでいい」

「そうですか。じゃあ後で連絡します。それじゃあ、連絡先を交換しましょう」

 透と應が電波を繋ぐ。

 透が未開封の三本を指さして言う。

「これは今日中に全部、飲んじゃうんですか?」

「まさか、流石にそれは勿体ないな。これからの楽しみとしてじっくりと飲んでいくよ」

「それじゃあ、直ぐに冷蔵した方が劣化しなくていいと思います。冷蔵庫の野菜室何かがいいそうです。」

「ほおぉ~ 透君はお酒の事がよく解ってるじゃないか。酒を飲まないのに何処で聞いたんだい?」

「父が酒好きでよく言ってましたので。それに日本酒用の保冷器まであるんです」

「おお、それは凄いな。昨今はワインブームとかでワインばかりちゃんとした保存をするのに、日本酒はほったらかしなんて酒屋が多い。本当に日本酒軽視も嘆かわしい事だよ」

「家の父も同じ事を言ってました」

「そうか、生きてるうちに一度、会ってみたかったものだ」

「……」

「そうだ透君、天女の四十九日には、是非俺にも参加させてくれないか?」

「はい、勿論です。天女の父親なんですから。あれ? そうすると、僕のお義父さんって事にもなりますよね? 僕は天女の夫ですから」

「そ、そうだな、もう息子だったわ。ははは」

「じゃあ、お義父さんってお呼びしますね」

「そうだな、序に多和芽もお義母さんって呼んでやってくれ。どうせ何れそうなるんだ、そうだろ? 違ってないよな!」

「は、はい。間違っていません」

 透は凄みのある威圧に、思わず怯んだ。

 その理由は顔が怖いだけではなかった。酔ったお義父さんは間違いなく天女の父親だ。顔が酔った天女にそっくりだった。あの怖い天女に。



ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ



 外に出ると母が真っ先に言った。

「鈴ちゃ~ん! 鈴ちゃんはお肉好きぃ」

「うん、すずだいすき~」

「鈴ちゃんは、基本、何でも食べれるよ。ピーマン以外は」

「流石、母親を名乗る事だけはあるわね。じゃあ、しゃぶしゃぶか、すき焼きにしようかしら」

「すず、すきやきがいい~」

 鈴は仕切る母ではなく、奈々に向かってせがむ。

「それじゃあ、そこのスーパーでいいわね」

 母は羨ましそうに奈々に言う。

 その顔が怪しく笑うと言った。

「そう云えば、奈々ちゃん。今朝あんた目覚まし時計止めていかなかったでしょう?」

「あっ!」

「正直に言いなさい。あんた何時に家を出たの? まさか、夜中に抜け出したなんて言わないわよね」

「……」

「図星の様ね。あのねぇ奈々ちゃん。若い女の子が夜中に出歩くって凄く危ない事なのよ。そんな事も分からないお馬鹿さんだったの? それに、高校生なら補導されるのよ。場合によっては停学処分とかになって、推薦や指定校の候補から外されたりするのよ。そんなリスクを負ってまでどんな理由があったって云うの?」

