第17話 天女が死んだ日
透は鈴の体をそっとベットへと降ろした。
そのまま顔を近づけ話しかける。
「天女?……」
反応はない。
「鈴?……」
鈴は死んだように眠っている。
耳を鈴の鼻孔に近づける。
呼吸を確認すると安堵に目を細める。
今度は鈴の耳元へ顔を寄せる。
「天女、居るのか?」
反応はない。
あれは確かに天女だった。声は鈴のものであったが。
鈴にあんな言い回しができるとは思えない。
透はここに天女がいてくれと一心に願い始めた。
「天女ぇ、応えてよぉ」
反応はない。
透は縋る視線を向け続ける。
鈴は死んだように眠っている。
透は天女の存在を疑わない。
天女を忘れようとする心が踏みにじられてゆく。
天女に会いたかった気持ちが蘇る。
奈々が封印した穴が開く。
穴は求める―――奈々を蹴散らして、天女を……
鈴の体が天女の遺体に映り変わった。
透はまだ温かい天女の手を取る。
体温(ぬくもり)を思い出す。
体温(におい)を思い出す。
「天女ぇ~ おねがいだよぉ……」
ドーナツホールが蠢く。
その穴を埋める形を求める様に―――
―――天女は……
夕方に等々、息を引き取った。
平行線の旋律が真っ白の空間に木霊する。
緊急手術から戻った天女は二度と目を覚まさなかった。
手術に見送った時も会話は出来ていない。
唸されて兄貴の名を呟いただけだった。
最後の言葉が「じゃあ、行ってくるね」になった。
今朝まで元気に手を振っていた天女の姿が浮かぶ。
思い出がぶれ始めると目に涙が溜まっていた。
天女の死に顔は今朝と変わらず美しいままだった。
只、眠っているだけの様に美しかった。
透も鈴も、まだ死を受け入れられずにいた。
目の前の鈴が振り向く。
「おかあさん、おきないね」
透から嗚咽が漏れる。
しばらく動けずにいた。
顔を上げ、鈴の肩を掴む。
「お母さんは、もう…… 二度と起きないんだよ…………」
鈴の顔が歪む。
透は鈴の手を手繰(たぐ)る。
鈴の手が震えていた。
「おとうさん……ごめんなさい」
何故謝るのかも判らずに鈴を抱きしめた。
霊安室に移されてからも透は放心した。
新たな霊気が乾いた空間に浸透する。
連絡を受けて飛んできた天女の仕事場の先輩が対応に動いてくれた。
どこか天女に似た彼女は噂の弁護士で、天女が信頼する友人でもあった。
遺族の透を未成年扱いにして代理の承諾を取ると全てをこなす。
そのお陰か透はやる事がなく放心し続けた。
否、本当は透は何も出来ずに動けなかった。
死亡診断書が渡されて透はやっと現実に立つ。
天女は逝ってしまった。
透の、最後の、心の支えが切れた―――
透に最後に残された、たった一つの大事な絆の緒がぷつりと切れる。
魂の緒が切れた様に透の生気が失せてゆく。
透の頭に天女との思い出が次々と甦ってきた。
ああ~ 走馬灯ってこうゆうものだったんだ………………
確か死ぬ前に現れると云う現象だと思い出す。
このまま死ねるのが幸福だと感じる程に歓喜した。
もう、正気ではなくなっていた。
死神が乗る回転木馬が透の余命を巻き取ってゆく。
回って、回って! 廻って!!
飛び乗って、早く尽きろと捲し立てる。
何回廻れば寿命が尽きるだろうか?
死ねば天女に会えるだろうか?
ああ~ 死にたいってこうゆうことだったんだ………………
死にたい、死にたい! 死にたい!!
天女の傍に行きたい!
死ねば天女に会えるだろうか?
きつくつぶった瞼の裏に天女が沁みる。
ああ~ 会いたいってこうゆうことだったんだ………………
会いたい、会いたい! 会いたい!!
今すぐ天女に会いたい!
死ねば天女に会えるだろうか?
