第6話 辛子マヨネーズの変

 日曜日。

 陽の光で目を覚ました。

 透は結局、また寝てしまった。

 まどろみの中、突然、鈴の泣き顔が過(よ)ぎる。一緒に寝るのを忘れ、またやらかしたかと飛び起きた。直後に奈々が居た事を思い出すと安堵した。

 そのまま朝の支度を済ませると、仏間へと向かう。

 天女へ朝の挨拶を始めた。

 遺影の前で合掌する。

「天女、ごめん。俺、天女以外の女とキスしちゃたよ」

 無意識と声に出していた。あっさりとした言葉の投げ掛けは、既に天女が気付いているだろうと云う認識だ。不倫を自白する夫の体裁ではあるが、そこに罪悪感は全く感じられない。それは、透が天女の死を受け入れ始めている表れだった。

 透が堪らずといった具合に天女へ次々と語り掛ける。

「天女が兄貴の事をまだ愛していたのに、俺と結婚してくれて、つい、俺も同情しちゃったのかな、もしかして、天女もそうだったのか?」

「同情から始まる愛か、体の関係から始まる愛になるかもしれない、もしかして、天女もそうだったのか?」

「俺、奈々と出会って、やっと天女の気持ちが理解できたよ。ごめんね、天女。一方的に愛を押し付けて、無理やり振り向かせて、でも、それほど好きだったんだ、姉ちゃんの事が」

「今日、恒例の花見をやるんだよ。だから、見ててね」

 透が立ち去ると、庭の草刈に向かった。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々は鈴が抱きつく気配で起きた。