「そ、それは、透くんの緊急事態だったの。凄く落ち込んでて、どうしてもわたしの支えが必要だったの。だから、わたしじゃないとダメだったの……」

「そう、まあ結果、無事だったんだから見逃すとするとして。でも、二度とこんな馬鹿な事はしないでよね」

「ごめんなさい」

「それで、奈々ちゃん? 透君って凄いイケメンじゃない。その後の進捗はどうなの? 上手くいきそうなの?」

「え~とねぇ、昨日キスして貰った。だからもう大丈夫だと思う……」

「そうかぁ―――」

 鈴が告げ口で割り込む。

「おとおさんとななちゃん、あさもキスしてたよ」

 突然の鈴の暴露に奈々が戸惑う。

「へぇ~~ もうラブラブなんじゃない」

「お母さん、止めてよ……」

 奈々が真っ赤になって鈴の手を強く引く。

「それからね、お母さんのお弁当のおかず、間違って持って行かないでね」

「えっ!」

「あんたぁ、まだ気付いてなかったの?」

「あっ、やばい! お弁当、まだカバンに入れっぱなしだ~」

「まったく、誰に似たんだか。本当にこの子は……」


 親子三代には見えない三人が仲良くスーパーに到着する。

 どう見ても年の離れた姉妹とその母親だった。

 又は年の離れた姉妹とその姉の娘と云う構図か。

 でも振り返る男達からは、ほとんどが奈々と鈴のそっくりな美人姉妹を見る様相だ。

 母が高級和牛を手に取る。

 倹約家の母に信じられない目を奈々が向ける。

「お母さん、そんな高い肉を本当に買うの?」

「そうよ、でもすき焼きにはちょっと勿体ないかしら。やっぱり、いいお肉ならしゃぶしゃぶかしらね」

「え~ すずスキヤキがいい~」

 母が鈴へ満面の笑みを向ける。

「分かったわよ鈴ちゃん、でも鈴ちゃん、しゃぶしゃぶって知ってる?」

 鈴が首を振る。

「すず、スキヤキがいい~」

「はい、分かりました。鈴ちゃんの好きなスキヤキにしますよ」

「ありがとう、おばあちゃん」

 母がまた、満面の笑みを向ける。

「それで奈々ちゃん、透君って、よく食べる方?」

「そうね、普通の男子高校生並みだと思うよ。それでもお父さんの二倍は食べるかな?」

「へぇ~ やっぱり男の子は違うわねぇ。私、男の子育てた事ないから、すっごく楽しいかも~ うふふ」

「そ、そうなの。でも透くんはダメだよ」

「何が駄目なの? 奈々ちゃんは何か変な勘違いしてないかしら。私は息子が出来たみたいだって喜んでるだけよぉ」

「そ、そうね……でも、透くん優しい年上の女性が好きだって言ってたから、ちょっと気にしただけよ」

「そうなんだ~ 透くん、年上の女性が好きなんだ。じゃあ、奈々ちゃん、お母さんに取られない様に頑張らないとねぇ」

「や、止めてよお母さん。お父さんに言い付けるよ」

「まあ、妬いてるの奈々ちゃん。そんなに自身がないんだぁ」

「そんな事ないもん」

 奈々が頬を膨らます。

 母が何時もの三倍はある肉の量を籠に入れた。

「本当にその高級和牛を買うの? 信じらんない」

「あのね奈々ちゃん。家は普段倹約してるけど、別にケチって訳じゃないのよ。今までだってここぞって日にはお金を惜しんではいなかったでしょ。只、あのレベルの外食でもっと安く家で出来るから、外で食べなかっただけだからね」

「そうなんだけど……」

「それとも何? 今日は特別な日なんかじゃないの? あなたのお姉ちゃんの弔いと孫の鈴ちゃんが出来た事の特別な日なんでしょ? 私達の人生に於いても結構重要な日なんじゃないのかな。だからこんなもんじゃ全然割に合わない位だと思わない?」

「そ、そうだね! 分かった。じゃあお母さん、鈴ちゃんイチゴショートのケーキが大好物だから、あの高級ケーキ店で買っていこうよ」

「そ、そうね。分かったわ、鈴ちゃんの為だもんね」

「や、やったぁ~ おばあちゃん、ありがとう!」

 鈴が涎を垂らしそうに燥ぐ。

 鈴は食べ物で釣る母に易々と落ちていっている。

 その他の食材を見て終わると漠然とお菓子売り場に至る。

 母が突然言う。

「鈴ちゃん、好きなお菓子を好きなだけ選んできていいわよぉ~」

「え~ いいのぉ~ ありがとう、おばあちゃん!」鈴が歓喜で走る。

「ちょ、ちょっと待って、お母さん!」奈々が叫ぶ。

 周りにいた子持ちの母親達が一斉に奈々を見た。

 鈴ちゃんが母をお婆ちゃんと呼ぶ。奈々が母をお母さんと呼ぶ。奈々は制服を着ている。それが意味する事は―――奈々が女子高生にして五歳の子を産んだ母親と見られている。おまけに奈々と鈴はそっくりだ。

