第7話 伏兵パンナコッタと栗羊羹
透のスマホが鳴った。
メールだった。差出人は阪奈(はんな)孝太(こうた)。
内容は幹太と一緒に様子を見に行く。
幹太とは久里洋(くりよう)幹太(かんた)。
孝太と幹太は透とは産まれた頃からの付き合いで幼馴染。幼稚園から高校まで同じな腐れ縁。葬儀以来会っていなかったが、理由は透がほっといてくれと突き放したからだ。そんな二人は、忌引き明けで強引に様子を見ようと押しかけてくる様だ。
「ごめん奈々、野次馬が二人来る」
「え! まだ増えるの? 今度は誰?」
「阪奈孝太と久里洋幹太。俺の親友だ」
「へぇ~ 阪奈くんと久里洋くんかぁ、勿論知ってるよ。仲いいもんねぇ。久里洋くんは同じクラスだよ」
「こいつら、こっちの都合なんかお構いなしなんだ、断る暇も与えてくれないんだぜ、もう一方的過ぎだろう?」
「じゃあ、しょうがないね。そういえば昼時だし、食べていくのかな~?」
「多分、俺を誘ってどっか食いにでも行こうってつもりかな、だから、食べてないと思うよ」
「それじゃ~ 料理足んなくなるから追加するね」
その時、奈々のスマホが鳴った。
「真音がきたよ~ ちょっと迎えに行ってくる」
奈々が屋敷の脇道をすり抜け、玄関へと向かう。
戻ってきた奈々は真音を引き連れていた。そして―――その後ろに男が二人、ぶつぶつ言いながら付いて来る。
「お邪魔しま~す! こんにちは~ 透く~ん、来てやったぞ~!」真音は両手をぶんぶんと振って近づいてくる。
透はいきなりの名前呼びで、威風堂々と登場する真音に碧碧(へきへき)とした表情を返す。
「真音、昨日振り。お邪魔するなら帰っていいぞ」
「言うね言うね~ じゃあ、阪奈君と久里洋君は帰んなさい。こいつらいきなり私に絡みついて邪魔しようとしたんだよ。透君、言ってやって~」
「何言ってるの、倉瀬さん! 俺は何で倉瀬さんと千横場さんがここにいるのか訊きたかっただけだよ」孝太が半分怒りながら言う。
「透! 説明してくれ! 何で、おまえと倉瀬さんが名前呼びなんだ、付き合ってるのか?」幹太も元気よく声を張り上げる。
「こらぁ、久里洋に阪奈! 巫山戯(ふざけ)た事、言ってんじゃないわよ! 勝手に付き合ってる事にするなぁ~」真音は何故か怒っていた。
「ん~ めんどくせ~ 何で、選(よ)りに選って一緒に来んだよぉ! そんじゃ、奈々から自己紹介して」
「はい、千横場奈々です、今度、透くんの彼女になりました。よろしくお願いします」
「は~ぁ! 千横場さんが彼女? 倉瀬じゃなくて?」孝太が驚く。
「俺も、倉瀬の方がお似合いだと思った」幹太も同意する。
「こら、二人共! なんで私だけ呼び捨てにすんのよ」
孝太と幹太が苦笑いを返す。
「じゃあ、次、倉瀬さん、どうぞ」
「なんで急によそよそしくなるのよ、先まで、真音て呼び捨ててた癖にぃ」
「解った分かった、真音、お願い」
真音がよろしいと頷く。
「え~ 奈々の親友の倉瀬真音です、奈々が透君の彼女になったので、仕方なくお友達をさせて頂いています。だから、勘違いしないでね」
「仕方なくなら友達じゃなくてもいいんだぞ、真音」
「え! 透くんらしくないじゃない、説明しないと解らないなんて。今のはねぇ、勘違いしないでを強調する為の方便なんだよ、解んないかな~」
「解ったから、あ~めんどくせ~ じゃあ、次、孝太」
「俺は透の幼馴染の阪奈孝太。今日はまだ伏せってるのかと思って様子を見に来た。いい加減、明日から登校しないと出席日数がやばくなりそうだからな。それがなんだよ! 女連れ込んでお花見って、急に元気でたなら、連絡ぐらいしろよな!」
「孝太、ありがとう、心配かけて悪かった。実は、元気になったのは奈々のお陰なんだ。それで、今、家に来てもらってる。それが馴れ初めかな。幹太もありがとう」
「俺はあれだ、初登校で勝手がわからねえと思って、明日の誘いに来たんだよ。透とは同じクラスだしな。なんか気を使ってやったってのに、ぞの分だといらんお世話だったかな。ねえ、千横場さん」
「はい、明日はわたしと透くんで一緒に登校しますので、どうかお気になさらず」
「奈々、何勝手に決めてんだよ」
「ダメです、もう決めたことですから」
真音とは正反対に、奈々は少し構えている。
「……じゃあ、最後に与音ちゃん」
「はい、孝太と幹太は知ってるわよね。天女の親友だった辛島与音です。本日は亡き天女のお花見供養にお越し頂き有難う御座います。本人に成り代わりお礼申し上げます」与音は三つ指を突いて折り目正しくお辞儀をした。
「え~ そうだったの? 俺達手土産も何も持ってきてないぞ」幹太が代表して言う。
「それなら、私もだよ」真音も続く。
「あ、それは全く気にしないでいいよ。与音ちゃんも挨拶が堅苦し過ぎだよ。流石、お琴の先生って感じだけど」
「え! ヨネちゃんって、琴の先生なの、どうりでうまいと思った」
「そう云えば言ってなかったですね。私、琴教室を持たせて頂いていて、そこの教師をしています。去年、免許を取りまして、因みに、プロの和琴奏者でもあります」与音が完全な仕事モードで猫かぶりをしている。
突然、真音が声を上げる。
「ヨネちゃんって、もしかして、辛島先生なんですか? ポカロカルチャスクールのぉ?」
「はい、そうです」
「家の母がそこに通ってるんです。倉瀬美冬(くらせみふゆ)って云うんですけど知ってますか? 私はその娘の真音です」
「はい、いらっしゃいますよ。歌舞伎好きの倉瀬さんですね。あなたが娘さんですか」
「はい、歌舞伎好きなら間違いないです。いつも母がお世話になっています」
「いいえぇ、こちらこそ、世間が狭いとはこの事ですね。ほほほ」
「はい、じゃあ終了だな。与音ちゃんはそろそろ元に戻ってね」