後追いの灯火(ともしび)が心の空虚を暴く。
天女を欲(ほっ)す開いた眼(まなこ)には遺児けた鈴。
鈴がゆっくりと振り向く。
無感情な目が透を穿(うが)つ。
天女にそっくりなその目。
その目に涙が溜まる。
顔が歪むと涙が零れる。
噤んだ口が尖る。
透の灯火が瞬時に吹き消された。
生きて、生きて! 生きて!!
形見と共に生きて!
生きてれば天女は喜ぶだろうか?
鈴の悲しい顔は天女の悲しみ。
生きて、生きて! 生きて!! 生きろ!!!
鈴の涙が辛うじて切れた心の支えを紡ぐ。
透は天女との再会を断念した。
ああ~~ お別れってこうゆうことだったんだ………………
『さよなら、永遠に、会えないね』
最愛の人との死別は別格の寂しさ。
その寂しさに透は押し潰される。
死んだ半身の骸(むくろ)はとても重い。
一人で背負(しょ)えない程の思い。
骸は丸い闇に形どられ、透の胸に巣食う。
やがて大きなドーナツホールが出来上がる……
『誰か…… この穴を埋める…… 形をくれよ……』
ああ~~ 寂しいってこうゆうことだったんだ………………
―――透はドーナツホールが出来上がったあの時を思い出す。
天女への渇望が甦る。
奈々が折角埋めてくれた部分が、崩れる。
憑り付いた天女は返事をしてくれなかった。
天女が憑り付いてるのではとの願いは裏切られた。
骸は当然喋らない。
天女の骸が消える。
目の前には死んだように眠る鈴がいる。
それなら、あれはなんだったのだろうか。
もしや……鈴の中に天女の人格が……
疑似人格だろうが構わない。
もう一度、あの声が聞きたい。
透は渇望する。
「天女、ごめん。もうあんな事しないから、許してよ」
鈴の眼球が動き瞼が揺れる。
透は鈴の手を握っていた。
鈴の手が握り返した。
「おかあさん……」
反応したのは鈴の人格だった。
透は落胆する。
鈴と共に生きようとの思いは生きる気力として残っている。
鈴に見る天女への残滓は更に色濃くなってきている。
そして、開いてしまった穴の封印は戻らない。
穴は塞がらない。
湧き上がった天女への渇望が透を苦しめる。
鈴の顔に天女の面影を見る。
鈴の手に天女の温もりを感じる。
鈴の肌に天女の匂いを見出す。
「あ……まぁ……めぇ~……」
鈴の脇で蹲る。
涙が止まらない。
また、あの、苦しみが始まる。
死ぬに死ねない―――
生きるには辛い―――
穴から這い出た黒い塊は人型になる。
人型は穴の淵を壊して広げる。
奈々の埋立地が霧散する。
人型は天女を求める。
求める天女の型になり中身を求める。
空を切るその手が透に絡む。
藻掻いて透を放さない。
型が心臓を掴む。
絶叫が上がる。
痛みに透がのたうつ。
いっそ、体を引き裂いてくれ。
やっと繋がった裂け目を引き千切ってくれ。
くじける心が助けを求める。
「だれかぁ、たすけて……」
透は封印を求める。
「ななぁ、たすけてよぉ~~」
その嘆きに手が勝手に動いた。
長いコールは救急と響く。
『う~ん、どぉしたのぉ、とおるくぅん』
「ななぁ! クルしいよぉ、イタイよぉ」
『えっ! どうしたの! 大丈夫! 救急車呼ぼうか!』
透は奈々の勘違いに我を取り戻す。
「違う、そう云う事じゃない」
『えっ! 違うの? じゃあ、どういうことなの? 何があったのよ! 透くん?』
「寂しいんだ、奈々! とっても、とっても寂しんだ! 一人でいるのが我慢出来ないんだ! 側に誰か居てほしいんだ!」
『それで苦しいのね? 痛いのね?』
「ななぁ、ひとりに、しない、で……」
『分かった』
即答で救急保育士は命の電話を切った。