 鈴が胸に顔を埋め必死としがみつていた。

 奈々はそのまま抱き起こすと、慌てて抱きしめる。

 鈴が薄目を開けた。

 寝呆け眼で奈々を見つめると、にこっと笑う。

「おはよう、すずちゃん」

「おはよう、ななちゃん」

 鈴が爽快に目覚めた。

「じゃあ、お顔洗って、歯磨きしようか」

「うん」

「あっ! そのまえにぃ」

 奈々が鈴のオムツを捲る。

「あ~ でちゃったねぇ~」

 鈴の爽快だった顔がみるみると崩れていくと、べそを書く。

 ひくひくと肩を揺らすと「え~ん!」と泣いた。

「鈴ちゃん、大丈夫だよ。お布団濡れてないんだから、気にしなくてもいいんだよぉ」

 鈴を抱きしめ、頭を撫でる。

 泣き顔の鈴が奈々にしがみつく。

「そのうち、あ~ら不思議って治ちゃうんだから、気にしない、気にしない」

 鈴を抱き上げ、背中をよしよしと叩く。

 そのまま鈴のタンスからパンツを取り出し、風呂場に向かう。

 シャワーでお尻を洗ってパンツに履き替える。

 隣の洗面所に向かい、三台ある洗面台の内、二台に並んで、洗面と歯磨きを済ます。

 奈々が鈴の洗面台の後ろに着くと言った。

「鈴ちゃん、今日、髪型どんなのにする~」

「ななちゃんと同じがいい~」

「じゃあ~、ツインテールか、ポニーテール、三つ編み、サイドテール?」

 奈々が鈴の髪を掴み、試行錯誤する。

「一緒の髪型なら~ ツインテールで三つ編みにして、お団子にしようか」

「うん、ななちゃんがいいなら、それがいい~」

「じゃあ、鈴ちゃんからいっくよ~ 大人しくしててねぇ」

「うん」

「あ! ちょっと待って、鈴ちゃん、前髪だけ短いんだけど、これ誰が切ったの?」

「おかあさんだよ」

「うわぁ~ お母さんておしゃれだぁ、これを活かそうね。脇だけ三つ編みにして、後ろで縄にしようか。じゃあ、大人しくしててね」

「は~い」

 奈々が手際よく編んでいく。

 二人が同じ髪型になると、同じ顔でにっこりと笑い合う。


 奈々は朝食の準備を始めた。

 鈴は主に味見で手伝いをした。

「鈴ちゃん、ご飯できたから、おとぉ、あ! やっぱりいいや」

 奈々は、打鐘を思い出し叩いた。

「コーン コーン」と少し甲高い音がよく響く。

 やっぱり近所迷惑ではと思いながら待てど、透は降りて来ない。

 透の代わりに玄関のインターフォンが鳴った。

 奈々が出る。ご近所さんだった。

 慌てて玄関に飛び出ると、初老の女性は隣の家の方だった。

 奈々がもうしませんと、平謝りに謝った。

 不機嫌な奈々は、[近所迷惑、使用禁止]の張り紙を付けた。

「鈴ちゃん、お父さん、多分、庭で草取りしてると思うから、呼んできてくれる」

「うん、わかった」鈴が走っていった。

 奈々が慌てて鈴に怒鳴る。

「鈴ちゃ~ん、廊下走っちゃダメよ~」

 鈴がぴたりと止まり振り向いた。

 舌をぺこりと出すと、早歩きで行った。

「あの舌出す癖、誰が教えたんだろう? まさか、女子高生になってまでやらないでしょうね」奈々が天女に話しかける様に、独り言を宣(のたま)った。


 しばらくして、鈴が透を連れて戻ってきた。

 奈々が打鐘の件で、不平不満を垂れる。

 透が平々凡々と受け流す。

 奈々が無責任な透を詰(なじ)る。

 透が謝罪すると鎮(しずま)った。

 透は食事を終えると、「後は芝刈機で刈るだけだよ」と言って、半分も進捗していない草刈へ戻った。

 奈々は片付けが終わると、花見の料理に入った。

 鈴がまたもや味見で手伝う。

 唐揚げの頃は「かぁっらあぁっげ、かぁっらあぁっげ」と唄いながら。

 卵焼きの頃は「たっまごぉやき~、たっまごぉやき~」と唄いながら。

 揚げ芋の頃は「ぽってとぉ、ぽてとぉ、ぽってっと~」と唄いながら。

 最後に、綺麗な三角形のおにぎりを握る。

 おにぎりの唄は「おにおにおにぎり、にぎにぎ、ぎ~りぎり」だった。

 鈴がお遊戯なのか、振り付け込みで踊ってくれた。

 お子様奈々が、七歳児で真似る。

 テーブルに隙間なく料理が並んだ。

 奈々が詰め込む重箱の雫を払い拭き取っていると、さっ、と振り返る。

 鈴の頬が膨れて蠢(うごめ)いていた。

 奈々に奇妙な勘が突然働いていた。女の勘? 否、これは母親の勘とでも云うべきか。聞き分けがいい筈の鈴のつまみ食い―――これは奈々に対する甘えだろうか。 

 奈々は憤る処か愛おしさを感じた。

「りすさんのお口には、何が入っているのかな~」

 鈴が首を横に振る。

 鈴の目が左右に泳ぐ。

 奈々は怒らず笑顔で迫る。

 鈴が怯んだ。

 うさぎのりんご、たこさんウインナーと詰めている時。

「たこさんすくないねぇ」鈴が自白する。

「きっと、りすさんが食べちゃったんだよぉ、それとも、鈴をつけた猫ちゃんかな~」

 鈴が作り笑いをして、目を逸らした。

 五段の重箱が完成すると、手提げ鞄に収納する。

「あとは飲み物だけど、鈴ちゃんはオレンジでいい?」

「うん、いいよ」

 鈴用のストロー付き水筒にオレンジジュースを注ぐ。

 透くんにはどうしようかと迷っていると、酒棚が目に付く。

 見つけた徳利とお猪口を二つ取り出し、盆に並べる。

 徳利に中身を入れるにはまだ早いと、鈴を連れてダイニングを出る。


 ランドリーに向かう奈々に、芝刈機のエンジン音が次第次第に大きくなって、轟(とどろ)かせる。

 透は裏庭で芝刈りに、奈々は縁側で洗濯へ、鈴は桃のように瑞々(みずみず)しい。

 奈々は昨日干した洗濯物を取り込む。

 鈴が危ない足取りで縁側まで籠を運ぶ。

 たちまち取り込みが終わると廊下で畳み始める。

 いつの間にかエンジン音は消えていた。

 裏庭を望むと、透が物置の前で、円盤の刃の手入れをしていた。

 ふと、透が振り向き奈々への視線に合わせると、さわやかな汗をかきながら笑う。

 円盤の刃を差し出しながら寄って来た。

「これ、名前が在るんだけど、何だと思う?」

「え! そんなの、分かる訳ないじゃない」

 透が奈々へ嗤う。

 円盤の刃を掲げる。

「これは~! 聖剣クサカリバーだぁ~!」へんなポーズを取る透。

 奈々の手が止まる。

 透へ呆れた視線を向けると、恐る恐る言った。

「……透くん、もしかして、その名前付けたのって…… 中二の時だなんて言わないよね?」

「流石は奈々、その通りだ。なかなかいいセンスだろ」

 滴る汗を輝かせ、片手を高々と掲げながら透が離れていく。

「ななちゃ~ん、いまのひと、だれ~」鈴のツッコミはいいセンスだ。

「熱中症になった、草刈のおじさんだよ~」奈々も仕方なくボケる。

 二人が苦笑いを向け合う。

 何気なく、奈々が隣の鈴の手元を覗う。驚いた事に、鈴が自分の分を畳み始めていた。

 奈々が検分すると、畳み直す必要がない程の完成度だった。

「鈴ちゃん、すごいじゃない。五歳とは思えないわぁ」思わず頭を撫でる。

「うん、おかあさんに、おしえてもらったの」得意げに笑う。

「よかったねぇ~ じゃあ、がんばって全部終わらせちゃおうかぁ~」

 奈々も黙々とこなす。

 最後に畳み終わったものを、色違いの籠に収める。

 透が黒、天女が赤、鈴が桃、多分この色分けで合ってるだろう。

 締めに残った籠をもってランドリーに向かう。

 アイロン台にワイシャツを乗っけて、霧を吹き、棒糊を刷毛(はけ)り、アイロンを滑らす。

 次々とこなす奈々の手が、ふと、止まる。