「透くん、鈴ちゃん忘れてるよ~」奈々からの指摘がくる。
「え! 鈴は今更だろ?」と、透が鈴を見る。
全員の視線が鈴に集まった。
忘れられた娘が突然の注目の的に慄(おのの)く。
鈴がもじもじ、し始めた。
奈々が拳を握り締め、胸に抱く。
鈴が突然、居を正して正座した。
三つ指を突いて伏せる。
「どなつすずです。ごさいです。よろしく、おねがい、しま~す」
「「「「よろしくおねがいしま~す」」」」
ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの混声合唱が鈴を祝福し昇天させる。
「鈴ちゃん、ジョウズぅ~」ソプラノ奈々。
「鈴ちゃん、スゴイよぉ~」アルト真音。
「鈴は、相変わらずカワイイね」テノール幹太。
「鈴、待ってるからオヨメさんにきてね」バリトン孝太。
鈴が得意げに顔を上げると天使の笑顔で愛嬌を振りまく。
(そんな挨拶どこで覚えたんだよ。さっきの与音ちゃんの挨拶か? 見よう見まねで直ぐにできるなんて、家の娘は天才か。凄すぎるぞ~スッチー! それより、ロリコン孝太、鈴に手を出したら殺すぞ!!)
「まだ忘れてる人がいるんじゃないのかしら? 透ちゃんはぁ? ご挨拶、出来ないのかしらぁ?」
背筋をぴんと伸ばし正坐(しょうざ)する与音が、伝統芸能の伝承者が日本精神を捨てた占領民を挑発せんが如く、澄まして佇んでいる。
透が与音にひと睨みする。
暫(しばら)くすると三つ指を突いて頭を垂らした。ちょっと肘が張りすぎだった。
三つ指が、親指・人差し指・中指に代わると、両手を脇に広げながら颯爽と頭を擡(もた)げ、一同を睥睨(へいげい)する。
「本日は亡き妻・天女のお花見供養にお越し頂き誠に有難う御座います。本人に成り代わりまして、喪主の夫・透が厚く御礼申し上げます」深々と頭を垂れる。
歌舞伎の襲名披露挨拶の如く、格好良く決めた。内心では浮かんだ葬儀の喪主挨拶を覚えてて良かったと安堵していた。
「ねぇ、透くん。変な雰囲気になっちゃったよ、どうすんの? 自分で堅苦しいとか言っておきながら、何やってるの?」奈々が畏まる透を窘(たしな)めにくる。
透が顔を上げると、冷たい視線が突き刺さる。与音だけが弟を見る暖かい視線だった。
孝太がちらりと与音を観る。
「は~い! じゃあ、阪奈くんと久里洋くんはそこに座って料理食べててねぇ。真音はわたしと一緒にこっちに来てぇ」
奈々が真音の手を引いて屋敷へと消える。
代わりにと与音が席に案内しようと立ち上がる。
「孝太、幹太、久しぶり。いや、葬儀ぶりだったかな?」
「そうだよ、与音ちゃん、葬式の時はかなり落ち込んでて、話もできなかったよね」幹太が言う。
孝太は与音を懐かしい目で見つめると言った。
「与音ちゃんが居たんでびっくりしたよ、与音ちゃんも元気になったんだね、でも相変わらず変わらないね」
「孝太は随分と大人になったね。それよりいきなり失礼ね、これでも少しは成長してるわよ」
孝太が与音に頭から爪先まで視線を送る。
「どこが?」
「胸よ!」
「全然判んねえよ、ぺったんこじゃん」
「孝太、いい加減にしなさいよ~」与音が孝太の肩をぺしっと叩く。
「ごめん、与音ちゃん、けど、このままだと将来はロリ婆だな」
与音が堪らず、孝太の頬を打つ。
与音の目には涙。
驚愕する孝太の目には後悔の色がみるみる浮かび上げってくる。そして、頬には与音の手形がくっきりと押されている。
「ごめん……ヨネっち姉ちゃん……」孝太の目にも涙。
与音が涙目でくすりと笑う。
「おまえって、そんなにデリカシーなかったっけ」幹太が呆れる。
「否、なんか懐かしくて、つい昔の癖が出ちゃたって感じかな?」孝太の目には後悔の冷や汗が残る。
立ち尽くす三人に堪らず透が言う。
「何いきなり修羅場みたいにしてんだよ。取り敢えず、全員座って」
孝太が鈴の隣に座ろうとすると―――鈴がロリコン孝太を避けるように透の隣に移動する。
「奈々が今、追加の料理作ってるから、ここにあるのは遠慮せず全部食べちゃってくれ。後、このおはぎは辛島の婆ちゃんからだ、懐かしいだろ~」
料理に一切関知してない透が自慢げに勧める。
透に料理が出来ない事を知っている孝太が言う。
「なあ、透、彼女ってより、もう奥さんだろそれ。後、倉瀬もなんか、彼女って感じだったぞ。デリカシーがない俺が言うのもなんだけどさぁ、おまえ、ちょっと節操が無さ過ぎじゃないか。天女さん亡くなったばかりなんだろう」
覚悟があった筈の透が絶句する。
与音が紙コップにお茶を注ぐと二人へ渡した。
取り皿と箸を配り終わると、ぼそりと言った。
「透ちゃん、また始まったんだね……」
「何だよ、始まったって、それに、またってどう云う事?」
「天女の箍(たが)が外れちゃったんだね~ あんた、天女が結婚して人妻になって姉であっても好きだったでしょ?」
「何で、そんな事まで知ってんだよ?」
「そんなの、見てれば判るわよ。その時、あんた何やった? 天女を忘れる為だったのか知らないけど、女の子を取っ替え引っ換えして遊び回ってたわよね。その子達って、本気じゃなかったんでしょ?」与音がいきなり告発する。
「そうだな、中学の時の透は、付き合っちゃ別れの繰り返しだったな」
「まあ、二股とかはしてなかったけどな」
二人が証言と弁護をする。
「否、違うんだ、俺は必死に忘れようとしてたんだ! 天女程好きじゃなかったけど、真剣に交際してたよ。遊びで付き合ってた訳じゃないから」
「やっと思い出したのね。それで今回の件だけど、奈々ちゃんの事はどうなの? 真剣なの? 天女の事は忘れられそうなの?」
透は黙秘する。与音を見つめながら。
(忘れられる訳無いだろう! そんなの、与音ちゃんが一番知ってるじゃないか!)