 奈々は不謹慎は女とし見られている。軽蔑の視線を感じる。

 羞恥心に思わず呟く。

「……違います。この子は姉の子です」

 周りが安堵の表情に代わった様に見えた。

 その直後に奈々へ猛烈な後悔が襲う。

 猛烈な寂寥感が奈々を襲う。

 鈴ちゃんはわたしの子じゃない。そう言ったのも同然だった。

 決して嘘を吐いた訳ではないが、羞恥心で出た自分の言葉に、無性に腹が立つ。

 奈々が思わず叫ぶ。

「違います。この子はわたしの子です」

 奈々は透の了承もなく母親を名乗り、嘘を付く。

 羞恥心にも甘んじると嘘を吐く。

 鈴の母親に成りたいとの思いが腹を括る。

 俗に云う母は強しの心境に至る。

 鈴が籠に並々とお菓子を詰めて戻ってくる。

 奈々は慌てて止める。

「鈴ちゃん、ダメよそんなにたくさん」

「えっ! だっておばあちゃんがいいっていったもん!」

「いくらなんでも、それは多すぎ~」

 鈴が不条理に口を尖らす。

「鈴ちゃん、お婆ちゃんが良いって言ったんだから、良いのよ!」

「ダメ! お母さんも好きなだけなんて、いい加減なこと言わないでよ!」

 厳しい母親と甘い祖母とが火花を散らす。

 母は強し、祖母は甘し。

 居たたまれない鈴は、黙ってお菓子を戻しに行く。

 奈々の指示に従った鈴を見て、多和芽が奈々へ食って掛かる。

「あのね、奈々ちゃん。人生には晴れの日ってのがあるの。お祭りで羽目を外すとか云うでしょ? さっきも言ったけど、今日はとっても大事な日なのよ。だから特別に我儘を許してあげるのよ。お母さんだってそんな事、最初から解っています」

「でも、鈴ちゃんは土夏家の子供なのよ。子供を無暗に甘やかさないって方針があって、天女お姉ちゃんもずっと守ってきたものなの。だから、わたしはその意思を継いでいかないといけないの」

「甘やかすってね、別に鈴ちゃんがあれもこれもって言ってきた訳じゃないでしょ? それを安易に許す事がいけないって事なんじゃないの?」

「でも、それが当然だって思ったら、我儘になっちゃうもん」

「それが躾なんじゃない。聡い子はちゃんと解るものよ、要は個人差なのよ。いくらなんでも頭ごなしにおねだりさせないッてのは、ちょっと違うんじゃないのかな?」

「わたしは分別が付くまでは、それでいいと思ってるもん」

「その通りよ。実はねお母さん、もう鈴ちゃんには分別が付いてる様に見えるの。五歳なのにとっても賢そうじゃない」

「え~ まだ五歳だよ! あっ! でも鈴ちゃん、もう字が書けるんだよ。凄いんだよ」

「えっ! そうなの、凄いじゃない。家の孫は天才かも~」

「でもねお母さん。やっぱり好きなだけってのは良くないよ~」

「だから今日だけよ。それに籠一杯なんて高が知れてるじゃない。もし籠を増やしたら流石に止めるから、現に鈴ちゃん籠一つだけだったでしょ? それは分別があるって事だよね?」

「そうだけど……」

「それにね。逆に禁欲が過ぎて大人になって経済力が付くと、その反動で可笑しくなる大人になったりするのよ。大人買いとかあるでしょ。分別があるのに無理に締め付けるって、鬱憤が貯まると思うんだ。何事も程々が一番いいのよ」

