第5話 暮銭湯悶喫須(くれせんとむーんきっす)

 奈々は三人分の配膳をやり直すとリビングにいた透を呼んだ。

「透くん、ご飯出来たから鈴ちゃん呼んできて」

「それなら、そこの鐘鳴らしてごらん」

 透が指差した所に打鐘があった。

「え! これってインテリアじゃないの?」

「昔、使ってて、いいものだからインテリアにしてるんだよ。まだ使えるから大丈夫だよ」

「でも、これって近所迷惑にならない?」

「今まで苦情はこなかったから、大丈夫かな」

「かなって、わかった、ちょっと叩いてみたいから、やってみる」

 脇に掛けられた木槌を取って、振りかぶった。

「やっぱり、夜だから止める」

 透が優しい顔で奈々に微笑んだ。


 鈴が透におんぶされて降りてきた。

 鈴が定位置に座ると奈々が鈴に話しかける。

「鈴ちゃん、今日ねぇ、奈々ちゃんお泊りするからねぇ、一緒に寝ようねぇ~」

 鈴が目を輝かせて言った。

「わ~い! ななちゃんといっしょぉ~ やったあ~」

 隣で透は複雑な苦笑いをしている。

 奈々が続ける。

「あと、お風呂も一緒にはいろうね~」

 鈴がうんと言って大きく頷く。

「じゃあ~ おとおさんもいっしょにはいろうよぉ」

 透が吹き出した。

 奈々の顔が慌てる。

「鈴ぅ! お父さんと奈々ちゃんはね、一緒には入れないんだよ」

「なんで~ぇ」 

「大人になったらね、男と女は一緒にお風呂に入っちゃいけないだ」

「なんでぇ」

「だから、駄目なんだって」

「鈴ちゃん、あのねぇ、お父さんと一緒にお風呂に入れるのは、お母さんだけなんだよ。だから、奈々ちゃんとはダメなの」

「それじゃ~ おかあさんが、ななちゃんがあたらしいおかあさんだよっていったよ。だから、ななちゃんはいっしょにはいってもいいんだよねぇ」

「えっ! それ本当ぉ! おかあさん、そんなこと言ったの?」 

「そうだよ! ななちゃんにぶつかったときぃ」

 奈々が真偽を確認する様に透の顔を見る。

 透が真と頷いた。

 驚愕する奈々にその時の記憶が甦る。

 ―――もちもち食感の様な柔らかかった鈴の衝撃。

 ―――浮き輪に乗る様な優しい鈴の転倒。

 ―――天使の輪を冠した様な鈴の笑顔。

 天女の存在を目(ま)の当たりにし、子を思う母の愛を識(し)る。

 奈々が取り憑かれた目で言った。

「それじゃ~ しかたないかぁ」

「おい! 奈々! 五歳児にやり込まれるな~」

「はっ! そうだ、あぶなかった」

「鈴ちゃん、お母さんがそう言ってもね、お父さんが認めないとダメなんだよ。だから、奈々ちゃんと透くんは一緒に入れません!」

「そっかぁ~ じゃあぁ、おとおさんがいいっていえばいいんでしょ。ねえぇ、おとおさ~ん」

「駄目に決まってるだろ! 鈴! この話は終わりだ。奈々ちゃんと二人でお風呂に入りなさい」

「は~い、わかったぁ」

 透が、鈴の納得なく黙らせる。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 食事は滞りなく済み、透が風呂の準備を終える。