「ねぇ、透。奈々ちゃんだけは傷つけちゃ駄目よ。あの子、本当にいい子だよ」
(やっぱり解ってるんじゃないか。俺が天女を忘れられないと…… だから、奈々とは真剣じゃないと思ってるんだろう?)
そんなつもりは毛頭ない透がぼそりと言う。
「俺は、誰も傷つけちゃいないよ」
「そうかしら? 緒乎奈(しょこな)ちゃんは? あの子も傷つけてないって言うの?」
透は余り思い出したくない中学時代の引き出しを探る。罪悪感の詰まる緒乎奈の場所は決して小さくはなく、宝石箱の中で大切に保管されている。
「あれは……傷つけたかもしれない……」
加藤(かとう)緒乎奈は透が始めて自分から告白した女の子。家に連れてきて家族にも紹介した。天女とも姉妹の様に馴染んで、両親は娘ができたと喜んでいた。無論、その頃よく遊びに来ていた与音も知っている。本当に好きになれるかもしれなかった女の子。しかし、あの事故の後、あっけなく振った。一番好きな人が復活してしまったから……だって―――もう、無理だった。もっと好きな人がいるのに付き合い続けるなんて。
「でも透ちゃん、あんたは偉いよ。そんだけモテるのに傲慢にならなくて、俺モテるんだぜぇ~って雰囲気が全然ないんだもん。一応、誠実でもあるしね」
糾弾された透を慰める様に与音が微笑みかける。
「さぁ、この話はもう終わりにして、食べよ~ 食べよ~」
「与音ちゃん、自分ばっか喋ってそれは狡いよぉ」
「そうだよ、これから千横場さんとの馴れ初めとか聞き出す処じゃないか~」
「孝太! あんた、そんなんだからデリカシーがないって言われるのよ」
変な誤解と冤罪を与えた流れに、堪らずと透が決起した。
「与音ちゃん、ちょっと待って! いいよ、話すよ! 今ここに居る皆んなは天女を知ってるんだし、丁度、天女の供養で都合もいいから聞いてほしいんだ。何で奈々が突然ここに居るのか、何で彼女になったのか、俺は奈々が特別なんだって事を話しておきたい」
透の真剣な表情に、三人が興味を惹かれて頷く。
透は話した。天女が紡いだ三本の糸が織り成す組紐の話を―――
孝太は実家が寺なのか、幽霊話にも理解を示した。
幹太は胡散臭い顔をした。が、透が言う事だからと信じてくれた。
与音は―――天女の心残りに酷(ひど)く同情的だった。
与音が突然立ち上がると天女桜に数歩進む。
「天女、あんたは凄い女だよ。あんたの旦那はさぁ、すっごくモテるんだよ。そんな男が、あんた一筋に愛を注いでさ、釘付けにさせたんだよ。だから、あんたは凄くいい女なんだよ。ねぇ~天女、あんたの意思は私が引き継ぐから、奈々ちゃんは絶対に守るからね~!」
与音は大きい声で言ったもんだから、こちらにも丸聞こえだった。否、透にも聞かせるつもりだったのだろう。
透は与音の大きい独り言が全く理解できなかった。天女の引き継ぎやら、奈々を守るやら、見当も付かない。
透が傍と鈴を見た。(全部聞かれてたか……まずいぞ!)
透の側にいた鈴はしっかりと話を聴いていた。
「しょこなちゃんって、だれ? いじめたのぉ~」
透は耳聡い娘に、にやりと笑顔を向ける。
「この事は奈々ちゃんには内緒だ」
「わかった~」
これは絶対に奈々へ話すかなと思いながら、それでもいいかと半分諦める。実は鈴の口を完全に塞ぐ方法がある。鈴を嘘つき呼ばわりする事だ。今回も分かったと言った事に対し話したら嘘つきと云う事になる。それを指摘すれば鈴は喋らない。だが、この非常手段はそうそう使わない。おしゃべりの鈴を縛りすぎるとストレスが溜まるだろうから。尚、この非常手段は奈々には教えない。何故か、それは、秘密を暴露されて恥ずかしがる奈々の反応が、この上なく可愛いからだ。あれが見れなくなるなんて勿体無い―――そんな事を思っていると、突然、鈴が始めた。
「きのうななちゃん、うちでおとまりしたんだよぉ~」
「おおぉ~」孝太と幹太が響(どよ)めく。
(あぁ~ 奈々がこの場に居ないのが恨めしい)
「すず、ななちゃんとおふろはいったんだ~ そしたらねぇ、ななちゃん―――」
(あっ! これは拙(まず)い。そんな事、こいつらに教えられるか!)