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
透の部屋に制服姿の奈々が入ってくる。
「透くん、大丈夫?」
透が顔を上げ見上げる。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
近づいた奈々がたじろぐ。
プータローのハンカチで透の顔を拭う。
透は幼稚園児の様に為すが儘だった。
「はい、綺麗になりましたぁ」
奈々は膝立のまま両手を広げた。
透が胸に飛び込む。
両手が背中に周り抱(いだ)かれる。
「ななぁ、ななぁ~」
奈々の腰がきゅっと締る。
奈々の胸がぎゅっと鳴く。
奈々の脚がふるっと振る。
奈々の口がふむっと吐く。
奈々の唇がはあぁと囁く。
「もう、大丈夫だよぉ~」
奈々は頭を抱(いだ)くと髪に頬を当てる。
「大丈夫だよぉ~ もう、寂しくないよぉ~」
左手が頭を撫でる。
「透くんは、一人じゃないよぉ~」
右手が背中をとんとんと擦る。
透が小学生の顔で甘える。
奈々のブラウスの胸元がじわりじわりと湿ってくる。
折角拭いたのにと優しく見つめて愚痴る。
「奈々の匂いだ」
透が中学生の顔で言う。
「えっ! わたし汗臭い? 走ってきちゃったから……」
「違うよ、甘くて優しい匂いだよぉ」
「そ、そぉ」
透が手を放し顔を上げる。
また、あの時の憂いた顔だ。
今の高校生の格好いい男の顔だ。
奈々はその唇に近づく。
気が付くと唇同士の距離はゼロ。
自然と二つの唇が重なった。
唇が離れると、今度は鼻同士がぶつかる。
睫毛が触れそうな程の二人の距離。
奈々はじっと透の瞳を覗く。
ドーナツホールがそこに在る。
奈々は一心にそこへ自分の思いを注ぐ。
穴へ自分の形を注いでいく。
どんどんと自分の思いを膨らます。
自分一人では到底足りないと分かっていても。
穴は果てがない様に吸い込む。
もう駄目だと思った時、透の瞼が落ちた。
透は崩れ落ちて奈々の太腿へ顔を埋める。
「ななぁ、ごめんね……」
透はそのまま眠ってしまった。
奈々はそのまま膝枕で佇む。
そっと頭を撫で続ける。
透はこのまま起きそうにもない。
ふとベットの上で寝ている鈴を見る。
鈴が寝顔でにっこりと笑っていた。
奈々は布団を持ってきて透を転がし毛布を掛けた。流石に一人でベットまでは持ち上げられない。勿論、着替えもさせられないからそのままだ。
自分は二日前に置いていった寝間着に着替える。洗っていないが仕方ない。
鈴の隣に潜り込むと就寝した。
夜中に勝手に抜け出した事がばれていないか気が気ではないので中々寝付けない。
仕方なく透の寝顔を見つめる。
その内に我慢が出来なくなって、透の隣に吸い寄せられる。
腕に引っ付いて添い寝をしている内に、何時しか眠っていた。
スススススススススススススススススススス
奈々ちゃんからお父さんを引き剥がす三人の悪い女がいた。
一人は与音ちゃん。一人は目が見えないお姉さん。最後が白兎のミーシャにそっくりなお姉ちゃん。
月光に揺らめく方舟で三人が奏で舞う。水面(みなも)に尾を引く揺らぐ光の糸に、お父さんの小舟が引き寄せられていく。月光に照らされ舞う白兎が、お出でお出でと指で手繰る。残りの二人が囃し立てる。
鈴は水面を滑って追いかける。掴んだ小舟を引き離すと、そこにはお父さんによく似た少年がいた。鈴よりも少し大きいお兄ちゃんの様な少年が鈴に手を伸ばす。手を取ると胸にすっぽりと抱かれていた。そのまま浜辺に辿り着く。
お兄ちゃんは祭壇へ鈴の体を供物に捧げた。何故か体が金縛りで動かない。