 掲げたのは女物の絹のシャツ、白地に胸に赤い薔薇の刺繍。

「それおかあさんが、さいごに、きてたのだ」鈴がほろりと言う。

 奈々が、皺へ霧を吹き掛けハンガーで吊るす。

 天女が奈々と鈴を見下ろす。

 奈々が黒籠と赤籠を両手に提げ、廊下を進む。

 鈴が桃籠を抱え、カルガモの雛鳥の様に後へ続く。

 リビングに着くと、透が待っていた。

 透は紺生地の浴衣を着ていた。

 藍染抜けの白滝柄が立ち上がる。裾には池の淡い鯉。

「奈々、鈴、お疲れ様」

 一風呂浴びた様でさっぱりとした笑顔を向ける。

 透が背中を向けると、昇龍(のぼりりゅう)が吠える。腰には黒い角帯。

 総髪(そうはつ)に整えられた、初めて見る格好に、奈々が見惚れた。

「じゃあ、これに着替えて」二組の浴衣を差し出す。

「ゆかただ、ゆかただ~」鈴がはしゃぐ。

「なんで浴衣に?」奈々は首を傾げる。

「花見だから」

「???」

「初詣は着物で出かけるでしょ、花見も日本の伝統行事だからね」

「よく解らないけど、分かった、着替えるよ。でも、わたし着付けできないよぉ」

「俺がリボン結びなら出来るから、大丈夫だよ」

「え~! 透くん、着付けできるのぉ!」

「ああ、鈴のために覚えたんだ」

「凄いじゃない、じゃあ、わたしにも教えてよ!」

「いいよ、じゃあ、鈴おいで」

 透が鈴の服を引っペがし、浴衣を羽織らせる。

 鈴の柄は鈴生りの野苺。裾には小鹿。

 黄色い華やかな帯を華奢なお腹に巻付ける。

「正式名は文庫結びって言うんだけどね」

 透がそう言いながら、お腹にリボンを作る。

 結びを背中に回して縛りさらっと完成させた。

「わ~い」鈴が変身少女の如く回転して、背中で停まりポーズを取る。

 鈴の背中の麒麟が嘶(いなな)く。

「どう? これなら簡単だろ?」

 手際よくこなした様は、いとも簡単そうだった。

「うん、なんかできそう」二度三度と頷く。

「じゃあ、外してるから、着替えといて」透がどっかに行った。

 置いていった浴衣を広げる。

 奈々の帯は艶やかな桃色。

 浴衣の柄は白地に薄紅色の八重桜が咲き乱れる。

 裾には鱗粉を振り撒く舞蝶。

 奈々が純白の下着姿になると、浴衣を羽織った。

 白にしといて良かったと思いながら、紐を絆ぐ。

 丁(てい)バックだったら尚良かったのにと思いながら、尻に食い込ませる。

 記憶が鮮明な内にと、帯び締めに取り掛かる。

 出来たリボンは少し形が歪だった。

 やり直しても上手くいきそうもなかったので、透を呼んだ。

 透が二本の扇子を持って直ぐに現れた。

 扇子を鈴に預ける。

 奈々が躊躇いがちに言った。

「透くん、これ以上、上手くできないよぉ」背中を向ける。

「どれどれ、う~ん、ちょっと格好悪いね。やり直そうか。折角だから一緒にやってみよう」

 透が結びを解くと、何故か帯を勢いよく引いた。

 奈々が独楽になって回る。

「きゃあ!」可愛い嬌声が響く。

 奈々がなよなよと床にしな垂れる。

「いきなり何するのよ!」

「ななちゃ~ん、ダメだよ、あ~れ~っていわないと~」鈴が羨ましそうに言う。

「何それ? どこの時代劇よ。それに子供に何てこと教えてるのよ! それより女の子に対するその扱い方、むかつくんですけど!」

「ごめん、鈴がこれ好きだから、つい調子に乗っちゃったかな。天女も結構のりのりでやってくれたんだよね」

「え! そうなの? 天女さんまで? でもね、そういうの嫌がる人だっているんだよ。親しい仲にも礼儀ありって言うじゃない。なんか、透くんの女性関係って偏ってない?」

「そうかもな。俺、親しくした女って、天女しかいなかったから、確かに他の女の事は全く知らないや。ごめん、奈々は嫌だったんだ、奈々の事、勝手に解ったつもりでいたよ、そう言えば俺達って、まだ付き合い短いもんな」

 奈々の不機嫌な顔が慌てる。

「え! そんなことないよ、いきなりだからびっくりしただけ。わたしの方こそ、透くんが大人っぽいって勝手に思ってたから、まさかこんな扱いするなんて思ってもいなかったから、本当は、むかついてなんかいないから、それに……別に嫌じゃないよぉ」

 奈々が帯を取ると、そそくさと巻付ける。

 透の手に帯の端を託す。

「お願いします」

「奈々、無理に付き合わなくてもいいから」

「お願いします!」

 透が申し訳なさそうに帯を引く。

 今度は覚悟して旋回したので上手く転べなかった。

 回転が止まっても立ったまま。

「あ~れ~~~」

 両手を挙げ慌てて自分で回りだす。

 わざとらしくへなりとしな垂れる。

 奈々の顔が、急に恥ずかしくなった。

「いいなぁ~ ななちゃん、にかいも~」

「鈴は、花見が終わったらな」

「ななちゃんばっかり、ずるいよぉ~」

「奈々ちゃんは初めてだからだよ」

「ちょっとぉ~ 何か反応してよ!」

「ありがとう、奈々、付き合ってくれて」

「ななちゃん、のりわる~い」

「じゃあ、奈々、おふざけはこれぐらいにして、帯び締めようか」

「え! なに、そのさめた反応。恥ずかしかったんだからね、ちゃんとツッコンでフォローしてよぉ~」

 奈々が恥ずかしがりながら、頬を膨らます。

「だから、無理にやらなくてもいいから」

 帯を持った透が奈々の後ろに寄る。

 帯を巻き付けると、後ろから抱きつく様に奈々の背中を包む。

「あっ!」奈々が透の接触に驚き、赤面硬直する。 

「じゃあ、やってみるから見てて」と透が耳元で囁く。

 奈々の腰に後ろから手を回し、結び目を作って見せる。

「じゃあ、やってごらん」

 リボンを解くと、奈々から離れる。

 奈々の赤面が俯く。

「透くん、ごめんなさい。よく見てなかったので、もう一回いい?」

 透が仕様がないなと言って、再び奈々を後ろから包む。

 奈々が恥ずかしがりながら、嬉しがる。

 今度の奈々は、綺麗なリボンを形作った。

「できたよぉ~」袖を広げてお披露目する。

 褒める透の脇から鈴が言う。

「ななちゃんも、ポーズとってよお~」

「えっ! さすがに奈々ちゃんはできないよ」

「え~ さっきはおにぎりおどってくれたのに~」

「あっ! 鈴ちゃん、それは言わないでぇ」

「ふぅ~ん、奈々、やってあげれば」

「え~、透くんの前じゃ、恥ずかしいよ」

「大丈夫だよ、俺達二人しかいないんだから」

「ななちゃん、がんばれ~ おんなはどきょおだよ~」

「がんばれ、保母さん」

「解ったよ、やればいいんでしょ」

 奈々が回転して、背中で停まりポーズを取る。

 そこで鈴が、変身少女キララ☆の変身替え歌を歌う。

「おしりのりっぱなおんなのこお~ あっちをむいてよ、ななあ~」

 奈々も恥ずかしがりながら、腰をひねって踊り尻を向ける。


 奈々は良い様に遊ばれている気がした。

 否、遊ばれている。

 大事に育てられた箱入り娘には我慢できる事ではなかった。

 しかし―――何故か、この二人に対してだけは、嫌ではなかった。

 長年携えてきた包装紙が、どんどん剥がされる。

 分厚い包装が捲れて、破けて、引っペがされる。

 そう云えば、箱はいつから無くなったんだろう……




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 奈々が弁当と水筒が入った手提げ鞄を重そうに持ち上げると、透がそっと寄り添い奪った。