堪らず透が鈴の口を塞ぐ。
透が、鈴に耳打ちする。
「鈴、奈々ちゃんとの約束、破るのか。そしたら、もう奈々ちゃん来てくれないぞ」
鈴が目を見開き、了承の頷きをする。
透が手を離す。
「えへへぇ」鈴の口が左右に広がる。
「鈴ぅ! 奈々ちゃんがお風呂でどうしたって? 孝太兄ちゃんに話してごら~ん」
「ヤダー! コウタにはおしえないよぉ~」
鈴があかんべぇ~と舌を出す。
「やったなぁ~ 鈴ぅ~」孝太が脅かそうと立ち上がった。
鈴が慌ててサンダルを履く。
孝太は履き終わるのをじっと待つと、鈴が走って逃げるのを見届けてからゆっくりと追いかける。
振り返った鈴が「きゃ~」と嬌声をあげて走る。
「待てぇ~ 鈴ぅ~」孝太が追う。
残った三人は笑顔で見つめる。
丁度、屋敷から奈々と真音が料理を持って現れた。
奈々を見つけた鈴が助けを求めて本気で走る。
「たすけてぇ~ ななちゃ~ん」
鈴が奈々の間近で脚をもつれさせ、ずっこけた。
「びえ~ん!」壮大な鳴き声を上げた。
孝太が慌てて走り寄る。
それより先に、転んだ鈴を奈々が抱き上げる。
「鈴ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
奈々の優しい声に鈴が安堵する。
「え~ん!」甘え鳴きに変わった。
「大丈夫だよ~ 怖かったねぇ~」奈々が鈴の頭を撫でる。
突如、奈々の背後からカモシカのような脚が駆け抜ける。
「パチーン!」真音が孝太の頬にレイアップシュートを決めた。
「倉瀬、てめぇー!」孝太の頬が与音の手形を上書きし、みるみる赤く染まる。
駆け抜けた真音が振り返る。ショートパンツから二本の脚線美を覗かせて。
「この変態! 幼女を追っかけて転ばせるなんて、変態の所業よ。それに、あんた追っかけながら、へらへらしてたでしょ? ちゃんと見てたんだからね。鈴ちゃん本気で嫌がって逃げてたのだって知ってるんだから!」孝太の鼻面へ人差し指を突き出す。
孝太が真音の剣幕にたじろぎながら言った。
「お、俺は変態じゃねえよ! 只、鈴の事が可愛いから、かまってただけだって」
「じゃあ、あんたはロリコンね、このロリコン孝太!」
「俺はロリコンでもねえよ! それより鈴ちゃん、怪我してないか?」
「大丈夫よ、浴衣着てたから膝は擦りむいてなかったわ、ちょっと浴衣が汚れただけ」浴衣に付いた汚れを払いながら、奈々が答える。
「それより阪奈くん? もう二度と鈴ちゃんを虐めないでねぇ」奈々がにこりと笑いながら目だけで睨む。
「千横場さんまで…… 別に虐めてた訳じゃないよ。追いかけっこして遊んでただけなんだって、でも、転ばせちゃった事は悪かった。ごめんね、鈴ちゃん」
鈴が頷いた。
鈴の怪我が気になり近づいて来ていた透は、奈々の懐でにやりと笑った鈴に気付いた。
(やばいぞ! このままだと小悪魔系美少女になっちまうんじゃないか? 今までそんな素振りはなかったのに、何でなんだ、真音の影響なのか? そんならなるべく真音には近づけないようにしないと!)
透が鈴に声を掛ける。
「鈴? どこも痛くないのか?」
「だいじょうぶぅ」鈴が振り返る。
「じゃあ、こっちにおいで鈴」透が両手を鈴へ伸ばす。
鈴が再度振り返って奈々へ抱きつく。
「え!! 鈴?」両手を突き出した状態で固まった。
「だって、おとおさん、たすけてくれなかったもん!」鈴の頬が膨らんでいる。
「だって、鈴、お父さんは離れてたから、直ぐには駆けつけられなかったんだよぉ~」
情けない顔で弁解した後、怒りの表情に豹変し孝太に向く。
「くぅ~! 孝太ぁ! お前二度と鈴に近づくなぁ! お前のせいで鈴に嫌われちまったじゃねえかー!」
「え! 俺のせえ? その無茶ぶり、どう反応していいか判んねぇ~よ」
「大丈夫よ、透くん。そのうち自然に嫌われるんだからぁ」奈々が勝ち誇った笑顔でさらりと言う。
「それはまだまだ先の話なんだろ~ 一番可愛い時期に、嫌われたくはないんだよ~!!」思わず頭を抱えた。
透はそのまま地団駄を踏んだ。
傍と気付いて周りを覗う。
透の過剰表現に孝太と幹太と与音が懐かしい笑顔を向けた。
真音の表情は半分驚愕が混じった笑顔。
奈々は何故か寂しさが混じった笑顔。
鈴は口を開け、目を丸くする。
「え~ それでは、お食事の準備が整いましたので、皆様、ご歓談の席までお越し下さい」透が躍けて一礼する。
皆がぞろぞろと移動する。奈々と真音は縁側に置いた料理を取りに戻ると、後に続いた。
やっとと云うべきか、何とかと云うべきか、飛び入り参加の全員も加わって、落ち着いた花見が再会された。
追加された料理に舌鼓を打つ中、与音が席を立つ。
「それじゃあ、彩を添える為に、私くしが一肌脱いて差し上げましょうか」与音が和琴の前に移動する。
全員の拍手の中、琴の演奏が場を盛り上げる。曲目は勿論、桜だった。
突然、鈴がもうお腹いっぱいと言って眠たそうな仕草をする。
奈々がおいで~と鈴を招くと、膝の上に抱き抱える。
二人が笑顔を向け合う。
その場面を見て誰もが思う事、予想通りの話題が振られた。
幹太が言う。
「鈴ちゃんって、千横場さんに似てないか? 何か、天女さんより似てて気持ち悪い位なんだけど」