お兄ちゃんはお母さんの名を呼ぶ。鈴を生贄にお母さんを復活させようと呼ぶ。
お兄ちゃんは跪く。鈴の手を握る。鈴の髪を撫でる。鈴の頬を擦る。
お兄ちゃんが蹲る。咽び泣く。
空から女神が応えて降ってきた。奈々ちゃんだ。
奈々ちゃんは泣いているお兄ちゃんを抱く。
お兄ちゃんはどんどんと大きくなってお父さんになった。
お父さんが奈々ちゃんに縋りつく姿に、そっと笑みを漏らした。
―――鈴の目がパチリと開いた。
たった今、見ていた夢を思い出す。
すると突然、記憶が勝手に溢れ出てくる。封印が解けた様に記憶が甦る―――
寝ていた鈴が鈴の音にふと目を覚ます。隣で一緒に寝ていた筈の父親がいない。不安に駆られ父親の部屋を訪れるがそこにもいない。泣き出したい気持ちを堪え、父親を探しに一階へ降りた。そこで驚きの光景を見る。代わる代わる父親に抱き着いて誘惑する三人の女達。奈々を裏切る父親の反応に怒りを覚えた。一人は昼に会った与音ちゃん。もう一人は目が見えないらしい真夜ちゃん。最後が白兎のミーシャにそっくりな舞ちゃん。父親が呼んでいた名前で抜かりなく覚えた。父親を子ども扱いにして弄んでいる。
お母さんに言いつけてやるとの思いに浮かんだ天女の顔。もういないんだとの思いが奈々に置き換わる。奈々がお母さんになった。
お母さん以外の女に現(うつつ)を抜かす父親へ怒りをぶつける。お母さんを蔑ろにする三人の悪い女へ敵視する視線をぶつける。
そんな時に与音が言った。奈々なんて女は知らないと。その嘘に頭が真っ白になった。嘘つきは大っ嫌いだ!
鈴は目を背けると慌てて逃げ出した。部屋へ戻るとベットへ潜る。
早くお父さんを取り戻さないと、と気持ちが逸る。やっと授かった新しいお母さんへお父さんを返さないと、と気持ちが焦る。
お母さんの奈々が天女に戻る。
鈴は亡き母に願った。このままだと奈々ちゃんがお母さんに成ってくれない。どうかお父さんを奈々ちゃんに返してと……
母が応える。
生前の母の言葉が記憶として思い出されてくる。
「自分ではどうにもできない事でね、嫌な事があったらね、忘れちゃえばいいんだよ。寝て忘れてすっきりして、鈴はまだ小さいんだから、後はお母さんがなんとかしてあげるからね」
鈴は何の躊躇いもなくその言葉に従う。
この世にたった一人だけ残っていた肉親。
代わった新たな肉親の父の危機的状況。
全てを委ねられる母。
嘘を付かない母へ縋る。
嘘を付かない鈴が縋る。
啓示を信じる心が呟く。
忘れる、忘れる、忘れる、忘れろ……
もう一人の鈴が目の前に現れる。
天女の顔をした鈴が重なる。
鈴は鈴の中へ消えた。
「そう…… 忘れなさい……」
もう一人の鈴が囁く。
鈴は催眠術に掛かった様に眠る。
―――記憶はそこで終わった。
夢と符合する内容は鈴を混乱させる。
鈴は整理できずに頭を振ると混乱を振り払う。
やっと立った現実で、鈴はお父さんを探す。
また、お父さんがいない……
直ぐに気付いた。ベットの下の寝息に。
慌てて覗く
お母さんがお父さんにくっ付いて寝ていた。
歓喜に体が勝手に動いた。
二人の間をこじ開け割り込む。
鈴は笑みを浮かべながら眠りに着く。
「パパ……ママぁ~」
鈴の中で奈々がお母さんになった。
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
鈴の快気祝いが終わって、奈々は明日の早起きのために直ぐに就寝した。
既に熟睡だった奈々に着信音が喚く。
半分寝ぼけながら目覚まし時計を見る。
22:07
電話の相手は透くんだった。
こんな時間に非常識だなと不満を表す。
でもちょっと嬉しさも込み上げる。