 右手に手提げ鞄、左手に敷布を抱え先に裏庭へと進む。

 鈴がぴったりと後に続く。

 奈々は慌てて徳利に中身を注ぐとその盆を持ち、透と鈴を追う。

 四阿に到着すると一旦荷物を椅子に置く。

 透が敷布だけを持ち、桜の見栄えのいい位置へ移動する。

 広げた敷き布は、野点(のだて)用の真っ赤な毛氈(もうせん)だった。

 すかさず奈々が重箱を並べ準備が整う。

 三人で囲むと、花見の野掛(のが)けを始める。

 奈々が盆を手繰り寄せ、透にしな垂れると言った。

「わたし、こういうのやってみたかったんだ~」

 奈々が透にお猪口を持たせると「まずは一献」と酌をする。

 徳利から黄金色の液体が泡を吹いて注がれる。

 奈々が愛しい夫を慈しむ目で微笑む。

 透が奈々へ高級ホステスを見る目で訊く。

「まさか、ドンペリ開けたんじゃないよな?」

「え! ドンペリヨンがあるの?」

「え! ドンペリってドンペリヨンって言うのか?」

「透くんって、お酒のこと良く知らないでしょう?」

「奈々は何で酒に詳しいんだよ?」

「ねえ、透くん、そのドンペリっていつの話?」

「だから、何で酒に詳しいんだよ?」

「シャンパンはワインじゃないんだから、劣化するって知ってる?」

「冷蔵してれば大丈夫なんじゃないのか?」

 質問に質問を返しあって、何故か会話が成り立ってなさそうで、成り立っていた。

 先に答えた方が負けといった雰囲気の中―――

 取り敢えず、透が一献を口に含む。

「ん~ ジンジャエールだな」

「未成年なんだから、お酒なんか出す訳ないでしょう。うふふ」

 浴衣姿が艶かしい奈々が自然と科を作り、透を慌てさせる。

 動揺を秘す様に透が徳利を持ち、もう一つのお猪口を奈々へ渡す。

 奈々が慣れた手付きでお猪口を両手で包むと、「まずは一献」と酌をする。

 奈々が一気に飲み干すと言った。

「わたしのお父さん、お酒が大好きでね、飲んでる時よく薀蓄(うんちく)を垂れるのよ。それで、聞いてあげると機嫌が良くなるんで、自然と詳しくなっちゃったんだよね。後、お酌とかしてあげるともっとご機嫌になってお小遣いくれるのぉ」

「おまえはホステスかよ。もしかして、それでオッパイも見せたのか?」

 透は思わずと言ってしまった。奈々が父親に見られた事が、結構自分の心にもやもやと残っている事に気付く。

 奈々は勿論、颯爽と怒った。

「そんな訳ないじゃない! 事故だって言ったでしょう! その時は一週間、口も利かなかったんだからね!」

 奈々の目が向きになっている。

 透は明らかな失言に慌てる。

「ごめん、ちょっと冗談がきつすぎたな」

 奈々がその通りと唇を尖らせると続けた。

「それでその後、お母さんがドンぺリヨンの空き瓶にジンジャーエールを入れて、今日はご褒美だよって仕返ししてくれたんだ。今日はたまたまジンジャーエールがあったからで、ドンペリヨンと思わせて揶揄(からか)おうとした訳じゃないからね、逆に透くんが、ドンペリヨンを知っててびっくりしちゃたんだから」そう言うと、奈々がそっと目を逸らす。 

「そうか、そう云う事だったんだ。俺の方も親父がドンペリ飲んでて薀蓄を垂れてたから知ってたんだよ。後、酒棚の一番下にワインセラーがあって、そこにドンペリが有るよ。確か親父が死ぬ前だから五年は経ってるかな。因みに、入ってるのはほとんど日本酒だけど」

「そうかぁ~ 五年かぁ~ ドンペリヨンってシャンパンだから、多分、もう劣化しちゃって飲めないよ」

「そ、そうなんだ」

「透くん、今度お父さんを虐める時にさぁ、そのドンペリヨン飲ませちゃいたいから、貰ってもいい? お金は払うから、お父さんが」

「飲めないなら、只であげるよ」

「それはダメだよ~」

「じゃあ、奈々の笑顔でいいよ。奈々の笑顔は可愛いから、お金以上の価値があるよ。奈々の笑顔はプライスレス!」透がピースを送る。

 奈々は真っ赤な顔で俯いた。

「く、くさい…… 臭い、臭い、臭~い!」照れ隠しに透のピースサインを握り締める。

「俺は汚物かよ~」

 二人の会話がやっと止まった。

「ねぇ~ おとおさん、ななちゃん。すずのこと、わすれてな~い?」

「え? 鈴ちゃん好きなの食べてて良かったのに」

「そうだった、ごめん鈴、家はちゃんといただきますしないと食べちゃいけないんだよ」

「あ! そうだったね」

 透が居住まいを正すと二人も続いた。

 透がいただきますの唄を詠む。

「いただきます」三人が唱和する。

「わ~い、たこさんいただき~」

 三人が重箱をつつく。

「奈々ありがとう、とってもおいしいよ」

「ななしゃん、あいがほぉ~」

「どういたしまして」

 奈々がプライスレスの笑顔を二人に送る。

「そういえば、今更なんだけど、二人は嫌いな物ってある?」

「クサヤとキムチとぬか漬け、臭いものが嫌いだ。でも納豆だけは大丈夫。後、臭いチーズと牛乳、牛肉も余り好きじゃない」

「解った。臭い透くんは臭いものが嫌い、っと」

「鈴ちゃんは?」

「すずはきらいなものないよ~」鈴の目がきょろきょろと回る。

「じゃあ、ピーマン食べられるんだな」透が意地悪な視線を向ける。

「うぅ~うん、ごめんなさぁい、ピーマンはだめぇ」上目遣いで阿(おもね)る。

 鈴の誤魔化しに透が代返する。

「基本は俺と同じかな。後、セロリとかパセリの香り野菜も駄目だな。あっ! あれもあった、タイとかベトナム料理に付いてくる葉っぱ、何て名前だったっけ」

「パクチー?」

「そう、それ。俺もそれ駄目だった」

「解った。考慮するね」

「考慮なのかよ、善処しますみたいだな」

「大丈夫よ、わたし食事って楽しく食べることが一番だと思ってるの。大っ嫌いな物を無理やり食べるのって苦痛じゃない。それもう拷問だよね。だから、そんなことは絶対にしないよ」

