第16話 海老名家騒動

 奈々と真音が帰宅すると、鈴の世話を早々と終わらせ就寝させる。

 透は真っ先に海老名真夜へ電話を掛けた。

 与音から聞いた番号を開く。

『はい』警戒の声が応える。

 通話越しに背後からBGMが微かに聞こえた。バッハのG線上のアリアだ。

 大好きな音楽鑑賞をしながら、通話機能だけの携帯電話を持つ真夜姉ちゃんを想像する。

「真夜姉ちゃん? 透です」

『あっ! 透ちゃん!』急に明るい弾んだ声に変わった。

「遅い時間にごめんね。昨日の件で報告があるんだけど、今大丈夫かなぁ?」甘えた声に透も変わる。

『いいですよ。それより、まだ宵の口ですよ。流石に就寝にはまだまだです』

「それなら良かったよ。俺はてっきり早寝早起きだと思ってたから、もう直ぐ寝る時間かなって気にしてたんだぁ」

『透ちゃん? それって私がお婆ちゃん見たいって聞こえるんですが、酷い言われ様ですね』

「え? そんなこと全く考えてないよ。別に若い奴だって早寝早起きするんだから、何でお婆ちゃんって決めつけるのさぁ」

『そうですね。それじゃあ、そう言う事にしておきますねぇ』

「しておきますじゃないよぉ、本当にそんな事、思ってもいないからね。それでね、本題に入るけど、巫女が集まったんだ、それも四人。だから何時から稽古ができるかなって確認したいんだぁ」

『流石、透ちゃんです。やっぱり女を集めるのはお手の物でしたね。それもたった一日で、それでこそ土夏家の男です』

「え! 真夜姉ちゃん、それって何? 土夏家の男って周りからそう云う目で見られてるの?」

「そうよ、透ちゃんのお父さんの達盛小父さんだって、旦太郎(たんたろう)お爺ちゃんだって、それは凄まじいくらい持てたらしいですよ。お婆ちゃんやお母さん達から散々聞かされてたんですから」

「それは、俺は初耳だよ。確かに兄貴は持ててるのを知ってるけど……」

 真夜はどう反応していいか判らないと云った沈黙で応える。

 BGMがバッヘルベルのカノンからジーグに変わっていた。

 透に何故か、次の曲がビバルディの四季だと云う既視感が芽生える。

 真夜が誤魔化す様に話題を変えた。

『ごめんなさい、話を逸らせちゃいましたね。それじゃあ明日からでもいいですよ。こっちの準備はもう出来てますから』

「流石、真夜姉ちゃん、手回しがいいね。じゃあ、こっちも直ぐに確認してみるよ。それからね、真夜姉ちゃんは土夏家の伝承の話って何か知ってる?」

『伝承ですか? それは流石に他家ですから、分からないですね。在ったとしても門外不出とかなら、知ってた方がまずいですよね』

「それもそうか。実はさ、今日その存在が明らかになったんだ。土夏家の伝承はね―――」

『ちょっと待って! 透ちゃん、それって私に話しちゃってもいいんですか?』

「ああそうか、別にいいよ真夜姉ちゃんになら。だって存在が分かったって程度で俺にも詳細は分からないんだから」

『そうなの?』

「それでね―――」

『ねぇ、待ってよ透ちゃん。私はねぇ、心の目で相手を見てるんですよ。話し声だけでもね、心の目で見てるんですから、だからねぇ、そう云う大事な話はちゃんと私の目の前で話してほしいのよ』

「そうだっだ、ごめん真夜姉ちゃん。その話は今度会った時にでもゆっくり話すね……」

 BGMがビバルディの四季に変わった。

 その瞬間、透の既視感が確かなる記憶となる。

「ねぇ、真夜姉ちゃん、今かけてる曲ってさぁ、もしかして……」

『あらぁ! 透ちゃんはまだ覚えててくれたの!」春の花が咲き誇った様な声を晴らせる。

 その勢いのまま少女真夜が続ける。

『そうだよ! これは透ちゃんが昔、私のために編集してくれたCDだよ! 今はもうCDじゃなくなっちゃったけど、私は今でも毎日、透ちゃんが作ってくれたクラシック蒐を聞いてから寝てるんだよ』

「そうなんだ。まだ、あれを大事にしてくれてたんだ。あれぇ! と云う事は、真夜姉ちゃんはもう直ぐ寝る処だったんじゃないの?」

『わわわ、分かっちゃったの? いい透ちゃん、決してお婆ちゃんみたいな生活を送ってる訳じゃないからね! だから勘違いしないでよね』

「解かってるよ、そんな事、思ってもいないから」

『そう、それならいいけど…… あ~あ、何か、透ちゃんの声を聞いたら、眠れなくなっちゃたよぉ~ ねぇ、透ちゃん。外は今どう? 今夜は晴れてる? 月はどう? よく見える?』

 透は窓を開け空を仰ぐ。

「晴れてて月がくっきりと見えるよ。今夜は十六夜(いざよい)で月光も眩しいくらいだよ」

『そう…… ねぇ透ちゃん。今から私を外に連れ出してくれない? 月光浴してみたいの、おねがぁ~い』

「え! 今から? 別にいいけど、真夜姉ちゃんがいきたいんなら」

『じゃあ待ってるから、よろしくねぇ』

「あっ! でも、これから巫女たちに連絡しないといけないから、少し遅れるけど」

『勿論いいわよ、それが本来の目的なんでしょ。あっ! そうだ。透ちゃん、今でもあれ持ってる? お父さんの形見』

「ああ、肌身離さず持ってるよ」

『それなら大丈夫だね、持ってきてッてお願いしようと思ってたの。じゃあ、待ってるねぇ』

「うん、解かった。出来るだけ早く行くよ」

 透は通話を切ると真っ先に奈々へメールした。

 奈々から直ぐに電話がかかってきた。

 奈々は即答で了承して、真音と杏への連絡も買って出てくれた。

 次の諸乎奈も電話がかかってきて、こちらも即答で終わった。

 透は餅搗く兎をしばし眺めると、真夜の処へ向かった。


 土夏家と海老名家はお隣同士で、その垣根には一箇所穴が空いていた。通称透道と呼ばれた大きな穴は、小学生の透が恙(つつが)なく通った証となっていた。

 透が透道を通ろうと垣根に近づく。今ではもう穴はない。海老名家が透を出迎える様に門戸が建つ。

 透は鍵のない戸を開け門を潜る。その脇には門番が居た。小さなお地蔵様だ。クナドを守る塞ノ神は真夜を土夏桜から守っているのだろう。

 門番に止められる事もなく、透は裏口に向かう。

 透が裏戸の戸を叩くと海老名の小母さんの声が返り、戸が開く。

「いらっしゃい、透ちゃん。上がって頂戴な」

 只、真夜を連れ出すだけのつもりだった透は戸惑う。

 小母さんが笑顔で続けた。

「お帰りなさい、透ちゃん」

 懐かしそうな小母さんの顔に遠慮は失礼になりそうだ。

「それじゃあ、失礼します」

「違うでしょ、透ちゃん、ただいまですよぉ」

「はい、ただいま」

「そうそう、真夜はまだ準備中だから、上がって待ってなさい」

 透は懐かしい末席に座ると、手際よくお茶が出される。

「夜だからほうじ茶よ、茶受けは態と出さないんだからね」

 そこら辺の機微の解かる透は、笑顔で頷く。

「そう云えば透ちゃん。昨日伺った時に出てきた女の子、何か凄い勘違いをしてたんだけど、私は全然、近所迷惑だなんて思ってないからね。ちゃんと言い含めておいてほしいのよ」