眠い目を擦りながら出る。
「う~ん、どぉしたのぉ、とおるくぅん」
『ななぁ! クルしいよぉ、イタイよぉ』
奈々の心臓が跳ね、完全に目覚める。
「えっ! どうしたの! 大丈夫! 救急車呼ぼうか!」
奈々は透の急病を心配する。
『違う、そう云う事じゃない』
「えっ! 違うの? じゃあ、どういうことなの? 何があったのよ! 透くん?」
じゃあ何なのさと他の緊急事態が想定できない。
『寂しいんだ、奈々! とっても、とっても寂しんだ! 一人でいるのが我慢出来ないんだ! 側に誰か居てほしいんだ!』
あの日の声だった。憂いた表情の悲しく寂しい声。
前回も前々回も抱き締めてあげられなかった。
「それで苦しいのね? 痛いのね?」
透が泣いた。
『ななぁ、ひとりに、しない、で……』
奈々の琴線が振れた。
「分かった」
奈々は即答すると透の所に向かう準備をする。
洗面を終え、制服に着替え、冷蔵庫の中身を鞄に投げ込む。
寝静まった家の中をそっと抜け出す。
奈々は自転車に飛び乗った。
昼間の酷使で筋肉痛が出始めている太腿を震わせる。
逸る気持ちが痛みを無視する。
奈々はひたすらペダルを漕ぐ。
十六夜の月が奈々を追いかける。
兎がペタンペタンと初恋を応援する。
翳す月光に透への思いが溢れる。
透が真っ先に奈々へ掛けてきてくれた事に感謝した。
奈々へ駆けてくれた事に感謝した。
透は奈々へ救いを求めた。
奈々を心の支えとして求めた。
真っ先に奈々へ求めた。
それが、嬉しくて嬉しくて堪らない。
奈々は運命の車輪を漕ぐ。
―――諦めなくてよかった。ずっと思い続けていてよかった。遠くから眺めていただけ、だったけど、やっと間近に来られた。やっぱり透くんは運命の人だった。
奈々は比翼のべダルを蹴る。
―――透くんを慰められるのは、わたしだけ…… 他のどんな女でもない。この世の女の中でたった一人に選ばれた。最愛の男の片割れに選ばれた女は私。
奈々は雲一つない月夜を駆ける。
―――ありがとう透くん、わたしに頼ってくれて、もう迷わない。
奈々は透へ架ける。
―――待っててね透くん。今、助けるよ!
奈々は透へ駆ける。
透を寝かせて落ち着いた奈々はスマホを覗く。
連絡が無いからバレてはいないようだ。
しかし、いつバレるかと気が気ではない。
一安心と無鉄砲さに恐れが沸く。
今更くよくよしても仕様がないと開き直る。
それよりも逢引の様なアバンチュールにときめきが止まらない。
透の寝顔を見つめる。
奈々は透の差し出す手を捕まえられた。
奈々は透の抗う寂しさを埋められた。
奈々は透の求めに応えられた。
透の心をしっかりと掴んだ。
もう、この手は二度と話さない。
もう、絶対に離さない。
もう、二度と天女には向けさせない。
透の寝顔をじっと見つめる。
奈々を包む幸福感。
奈々の胸は幸せでいっぱい。
奈々に広がる充足感。
奈々の胸は透でいっぱい。
もう、好きだなんて言葉じゃこの気持ちを表せられない。
言葉じゃ上手く言えない思いを敢えて言うなら、やっぱりあれかな……
在り来たりで言葉に出す勇気が出ない。
でも、臭い言葉を平気で言える透くんなら、いいよね。
愛してるよ、透くん。
透くんに、しか言えない言葉。
透くんに、この言葉を言うために産まれてきたんだから。
透くんに、この思いを伝える為に産まれてきたんだから。
透くんに、出会うために産まれてきたんだから。
透くんに、出会うまでは空っぽだったんだから。
この気持ちを埋めてくれたのは透くんだったんだから……
愛してる、愛してる、愛してる!
でも…… 今は言えない。まだ、言えない!