「奈々が理解がある奴で良かったよ。それで、奈々の嫌いなものは?」

「わたしは、ピータンかな」

「ななちゃんもピーマンたべられないの~」

 鈴が飛び跳ねて喜ぶ。

「違うよ鈴ちゃん。ぴ・い・た・ん。アヒルの卵を腐らせて真っ黒になった奴だよ」

「うひゃ~」鈴が顔を崩す。

「家は食べた事ないな」透もしかめっ面を向ける。

「わたし食べたら、多分、吐いちゃうわ」

「そうだな、無理矢理はやっぱり良くないな」

「でも、鈴ちゃん。ピーマンは頑張ろうねぇ~」

 鈴が口をぽっかりと開ける。

 そのまま目だけが回り始めると、叫んだ。 

「うひゃ~」鈴が顔を崩す。

「鈴、いいよ食べないでも、大人になったらその内、食べられるようになるから」

 鈴がにっこりと笑う。

「ダメよ透くん! 甘やかすのはわたしの役目、透くんは厳しい父親のままでないと、二人共甘やかしたら、我儘になっちゃうじゃない。それに愛情って甘やかす事じゃないと思うんだよね」

 鈴が意気消沈する。

「それだと俺ばかり嫌われる事になるんだけど」

「いいじゃない。そのうち何もしなくても嫌われるんだから、気にしなくても大丈夫よ」

「すず、おとおさん、だいすきだもん!」

「大丈夫よ鈴ちゃん。年頃になったら、ちゃんと嫌いになるから心配しないで」

「さっきから、奈々の言ってる大丈夫って、意味が違うんだけど」

「それより、透くんさ~ 初めて会ったとき、鈴には我儘は言わせない、厳しくするんだとか言ってなかったかなぁ? なんで急に変わっちゃたのかなぁ?」

「ん~ それはぁ~……」

「ダメだよ、ちゃんと初心貫徹しないと。気分でころころ変わるのは情操教育に一番良くないんだよ。だから、鈴ちゃんはわたしが、め~いっぱい、甘やかしてあげるんだから」

「それ、自分が甘やかしたいだけだよね?」

「だって、可愛いんだもん」

「俺だって、可愛いよ」

「いいじゃん、いいじゃん」うるうると目を震わせ、首を振る。

「子供かよ」

 気づくと本物の子供が真似をしていた。

「奈々? ここは家の中じゃないんだぞ」

 奈々が傍と気付く。うるうるがもじもじに変わった。

「……天女さんはどうしてたの? 厳しかった?」

「俺以上だったな」

「そう、それじゃどうしようかな~」

 奈々が鈴を見る。

 鈴がうるうるをやっていた。

「やっぱり、わたしは、鈴ちゃんを甘やかすわ」

「ななちゃん、だ~いすき~」奈々へ抱きつく。

「だけど、鈴ちゃん、悪いことしたら別だからね」

「だいじょ~ぶ、すず、わるいこじゃないもん」

 奈々が鈴を膝の上に載せ、頭を撫でる。

「鈴ちゃんはいい子だよ~」

「うん! すずいいこだから、ななちゃんみたいに、おおきくなったら、おとおさんに、オッパイみせてあげる~」




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト



 

 透と奈々が散々と鈴を諭した後―――

 三人で歓談している中で、天女桜を眺めていた透が奈々へ言った。

「本当によかったのか、天女のキーホルダーで。俺はあれを骨壷に収めようと思ってたんだけど」

「うん、いいんだよ。わたしとしては全然気にしてないよ。天女さんもいいよって言ってくれたと思ってるし、遺品分けみたいな感じかな。だから、わたしが持ってても忌み事なんだとか―――ううん、そうじゃない、託されたわたしが持つべきだと思う。これは土夏家に入る通行証で、仮の家族証なんだから」