「ははは、やっぱりそうでしたか」

「でも凄く可愛い子じゃない。どう云う関係なの?」

「それは…… もしかしたら、鈴の母親になってくれるかもしれない人です……」

「まぁ~ もう後妻が決まっちゃてるの! 何てことなの、流石、土夏家の男ね、本当に隅に置けないわぁ~」

「そ、そうですね……」

「そうかぁ~ じゃあ、それはいいとして、鎮魂祭の話、受けてくれてありがとうね。達盛君と孝枝ちゃんだったら絶対に無理だったわよね。だから透ちゃん、ありがとうね」

「いいえ、こちらこそ色々段取りをして頂いて感謝しています。俺はそう云う事、全然聞いてなかったんで、真夜姉ちゃんの助力にはとても助けられています」

「それは仕方ない事なんじゃないのかな。だって両親が神官としての道を諦めちゃっていたんだからさ。だから、透ちゃんが気にする事は全くないんだからね。それと、また真夜に会ってくれてありがとうね。真夜ねぇ、透ちゃんに会える口実ができて大喜びだったんだから、もう近年稀にみるはしゃぎっぷりだったんだから、うふふ」

「お母さん! そんな事ばらさないでよ~」

 丁度、真夜が怒りながら入ってきた。

 何故かきちんと和服に着替えて御粧(おめか)ししている。薄っすらと化粧までして口には紅まで纏っていた。

「透ちゃん、お待たせしました」

 そう言って、しなりしなりと目が見えないとは思えぬ歩みで透に近づく。

 余りの気品に透は見惚れた。

 ふと、その後ろに控えるもう一人の女性に気がつく。

 彼女は透へと強い視線を向けていた。

「お久し振り、千里(ちり)ちゃん。実家に戻ってたんだ」

 真夜の妹、海老名千里は泣きそうは顔で透に近づこうと一歩を踏み出した。

 と思ったら、踵を返して走って逃げる。

「あらあら、千里ったら、挨拶もできないのね。ごめんなさいね、透ちゃん、不躾な娘で」

 そう言う母親の目は、とても悲しみに溢れていた。

 透は千里の行動の意味が分からず立ち尽くす。

 小母さんは透のその反応を不思議がると、訝しい視線を向けた。

 真夜も聞こえていた遣り取りから察して、悲しい表情を千里の跡に向ける。

 透は悲しむ理由に検討も付けられないでいる。

 小母さんの訝しい目が驚愕に変わると言った。

「透ちゃんはもしかして…… あっ、やっぱりいいわ」

 慌てて話をはぐらかすと真夜を押し出す。

「じゃあ、透ちゃん、真夜の事お願いね」

「はい、真夜姉ちゃんの事は任せてください。じゃあ行こうか」

 透は真夜の手を取ると外へ連れ出した。



チチチチチチチチチチチチチチチチチチチチ



 千里は我慢ができなくなった。

 大人になった透の顔を一目見てやろうと、デートの様に燥(はしゃ)ぐ姉に化粧と着付けを施すとそのまま付き添っていった。

 そこには立派な男になった透が居た。

 思わず見とれた千里に思いが込み上げる。

 この男―――が、自分の夫になる筈だった、のか……

 自分の旦那様になる筈だった人が、あんなに立派な男に様変わりしていた事に、思わず思いが溢れ出してしまった。

 諦めの記憶が甦り、視界がぼやける。

 気が付くと走って逃げ出していた。

 自分の部屋へ辿り着くとみるみると涙が溢れ出す。


 海老名千里の姉は産まれつき目が見えない全盲だった。それも光を感じる事もできない重度の。

 そんな不遇を持った姉との姉妹しかいない海老名家は、どちらかが婿を取らなければならなかった。

 両親は姉には最初から無理であると諦めている。だから当然、妹の千里に婿取りの期待が向く事は必然だった。

 そんな期待を抱く父がある日、許嫁を決めてきた。土夏家の次男、透ちゃんだった。

 中学生だった千里は小学生が相手の婚約に閉口したが、相手がイケメンの土夏家では大人になれば問題はないかと内心嬉々とさせて、渋々と了承した。

 但し、条件があった。土夏家の達盛小父さんは余り乗り気ではなく、透が中学を卒業して了承をしたら婚約を成立させると約束されたそうだ。

 千里はもう透が婿に来るつもりでいた。等の透はその話が決まってから毎日の様に海老名家に顔を出してきていた。海老名家総出で歓迎する。

 しかし、今なら解かる。透ちゃんは婚約を子供の口約束程度としか認識していなかったんだと。無理もない、まだ小学生だったんだから。だから達盛小父さんは中学生に成ってからと但し事を付けたんだと。

 最初こそ、宿題を見てあげていた千里に透は懐いた。千里は弟ができた様に溺愛した。が、直ぐに飽きてしまったのか、日に日に足が遠のき、終いにはびたりと来なくなっていた。

 自分から会いに行くのも変だと寂しく思っていたある日。透が姉の部屋から抜け出して帰っていく姿を目撃した。翌日、学校行事の関係で早めに下校したので姉の部屋を見張っていると、透が裏口を通らず直接、姉の部屋へ入って行った。鍵が掛かっていた形跡もない。千里は堪らず姉の部屋を覗き見した。

 姉は透ちゃんを赤ん坊の様に抱きしめていた。透も恥ずかし気もなく甘えている。異様な光景に千里は目を見張った。しかし、何となく二人の心情は理解できた。姉は全盲だ。手で触れないと形が判らない。だから透ちゃんを抱く。目で見る代わりに体で感じる。方や透は姉の目が見えない事を理解している。だから恥ずかしくもなく甘えてられる。そう理解はできる。がしかし、感情は納得がいかない。そう思って眺めていると―――透の手が姉の体をまさぐった。姉は拒否するでもなく、逆に微笑み返す。赤ん坊に授乳させる様な慈しみの顔をしている姉に感情が爆発した。