 奈々に風呂場を案内するため、透が先導した。

 風呂場に着くと、脱衣所と浴室を見せる。

 浴室は四畳半程の総タイル張りで檜の浴槽は二人が充分寛げる広さだ。

「わぁ~ お風呂も広いんだ~」

 奈々が感嘆すると続けた。

「透くんの家って、下宿でもやってたの? 部屋がいっぱいあるし、洗面所は大きいし、トイレは男女別々だし、あと、あの鐘とかも」

「そうだよ。俺は知らないけど、昔は学生を受け入れていたらしいんだ。隣の駅に国立大学があるだろ、親父が子供の頃の話だけどね」

「ふぅ~ん」奈々は思考顔で応える。

 右手の中指をやや左の顎に当て、右に小首を傾ける。

 大人っぽい可愛さを備えたその仕草に、透が見惚れた。

 奈々が待ち遠しい鈴に気付くと言った。

「じゃあぁ、鈴ちゃん入ろっかぁ」

 奈々が立ち尽くす透に横目を向ける。

「じゃあ、鈴の着替え、ここに置いとくから」

 透が脱衣所の棚に置くと、逃げる様に出て行った。


 透がリビングに戻って束の間の事だった。

 鈴の廊下を走る音が響く。

 透が何事かと廊下に向かう。

 真っ裸の鈴が走って来ると叫んだ。

「おとおさ~ん たいへんだよ~ ななちゃん おまたにけがないよ! ななちゃんはこどもなの?」

 透が理性を吹いた。

 思わず透が風呂場の方を見る。

 そこにはバスタオルを巻いただけの―――胸が大きめの姉ちゃんが立っていた。

 奈々が胸元を抑えこちらへ来る。

 バスタオルがずれない様に歩く様は、花嫁の入場の様だ。

 奈々はのぼせた様に顔を真っ赤にし、羞恥に震えていた。

 べそをかきながら言った。

「……無いわけじゃないから、す、すこしはあるから……」

 思わず下半身に目がいった。

「い、いま、想像したでしょ! 変な目で見ないでよ、えっち!」

 透が視線を逸らす。

 奈々は鈴の手を掴むと、とっとと戻っていった。

 奈々の視線がなくなると、自然と視線が尻に向く。

 見えそうで見えない尻が揺れる。

 鈴は叱られた子の様に引っ張られる。

 鈴を掴む手に幾分か力が入っていた。

 

 透はしばらく立ち上がれなかった。必死に股間を隠す様に姿勢を屈める。

 天女が死んでから、初めての事だった。

 山と猛る透が、おもむろに立ち上がる。

 客間から予備の布団を取り出すと鈴の部屋へ運ぶ。

 風呂場の前は禅僧になって通り過ぎる。

「ななちゃんのオッパイ、おおき~い! やわらか~い!」

 漏れた鈴の叫び声は風の音だ。

 娘の部屋で悶々としながら奈々の寝床を作る。

 その後は、トイレに向かった。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ


 


 奈々が本日三回目の風呂を出る。

 鈴の手を引きリビングに入る。

 透を見つけると、顔がのぼせた。

「透くん…… 次、どうぞ」

 透は目を逸らせている。

「鈴ちゃんがもう眠そうだから、寝かせるねぇ」

「それじゃ、案内するよ」

 透が立ち上がり、歩き出す。

 透は目を会わせない。

 鈴の手を引き後に続く。

 二階に上がり鈴の部屋の扉が開かれると布団が敷いてあった。

 鈴を連れて中に入ると、透が呼び止めた。

「奈々、鈴を寝かし付けたら、俺の部屋に来て。俺の部屋はここだから」

 透が鈴の部屋の向いを指差した。

「はい」透を見つめるが、透は目を会わせない。 

「鈴、おやすみ」透が鈴の目を見て言う。

「おとおさん、おやすみなさい」鈴は眠そうに挨拶する。

 透が向かいの部屋に消える。

 鈴と一緒に布団へ入る。

 鈴が眠い目を擦りながら言った。

「あしたおきたら、あかちゃんになってたらどうしよう」

「鈴ちゃん、大丈夫だよぉ、奈々ちゃんが、隣にいるから」

 奈々が鈴の頬にキスをする。

「うん。ありがとう、ななちゃん」

 鈴が唇を突き出す。

 奈々が頬を押し付ける。

 鈴が目を閉じた。

 奈々は鈴のさらさらの髪を撫でる。

 少しすると寝息が聞こえた。

 奈々が寝顔を見つめていると、呟いた。

「おやすみ、鈴」

 