 奈々が胸から赤いキーホルダーを出し、大事に抱える。

「解った。それなら、俺も天女を偲んで黒の方を使うよ」

 そう言って、透が天女桜を指差した。

「俺はねぇ、天女は今、そこにいる様な気がするんだ。だから、今は三人で楽しいでる姿を見せてやりたいんだ。何かそれが、天女の供養になる様な気がする」

 奈々が赤の通行証を無理やり押し込んで大事にしまうと言った。

「供養といえば、生前はこうでしたとか話すんじゃないの?」

「それは、昨日ほとんど話しちゃったかな。それより、これから天女が化けて出てこない様に、しっかり父親をしないといけないよな」

 透は、美味しそうに、そして幸せそうに、よく食べる娘を眺める。

「そうだよね。天女さんの心残り、今なら凄く解かるもん」

 透の隣に奈々が居る―――亡き天女が彼方に居る。

 奈々の生が天女の死を浮き彫りにしていく。

 死者天女が桜の幹に佇(た)ち、透へ笑顔を向ける。


 ガラガラガラ―――裏庭の向いの隣家から、縁側のガラス戸が開く。

「透ちゃ~ん! 元気になったんだ~」少年ぽい雰囲気の若い女の子が顔を出した。

「葬儀以来だね、与音(よね)ちゃん」透が笑顔で応える。

「元気そうで良かったよ~ 今日は恒例の花見やってるだね。私もそっちに行ってもいいかな~」

 身を乗り出した与音は浴衣を着付けていた。

「いいかなーって、浴衣着てて来る気満々じゃない」

「解っちゃった? てへへ」

「しょうがないな、いいよ来ても」

「ありがと~ 準備したら行くね~」

 与音が颯爽と縁側から消えた。

 殺気を覚えて奈々を向く。

 目が断ってよと必死に物語っていた。

「誰よ! あの子!」頬を膨らます。

「天女の同級生で、俺の幼馴染」

「え! 天女さんの同級生? どう見ても年下にしか見えないんだけど」

「あれでも立派な社会人だからな。中学生の時から変わらないんだけどね、ははは」

「そうなの? それより、凄く親しそうだったんだけど」

「幼馴染で、子供の頃は姉貴代わりだったからね、家同士の付き合いもあったんだよ、昔は……」

「そう」奈々がご機嫌斜めだ。

「ごめん、勝手に誘って」

「え! やだぁ透くん、ここは透くんの家じゃない。わたしがとやかく言う筋合いはないんだよ。気を使わせちゃったのならごめんなさい」

「いいや、そうじゃないだろう。俺が奈々に気を使わなかったからだよ、ごめん」

「解った。ありがとう。それならさ~ 他の人も来るっていうなら、真音呼んでもいいかなぁ」

「勿論いいけど、突然誘っても来れないだろう?」

「ううん、大丈夫。多分、すっ飛んで来ると思うわ。だって、昨日泊まるのに了解を得てるし、気にしてると思うんだよね~」

「それは解ったけど、真音は家の場所知らないだろ。どうやって呼ぶんだよ。ここ住宅地で目立った目印はないぞ」

「そんなことなら大丈夫だよ」

 奈々が帯からスマホを取り出すと何か操作しだした。

 透に画面を向ける。

  [ ――― 位置情報送信設定完了 ――― ]

 奈々は真音に位置情報を送っていた。

 透が怪訝(けげん)な顔を送る。

「だって真音はお母さんだもん。わたしが変な男に連れ込まれた時の保険だっていうから」

「おまえは小学生かよ!」

「今からメールしま~す」


 隣家との垣根の扉が開いた。扉がある事自体が両家の親密さを物語っている。

 現れたのは、与音ともう一人老婆だった。

 与音は自分の身長位の大きい桐箱を抱え、老婆は風呂敷を抱いている。

 与音が桐箱を毛氈の脇に置くため外れると、老婆が前に出る。

「こんにちは、辛島のお婆ちゃん。まだまだ元気そうで何よりです」

 透が声をかけると老婆が皺くちゃな相好を崩す。 

「透ちゃんも、やぁっと元気になったのかい。良かったよ、良かったよ」

 にこにこと透に笑顔を向けていたが、奈々に視線を移すと厳格な顔に急変する。

「そちらのお嬢さんのお陰かい?」

 辛島の老婆がじっと奈々を射すくめる。

 奈々は竦んで機先を制され、気後れした。

 透が黙る奈々の代わりに慌てて紹介を始める。

「クラスメートの千横場奈々さんです。鈴の面倒を色々看てもらっています」

 透の助けで奈々の唇がやっと開く。

「……は、はじめまして。千横場奈々です」

「そうかい、そうかい。透ちゃんも隅に置けないね。天女ちゃんを亡くして、もう次の女子(おなご)を囲ってるとは、中々の甲斐性じゃないかい。流石に土夏家の男子(おのこ)だよ。但し、調子に乗るんじゃないよ! 男の甲斐性とは自分で稼いで何ぼなんだから、親の資産で脛(すね)を齧(かじ)っているうちは、只の穀潰しだからね、そこの処は篤(とく)と覚えておくんだよ。そして、土夏家を潰す事、それだけは有ってはならないよ!」

 透が急な叱責と温厚な老婆の豹変に驚く。

 隣で聴いていた奈々が突然、血相を変えて言い放った。

「いきなり失礼なことを言わないでください! わたしはお金目当てでここに居るんじゃありません。透くんと鈴ちゃんが困っていたから、ただ助けてあげているだけです。それに、透くんはまだ高校生なんです! ご両親を亡くされて親の脛を齧っているのは、しょうがないじゃないですか!」

 真っ赤になって、涙を貯めて、奈々が老婆を睨む。

「それに、わたしは親に養ってもらっている高校生であることを、ちゃんとわきまえています。調子に乗ってなんかいません! それとも、透くんに今すぐ学校を辞めて働きに出ろとでも言いたいんですか! 透くんは代わりに天女さんを働かせて亡くしてしまったと、とぉっても後悔してるんです。だから、そこには触れないで下さい。透くんを責めないで下さい! 透くんを……虐めないで下さい。お願いします……」

 奈々の涙が等々溢れた。

 脇の透も後悔を思い出して頷く。

 黙って聞いていた辛島の老婆は、今までの表情が演技であったかの如く無表情に変わった。その小さい目が慈愛の目に変わると奈々へと話しかける。

「ナナさんだったかしら…… ちょっと挑発する様な事を言ってごめんなさいね。透ちゃんには、甲斐性どころか節操が無さ過ぎじゃないかと思ってね。一言、言ってやりたかったんだよ。けど、私は今、見直したよ。こんなに立派なお嬢さんを見つけたんだから。あんたはいいお嫁さんになりそうだわ。これからも透ちゃんと鈴ちゃんを頼んだよ」

 そう言うと、風呂敷を解いて中から重箱を覗かせる。

 重箱を三つ並べると、白胡麻と豆打(ずんだ)と小倉の三色のおはぎだった。

「鈴ちゃん、たんとお食べ~」鈴へにこりと微笑む。

「ありがとう、おばあちゃん」鈴も笑顔を返す。 

「急いでこしらえたんだけど間に合ってよかったわ。天女ちゃん、私のおはぎ大好きだったから、喜んでくれると思うんだけど、ナナさんは、どうか天女ちゃんの代わりに頂いて下さいな」優しい声を奈々に掛ける。

 奈々が反対の胸からハンカチを取り出すと涙を拭ってから応えた。

「はい、ありがとうございます。あと、すいません、もう一つだけ。透くんは節操が無い人なんかじゃありません。とっても一途で誠実な人なんです。だから、わたしなんか全然相手にされてなくて、今はわたしが押しかけ女房になってるだけなんです。だから、透くんは全然恥じることなんかしてませんから……」最後には、顔が赤くなっていた。