 千里はそのまま飛び出すと叫んだ。「お姉ちゃん、何やってるの! 透ちゃんは私の旦那様になる人なんだよ! 変なこと教えないでよ!」

 透は恥ずかしい事をしていたのだと認識していたのか、慌てて逃げ出した。逆に姉は全く恥ずかしがっている素振りがない。

 姉は逢瀬の邪魔をした事を詰った。秘密を暴いた事に怒った。覗き見した行為を攻めた。完全に逆切れだ。

 思春期だった千里は、破廉恥で淫靡な悍(おぞ)ましい姉に軽蔑の罵声を浴びせた。許嫁に対する背信行為を許せなかった。

 その後の泥棒猫を追いやる様な千里の態度で、仲の良かった姉妹の関係は終わった。

 そんな姉妹の関係に母は気付かない訳がなかった。母は全面的に妹の味方をしてくれた。がしかし、昔から不自由は人生を歩む姉に対しては腫物を扱う様な態度だった母だ。姉が如何にふしだらでいやらしい事をしたのか、ちゃんと説明できたのかも怪しい。

 その教育方針の成果だろう。両親に対する外面は聞き分けのいい姉。妹に対してだけは立派な我儘姫。

 妹は知っていたのだ。傲慢な姉の真の姿を、我儘な姉の醜い姿を……

 姉は、本当は……自分が不憫だなんて思ってもいない。だって物心が付くまで世界がそういうもんだと思っていたんだから、私達が見ている世界を知らないんだから、不憫を理解していない。

 だから、逆に不憫なのは妹の方だ。姉の奴隷のような妹。姉の使い走りの妹。姉に良いようにこき使われる妹。

 千里はその境遇に理不尽を感じていた。しかしそれを拒絶はしない。姉の我儘が甘えであると知っているから。素を晒す姉が妹を信頼している表れだから。

 だが、それも許嫁に対する背信行為で終わった。妹の姉に対する信頼は失墜した。

 姉と云う人間は決して、根っからの我儘ではなかった。それどころか、人一倍、他人の気持ちに敏感だ。妹に対する我儘を本当に嫌がってはいないんだと気が付いていた。それが急転して態度が変わった事で、直ぐに理解した。その行為は許せざる事だったんだと。

 姉は妹に懺悔した。妹の信頼を取り戻すために。

 姉は悍ましい告白をした―――

 姉は透ちゃんに男性の体を知りたいと持ち掛けた。優しい透ちゃんは全盲の姉の願いを聞き入れて自らを差し出した。姉は触診によって男体を知った。代わりに、女性の体に興味を持っていた男の子に……

 ―――妹は絶句した。

 姉の意図とは逆に、益々、心は離れていった。

『ごめんね、千里ちゃん』これがいつしか姉の挨拶になっていた。

 でも妹は決して姉を許さなかった。

 目が見えないから仕方ないなんて納得できない。自分の夫を汚された事に納得はできない。

 姉はその日から窓に鍵をかける様になった。たまに顔を出す透とは二人だけには絶対にさせない。もうしないとは思ってても、安心ができない。幸い透がまだ男になっていなかったので、間違いが起こらなかったのだ、これからはどうなるか判らない。透の方からナニかするかもしれないので警戒は怠れない。ある意味、姉妹の仲を裂いたのは透だとも云える。

 医者を目指す千里は全寮制高校に上がった。禊の姉と婚約者の透を信じて、家を出た。

 そんな姉との断絶が終わったのは土夏家の悲劇の事故からだった。透が跡取りになり許嫁の話が霧散した。それが姉妹の蟠(わだかま)りを払拭した。透と千里が他人になったからだ。他人なら誰とナニをしようが言えた筋合いはない。そこから姉を許す気持ちは広がっていった。

 同時に……透との結婚の夢が儚く消えて、寂しさが広がる。

 否、寂しいなんてものじゃなかった。絶望に何日も枕を濡らせた。

 自分には許嫁がいる。公にも触れ回っていた。だからだろう、言い寄る男はいなかった。実際、透以外の男に気を許す事もなかった。自分には恋愛は必要ない、そう言い聞かせていたから……

 なのに……愛しい未来の夫が……突然、他人になっちゃった……

 私はこれから……恋愛ができるんだろうか……

 日に日に寂しさは膨れ上がり――― 

 千里は海老名家の事が嫌いになった。この家に居ると透を思い出す。それが嫌で千里は実家には帰らず遠い大学を選んだ。そのままその地で就職もした。

 新しい相手を見つけて、新しい恋ができなければ、実家には帰れない気がした。

 ある日、母から連絡が来る。透が結婚をしたと、姉で未亡人だった天女さんと……そして、直ぐに死に別れたんだと……

 千里には関係のない話だった。

 しかし、死に別れとは何とも云えない悲劇だろうか。元彼を気にする様な感情が芽生える。

 幸せな家庭を築けた女は昔の男を忘れると云う。未だその領域に達していない千里には元婚約者への未練が払拭されていなかった。

 真夜姉ちゃんからも連絡が来た。久しぶりに会いたいと。淫靡な姉のインビテーション(招待)に、気が付けば実家に帰省していた。

 数年ぶりに会う真夜姉ちゃんは全然変わっていなかった。

 今なら、あれが只の行き過ぎたスキンシップだったのだと理解できる。好奇心が生んだ若気の至りだったのだと理解できる。大人の千里が本当の男と女の情事を知ったから。 

 淫靡な姉のインビザライン(矯正)はどうなったのだろうか。姉はこのまま結婚もできず朽ち果てるのだろうか。男を知らずに生を終えるのだろうか。透ちゃんはもう姉を歯牙にもかけていないのだろうか。

 そんな思いを抱いていると、今から透が真夜姉ちゃんに会いに来ると云う。 

『お姉ちゃんは目が見えないんだから、助けてあげなさい』

 子供の頃から言われてきた言葉。私の足枷となってきた言葉。私を縛ってきた磔の言葉。

 でもね、お姉ちゃんは世界で唯一人の姉、私は唯一人の妹。誰にも代わることはできない。

 色と光の無い人生が姉の人生なら、それを支えられるのも私の人生。別に全てを捧げる訳じゃない。私の人生のほんの少しでもいいんだ。

 今は、そんな思いで姉に紅を纏わせた。

 そして……透との再会―――

 また、あの日の様に、枕を濡らせた。

 唐突に立ち上がった千里がカーテンを開いた。

 あの頃のままの千里の部屋を月光が射す。

 月光を追う千里の視線が本棚で止まる。

 びっしりと詰まった本棚を照らす淡い光が、映写機のスクリーンとなって中学生の千里を映し出した。 

 仲の良かった姉妹の思い出が次々と本の中から飛び出す。

 瞑った目を輝かせて聞き入る姉へ、朗々と読み聞かせる妹。

 時たま質問を挟んで止める姉へ、等々と辞書を片手に答える妹。

 姉の喜ぶ顔が見たいがために始めた朗読会。

 その回数は本の数だけでは留まらない。

 その営みは本の数だけでは収まらない。 

 それが唐突に終わりを告げられた。

 無垢な少年の闖入によって。

 月光の届かない陰には、姉の求めで買った、一度も読まれた事のない本達が佇む。

 上弦の陽には、姉妹の笑顔が輝き。

 下弦の陰には、姉弟の穢顔が罹る。


 