だから、待っててね。
奈々は透に吸い寄せられる。
愛してるよ、透くん……
翌朝、最初に目覚めたのは奈々だった。
父親からの電話で起きた。
今何処に居るんだ、二日続けて早朝に何をしてるんだ、と詰問される。
幸い夜中に抜け出した事はバレていない様だ。早朝の件は母に説明してあるから聞いていると思われるので、本人への確認だろう。二日続けていない理由を部活をしていない奈々は誤魔化せない。母は本当の事を話すしかないから、バレるのは時間の問題だった。父へは自分から言うと言っておきながら言えなかったので、容認した母には悪い事をした。
奈々は覚悟を示す。
「わたし娘ができたの、だからご飯を作ってあげてるんだ」
父からの返答はない。知らなかったのだろうか。
ここで言い争いをしても嫌なので話を終わらせたい。詳しくは学校が終わって帰ったら説明するからと切ろうとした。
父がそれなら娘を連れてきなさいと言ったので、はいと答えて電話を切った。
透が起きていた。
「ごめん奈々、俺の所為だな」心配そうな顔をして言った。
「お父さんに、バレちゃった。てへぇ」奈々は明るく誤魔化す。
虚勢を読み取ったのか透の顔が悲しみを帯びた。
「ふぎゅっ!」奈々の口から洩れる。
透が抱き着いていた。
「奈々、ごめんね。夜中に呼び出したりなんかして」
「いいよぉ、何か辛いことがあったんでしょ? わたしはとっても嬉しかったよぉ、透くんに頼られてとってもとっても嬉しかったよぉ」
「でも、ごめん。それから、ありがとぉ。奈々のお陰で乗り越えられた。奈々がいなかったら、また一人でずっと沈んでた」
透の頭が沈む。
奈々が頭に頬を乗せ言う。
「なんか、透くんは甘えん坊さんになったねぇ」
「ああ、これが俺の素だから」
「そうなんだぁ~ じゃあ、わたしの素はこれぇ~」
奈々が透の口を口で塞ぐ。
濃厚なキスも、初めてでも熟す。
鈴がじっと見つめていた。
慌てて二人が離れる。
鈴はボーっとしている。
寝ぼけている様だった。
「おはよう、鈴ちゃん」
奈々が声を掛けると鈴がふらふらと抱き着く。
奈々が抱きしめると言った。
「あらっ! 鈴ちゃん、なんか熱くない?」
慌てて額に手を当てる。
「透くん! 鈴ちゃん熱があるよ!」
透が直ぐに体温計を取りに行く。
序に冷却シートも持ってきたので額に乗せる。
三十九度あった。
鈴は安堵の表情でまた眠った。
「取り敢えず、病院に連れていこうか」
「救急病院は隣町しかないよ? タクシー呼ぶ?」
「否、掛かり付けの町医者があるから、開院まで寝かせておこう。確か十時だったかな? 子供の内は良くある事だから、そんなに心配しないでも大丈夫だろう。念のためだよ」
「そう、でも四十度超えたら危ないから、ずっと見てないといけないよ。だから、わたし今日はずっとここに居る。学校はお休みにする」
「何言ってるんだよ、奈々。それは父親の俺がやるから、奈々はちゃんと学校に行けよ」
「嫌ッ! 正式じゃないけど、私だって鈴ちゃんの母親だもん! わたしも一緒にいたいよ。こんなんじゃどうせ授業に身が入らないもん」
「そうか、解った。じゃあ、一緒に休むか」
透が電話を掛ける。学校ではなく、アリスルートの担任直通で。
次が保育園に。出たのは早番の浅野さんだった。
「ねえぇ透くん。朝ごはん食べる?」
「う~ん、何か食欲が湧かないなぁ、俺は今はいいや」
「そう、わたしも食欲ないからいいかなぁ。じゃあ、コーヒーでも淹れる?」
「ああ、お願い」
奈々は透の部屋を出るとキッチンに向かう。
キッチンでコーヒーメーカーをセットすると抽出を待つ。
その間に洗面を済ませようと洗面所に行く。
そこで気付く。寝起きのへちゃむくれた顔を見られた事に。慌てて赤面しても遅かった。
透が起きる前に洗面ができなかった事の理由を探ると、父への怒りが込み上げてくる。
怒りながら洗面を済ませるとキッチンへと戻る。
奈々は二杯のブラックコーヒーを淹れる。
透がブラックである事は聞いているので知っている。奇しくも奈々もコーヒーはブラックだ。真音に散々、似合わない、イメージが壊れると文句を言われている。そんな筋合いはないので変えるつもりはない。だって、甘いお菓子を食べるなら苦いブラックの方が合うんだから。因みに、真音は砂糖とミルクをたっぷりと入れる。頭を使うのに砂糖が不可欠と必ず言い訳をする。序にブラックの奈々に対して、奈々は頭を使わないからねと虐める。奈々はその時こう言い返した、ならミルクは必要ないねと。しかし、真音も黙っていなかった。ミルクは胸が大きくなるためだよと、だから、奈々はミルクも入れないんだね……真音なんて、大っ嫌い! この貧乳!