「でも……」

「あのねぇ、奈々ちゃんだって、お母さんからこうやって育てられてきたのよ。あなたは分別がないほど我儘になった? ちゃんと時と場所を弁えられてるでしょ? だからそんなに心配しないでも大丈夫よ。まあぁ、奈々ちゃんはちょっと我儘だけどね、うふふ」

「でも、やっぱり籠一杯は多すぎるよぉ、わたしのお小遣いじゃ絶対に真似できないもん。狡いよお金がいっぱいあるからって~」

「何だ、奈々ちゃんはやっぱりそこを気にしてるだ。だから今日は特別な日だから良いのよ。お婆ちゃんだけに出来る事をやらせてよ」

「え~ でもぉ~ それだと鈴ちゃん、お母さんにばかり懐いちゃうじゃない。それに、わたしがそれを許したら透くんに顔向けできないもん!」

「まあぁ、その意地っ張りな処は誰に似たのかしら」

「そんなの決まってるじゃない。お母さんです」

「違います。お母さんは全然意地っ張りじゃありません」

「嘘ばっかし……」

 多和芽が落ち込む鈴に話しかける。

「ねえぇ鈴ちゃん。鈴ちゃんのお母さんは、お菓子とか全然買ってくれなかった?」

 鈴が首を振る。

「おねがいすれば、かってくれた……」

「ほらぁ、奈々ちゃん。いくらなんでも我儘は一切許さないなんて、今時は有り得ないよ。普通は少しぐらい効いてあげるって、無制限に効かなければ問題はないでしょ?」

「うっ、嘘ぉ…… だって、透くんがそう云う家訓だって言ったんだもん……」

 多和芽が続けて訊く。

「ねえ鈴ちゃん? 鈴ちゃんはおねだりしちゃいけないって言われてたの?」

「あのねぇ、おかあさんはねぇ、おとおさんはあまいから、おとおさんにはしちゃダメだっていったの」

「なぁ~んだ~ そうゆうことか~ 透くんだけだったんだ」

 鈴が続ける。

「あと、しらないひとには、ぜったいにかってもらっちゃダメだって」

「そうだね。じゃあ鈴ちゃん、お婆ちゃんが許すから、もう一回取ってきていいよ~」

「うん、ありがとう、おばあちゃん」

 鈴がまた走る。

 奈々が呟く。

「まさか、透くんは知らない人、扱い?? 違うよね?」

「奈々ちゃん? 馬鹿なこと考えないの。多分、独占欲よ、今のあなたと同じ」

 奈々は歓喜する鈴に嫉妬を覚える。

 奈々は指を咥えて見てるしかできなかった。

 奈々は金の力で鈴の関心を引く大人に無性に腹が立った。

 所詮、親に養って貰っている身である奈々は、仕方なく堪える。

 この後、あるお願いをする積りでいる奈々は、断腸の思いで耐える。

 奈々は早く大人に成りたいと強く願った。


 家に帰ると仰天した。

 父が酔っ払っている。

 透の顔が赤い。

 驚くのも束の間、奈々は透と父の打ち解けた様子に安堵する。

 奈々と透の日本酒贈賄作戦が功を奏した様だ。まさかその場で飲むとは思わなかったが。

 母が怒った顔でどすどすと迫る。

「あなた! 昼間っから何で酔っ払ってるのよ!」 

「い、いや、透君がお土産にってくれたんで、つい……」

「何がついよ! それから、透君の顔が赤いけど、まさか未成年者に飲ませたりしてないわよね?」

「い、いや…… 味見しただけだ……」

「それは、飲ませたって事かしら?」

「そ、そうだ……」

 母が父の頬を叩く。

 まさかの母の暴力に唖然と視線が集まる。

「いい加減にして! 学校にもし知れたら飛んでもない事になるのよ! 停学にでもなったら調査書に何て書かれるか判ったもんじゃないわよ。下手すると人生が終わるのよ。解っててそんな事したの?」