トトトトトトトトトトトトトトトトトトトトト 

 


 真夜が透に手を取られ門戸を潜ろうとした時。真夜が突然立ち止まり透の手を引っ張る。

「真夜姉ちゃん? どうしたの?」

「ねぇ、透ちゃん、土夏桜は何処?」

 透が真夜の手を土夏桜に向け指す。

「ねぇ、透ちゃん、やっぱり何か怖いの」

「じゃあ、止める?」

「それはいやぁ! ねえ、透ちゃん、昔は私、透ちゃんのこと、よく抱っこしてあげてたのよ? 覚えてる?」

「あっ、ああ~」

「じゃあさぁ~ 今日は透ちゃんが私のこと、抱っこしてくれない? それなら安心して行けそうだから」

「えっ、真面で?」

「ええ、本気よ」

「解かったよぉ」

 透が真夜の背中と膝裏へ手を伸ばすと華奢な体を軽々と持ち上げる。

 真夜の両手が透の首を手繰ると後ろで絡ませる。

 顔を近づけしな垂れて言った。

「透ちゃんは昔から優しかったよねぇ、今も変わってないんだねぇ、私の言うこと何でも聞いてくれたよねぇ~」

 少女の様にはにかむ真夜は、本当に怖がっていたのかと訝しむ程に華やいでいた。

 透は四阿に真夜を降ろす。

「ねえ、月はどっち?」

 透は真夜の顔を掴み月へ向けさせる。

「今日は十六夜だから、真ん丸の右上が少しだけ欠けているよ。その反対側には餅を搗いてる兎がいるよ」

「そう……」真夜は目を見開き、見えない月を眺める。

 月光が真夜の顔を照らす。翡翠色の瞳が輝く。

 透はその姿を見つめながら隣で添う。

「感じるわ、月の光を……」

 透には真夜に月がどう写っているのか解からない。

 真夜には透に月がどう写っているのか解からない。

 二人がそれぞれに見えている世界は違う。

「聞こえるわ、月光の音が……」

 透には理解できない領域だ。

「ねえ、透ちゃん。月ってなに?」

「へぇ?」

「うふふ、昔ねぇ、透ちゃんが一生懸命教えてくれたの覚えてない?」

「覚えてないよ、全然」

「そうかぁ~ 小学生だった透ちゃんはね、一口サイズの大きさのお餅が空に浮かんでるんだって教えてくれたんだよ。ずっと高い所にあるから手が届かないんだって、けど、誰かが少しずつ齧って減っていくんだって、全部なくなると、兎が餅を搗いて足していくんだって、透ちゃんはそう言ったんだよ」