「確かに、髪型まで同じにしてると、本当の母娘みたいだな」孝太も言う。
真音がそれ見ろと奈々に目配せする。
「それはねぇ、わたしと天女さんが再従姉妹だからだよ」奈々が得意顔で答える。
「それは、さっき透から聞いたけど、本当の処はどうなの? 千横場さんが産んで天女さんが引き取ったなんて事はないのかな~」機微に疎く配慮に欠けた孝太が追求する。
突然、与音の演奏が止まった。
「孝太ぁ! あんたこの席で、天女を侮辱する気! もう一回叩かれないと解んないの!」与音が本気で怒った顔をする。
「それに、鈴ちゃんの前で何て事言うのよ。人間的に失格じゃないかしら?」真音が孝太の頭上にダンクシュートを放つ。
「孝太、おまえ、思った事を何でも口にしてんじゃねえぞ。小学生かよ!」幹太まで罵声を浴びせる。
「今日の孝太はどうしちゃったんだ。まるで小学生の時の毒舌そのまんまじゃねえかよ。久しぶりに与音ちゃんに会って子供に戻っちゃったのかな? けど、このまんまだと与音ちゃんに本気で嫌われるぞ!」透が状況を孝太に諭す。
孝太が与音の顔を覗う。
与音がまだ怒った顔で睨みつけている。
「ごめん! 言い過ぎでした。反省します!」袋叩きにあった孝太が頭を下げた。
最後に一人、加わらなかった奈々が雰囲気を和ませようと会心の一撃を放った。
「わたしが鈴ちゃんを産んだなんて、絶対にそんなことはありえませ~ん! だってわたし、そういう行為はしたことないも~ん」
「ちょっと奈々! あんた天然過ぎ~ 自分で処女ってばらしてどうすんの!」
この暴言は奈々に対しても大変な侮辱だった。本来怒ってもいい、否、いつもなら怒っているだろう筈の奈々は、彼女と紹介されてからとても上機嫌だった。
奈々の身を切った発言は孝太を助け、場を和ませる。
男性陣からは苦笑い。女性陣からは呆れ笑い。
「でも千横場さん、昨日、泊まったんだってね、既に、そう云う関係なんじゃないの?」頬の余熱(ほとぼり)が冷めない孝太の代わりに、幹太が追求する。
奈々がみるみる赤くなって黙ってしまった。
透は可愛い奈々を堪能する。が、奈々が黙ったままでは肯定した事になる。
「それは無いわ! 何も無かったんだってさぁ~ ねぇ~透君!」真音だった。
奈々は真音に全部話した様だ。(お母さんだからな、仕方ないか)
「俺と奈々はそんな関係じゃないぞ。付き合ってはいるが、決して恋人ではない」
「なんだそれ、どう違うんだよ。普通、女が男の家に泊まりに行くってのはそう云う事だろう? 千横場さんはその覚悟が有ったんじゃないの? おまえはそんな事も解んないのかよ~」
奈々はまだ可愛いままだった。
真音が代わりに頷く。何か外堀を埋めにかかっている。
「おい透、おまえ、それ完全に、据え膳食わぬは男の恥だぞ」
外堀が狭(さ)めろと真音が頷く。
「幹太、その例えは、言い寄る女はどんな奴でも拒むなって事だろ? 俺、そう云うの大っ嫌いなんだよ。特に性獣に落ちた男は、もう人ではないわ!」
幹太は寓の音も出なくなった。
しかし真音は違った。仕方ないと自分が前に出る。
「透くん、それならさぁ、何でその気もないのに家に上げたの? 泊まりを許した時点でもう拒んでないって意味になるよね? 実はね、奈々が前日に私に言ったんだ。その覚悟があるって!」
「真音、止めて~! そんなことばらさないでよ~」奈々が益々恥ずかしがる。
今度は透が寓の音も出なくなった。奈々が強引に押してきたとは云え、拒まなかったのは事実だ。真音はこの場の流れを軍師の素養で操り外堀を埋めてくる。
「知ってたよ。本人から聞いたから……」
「きゃ~ 透くんまで、ひどいよぉ~」奈々が等々縮こまった。
しかし、周りは奈々の羞恥心よりも透のヘタレ加減に向かっていた様だ。透は奈々の可愛さを堪能する処ではなくなった。
「おまえ! それ完全に千横場さんに恥を掻かせてるだろ~ このヘタレが~!」
「そうよ、このヘタレ~!」真音がここぞと乗る。
「今のおまえ、童貞臭いぞ!」幹太の追撃は透を追い込む。
透は堪らずに言う。
「実は俺、童貞なんだ」
透のボケはこの場では通じなかった。
「バツイチが童貞の訳無いでしょうが。透君、今回は外したよ~」真音がツッコム。
「おまえ、結婚前から何年も天女さんと恋人同士だったんだろ、ふざけんなよ~」幹太もツッコム。
虚しいツッコミが流れる中、透の顔が真顔に変わる。
白けた雰囲気の中、一同が透を見つめる。
透が言った。
「これから言うことは、本当の事だ。だから、冗談ではなく真面目に聞いて欲しい」
皆が透の真剣な表情に固唾を飲む。
透が言った。
「俺は天女と三年、男と女として一つ屋根の下で暮らしてた。その内の二年は恋人関係だった。俺たちに肉体関係と呼べるものは確かにあった、けど、最後までには至っていなかったんだ。それは俺が、結婚してからと誓を立てていたからで、俺は……それまではとずっと我慢してたんだ。だから、その前に死んでしまった天女とは何もなかったんだ。だから……俺は童貞で間違いないんだよ」
苦しそうに話した透に、嘘とは思えない迫力があった。