「い、いや、絶対にばれないから……」

「何が絶対よ。大抵は急性アルコール中毒とかで病院に運ばれてばれるのよ。それから依存症にでもなったらどう責任とるのよ。天女さんに顔向けできるの?」

「……急性アルコール中毒は、最初に確認したから大丈夫だ」

「それでも何で未成年者に飲ませるの? 何のため?」

「つ、つい嬉しくなっちゃって、それに、息子と飲むのが俺の夢だったんだ。だから、娘の夫ができてつい、浮かれちゃって……」

「それ、あなたの只の自己満足じゃない。良い大人が、子供のリスクも考えないで馬鹿な事言わないでよ、いい加減にしてよ!」

 父が絶句する。

 奈々は喧嘩なんか滅多にしない仲のいい両親に、驚愕する。

 透が割って入った。

「お義母さん!」

「へぇ! お、お義母さん?」

「お義母さん、僕はもう大丈夫ですから。もう少し経ったら酔いが醒めて元に戻りますから。すいません、僕がお酒なんかお土産に持ってきたばっかりに。お酒が好きだって聞いてて態と持ってきた僕の責任です。それに、天女を亡くした寂しさで飲まずには要られなかったんです。だから、自己満足だ何て言わないであげて下さい」

 透が敬具する。

 父の透を見る目が羨望に変わった。

 母の怒りが瞬時に鎮火した。

「そ、そうね。透君がそう言うなら、分かったわ。確かに亡くしたんだったわね……ごめんなさい、あなたの気持ちも考えないで……」

「え~ん」鈴が突然泣いた。

 母の変貌に驚いたのだろう。

 奈々が抱き抱える。

「大丈夫よ、鈴ちゃん」

 透がにこやかに言う。

「そう云えば、天女も結構お酒が好きで、絡み酒だったんです。それで鈴は、酒癖が悪い人が大嫌いです」

「えっ!」父が立ち上がる。

 そう云えば、父もそこそこの絡み酒だった。

 父が慌てて酒を片しだした。

「それじゃあ、ちょっと早いけど鈴ちゃんのお祝いを始めましょうか」

 母がそう言うとテーブルにケーキを置いた。

 透が思わず恐怖に声を漏らす。

「み、三日連続……」


 遅くなる前にと透と鈴は帰って行った。

 父の頼みで天女の遺影は一日だけ貸し出されて、千横場家で預かる事になった。

 何かお姉ちゃんが家に泊まりに来ている様な雰囲気だ。

 父は遺影を肴に晩酌を始める。

 奈々が久しぶりにお酌をする。

 父がさっき透くんから聞いたんだとお姉ちゃんの半生を語りだす。 

 奈々が知らなかった事も結構有り、お酌をしながら付き合う。

 透は最愛の妻だったその父親へ包み隠さず話していた。

 それに付随する透の半生も含まれていたのだ。

 父と透が急に打ち解けた理由が窺えた。

 奈々より天女の事を詳しく知った父へ嫉妬心が湧く。

 実の父娘だったのだから仕方がない事なのだと割り切る。

 一緒に聞いていた母が終わった頃合いで言う。

「透君って、高校生とは思えない程、立派な青年だったわね。それにかなり辛辣な人生を歩んできたみたいね。これからは私達が親代わりに成って支えていってあげましょうよ」

 父が辛辣に言う。

「そうだな……出来るだけ支援はしていこう。それに知らなかったとは云え、俺の娘の夫なんだ、もう息子も同然だな。孫の将来の事もあるし、奈々同様に鈴ちゃんにもこれから惜しみない援助をしていこう。多和芽には付き合せて申し訳ないが、よろしく頼むよ」

「何言ってるのよ。あなたの子供なんだから、私の子供も同然じゃない。そんな他人行儀な事、言わないでよね」

「そうか、ありがとう」

「それで今は奈々が料理や洗濯をしに通っているみたいなんだけど、思い切って二人共、家に誘ってみるのはどうかな? 私も直ぐに面倒をみられるし、学生の時分だけだけど、奈々も透君も勉学に励めて凄く負荷が減ると思うんだよね。これが一番いい支援になるんじゃないかな。ねえ、妙案でしょ?」