「まぁ~ あんたは何て可愛い子なのかしら! 透ちゃん! もう節操なしでも何でもいいから、今直ぐこの子を抱いておやり!」

「何言ってんだよ! 婆ちゃん、そういう事は言わないでくれよ!」

「あんたに甲斐性があるんなら、しっかり応えておやりって事だよ。解ったかい!」

「あぁ、そんな事はもう分かってるよぉ」

「じゃあ、私は直ぐにお暇(いとま)するとしようかね。後は、与音、任せたよ」

 散々掻き回した後、辛島の婆ちゃんはすたこらと帰っていった。

 それと代わって孫の与音が透へと近づく。

 透が向いを誘うと洗練された所作で腰を下ろした。

「私の名は、辛島与音(からしまよね)、はじめまして、ナナちゃん。ナナちゃんでいいよね?」

「はい、こちらこそよろしくお願いします。ヨネさん」

「あっ! 与音ちゃんでいいよ。それで慣れちゃてるから。こんな成りだからさ、私、中学で成長が止まっちゃたんだよね、今は個性だって割り切ってるから気にしないよぉ」

「解りました。それではヨネちゃんってお呼びしますね。どうぞ召し上がってください」

 まだ他人行儀な奈々が箸と取り皿を渡す。

 与音は受け取ると鈴へ顔を寄せる。

「スッチーも元気になったみたいね~」

 鈴がビクッと反応すると与音へ目を見開く。

「へぇ~! 鈴ちゃん、スッチーて呼ばれてるんだ~ なんか可愛いかも」

「ダメ~! スッチーていったらダメ!」鈴が真剣な眼差しで抗議する。

「え! もしかして、スッチー? 忘れちゃった? ヨネっちだよ?」

 鈴が首を振る。

「そっか~ 二年会ってなかったもんねぇ~ 葬式の時は無反応だったからさぁ、もしかしてと思ったんだけど…… 寂しいな~ スッチー……」

「ダメ~! スッチーていっていいのは、おかあさんダケー!」鈴が真剣な眼差しで最抗議する。

 与音がしまったと云う顔をする。

「ごめん、スッチ―――鈴ちゃん、与音ちゃんはね、天女と高校生の時からのお友達でね、前はよく遊びに来てたんだよ。スッチーって付けたの、実は与音ちゃんなんだよ」

「スッチーはあまえんぼのときだけだもん、おかあさんしか、いっちゃいけないんだもん!」

 鈴は頑なに与音を拒んだ。母親との思い出には誰も踏み入れさせないと云った様に。

「ごめん、スッ―――鈴ちゃん、もう言わないから許してね」残念そうに話す与音。

 透は奈々の視線を感じて、目を会わせる。

 目がスッチーの事、知ってた?と言っている。

 透が首を振る。

 透も初めて知った。天女が陰で鈴を甘やかしていた事に。その時はスッチーって呼んでいた事に……

 与音が気を取り直して、奈々へ顔を向ける。

「ナナちゃん!」

 想いに耽る奈々が意識を向ける。

「ナナちゃんって、どう云う字を書くの?」

「奈良県の奈に同じです」

「奈々か~」そう言って与音は考え込む。

 奈々は与音の意図が判らず困惑する。

 話が途切れた中、透が口火を切る。

「与音ちゃん、何か話したい事があったんじゃないの?」

「あ! そうだよ。話しておきたい事があるんだけど…… それより透ちゃん、なんで昔の天女がここに居るの? 奈々ちゃんって、怖いくらい昔の天女にそっくりなんだけどさ」

「う~ん、そうかな~ 俺はそっくりって程ではないと思うんだけど」

「だから昔の天女だよ、結婚する前の天女は、透ちゃん余り知らないでしょ? 女は結婚すると変わるんだよ。現に天女は育児の邪魔になるって、長い髪をバッサリ切っちゃったじゃない」

「うん、そうだね。じゃあ、答えになるか解らないけど、奈々は天女の再従姉妹なんだ。だから似てるんじゃないかな」

「はい、そうなんです。わたしの母方の祖父と天女さんの祖父が兄弟だったんです」奈々が得意げに答える。

「再従姉妹なんだ。血縁ではちょっと遠いいけど、それで似るって珍しいよね。まあ、取り敢えずそれで納得するとして…… 今日はねぇ、天女の話をしに来たんだよね」

 そう言うと、与音は間を置いた。

 透は身構える。与音と老婆はかなり前から準備をしていた様だ。聖剣クサカリバーの音で感づいたのだろう、最初から花見に参加するつもりでもないと、あんなに早くおはぎは作れない。普段、家族だけで開催していた花見に割り込んでまで何を伝えたかったのか。さっきの婆ちゃんの話だけでは無い筈だ。与音に後はよろしくって言ってたし……




ヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨ




 与音は言えなくなった。

 与音は言おうと思っていた、天女が死んだ後だから、透ちゃんに天女の秘密を―――

 与音と天女は秘密を共有していた。親友だからこそ打ち明けられた秘密。

 与音の秘密は―――絶対に他人には知られたくない。けど、透ちゃんだけは知っているんだよね。

 天女の秘密は―――別に大した事じゃないんだよね。私に比べたら恥ずかしくもないし。

 透ちゃんが私の秘密だけを知っていて、天女の秘密を知らない。なんか、癪に障るんだよね。

 だから、今日、言ってしまおうと思った。

 だけど、与音は言えなくなった。

 奈々が誇らしげに語る再従姉妹ですの言葉に―――

 そう、あの日天女は言ったんだ、私は二度両親を失ったと……

 天女は養子縁組だった。実の親の名前も知っていると……

 だから、奈々ちゃん、あなたと天女は再従姉妹じゃないんだよ……


 そして……私の秘密―――

 透ちゃん、覚えてる? 小学生の時、私の家でお風呂に入る時、約束した事……

 親以外に始めて他人に裸を見せる、その交換条件は、責任を取ってお嫁さんにする事。

 透ちゃんは了承した。だから、一緒にお風呂に入った。


 医者の見立てで私は両性具有だって。

 男性器は大きくなく、精巣はない。

 女性器は正常だが、未だに女の験(しるし)はない。

 そう、私は男でも女でもない。


 覚えてる? 透ちゃん。

 私は結婚できないの、だから、あれは、只の、口約束……

 