 奈々がそっと床から離れると、透の部屋の前に立った。

 扉一枚隔てた先の透を見つめる。

 一つ深呼吸をして、扉を叩く。

「どうぞ」待ち構えた声が返る。

 ノブを下げてそっと押す。

 始めに、ぎっしりと詰まった本棚が見えた。半分は漫画本だ。

 視界が広がると、机があって透が座っている。

 部屋を視線が一巡する。その先にはベット。ポスター等は一切無く、至ってシンプルな部屋だった。

 中央の透に視線を戻す。

 奈々を見つめる透は、既婚者の大人の男だった。

「こっちにおいでよ」透が笑顔で言う。

 奈々が扉を閉めると、一呼吸おいた。

 女を知り尽くした笑みを浮かべる透へ近づく。

「そこに座っていいよ」透がベットを差す。

 押し倒そうとする手が初夜の床を差す。

 指先から迸(ほとばし)る糸が奈々を縛り、ベットへ引きずる。

 無意識に動く体は、嬉々としてベットの端に腰を降ろした。

「まだ眠くない? 大丈夫?」透が優しく言う。

 奈々は人生最大の決意を持って、頷く。

 奈々を透が視姦する。

 奈々の体が熱くなる。

 下腹部がじわりと熱を持つ。

(さよなら、わたしのバージン。そして、待っててね、わたしのバージンロード)

 透が立ち上がる。

 奈々が硬直する。

 透が一歩一歩と迫る。

 奈々の肉体は受身に強(こわ)ばる。 

 透の遅い歩みが止まった。

 奈々の目前には透の下半身。

 動かせない視線が全方位警戒。

 奈々の動体視力が研ぎ澄まされる。 

 透の手が夜着の襟元に伸びてくる―――

 奈々の上着を脱がす。

 ―――と、思ったら、肩にナイトガウンが掛けられていた。

「ちょっと、デートしようか」透くんが言った。

「……どこに?」奈々ちゃんが小声で言う。

「庭まで、今夜は満月で夜桜見物にもってこいだよ。多分、逃したら来年まで見れないよ。どう? 観てみたくない?」

「うん、観てみたい」奈々が落胆の喜色を浮かべる。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 裏庭にぽつりと佇む四阿(あずまや)がある。

 透は唯一、雑草の生えていない渡り石を進む。

 後ろから奈々のサンダルの音が追う。

 両脇の茂った雑草が、山歩きを思わせる。

 四阿に到着すると、家の影から八重桜が現れた。

 太い幹に低い背、二本の太い枝が両手を広げるように伸びる。

 奈々は透の隣に腰掛けた。


 満月に映える八重桜。

 音一つない静寂の世界。

 風一つない夜の帳(とばり)。

 星一つない蒼い宙(そら)。

 空には煌々と輝く満月。

 紫だちたる夜の桜。

 碧(みどり)の葉が、華やかな八重に牡丹の花神を魅せる。

 終えて散る八重の花びらが、天女(てんにょ)の舞を踊る。

 満月が四阿の二人に、脚光照明を浴びせる。

 

 時折聞こえる、車が風を切る音で現実に返る。

 遠くで聞こえる救急車のサイレンまでも趣がある。

「どう、奈々? 満月の夜桜は?」

「すご~く綺麗、夢の世界みたい。透くん、誘ってくれてありがとう」

 奈々はうっとりと鑑賞している。

 透も言葉を挟まず天女桜に謂(おも)う。


「月が綺麗ねぇ~」

 奈々が唐突に口ずさむ。

 透は逡巡した。

 只の感慨か、それとも、奈々の癖に、一丁前に漱石の引用か。

「俺は、鈴がいるから死ねないなぁ~」

 四迷の引用で返礼した。

「知ってた」

 どちらの知ってただろうか。

 取り敢えず、謝った。

「ごめん」

「謝るなら、透くんも言ってよ」

「奈々は月より綺麗だよ」

「違う! それに、その言葉、臭い!」

 奈々が例の頬を膨らます。

「奈々は可愛いよ」

「それもダメ!」

 河豚(ふぐ)奈々が継続中だ。

 仕方なく透が言う。

「ツキガキレイダナ」

 奈々が涙目の河豚になる。

 慌てた透が思わず言う。

「月が綺麗だな」

「はい! わたしは死んでもいいです」

 河豚が萎む。

 透は罪悪感を感じる。

「ごめん」

「知ってた」

 透が後悔する。

 透が躊躇った空気を、読まない奈々が悪いと責任転嫁する。

「奈々が、言わせたんだからな!」

「ごめんなさい! またやっちゃった」 

 さっきから、奈々からの焦りを感じる。

 透はふと、漱石は河豚嫌いだったなと取り留めもない事を思い出す。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々は勘違いし、焦り、後悔した。