「家に余ってる部屋何かないだろ?」

「それは、あなたの書斎を空ければいいじゃない。そこに奈々も押し込んじゃって、奈々の部屋を代わりの書斎にしてあなたと私の仕事部屋で充分だわ」

「ちょっと待ってお母さん! わたし同棲するの? まだそんな関係じゃないよ?」

「いいじゃない。どうせ何れそうなるんでしょ?」

「う、うん。そうなんだけど……」

「じゃあ、それで決まりね。どうあなた?」

「俺はそれで構わないが、肝心な透君が了承するかな? 話を聞く限りだと、結構な伝統がある家系らしいじゃないか。一時的だろうが家を出る決断をするかな?」

「わたし、透くんは絶対に来ないと思う。だってあのお屋敷と伝統に誇りを持ってるもん。絶対にうんって言わないよ」

「そ、そうなの? 妙案だと思ったんだけど……」

 奈々が絶好のタイミングだと決断する。

「そ、それでね、お父さんとお母さんにお願いがあるの! 透くんのお屋敷なんだけど、昔、下宿をやってたらしくてお部屋が凄く一杯余ってるの。だからわたし、そこに住み込みで暮らそうと思うの、ちゃんと部屋の鍵もかかるらしいから、寝る時だって安全だし、絶対に変な事はしないから……」

「駄目だ!」「いいわよ」

 父が母の顔を不思議だと覗く。

「多和芽? おまえは何を言ってるんだ。奈々は嫁入り前の娘だぞ」

「いいじゃない。今時、生娘で結婚だなんて流行らないわよ。それより奈々ちゃん、もしもの時は透君、ちゃんと責任は取ってくれるんでしょうね? 散々遊んどいて飽きたから、はい、さようならなんて女として絶対に許せないからね!」

「は、はい、もちろん大丈夫です!」

「じゃあ、許可します。但し、絶対に妊娠はしないこと!」

「わ、分かってるよ~」

「ちょっと待て! 俺は許可しないぞ。家にいるならまだ目が届くが、他所に預ける何て駄目に決まってるだろ」

 母が父を睨んで言う。

「ねえ、あなた? 奈都さんでしたっけ、私と結婚する前に付き合っていた女。あなたは結婚前に女を孕ませたのよね。結果的に何の責任も取らなかったのよね。知らなかったとは云え、奈都さんのお父さんに会わせる顔があるの? そんなあなたが……どの口で許可しないなんて言えるの?」

 父は完膚無きまで打ちのめされた。

 父は女を孕ませて責任を取らなかった最低な男だ。それが天女お姉ちゃんのそもそもの悲劇の始まりだった。

 今更にそれを突き付けられ、父は黙る。

 父の手が伸び娘の遺影を掴む。

「ごめん……奈都……」

 父はお姉ちゃんの遺影を抱え、酒と共に自室へ消えた。

 母は無言で見送る。やっぱり何か思う処があるのだろう。

 無事に下宿の頼み事が成った奈々は母に言う。

「あのね、お母さん。さっきは黙ってたけど、わたしお母さんのあの方針で、本当は我儘に育てられたんだよ。わたし子供の頃、我儘だって言われて、すっごく苦労したんだよ。お母さんもわたしが苛められてたの知ってるでしょ? 鈴ちゃんには絶対にそんな思いはさせたくないの、だからね、もう二度とあんなことはしないでね。今度やったら……鈴ちゃんをここに、二度と連れてこないから……」

「な、何てこと言うの、この子は……」

 母は強しが覚醒し、奈々は強(したた)かになった。

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パパはバツイチ高校生 ~そして巣唯一通は群がる~ 伴野是郎 @zerow99

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