「そ、そう、よく覚えてるね」

「あの頃の透ちゃんは本当に可愛かったなぁ~ 私は絶対に忘れないよ」

 真夜が月の笑顔を向ける。

「それじゃあ、透ちゃん、始めようか」

 真夜が懐から細長い袋を取り出すと中から龍笛が現れる。

 透も懐から形見の篳篥(ひちりき)を取り出す。リード部分の吹き口は開けてあるので直ぐに使える。

「準備できたよ、真夜姉ちゃん」

「じゃあ、始めます」

 真夜は龍笛を口に運ぶ。紅の口に横笛が吸いつく。

 龍の咆哮がゆっくりと響いた。

 奏でられる旋律はベートーベンの月光だった。

 テンポは雅楽調でゆったりと遅い。

 聾(難聴)の作曲家の思いを奏でるのは、全盲の龍笛奏者。

 低音の音色は物悲しい調べを辺りに震わせる。

 透が頬を膨らます。

 主旋律の頃合いで相伴する。

 高音の音色は主悲しい調べを辺りに震わせる。

 月の光が聞こえる。

 透は月光を奏でながら思う―――

 透が真夜に惹かれ始めたのは好奇心からだった。

 神秘的な真夜の雰囲気に吸い込まれた。

 真夜は心で物を見てると言う。

 真夜は肌で物を感じると言う。

 真夜は耳で物を測れると言う。

 空気の流れが判るのだと言う。

 悪戯で物音を絶てずに近づいた時があった。呆気なく気付かれ感嘆した。

 しかし、それは部屋の中だけの話で、外に出ると全く判らないのだそうだ。

 だから、真夜は外に出ることを怖がる。信頼できる人に付き添われなければ決して出ない。

 透は信頼されているのだ。命を預けられると思われているのだ。

 そんな真夜に頼られるようになった切っ掛けが篳篥だった。

 真夜の趣味は音楽鑑賞と龍笛演奏だ。初めて聞いた真夜の龍笛の音色に感銘を受けた。

 透は真夜との合奏がしたいが為だけに、父に頼んで篳篥を始めた。

 一端の演奏ができる様になると、真夜は涙を流して喜んでくれた。

 そして、初めての合奏の楽曲が、この月光だった。真夜姉ちゃんが一番好きな―――

 演奏が終わる。

 後ろから突然、琴の音色が響いた。

 脇から突然、白拍子の音色が響いた。

 与音が和琴を演奏している。

 舞が両手に白拍子を持ち舞っている。

 真夜は分かっていた様に龍笛の音を合わせる。

 打合せの要らない相手を知り尽くした様な阿吽の呼吸。

 重厚な琴の音色が音取りをする。

 今度は高音の龍笛の音色が主旋律を奏でる。

 透はそれに篳篥の音を重ねる。

 合間に舞の白拍子がキンと響かせながら月光に舞う。

 息の合った三人に透は必死に食らい付く。

 与音と舞の登場で寂しい調べが華やかに変わった。

 近所迷惑は全員がご近所だから大丈夫だろう。

 演奏が終わると真夜が真っ先に真剣な表情で言う。

「舞ちゃん、与音ちゃん、来てくれてありがとう。でも、透ちゃんと二人きりだったのに邪魔しないでよ!」

「え~ そんな~」

「じゃ、邪魔って、真夜ちゃん酷いよ」

 舞と与音が真夜の思わぬ拒絶に戸惑う。

「そうだ、丁度いいわ。明日から鎮魂祭の予行演習始めるから、二人共よろしく、大丈夫よね」

「ええ」「はい」

「じゃあ、二人共もう帰って!」

「ズルいよ、透ちゃんを独り占めなんて~」舞が頬を膨らます。

「真夜姉ちゃん、それはちょっと、可愛そうじゃ……」透が思わず援護する。

 真夜の口が不満を纏って透へ尖る。

 無表情な人形の仮面が突然被さると鋭角な動きで二人を向く。

「今日はね、透ちゃんに大事な話があるの、だから二人には悪いんだけど邪魔をしてほしくないの」

 真夜の本気が威圧感となって伝わる。

 良かれと思って飛び入りした二人が、渋々と帰っていく。

 真夜の纏った威圧が溜息と共に落ちる。

 神秘的で長い睫毛が透を見つめた。

「ありがとう、透ちゃん。いきなりでも問題なかったみたいだね。でも、絶対に覚えていてくれてると思ってたよ」

「そうだね。勿論、忘れる訳ないよ、この曲だけは絶対に……」

「そうね。私ねぇ、この曲にはとても思い入れがあるんだよ。勿論、知ってるでしょ?」

「ああ、知ってるよ」

「ベートーベンはね、叶わぬ恋の思いを込めてこの曲を作曲したんだって……」

「へぇ~、それってエリーゼ?」

「残念、ハズレだよ。別人で名前は忘れちゃったけど、相手は十四歳の少女で年下の身分違いだったんだってさ」

「十四歳……」

「決して叶わないと知っている恋を思って、この曲を送ったんだって…… それに、ベートーベンは難聴で晩年はもう耳が聞こえなくなってたんだって、何か他人事とは思えなくて、私と凄く重なってると思っちゃったんだぁ」

「そうだね」

「それでね、月光って曲名は後世の人が月光の海に浮かぶ船みたいだって総評したのが始まりらしいの、それとエリーゼって本当はテレーゼなんだよ」

「へぇ~ よく知ってるんだね」

「あぁ~話が反れちゃった。ごめんなさい、つい透ちゃんにひけらかしたくなっちゃたの、私は年下への叶わぬ恋が込められてるって言いたかったのに、そこにとても思い入れがあるんだよぉ、分かった?」

「うん、解かった」

「それでねぇ、透ちゃん。透ちゃんは十四歳の時のこと覚えてる?」

「十四歳……親父とお袋が死んだ歳だ。俺の人生の転換期だよ」

「あっ! ごめんなさい、そんなつもりで訊いたんじゃないの」

「解かってる」

「でも、あれからだったよね、透ちゃんがばったり来なくなったのは。その理由は、やっぱり、天女さん?」

「そうだよ、その時から、天女一筋でもう周りが見えなくなってたんだ」

「そっか……それと、もっとびっくりしたのが、透ちゃんが天女さんと結婚したって聞いた時。本当に好きな人ができたんだって知らされて、何か寂しかったな」

「そうだったんだ」

「私ね、もう透ちゃんに忘れられちゃったんだって思って、本当に寂しかったんだよ。それとね、千里との婚約の話も忘れちゃってたの?」

「そ、それは…… 別に忘れた訳じゃないんだ。只、小さい時の話だったから、余り真面目に考えてなかったってのが、本当の処かな……」

「やっぱりそうかぁ~」

「だって、与音ちゃんも、舞ちゃんも、千里ちゃんも、皆んなが結婚しようって言うんだもん」

「え! 何それ! どう云う事なの?」

「与音ちゃんからも、舞ちゃんからも、大人になったら結婚しようねって言われてたんだよ……」

「与音ちゃんと舞ちゃんの話なんて聞いてないよぉ~ でもね! 千里との話は親同士が認めた、正式なものだったんだよ! 透ちゃんはそれ聞いてなかったの?」

「え! 何? 正式って?」

「あっ! そうかぁ! 透ちゃんが中学校を卒業したらって話だったから、達盛小父さんは正式な婚約だって言ってなかったのか~」

「え! そう云う話だったの?」

「それも全部あの事故のせいなんだよね。それで透ちゃんは三人に何て答えたの?」

「皆んな、いいよって答えた」

「まぁ~呆れた。結婚って一人しかできないんだよ、どうするつもりだったの?」

「そんな先の事、考えてなかったよ。皆んな好きだったから断れなかったんだ」

「そっか~ でも千里ちゃんは本気だったんだよ、知らなかった? 私もね、透ちゃんが本当の弟になってくれると思ってたんだよ」

「そうだったんだ」

「透ちゃんは優しかったからね。でもね、誰にでも優しいのはいい事じゃないんだよ。応えられない相手にはちゃんと嫌だって断ってあげないと、余計に苦しめる事になるんだよ」

「大丈夫、今はちゃんと解ってるから」

「そうかなぁ~ 私は全然変わってない様に見えるんだけどなぁ~」

「そんな事ないよぉ」

「じゃあ、透ちゃんは今、奈々ちゃんって娘(こ)を好きなんでしょ? 奈々ちゃんが私とのこの場面を見たらどんな気持ちになると思う? 絶対に嫉妬すると思うよ」

「そ、そうだね」

「奈々ちゃんに対する不義理だとは思わない?」

「思わない。真夜姉ちゃんは姉みたいなものだし、不倫をしている訳じゃないから」

「不倫かぁ~ そう云えば昔、透ちゃんは私の目が見えない事をいい事に、色んな所を触ってきたよね、パンツを見せろってスカートを捲ってきたよね」

「やっ、止めて! その事は恥ずかしいから言わないで!」

「ふふふ、代わりに透ちゃんのも見せろって言ったら、見せてくれたよね」

「わああ……」透が真っ赤になる。

「千里ちゃんに見つかってから、触れ合いができなくなっちゃったよね」

 透は真っ赤に固まった。

 逆に、真夜には羞恥心が見受けられない。 

「奈々ちゃんとはどうするの、結婚するの?」

「多分、そうなるかもしれない」

「そう……おめでとう」

 真夜の口がしなる。

「それでね、大事な話ってのはね、透ちゃんには一度ちゃんとお礼が言いたかったんだ…… 透ちゃん、今までありがとうね。出歩けない私の話相手をいっぱいしてくれて、私の話をちゃんと聞いてくれた男の子は透ちゃんだけだったよ。私に触れてくれたのも透ちゃんだけだったよ」

 真夜の長い睫毛が揺れる。

「透ちゃん、わたしねぇ…… もうその頃から、結婚は諦めてたんだぁ~」

「知ってるよ。真夜姉ちゃんは結婚しないんだってはっきり言ってた」

「私は結婚できないから、どうせいらないものなんだから、操なんてさ…… だから私はね、透ちゃんに女の子の一番大切なものをあげたんだよ。だから、一番大好きな透ちゃんにあげたんだよ」