 朝振られたばっかりで、夜に気が変わっている訳もないのに、今日過ごした長い一日が、二人の距離を相当縮めたと思った。透への共感が募る想いを膨らませ、朝の事を忘れさせた。一日に二度振られた哀れな女。天女の壁に、たった一日では到底及ばない事を再認識させられた。

 朝令暮改(ちょうれいぼかい)ならぬ朝涙暮悔(ちょうれいぼかい)だった。

 奈々は茨の道を進もうと強く決心した。

「わたし、月になる。ずっとじゃないけど、透くんを見てる。悲しい時も、嬉しい時も。夜しか見えないけど、太陽だったら直視できないから、その分、よ~く見ててねぇ。さしずめ、太陽は天女さんかな」

 奈々が、憂いて乾いた笑みを送る。

 透は親指と人差し指を顎に付け、小首を傾げる。

 大人っぽく格好付けたその仕草が妙に様になっていた。

 奈々は知性を見出すと同時に、見惚れる。

 透が奈々の話がよく解らないといった顔で言った。

「天女が太陽で、奈々が月なら、俺は須佐之男命じゃないか。そんなのは嫌だな。それより、イザナミを失ったイザナギの方が合ってるかな。そうしたら、奈々はセオリツ姫だな」

 奈々にはもっと解らない話を返した。

「じゃあ、わたしは月読姫でいいよ。そのくらいは解ったから」

「だから、須佐之男命は嫌だよ。粗暴で天照大神を岩戸に隠した原因を作った……」

 透が突然、口篭る。

 泣き笑いの表情で言った。

「何だ、それって、天女を殺した俺に、ぴったりじゃないか、ははは」

 透が壊れた笑いで自虐する。

「ごめんなさい。変な話しちゃって」

「否、変な話にしたのは俺の方かな? ああそうだ!」

 透が一つ頷くと、それならと言った。

「奈々は月読姫と云うよりも、アメノウズメかな。太陽の天女が岩戸に隠れたから、その前で裸踊りをしたウズメがぴったりだよ。さっき、裸踊りしたじゃない?」

「え! なに裸踊りって、わたしそんなことしてないよ!」

「さっき、バスタオル一枚で腰振ってたじゃない」

「……透くん、お願い、そのことはもう、言わないで、忘れてください。あと、腰なんて振ってないから!」

「ごめん、ちょっと意地悪だった。けど、一つだけ言わせて、今日はごめんな、鈴がとんでもない事して」

「鈴ちゃんには優しく言い聞かせました!」

「何て?」

「そんなこと言わせないで」

「そういう意味じゃなくて、鈴に変な事言うとさぁ、あいつぽろっと言っちゃうんだよ。だから、滅多な事は言わない方がいいぞ」

「え! しゃべっちゃうの?」

「だから、何て言ったのかなと思って」

「い、言えないよぉ~」

「じゃあ、鈴に聴くよ」

「やめて! お願いだから、やめて~」

「冗談だ。鈴が言わない限り、訊かないよ」

「鈴ちゃんには、もう一度、お話するわ」

 奈々が溜息をついた。

 透が改まって言う。

「鈴はね、俺と天女の菊理姫(くくりひめ)なんだよ」

「ククリヒメ? 日本神話の?」

「縁結びの神様って意味だよ。菊理姫は北陸出身の神様で、土夏家もそっちの出身なんだって。だから、家では縁結びと云えば菊理姫なんだよ」

「ふ~ん」

「それで、天女の時もやったんだよ、一緒にお風呂入ろうとか、一緒に寝ようとかさぁ。多分、鈴はその時の事を覚えてたのかな? 今と同じ様な事があったんだ」

「へぇ~ そうだったんだ。じゃあ……」

 透が意味有り気な顔を向ける。   

「実はね、奈々。俺、今の奈々の気持ちが、す・っ・ご・く、よく解るんだ」

「へえっ! なんで?」

「今の奈々は、昔の僕、だからだよ」

「もっと、解かるように言ってよ」

 透が一呼吸おく。

「天女、否、姉ちゃんは兄貴を愛していて結婚した。兄貴が死んだ。でも姉ちゃんは愛した兄貴を忘れられない。俺はずっと好きで諦めていた姉ちゃんが、未亡人になって決めた。俺の女にすると。けど、姉ちゃんは俺に見向きもしなかった。どうだ、奈々! 今の状況と似てないか?」