皆が信じられな告白に唖然としていると、堰を切って言葉が飛び出す。
「嘘ぉ~」アルト真音。
「信じられない!」和琴の与音。
「冗談だろ?」テノール幹太。
「おまえ凄い精神力だな!」バリトン孝太。
「透くん、本当なの~」ソプラノ奈々。
そして、復活した孝太が音頭を取る。
「それでは、せぇ~のぉ」
「「「「「ヘタレ~~~」」」」」四部混声合唱+琴が木霊する。
透の貞操は全く理解されなかった。今時、好き合ってる男女に結婚するまで肉体関係がないなんて、余程の理由がないと賛同は得られないだろう。土夏家にそんな古く堅苦しい風習があるとも思えない。ましてや、血統を尊ぶ為に貞操を求める家柄でもない。
奈々が中指を顎に当てて考え込みだした。
爛々と目を輝かせていた奈々が透に言った。
「でも、透くん、おかしいよ、変だよ! 結婚するまで我慢したなら、一日だけあったじゃない! 結婚した日はどうしたの? 何もなかったの? 何年も我慢して、待ちに待ったその日に……何もしなっかたの!!」
それを聞いた透はいきなり号泣した。
奈々が何か拙い事を言ったのかと戸惑う。
尋常ではない透の様子を皆が見守った。
透の号泣は直ぐに治まった。一時的に感情が高ぶっただけなのだろう。
透が泣き顔で言う。
「その日は……天女が死ぬ前日なんだけど…… 夜になってから、天女の体調が急に悪くなったんだ。とてもそんな事ができる状態じゃなくて、別に今日だけじゃないと思って、取り敢えず寝かせなきゃと思って、無理やり休ませたんだ。そしたら、次の日、天女は死んじゃったんだ!」
透の童貞話は天女との関係に新たな悲劇を加えた。
一同が悲劇話に引き込まれる中、奈々だけが腑に落ちない表情をする。
また奈々が中指を顎に当てて考え込みだした。
傍と思い出した奈々が透に言った
「待って、待って、待って! やっぱりおかしいよ! もう一つあるじゃない! 天女さん、妊娠してたのよね? じゃあ、その相手は誰なの? 透くんじゃないなら、だれ~!!」奈々が悲鳴の様に叫ぶ。
「そうだよ、透ちゃん、可笑しいよ。童貞なんて、本当は嘘なんでしょ? そうじゃなかったら、天女が不倫してたって事じゃない!」与音も必死に叫ぶ。
真音が目を見張る。検察側の妊娠暴露発言に驚愕の目を向ける。
孝太と幹太が傍聴席で顔を向け合う。
透が被告人席に立つ。
一同の視線が透に集まる。
透が突然可笑しくなった。
切腹の介錯の様に頭をがくりと下げる。
癲癇(てんかん)を起こした様に肩を上下に震わせる。
そして、透の顔が持ち上がる。
一同をぎろりと睨む。その顔はまるで別人だった。
「はっ!はっ!はっ! それは、俺だよ! 天女は俺の女だ~! 透になんかやるもんか!」
一同が、何が始まったんだと驚愕する。
「えっ! て、輝ちゃん?」与音だけが反応した。
「よ~う、与音。久しぶりじゃないか。なんか昔のまんま変わってないなぁ」
「本当に輝ちゃんなの? なんで? 透ちゃんにとり憑いてるの?」
「違うよ与音、俺は透が作り出した別人格だ。それより可笑しいな? 俺は天女が死んで消えたはずなんだが、何故かまた出てきたみたいだな。理由は分からないが、多分、透が呼んだんだろう。俺は副人格だから透の時の記憶がないんでね。おっ! そろそろお別れみたいだ。透が呼んでやがる、それじゃ与音ちゃん、さよならだ」
「輝ちゃん……」与音が唖然とする。
他の面子は怪奇現象にあった様に、口を開けて止まっていた。
与音が説明を始める。
「今の人はね、透ちゃんのお兄さんで輝郎(てるろう)って言うの。天女の最初の旦那で、私の同級で、幼馴染だったの。三年前に事故で亡くなったのよ」
与音のこの説明は余計に皆を怖がらせた。
その間に透の顔が透に戻る。元の人格が目覚めた様だ。
しかし、何か変だ。酩酊(めいてい)した様に虚ろな表情だ。
透はおもむろに立ち上がる。
意識を朦朧とさせながら歩き出した。
透はいつの間にか天女桜の前にいた。
(よう透! 俺の話は聞いてたんだろ? いい加減俺の事は忘れろ! 天女が死んだんだからもう俺は必要ないだろうが。それよりおまえ相変わらずヘタレだな、だからいざって時に俺に頼るんだよ。まあ~仕方ないか、俺に成りきって天女を落としたんだし、その時に俺の人格が産まれたんだったか。けど透、今度こそは上手くやれよ、そうだ、おまえにひとつ助言をやろう、女ってのは子宮で愛を感じるんだ。あの日から天女の態度ががらっと変わっただろう? あれはおまえを自分の男として腹をくくったからなんだよ。実は男も同じだ、勿論貞操観念を持ったやつだけの話だけど。俺が始めて天女を抱いた時、俺もこいつの男になったんだと征服欲に湧いたよ。だけどな、おまえにはそれがないんだよな。それはもう不憫でしょうがないとしか言い様がないんだけど、これからって時に天女が死んじまったからな。だけども、透、天女は幸せだったと思うぞ。俺を失ってからの三年間、支えてくれてありがとうな、慰めて助けてくれてありがとうな…… それから……鈴のこと、頼んだぞ! じゃあな! 俺の弟……)
(うるせ~~~! そんな事は言われないでも解ってるよ!)