 与音がスマホを取り出した。

「天女が死ぬ二日前にメールを貰ったの。直接は見せられないけど、その内容を話すね」

「この頃、偏頭痛がよくあるの、との事です」

「私は、病院に行きなさいって言いました」

「でも、すぐ治まるし、忙しいから、との事です」

「私は、絶対に行ったほうがいいよと言いました」

「うん、行けたら行く、との事です」

「私は、絶対だよって言いました」

 涙を流し始めた与音がスマホから目を離すと、項垂れる。

「……ごめんね、透ちゃん。わたし……兆候に気づいてたんだ……わたし……天女を……見殺しにしちゃった………………」

「与音ちゃん、そんな事ないよ。俺だって、前日に調子が悪い事に気付いてたんだから、見殺しにしたのは、俺だよ!」

「それからね、天女、妊娠したっていってた。……羨ましいな(小声)……」

「それは…… 知ってたよ…………」

 次に与音は鈴に向く。

「……ごめんね、スずちゃん。与音ちゃん、何の力にもなれなくて」

 鈴は何故か青い顔をして固まっていた。

 最後に奈々へ向く。

「それから、奈々ちゃん、ありがとう。透ちゃんと鈴ちゃんを元気にしてくれて。天女が働きに出る様になってから、私も忙しくて、ほとんど顔を出さなくなっちゃってたんだ。私じゃ全然慰める事ができなくて、本当にありがとう。天女の喜んでる顔が浮かぶよ」

「いいえ、そんな大したことじゃないです」

 謙遜していた奈々が鈴の異変に気付く。

「どうしたの鈴ちゃん? 気分悪くなっちゃった?」

「ううん、だいじょうぶ、なんでもないよぉ」鈴が作り笑いをする。

「そうだぁ! おはぎ頂きましょう」湿った雰囲気を祓う奈々の一閃。

「鈴ちゃんは、どれがいい?」

「すずはぁ~ ぜんぶぅ~」鈴が乗る。

「はい、欲張りさんね~」奈々が三色を一つずつ取り皿に盛って鈴に渡す。

 透と与音が笑顔を向ける。

 奈々が新たにおはぎを三種類皿に盛る。

「これは天女さんの分よ、お供えしてくるねぇ」

 奈々が立ち上がり、霊前のある屋敷に向かおうとすると、透が呼び止めた。

「奈々、お供えなら、天女桜にしてくれる。天女は今、そこに居るから。根元に神棚があるんだ」

「そうなの? 解った」

 奈々が天女桜へ尻を振りながら、そよそよと向かう。

「透ちゃ~ん、立派なお尻だねぇ」

「こらぁ、すずの前で止せよ」

 鈴がにかっと笑う。

「私とは全然ちがうな~」

 与音の表情に全く嫌らしさはなく、むしろ劣等感を感じさせ、自虐的憂いを漂わせていた。

 鈴が小声で歌いだした。

「おしりのりっぱなおんなのこお~ あっちをむいてよ、ななあ~」

 奈々が戻ると、与音が料理にやっと口を付けた。

 与音と奈々が、それぞれおはぎと料理を褒め合う。

 関係ない透が何故か自慢げな顔をする。

 鈴が二個目の豆打に突入した。

 和気藹々の中、与音が呟く。

「天女って子供の頃に両親を失ってるんだよね。親を亡くした子の気持ちを痛い程知ってたのに、よりによって、自分の子にそんな思いをさせるなんて…… 天女、心残りだろうなぁ~」

 また与音が暗い雰囲気にさせそうな中、自分で口火を切った。

「それでさぁ~ 今日の花見はやっぱり天女の供養なんでしょ」

「そうだよ、与音ちゃんだって、そのつもりで来たんでしょ」

 与音は頷くと、すくっと立ち上がった。

 与音の浴衣は鈴生りの葡萄樹。帯は江戸紫。裾に雛鳥。

 振り返ると持参した桐箱に向かう。

 背中の二羽目の鳳雛が、伏龍と鳳雛に相見(あいまみ)える。

 与音が桐箱から取り出したのは、一調の和琴。

 設置が終わると、調律のため弦を弾く。

 与音が透へ頷く。

「鈴は、去年のお遊戯、まだ覚えてる?」

「うん! おぼえてるぅ~」

「じゃあ、与音ちゃん、あれ行こうか」

「解った」

 与音は天女が送ってきた去年の鈴ちゃんのお遊戯動画を思い浮かべる。

「奈々! ちゃんと鈴を見ててあげてね。天女が一生懸命教えたんだ!」

 奈々は訳が分からず、あたふたとする。

 取り敢えず、胸からハンカチを取り出すと、鈴の口を拭った。

 透が懐から篳篥(ひちりき)を出した。

 与音の琴が前奏を奏でる。

 雅楽調のゆったりとした調べだ。

 曲は―――[義経×××]さあこの×××に入るのは何、だった。

 透の篳篥が頃合から相伴すると、一気に曲調が早まる。

 鈴が立ち上がる。

 右手を左に伸ばし突き上げる。

 左手を右に伸ばし突き上げる。

 両手を挙げて開く。

 鈴が回る。

 左手を腰に乗せ、くねらせる。

 首を傾げ眼光を放つ。 

 鈴が踊る。

 腰を振り、手を振り、愛嬌を振りまく。

 そして―――光線銃を撃ちまくる。

 奈々は目を見開いて驚いた。 

 奈々も知っている曲だったので、頃合から立ち上がり鈴に続いた。

 鈴の壱式に対し、奈々は零式。

 奈々は隣で扇子を開き舞い上げる。

 鈴も負けじと、扇子で祓う。

「ワン、ツー、さん、し」

 透の錦鯉が天女桜に背を向ける。

 蝶が舞い、鹿が踊り、龍が囃(はや)す。 

「おかあさん、このうた、すきだったんだよ」

 鈴が終わりにぽつりと言う。

 天女桜が羨望の錯乱を顕す。

 それは秒速五糎の雨となった。

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