 奈々が無言で頷く。

 透が続ける。

「だから、俺は、奈々に同情してる。只、それだけ。俺は未だに天女を忘れられないから。けれども、同情だけじゃどうにもならないんだよ、そう云う愛も有るのかもしれないけど、そんな気持ちで奈々を愛せない。実は体の関係から始まる愛も有るらしいが、俺はそんな経験はないから、解らない」

 透は誠実に話してくれた。

 奈々も誠実に応える。

「透くんって、やっぱり、大人の男だね。同じ高校生とは思えないやぁ。わたし、恋愛経験がなくて、本当は良く解らないの、本気で好きになったのは、透くんが初めてだから…… でもねぇ、辛いのだけは解かるの」

「辛いよな、奈々」

 奈々が絶句する。

「やめて……透くんにだけは言われたくない。透くんにそれ言われると、本当に辛くなるから!」

 奈々が目に涙を溜めた。

 奈々が下を向いて言った。

「大丈夫、わたし幸せだから、今のままでも、しあわせだから」

 透に見えない方の目が、一雫、涙を零(こぼ)す。

 奈々は何気なく桜を見た。

 天女桜を謂う。

 一陣のそよ風が舞った。

 花びらがひらひらひらと舞う。

 一枚、二枚、三枚…… 七枚。

 奈々が言った。

「もし、今日見つかったのが真音じゃなかったらどうする?」

「その時は…… 彼女って事にしよう」

 奈々の目の色が変わった。

 奈々が続ける。

「もし、奥さんが亡くなったことが判って、すぐに彼女ができたなんて知れたら、透くんは節操のない人だって、噂が立つよ?」

「それは別にいいよ。既に俺は最低な男だから……」

「それ前にも言ってたけど、なんで自分の事、最低な男なんて言うの? 透くんはそんな人じゃないよ!」

「それは、俺が最低な事をしたからだ」

「その最低な事って何なの? 教えてよ」

「言えないな。例え奈々でも、天女でも」

 奈々は会話を閉じた。

「そろそろ戻りましょう。余り離れてると、鈴ちゃんが心配だから」


 奈々が部屋に戻ると、鈴の顔を覗く。

 鈴に起きた形跡がないと知ると、鞄を持った。

 その後は、トイレに行ってから寝た。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト



 

 ベットに入った透は回想する。

 奈々の現在の心境に共感を感じた今だから、甦った場面。

 天女が吐いた最後の言葉。

 ―――天女は呼んだ、兄貴の名を。

 ―――その時透は思い知った。

 ―――俺はずっと兄貴の代わりだったんだって事に。

 ―――姉ちゃんは兄貴を愛していた。俺はその代わり。

 もし、もっと過ごした時間が長ければ、天女が俺の子を産んでいれば、兄貴の事を忘れさせられたのかもしれない。

 でも…… 天女は俺の女ではなく、兄貴の女として死んだ―――

 また、胸が疼く。

 でも、仕方ない――― 

 天女は…… 兄貴に成りきる事で落したんだから……

 何の事はない、今の透は奈々と同じだった。

 