目の前に天女が居る。
透は天女に話しかける。
「本当は、何度も透として抱こうと思ったんだ。けど、怖気付いてると、兄貴に負けちゃうんだよ。だから、結婚すれば……結婚さえすれば……結婚して完全に俺の女になれば、出来る筈だったんだ」
「天女ぇ~ 愛してたよ。だから一度でいいから、透として抱きたかったなぁ~」
「これは天罰なのかなぁ~ 兄貴の呪いなのかなぁ~ 俺が殺した……兄貴の……」
奈々が後ろから抱きしめた。この胸の感触は奈々だ。
透は振り向かずに言った。
「今の聞いたか?」ぞっとする程、冷たい声だ。
「と、とぉおるくんの最低なことって、そ、そのことなの?」奈々は震えていた。声も温もりも。
「ああ、そうだよ」透は今にも消えてしまいそうな声で答える。
「と、透くん、わたしはね、透くんの全てを受け入れるわ……二重人格だろうが、殺人を犯していようが、全て受け入れるから……だ、だから安心して」
「奈々? 何か勘違いしている様だが、俺は殺人なんかしてはいないぞ」
「え! そうなの?」奈々の震えが止まった。
「兄貴を殺したってのは、直接手を下だしたって訳じゃなくて…… 兄貴は事故死だよ。けど、その事故に影響を与えたのが、俺だって事なんだ」
「そうなんだ、じゃあ、法的な殺人じゃなくて、責任を感じてるってことなの?」
「うん、理解が早くて助かるよ」
「分かった。その話はいつか、ゆっくり話してね。言いたくなるまで待ってるから。わたしは透くんのこと、何でも受け入れるから、心も体も……」
「ありがとう、奈々。今はその言葉で凄く救われるよ」
「やった~! わたし、透くんに褒められたぁ~ それでね、わたしも透くんを褒めようと思うの」
「え! 褒められるような事したっけ?」
「それはねぇ~ 透くんが童貞だったってこと! わたしそれを聞いて、何だか凄くわくわくしたんだ。何なんだろうこの気持ちは、独占欲かなぁ~ だから絶対にその童貞はわたしに頂戴ねぇ、約束だよ!」奈々の引き締めが強くなった。
「あぁ~ 童貞って言っても、精神的な方だぞ。肉体的には違うんだけどさ」
「いいのぉ~ そうゆうのは、精神的なことなんだもん。ちなみに、わたしは完全な処女だからねぇ」
「そう云えば、処女膜再生手術とかあるらしいぞ?」
「なによそれ! どういうこと! 透くん、ちょっとデリカシー無さ過ぎ! 阪奈くんと変わらないじゃない!」奈々の頬が膨れる様子が浮かぶ。
「ごめん、ちょっと照れくさくて、なんたって童貞だからさ~」
「じゃあ、キスして、そうしたら許してあ・げ・る」
「え~! 皆んなが見てるんだぞ!」
「いいじゃん、恋人同士なんだから」
「おい、かってに恋人に格上げか?」
突然、奈々の抱き締めが緩んだ。
透の体が奈々にひっくり返される。
目の前に目を瞑り顎を突き出す奈々の顔が迫る。
奈々は見栄も羞恥もかなぐり捨てている。
奈々は何度拒絶しても立ち上がってくる。
奈々は七転び八起きとまでは行かなくとも、今後も諦めないだろう。
なら、もう受け入れようか―――勿論、誰だっていい訳じゃない、奈々だからこそだ!
透は、我武者羅に透へと突き進んでくる奈々へ、等々根負けしてしまった。
透は躊躇わず、奈々の唇に貪りついた。
向こうで、きゃーとかおぉーとかの歓声が聞こえる。
ここに二人は晴れて、見かけは恋人同士となった。
新郎新婦を迎えるように、拍手が取り囲んだ。
熟睡していた鈴が何事かと起き上がる。
「おはよう、鈴ちゃん」奈々がうきうきと声を掛ける。
鈴が寝ぼけ眼でおはようと返す。
「それでは、二人の前途を祝して、乾杯といきますかぁ」孝太が仕切る。
全員に飲み物の準備ができると、また孝太が出しゃばる。
「ここはやっぱり、与音ちゃん、乾杯の音頭をお願いします」司会の孝太が与音を指名する。
与音がすくりと立ち上がる。
「それでは、ん~ 堅っ苦しい挨拶は似合わないわね。じゃあ、童貞の透ちゃんと、処女の奈々ちゃんに~ かんぱ~~い!」
「かんぱ~~~い!!!」
透は外堀から埋められ、騰らわない自分に苦笑いを含み、満更でもないと手が伸びる。
奈々は恥ずかしがりながらも、円満な表情を浮かべて、嬉々として加わる。
鈴は訳も分からず杯を重ねる。それでも、何か良いことがあったんだと解るのか、笑顔になって連なった。
二人を祝福する野次馬の中で、真音を除く面子は、奇しくも生前の天女をよく知る間柄だ。
透は天女の結縁を感じていた。そして一人、この縁(えにし)に含まれない真音を見る。
真音は泣いていた。
ママママママママママママママママママママ
真音はずっと黙って観ていた。
真音は透が童貞を語る辺りから、またボケが始まったと楽しんでいた筈だった―――
真音は透の迫真の演技を演劇を見るように眺めた。その名優ぶりに感心しながら―――
真音は透の童貞は絶対に嘘だと見破っていた。どう云う落とし処になるのか落語でも楽しむかの様に―――
奈々の反応からも確信していた。真っ先に見た奈々の顔は童貞が嘘だと言っていた。妊娠の件を知っていたなら当然だろう。何故直ぐに疑問を呈さなかったのかは不明だが。
真音も奈々の唱えた疑問には早くから気付いていた。だが、透がどう云う切り返しをするか期待していたので、静観を決め込んでいた。