 透は目を瞑って聞いていた。

 そのまま口だけが開く。

「俺は、本当は、真夜姉ちゃんをお嫁さんにしたかった」

「へぇ!?」

「でも、真夜姉ちゃんは結婚出来ないって言ったんだ」

「え!?」

「真夜姉ちゃんをお嫁さんにするには、料理や家事が全部出来て、育児も出来ないと駄目なんだ。俺じゃあ絶対に無理なんだって悟って、諦めたんだ」

「うっ!」

 透が目を開けた。

 真夜の睫毛から雫が垂れていた。

「ありがとう、透ちゃん…… 私は、結婚、できないから……」

 濡れた睫毛が月光に光る。

 透が月に向かって喋る。

「今日流した真夜姉ちゃんの涙、忘れないよ」

 透は、初恋の人に感謝を贈る。

 初恋は実らない―――この言葉を噛み締めながら……


 真夜が突然後ろを振り向いた。

「舞ちゃん、盗み聞きしてたの?」

 米津舞が暗闇から現れ近づいてくる。

 真夜は既に舞を感知していた。

「み~つけたぁ~~ お二人とも、昨日ぶりぃ~ 何してるのぉ~ こんなとこでぇ~」

 舞はお道化て初登場を演じる。先程の飛び入りをなかった事にする設定なのだろう。

「な~に~ 二人で夜遊びしてるの~ いけないんだぁ~ それとも逢引ぃ~ うふふぅ」

 舞は盗み聞きを誤魔化したい様だが、そんな誤魔化しが通用する訳もなく、只のご愛敬で終わる。

「舞ちゃん! 趣味悪いよ、盗み聞きなんて」真夜が窘める。

 舞は真夜を無視して通り過ぎると透へと迫る。

「透ちゃ~ん、なんで乗ってきてくれないのよぉ~ 気まずいじゃな~い」

「そ、そうだね。お久し振り、舞ちゃん、五年振りかな?」

 透は更に遡って前々回からの再会の演出だとボケる。

 突然、舞のお道化た雰囲気がなくなった。

 更に気まずくなった雰囲気に、透は黙る。

 舞が舞うように一歩下がった。

 舞の両手が振り上げられ袖に顔を隠す。

 交差した白拍子がキンと鳴き打たれる。

 舞の両手がゆっくりと下がる。

 舞の道化師だった表情が羅刹女に変わっていた。

 舞が舞うように一歩踏み込む。 

 真っ白い肌と赤目が吸血鬼の様な迫力を持つ。

「わたしだって、本気だったわよ!」鬼気迫る表情が透に噛みつく。 

 真夜はそんな舞の雰囲気が判るのか、黙り続ける。

 透も気圧されて、首筋を晒して見上げる。

「ねぇ透ちゃん。透ちゃんは今、約束破ったわよねぇ!」

 透が更なる気まずさに目を逸らせる。

「誰にも言わないって、二人だけの約束だったでしょ?」

「そ、そうだったね……」

 羅刹女が微笑む。

「約束を破ったからには、それ相応の償いが必要だよねぇ?」

「……」

 また、舞が舞う。

 一歩下がって手を振り上げる。

 キンと鳴いた後には、瀬織津姫(せおりつひめ)が降り立つ。

 透も知る米津家の守護神の型を真似る舞。

 透はあの誓いの場面を思い出す―――

 舞は言った。千里との婚約を知って、不公平だから舞とも約束をしろと。

 透が結婚は一人しかできないからと言うと、内縁の妻と云うのがあるのだと言った。

 だから大丈夫なのだと言う舞に、透は了承した。

 その後神前に連れていかれ、絶対に他言無用だと誓わされた―――

 舞はあの誓いを思い出せと言っている。

 透は神罰に平伏す様に首を差し出す。

 舞が思惟像のポーズで近づく。

 透の更に伸びた首筋に舞が手を伸ばす。

 舞の人差し指が透の顎をなぞる。



ママママママママママママママママママママ



 最初に気が付いたのは真夜だった。

 真夜は見えない目をそこに向けた。

 土夏桜から足音が迫ってくる。

 真夜は恐怖に震える。 

 それが暗闇から月光に晒され姿を現した。

 舞が振り向く。

 釣られて透が視線を向ける。

 それが喋った。

 

「透! あんた何やってるの!」


 真夜が呟く―――「天女、さん……」


 その後ろからも―――「天女……」

 いつの間にか与音もいた。



スススススススススススススススススススス



 透の部屋からは土夏桜が望める。

 向かいの鈴の部屋からは見えない。

 透が鈴に立ち塞がる様に透の部屋がある。

 透に守らせる様に配置された鈴の部屋は天女の隠された企図か。

 誰もいない透の部屋の扉が開いた。

 透の半分もない大きさの天女が入って来た。

 土夏桜から聞こえる旋律に引き寄せられる様に窓際へ歩んでいく。 

 月光に照らし出された鈴の顔の目は閉じられていた。


 眠ったままの鈴が裏庭に現れる。

 何かに操られた様に真夜と舞の間に入る。

 目を瞑った鈴が言う。

「透! あんた何やってるの!」

「真夜ちゃんも舞ちゃんも与音ちゃんも、いい加減にしなさい! 透はもう子供じゃないのよ!」

「透にはもう、奈々ちゃんって云う奥さんになる人がいるんだから、もう誘惑しないで、もう透には近づかないで!」

 鈴はその場で立ち尽くす。

 透が走って抱き寄せた。

 鈴の体から力が抜けて透へ崩れる。

 保護者は言う。

「今日はもう帰って。舞ちゃん、与音ちゃん、真夜姉ちゃんの事、お願い」

 透に抱き抱えられながら天女は消えた。 



チチチチチチチチチチチチチチチチチチチチ



 懐かしい、あの、背徳の調べが漏れてきた。

 千里にとって『月光』は背徳の調べ。

 許嫁を差し置いて姉と透が奏でる不義の響き。

 姉が年下の義弟に愛を捧げる不倫の詩。

 不逞の輩を募る盛りのついた泥棒猫の叫び。

 歪な月が螺旋を描いて千里の背中に舞い落ちる。

 落ちて砕けた月屑が千里の背中を焼べる。

 千里は耳を塞ぎ心の中で絶叫した。

 惨めな自分に憐れむ。惨めな青春に哀れむ。 

 記憶が蘇り発狂する。

 止めて、止めて、もう止めて!

 止まらない涙に溺れる。

 やっぱり……帰って来るんじゃ、なかった……

 千里は気が触れた様に、一人泣き嗤う。

 一思いに刺してくれたら、楽なのだろうか……

 姉を一思いに刺し殺せば、楽なのだろうか……

 お姉ちゃん……何でこんな時に…… 

 お姉ちゃん……何で私がいる時に……こんな仕打ちを……

 お姉ちゃん……止めて、止めて、止めて!