 透は目を覚ました。

 向かいの部屋から奈々の悲鳴が聞こえた様な気がした。

 少し寝ぼけ眼(まなこ)でいると、また奈々の悲鳴がはっきり聞こえた。

 透は起き上がると、躊躇わず鈴の部屋の扉を開ける。

 常夜灯の弱い明りの中、奈々が胸を露わにし、上着をはだけさせて座っていた。

 よく見ると―――抱いた鈴にオッパイを咥えさせている。

 左側を鈴の口が吸い付き、右側を鈴の手がまさぐっている。

 奈々の顔は苦悶の表情だ。

 透はオッパイよりも状況が理解できず戸惑った。

「なにやってるんだよ」

「痛いの、思いっきり吸われて痛いの~」

「取り敢えず、鈴を離せ」

「ダメ、離れないの」

 透が無理やり鈴を抱えて引き離す。

 鈴の口から乳首がぬるりと抜ける。

 奈々が小さく悲鳴を挙げる。

 鈴は一瞬目を開けたが、そのまま寝かせると、直ぐに目を瞑って眠りについた。

 奈々を見ると後ろを向いてブラを着けていた。

 透は慌てて部屋を出る。

 どうしたものかと廊下で佇んでいると、顔を真っ赤にして俯きながら奈々が出てきた。

「見た?」奈々が上目遣いで言った。

「見てない」目を逸らす。

 奈々が透の胸に両手を伸ばし押した。

 透が部屋に押し込まれる。

 奈々が扉を閉めて押し迫る。

「うそ! 見てたの知ってるんだから、じゃあ、わたしの胸、大きかった、小さかった?」

 透の目が、思わず奈々の胸に行く。

 視線を顔に戻すと言った。

「あのなぁ~ そんな事は、服の上からでも判る事だろ。初めて会った時から大きいって知ってるよ」

「残念はずれです。わたしの胸は普通です」

「嘘だぁ、奈々の胸は大きい方だよ」

「あっ! やっぱり見たんじゃん、わたしの胸はじかに見ないと判んないんだから」

「奈々、言ってる事が解んないんだけど、それって解釈の問題だよね、同じものを、俺は大、奈々は中って言ってるだけだよね」

「違うよ、わたしはブラで結構締め付けてるんだから、大きく見えない筈なんだから」

「分かった、解った。見たよ。けど、あれは事故だ。覗き見した訳じゃないから」

 奈々が詰め寄る。

「はい、自白取りました。それでは判決を言い渡します。有罪です」

「何? それじゃあ、罪状は?」

「え~とぉ、視姦罪?」

「視姦? それって倫理の問題で、罪じゃないよね。罪って云うなら、奈々の方で猥褻物陳列罪だよ」

「え~ なんでよ。見られたわたしが悪いの? 透くんが勝手に部屋へ入ってきたんじゃん」

「それは、奈々が悲鳴を挙げたから、しょうがなかったんだよ。だから、事故ってことで和解にしようよ」

「やだ! それじゃあ、見られたわたしが、納得できなぁい」

「いいじゃないか、減るもんじゃないんだし」

「あっ! 言った! それ全然違うから、嘘だから」

「何が違うんだよ」

「あのねぇ、透くん、女の子には、乙女値ってのがあるの」

「乙女、血?」

「それはね、愛する男に捧げるものでね、女を怠ると、どんどん減っていくものなの。それがなくなると、オバさんになっちゃうんだから」

「乙女値って事か」

「その乙女値がねぇ、今、透くんに見られて、がっつり減っちゃったんだから、わたし、お父さんにしか見せたことないんだからね」

「おまえ! 父親に見せるのかよ」

「違うわよ! 事故で偶然見られただけ」

「なんだ、それも事故じゃん」

「お父さんは子供の頃から知ってるんだから別、男には数えないの。男では透くんが初めてなんだから」

「俺も言わせてもらうけど、女の裸なんか、天女で見飽きてるんだから、俺にとってはそんなに大袈裟な事じゃないな。大きさが違うだけだ」

 奈々が恨めしい顔を向ける。

「透くんは虐めの法則って知ってる?」

「何? それ」

「わたし中学の頃、胸が大きくて虐められてたんだあ」

 透の顔が真剣な表情に変わる。

 奈々が言う。

「女からはデカ胸とか巨乳女とか陰口を叩かれ、男からはいやらしい目で見られて、告白を断ると、お高くとまってってそこでも陰口を言うの…… それがねぇ、言った本人は大して気にしてないんだけど、虐められたわたしは、すっごく気が滅入るんだから」