しかし、落ちはなかった。だって、嘘じゃなかったんだから……
そう、二重人格と云う真の落ちは真音でも予想できなかった。だって……こんなことって、笑い事じゃ済まされないんだから。
最初は奈々の為にここぞと透を追い込もうと励んだ。
真音の外堀を埋める奸計は、孝太と幹太を利用し大いに煽ってもらい、透を追い込もうと云う、透城土夏の陣だ。
どんなに堅牢な城でも外堀が埋まれば落とせる。社会的な生活を営んでいる人ならこの理屈は同じ筈。細かい事は抜きにして。
人は城云々と言ったのは、彼の信玄公。まあ、今回それは関係ないけど。
奈々の羞恥心までを生贄にして仕掛けた苦肉の策。
それは確実に透を追い込んだ。
しかし―――話の流れで奈々から漏れた妊娠していたと云う事実。
暴露された驚愕の事実は、真音の悲劇蒐に新たな詩篇を加えた。
真音が発端の追求劇は、結果、透の傷を炙り出した。
気付けばまた、透に……小癪な事をしていた。
今回、透悲劇蒐に新たに追加された中で、最大の物はやはり、二重人格の件だった。
透の最初の言い訳は嘘が明らかに混ざっていた。透が微妙に顔を上に逸らせたのを見逃さなかった。しかし、その後の展開で、二重人格で記憶がないのであれば納得の行く話だったと理解できた。
けど……透は自分が嘘を言ってるって自覚があるのなら……透は覚えてるって事にならないだろうか。勿論、相手から行為の後が見受けられれば、自ずと知る術とはなるだろう……しかし、副人格が自分の代わりに愛しい人を抱いてる姿を、じっと眺めているのだとしたら……
その事に気が付いた真音は、張り裂けんばかりに絶叫した。
声にならない絶叫は真音の乙女心を駆け巡る。
真音の妄想癖が暴走する。
真音は[透悲劇蒐・真音レス行(マノンレスコー)]を、勢いよく開いた。
第一篇:嗣子弟透と嗣子嫁天女の禁断の恋
第二篇:貴公子透と淑女天女の一日夫婦
第三篇:被憑者透と未亡人天女の三年 ← 新規改訂
第四篇:セックスレス夫婦の最後の一日 ← 新規追加
第五篇:美幼女を残して
第六篇:バツイチ透の七日間の苦悩
第奈々篇:そして天使が現れる
真音は[透悲劇蒐・真音レス行]を、そっと閉じた。
真音は愛読書を、大事に、大切に、愛おしそうに抱え込んでいた。
悲劇の主人公透が道化師奈々に抱きつかれている。
二人が白昼堂々と接吻し始めた。
真音は思わず奇声を上げた。
白馬に乗っていない王子様とお姫様が手を繋いで凱旋する。
突然、目の前に本棚が現れる。
そこにはもう一つの愛読書が輝きを放つ。
[奈々喜劇蒐・真音麗仕行(マノンレスコー)]
先程、第三十四章:袖にされる押しかけ女房美少女奈々、が新規追加されたばかりだ。
真音が透悲劇蒐を隣に置く。瞬く間に隣の光に包まれて輝きを放つ。
寄り添うように並ぶ二つの蔵書。
同性で一番好きな人、奈々。
異性で一番好き? 気になる人、透。
気付けば…… 涙が溢れる両目が透をじっと見つめる。
マロングラッセがドーナツホールの外側を埋めると穴から出てきたのは石工ドナテルロー。
石工は埋めた外堀を瞬く間に外壁で再構築してゆく。
闇の壁が広がりドーナツホールが元の大きさに戻される。
そこの現るはチョコバナナ。
重機の様に突撃すると、瞬く間に闇の壁をなぎ倒す。
石工まで吹き消した跡に残ったのは―――
甘い香りを残すドーナツリングのみだった。
ヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨ
与音は失った輝郎との再会に初恋を思い出す。
隣同士の同級生は幼馴染として幼少期を過ごした。
中学辺りだったろうか、与音が輝郎に淡い恋を抱いたのは。
しかし、輝ちゃんは与音の事を、一度として女と見なさなかった。
初恋が何もなく終わったのは、高校に入った時だった。
高校で新しく出来た親友の天女を輝ちゃんに紹介した。
二人はあっという間に付き合いだして、そのまま別れる事もなく、結婚した。
結婚を諦めていた与音は、親友として二人を祝福した。
初恋は、誰にも知られる事もなく与音の心に封印された。
その初恋相手が、今日、与音に話しかけた。
忘れていた輝ちゃんが、嫁にすると約束した透ちゃんの中に居た。
与音の封印箱の蓋が、突然、弾かれる。
透を見る目が、姉のものから、女のものに変わった。
与音は透に、亡き輝郎の面影を見ていた。
しかし…… 与音は決して結婚できない。
女じゃないから……
忘れていた苦しみも、パンドラの箱から再び顔を出す。
与音は苦痛の再来に恐れ慄く。
本能がそれを避けようと心の隙を創る。
与音の邪悪面が顔を覗かせた。
―――もしも、輝ちゃんの副人格が透ちゃんの主人格に勝ったら……
―――輝郎となって、私の所に来てくれるかもしれない。
―――そうしたら、透ちゃんは私の物!
―――輝ちゃんを呼び出す計略はやっぱり天女の話題かな……
やめて~!! 与音の正気が止める。
邪悪の仮面を慌てて剥がし、パンドラの箱に投げ込む。
与音は心の中で泣く。
―――何で私だけ、こんなに苦しまなきゃならないのよ……
―――何で、私は、結婚できないの…… 何で、こんな体なの!
―――助けてよ…… 透ちゃん……
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