 止めて、止めて……透ちゃん!


 母に抱かれていた。

 いつしか音は消えている。

 鳴き声か叫び声が漏れたのだろう、母が駆けつけて様子を見に来てくれていた。

 母は千里の気持ちを案じてくれているのか、じっと抱きしめている。

「苦しいよ…… おかあさん……」

「あっ! ごめんね、きつく抱き締め過ぎちゃった?」

「違うの、あの曲を聞くと、あの頃を思い出して、苦しくなるの」

「そうだったわね、ごめんね千里ちゃん。でもお姉ちゃんを責めないでね。真夜にはそんなつもりはないんだから」

「分かってるよ。お姉ちゃんの味方はお母さんしかできないんだもんね」

「ごめんね、千里ちゃん。お母さん、あなたの事を全然、気にかけていなかった」

「いいよ、昔から、そうだったじゃない……」

 母の顔がみるみる崩れる。

「千里ぃ……」母が号泣した。

 思わぬ本音が母を泣かせて、千里は後悔する。

 その後悔が昔を思い出させ、歪んだ月が痛み出す。

「おかあ、さん…… 背中がイタイよ」

 母が慌てて背中を捲る。

 母は狂ったように背中を擦る。

 そこには消えない火傷の跡がある。

 子供の頃に姉と喧嘩して、ストーブへ突き飛ばされて付いた火傷の跡。

 当時はお尻にあったのが、今は成長して背中まで上がってきて残っている。

 その形は、大人になってから歪んだ月の形になった。

 どちらが悪かったのかも思い出せない。只、母を酷く悲しめた事だけは、よく覚えている。

 落ち着いた千里は呟く。

「わたし、がんばったよね? おねえちゃん、目が見えないんだからって、いっしょうけんめい、がんばったよね……」

「そうね、お姉ちゃんばっかり構ってたお母さんの事、許してね」

「大丈夫だよ。お母さんだって、すごく大変だったの知ってるから」

「千里ぃ……ありがとぉ」

「お母さんの方が私なんかと比べられない程、苦労していたのを知っているから、お姉ちゃんがどれだけ手間がかかるか知ってるから、それでも私の面倒も見てくれてたんだもん、お母さんには感謝しかないよ。お姉ちゃん程じゃないけど……」

「千里……?」

 千里は苦労する母の苦労を苦々しく労わる。

 そして、母はやっぱり姉の味方だった―――

「でもね、今の話は、絶対に真夜には言ったらダメよ。真夜はね、どんだけがんばっても出来ない事は出来ないんだからね。そこを責めるのは絶対にしてはいけないのよ。それをする事は、生まれた事を否定する事なんだから……」


 母に連れられリビングにくる。

 父が心配そうに迎えてくれた。

「大丈夫か? 千里」

「うん、もう大丈夫。それよりお父さん? 私がもし、婿を見附けられなかったら、どうする?」

「え? そんな訳ないだろう。お前ほどの器量よしで、若いんだ、それに女医の卵なんだし、選り取り見取りだろう。選り好みさえしなければ問題ないんじゃないのか?」

「そうなんだけど、もしだよ、もし」

「その場合は、見合いだな。あらゆる伝手を使って探してきてやるよ」 

「じゃあ、もし私が、離婚して子供を一人で育てられなくなったら、手伝ってくれる?」

「勿論だ」

「お父さんは、やっぱり孫の顔が見たいだけなんだよね」

「馬鹿な事言うな。確かに孫の顔は見たいが、お前たちの幸せも願っているぞ。子供の幸せを願わない親なんている訳ないだろ!」

「じゃあ、お姉ちゃんの幸せって何? お父さんとお母さんはどうしようと考えてるの? このままずっと座敷に閉じ込めて置く事?」

「千里は何が言いたいんだ。質問の内容が支離滅裂だぞ」

「ごめんなさい、じゃあ率直に言うね。私はこれから結婚相手を見つけて何時か幸せになります。でも、お姉ちゃんにはその道がないよね。だからお姉ちゃんにも女の幸せを味合わせてあげたいの」

「何を馬鹿な事を、それができれば、苦労はしてない。全盲の嫁なんて受け入れる奇特な奴はいないんだ。それに、他所へ出してどっかに衒(う)られでもしたらどうする、そんな末路は絶対にさせられん」

「違うよお父さん、私が言いたいのはセックスボランティアを利用したらどうかって事なの」

 父は絶句した。

 代わりに母が応える。

「千里ちゃん、それは真夜が望んでる事なの? 真夜は赤の他人に体を触れさせられないのよ」

「それは大丈夫、だって相手は透ちゃんにお願いしようと思ってるから」

「透ちゃん? 受けるかしら、透ちゃんがそんな事」

「絶対大丈夫だと思うよ。だってお姉ちゃんの好きな人は唯一、透ちゃんだし、透ちゃんも昔はお姉ちゃんの事が好きだったんだよ。私よりも……」

「千里ぃ……」

「それでね、もしお姉ちゃんに赤ちゃんができたら、お父さんとお母さんで育ててほしいの。孫が透ちゃんの子供なんだよ。本来、海老名家に産まれる筈の孫なんだよ。お父さんもお母さんも反対ではないでしょう? 只、母親が私じゃないけど……」

「千里ぃ……」

 父は反対しない。

「どうかなこの案。お姉ちゃんも幸せになれて、海老名家に跡取りもできて、私のプレッシャーも軽減出来て、いい事尽くめでしょ?」

「千里ちゃん、あなた、そんな事まで考えてたの……」

 父が重い口を開いた。

「条件がある。真夜が了承する事。透君が了承する事。子供の親権は海老名家である事。産まれた子供は千里の弟又は妹とする事。そうすれば、千里が子供を産んでも遺産相続で揉める事もないだろう。この全てが満たされなければ認めん」

「分かりました。この海老名千里が全力で交渉に挑みます」

 千里が冗談めかして父へ敬礼する。

 父が返礼だと頷く。

 母が言う。

「ねぇ、千里ちゃん。あなたはそれで何ともないの? 大丈夫なの? 納得できるの?」

「そうね、皆が幸せになれるなら、納得するよ」

「納得する、なのね……」

「私ね、もしも土夏家のあの事故がなくて、透ちゃんが次男のままで、海老名家に婿に来てくれたとしても、透ちゃんにお願いしたかもしれないの……お姉ちゃんの事を抱いてあげてって……だから、大丈夫だよ」