「ちょっと例えが違うけど、言いたい事は解った」

「じゃあ、透くん。わたしの乙女値の減り具合、解ってもらえた?」

「理解した」

「それでは、罪状を変えます。乙女値窃盗罪です。十七年間、溜めに溜めた乙女値なんだから」

「ん~ そこまで言われたら仕方ないか、解った罪を認めよう。それで、刑期は? 執行猶予はたっぷり付くんだよな」

 奈々が目を輝かせる。

「奈々ちゃんのお願いを一つ効くことぉ」

「エッチな事じゃなきゃいいぞ」

「そんなことぉ、言わないよぉ~ え~とぉ、何にしようかなぁ~」

 奈々が中指を顎に当て首を傾げる。

 奈々の顔が真剣な顔に変わる。

「時分の花って、知ってる?」

「世阿弥のか?」

「わたし、お母さんみたいに見苦しいことしたくないの、狂い咲きだっけ?」

「え~と、お母さんって、若作りでもしてるの?」

「あ、ごめん、それはどうでもいいや。わたしの時分の花って、今が盛りなんだよね~ 一番可憐な花は終わっていく一方なんだよね、そしたら違う花になっちゃうんだ」

 透が静観する。

 奈々が言う。

「ねぇ、透くん…… わたし、いつまで待てばいい」

「……」

「まさか、お婆ちゃんになるまで」

「まさか、そこまでは……」

「その間に好きな男ができたらどうする?」

「え! 他にもいるのか?」

「いないよぉ、でも、透くんみたいに、他にもいい男がいるかもしれないじゃない」

「……」

「できたら、わたし、そっちに行っちゃうかもしれないよ」

「……」

「だから、わたしがずっと待ってられるように、保険をちょうだい」

 透が見つめる。

 奈々が顔を近づける。

「キスして」

 透が顔を背ける。

 奈々が泣く。

「とおる!」

 透が目を会わせる。

 奈々が涙顔で見つめる。

「わたしが他の男に抱かれても、なんとも思わない?」

「わたしが他の男の子供を産んでも、なんとも思わない?」

「透くん、応えてよ!」

 奈々が顎を突き出す。

 そして、目を瞑った。

 透がそっと、唇を会わせる。

 直様離すと奈々が目を開いた。

 目が見開く。

「もう一回、もっと長くぅ」

 再び唇を重ねる。

 奈々の両手が透の背に回る。

 透の両手が奈々の肩を抱く。

 奈々が透を後ろのベットへ押し倒そうと力を入れる。

 透は軽々と押し返し耐える。

 奈々が横に捻ると位置が入れ替わった。

 奈々が今度は引く。

 透が引き返す。

 二人がキスをしながら相撲を取る。

 透が唇を離す。

 奈々の顔が湯だっていた。

 恍惚の目で言った。

「押し倒して」

「駄目だ」

 ゆでダコの頬が膨れる。

 透は河豚で返す。

 奈々がはにかむ。

 そのまま透の胸に顔を埋める。

 手に力が入り、きゅっと締める。

「透くん、ありがとう。これでずっと待ってられるから」

 締めが緩んだと思ったら、さっと居なくなった。

 窓から外を望むと白んでいた。

 透は睡眠を諦めた。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々は、にやつきながら床に就く。

 鈴の寝顔を見つめる。

 鈴が奈々が戻ったのを待っていた様に寝返りを打つ。

 鈴の手が奈々の胸に伸びる。

 また、胸をまさぐった。

 さっきはここでブラを取ったので、吸い付かれた。

 同じつては踏まないと外さずに、鈴の好きにさせた。

 しかし、そのお陰でキスまで行けたと考えると、鈴が縁結びの天使に見えた。

「ありがとう、菊理姫」そっと髪を撫でる。

 熱を帯びた体がまだ火照っている。

 キスの余韻が悶々と駆け巡る。

 眠れそうにない奈々は夢想した。

 ―――十年後の土夏家。

 ―――家族六人が食卓を飾る。

 ―――十五の鈴が膝に二歳の長男を抱く。

 ―――その向かいに八歳の二女と五歳の三女。

 ―――家長席に二十八の透くん。

 ―――二十七の奈々が皆に配膳する。

 ―――配膳を終えると、鈴の隣に座る。

 ―――鈴がぐずる長男を持て余す。

 ―――奈々が透くんそっくりな長男を受け取る。

 ―――長男が直ぐに泣き止み、鈴が頬を膨らます。

 ―――透くんが唄を詠む。

 いつしか奈々は眠る。

 幸せな笑が、奈々の唇を潤す。

 潤いには、三日月が輝く。

 三日月が、いつか満月になる可能性を秘めた。

 満月の瑞光が、美しい時分の花を咲かす。

 時分の花が、最高の華やかさを秘めた。

 今はまだ、少女の奈々が狂い咲く。

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