嘗ての大喧嘩を思い出し笑いしながら、二つのカップを持って二階へ上がる。
「はい、どうぞ。透くんも先に顔洗ってきたらぁ」赤面しながら言う。
「そうだな、じゃあ鈴の事、見てて」
「あっ、それと鈴ちゃんの母子手帳が必要になると思うの、透くんはどこにあるか知ってる?」
「う~ん、判んないや。天女の鞄を調べてみるよ」
透が部屋を出る。
待ってた様に鈴が目を開けた。
奈々が顔を寄せる。
「なぁなぁ……さんだん、め。そのした、に、かけいぼ」鈴がか細く喋った。
「家計簿? 鈴ちゃんそんな言葉知ってるの?」
鈴からの返事はない。
鈴はまた眠った。
「三段目? 家計簿? 何のこと? うなされてたのかなぁ?」
奈々が独り言を漏らす。
コーヒーを飲んで待っていると透が戻ってきた。
「奈々、母子手帳は入ってなかった」
「あっ、もしかして―――」奈々は鈴に目を見張る。
奈々が透に向く。
「ねえ透くん、どうしよう、わたし制服しかないよ~」
「へぇ? それがどうした?」
「病院に行くのに制服じゃ嫌だよ」
「え? 別に可笑しくないだろ?」
「だって小児科って産婦人科と一緒のことが多いでしょ? 何か制服じゃ恥ずかしいじゃない」
「そ、それは……」
「意味分かった? それでね天女さんのお洋服を借りたいんだけど、いいかな?」
「……奈々なら、いいか……奈々は嫌じゃないのか?」
「うん、嫌じゃないよ」
「そうか、それよりサイズは大丈夫なのか?」
「天女さんの身長はどのくらいだったの?」
「そうだな、奈々、ちょっとここに立ってみて」
立ち上がった奈々の前に立つと、肩に手を置いた。
「ほとんど同じだな」
奈々の全身を目測り回す。
「横も同じか…… 天女とそっくりだな……」
「そうなの? そんなに似てる?」
「ああ、違うのは胸のサイズだけかな」
「それはわたしも知ってる。天女さんはCカップでしょ? 洗濯物の中に下着があったから、それに、わたしは……Eカップだもん……」
「ごめん、そんな積りで言った訳じゃないんだ」
「分かってるよ。それより、下着は借りないから問題ないよ」
「そうか」
「それじゃあ、天女さんの部屋に案内して」
透は指で隣の部屋を射す。
「じゃあ、着替えてくるね」
奈々は天女の部屋へ入る許可を貰った。
トトトトトトトトトトトトトトトトトトトトト
奈々は中々戻ってこなかった。
着替えてるかもしれないので、迂闊に部屋には入れない。
透は冷めた珈琲を啜る。
鈴の熱も冷めたかと検温するが変わりない。
透は鈴の頬を撫で見つめる。
その時、鈴の異変に気付いた。
今朝から感じていた鈴への違和感が判った。
鈴が鈴でしかない。
鈴の後ろにいつも居た天女が居ない。
鈴の後ろに在った天女の影が消えている。
いつも付き纏っていた天女が消えた。
寂しさと安堵に吐息が漏れる。
否、寂しさとは何か違う。
これが、虚しさって云うものなのか。
そう云えば、毎朝欠かさなかった天女への挨拶もしていない。
挨拶をしていた事を忘れていた。
天女が消えて、そこに奈々がいる所為だろうか。
奈々はまだ戻らない。
鈴の顔が安らかに見える。
もしやと思い再度検温をする。
三十八度五分に下がっていた。
真っ先に奈々へ知らせたいと思った。
奈々は、まだ、戻らない。
今、透の胸の中には奈々がいる。
もう、天女はいない。
今日、透の天女が死んだ。
天女が―――記憶になった。
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