 姉が帰ってきた。何故か米津の舞ちゃんに送られて。

「お帰り、お姉ちゃん」

 姉の着物を脱がし、洗面所へ連れる。

 姉の化粧を剥がす。

「どうだった? 思いは伝えられた?」

「え? 何のこと?」

「隠さなくてもいいよ、お姉ちゃん。最後に透ちゃんへ思いを伝えたかったんでしょ?」

 姉の口が噤む。

「もう会わないつもりなんでしょ。だから私に化粧までねだったんでしょ。最後のお別れだったんでしょ」

 姉が頷く。

「そうよ。でもね…… やっぱり言えなかった。だって叶わないのは分かってるし、透ちゃんには迷惑なことだから……」

「そう」

 姉の涙の跡を拭う。

「それでね、お姉ちゃんに提案があるんだけど、セックスボランティアを宛がってあげようと思うの」

「何、それ?」

「身体障害者専用に性欲の捌け口になってくれる人の事。お姉ちゃんの性交の相手をしてくれるのよ。お姉ちゃんだって女の喜びを知らないままに死にたくはないでしょ?」

「え、え! 性交……」

「何時も一人でやってる事を男の人とするんだよ。それが本当の性交なの」

 千里は物をみる様な目で真夜を見つめる。

 真夜の顔が途端に赤くなる。

「私だって、それぐらい知ってるわよ。でも、そんな露骨な事言われたら恥ずかしいじゃない」

「あら、お姉ちゃんから恥ずかしいなんて言葉が出るとは思わなかったわ」

「だって、知らない男の人に体を触らせるなんて、できないよ……」

「透ちゃんとはあんな事してたのに?」

「だって、透ちゃんなら恥ずかしくないもの」

 千里の顔が醜く歪んだ。

 千里にあの時の悋気の炎が甦る。 

 突然、姉が着けている襦袢(じゅばん)を剥がす。

「透ちゃんにこんな事してもらってたよね」

 千里が真夜の胸を掴む。

「透ちゃんにこの乳を吸ってもらってたよね」

「止めて千里ちゃん、痛いよ!」

 千里が真夜の尻を叩く。

「透ちゃんにこの尻を撫でてもらってたよね」

「痛い、痛いよ! 止めて、千里ちゃん!」

 真夜が堪らず蹲る。

 千里が我に返った。

 千里が嗤う。

「ごめん、お姉ちゃん」

 真夜が顔を上げた。

「どうしちゃったの、千里ちゃん?」

 真夜が怯えた顔で訊く。

 千里が屈むと真夜を抱き泣き始めた。

「あのねぇ、お姉ちゃん、今日見た透ちゃんねぇ。すっごくカッコよくなってたよ。凄まじいほどいい男だったよ。あの男が私の旦那さんになってたのかと思うと、何か凄く悔しくて、悔しくて、惨めになってきて、そんな透ちゃんに愛されてたお姉ちゃんが、凄く憎くて、憎くて、だからつい手が出ちゃったの。ごめんね、お姉ちゃん……」

 真夜が抱き返すと言った。

「知ってるよ。昨日、五年振りに会った時、よく見せてくれたから」

「そう、五年振りでも触れ合えたんだ。それじゃあ、お姉ちゃん、心配はいらないね。セックスボランティアの相手は透ちゃんだから」

「へぇ?」

「そう、透ちゃん」

「だ、ダメだよ! 透ちゃんに迷惑が掛かるよ!」

「大丈夫、私に考えがあるの。お姉ちゃんは黙って見てればいいから、目が見えなくても。私が透ちゃんを説得して見せるから」

「どうやって?」

「勿論、目が見えない事を武器にするんだよ。優しい透ちゃんなら最後には絶対了承する筈よ」

「ダメ、駄目。そんなの間違ってる」

「間違ってないよ。セックスボランティアなんだから、理由として当然じゃないの。別に、嘘付いてる訳じゃないんだし、目が見えないのは事実なんだよ」

「嫌よ。千里ちゃん、それ、私が惨めすぎる。情けに縋るなんて、酷すぎる。私、別に目が見えないからって、恥ずかしい人間だなんて思ってもいないもん。盲目を武器にするなんて恥ずかしい行為だよ! ……そんな事言うなんて、千里ちゃん酷すぎだよ……」

 真夜の睫毛が揺れる。

 千里の肩が揺れる。

「なに綺麗事言ってるのよ。私は、もっと惨めな経験をしてきたんだよ。それに比べたら大した事ないよ」

「大した事あるよ」

「大した事ない! 私は婚約者を姉に寝取られたんだよ。その婚約者に姉の方がいいって懐かれていたんだよ。私ばっかり夢をみていて、相手は私の事、何とも思っていなかったんだよ。婚約破棄されて捨てられちゃったんだよ。私の青春をどうしてくれるのよ? 私の青春を返してよ~!」

 真夜の睫毛がまた揺れる。

「ごめんね、千里ちゃん。ほんとに、ごめんね……」

 千里の肩が落ちる。

 真夜がそれを見て言った。

「でも、私ね、その話、お断りするわ。透ちゃんには迷惑な事だから……」

 千里の大げさな溜息が漏れる。

「お姉ちゃんは、透ちゃんに抱かれるのが嫌なの!」

「嫌じゃない」

「透ちゃんも、お姉ちゃんなら嫌々なんて事、絶対にないと思うよ?」

「そう」

「じゃあ、私の話を受け入れなさいよ。二人の合意が成った性交なら問題ないじゃない」

「だから駄目、透ちゃんに迷惑だから」

「だから、そんな迷惑、私が受けた事に比べたら大した事ないって、透ちゃんにも少しぐらい報いがあってもいい筈よ。私に与えた仕打ちに対しての報いは、こんなもんじゃ釣り合わない、迷惑にもならないわ!」

 真夜の睫毛が俯く。

 千里の肩が張る。

「透ちゃんには一番迷惑を被った私が説得してあげるから、それならいいでしょ、お姉ちゃん」

 真夜の睫毛が立つ。

「やっぱり、お断りします。透ちゃんに迷惑、ですから……」

 真夜はきっぱりと決断して言った。

 千里はまた、真夜に冷酷な視線を向ける。

 千里の奥歯を噛み締める音が頭に響いた。 

 透の慰めが真に必要なのは千里の方だなんて、真夜には解からない。

 諦観の残滓に蝕まれる妹が、じっと姉の顔を見つめる。 

 悲愴な顔をする姉に、自分には無かった透との運命を看(み)る。

 妹の一縷の思いは姉には全く届かなかった。

 千里は熱情の矛を納めた。

「そう…… 取り敢えず、分かったわ」

 千里はこの世に一人だけの姉の、告別を肯定した。


 その夜、真夜の部屋から、しくしくと泣く声が漏れた。

 千里の部屋にも射す月光が、しくしくと鳴く。

 海老名千里は翌日、嫌いな実家へ激辛の後味を残して帰って行った。

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