第4話 チョコバター飴後詰

「ただいま~ お母さんいる~」奈々がマンションの玄関扉を勢いよく開けて、声を張らす。

 奈々が部屋へ駆け込むと、母親はリビングに居た。 

「奈々ちゃ~ん? もっと静かに入ってきなさいよ! 真音ちゃん部屋で待ってるわよ。あんた、いくら友達だからって待たせ過ぎよぉ」椅子に座ってパソコンをいじりながら、いきなり小言を飛ばす。

「それは、後で謝っとく。はい、お土産」レジ袋をテーブルに置く。

「それより、お母さんに調べてほしい事があるの! 大至急、確認してほしいの!」母親の向いに座る。

 母親が袋の中身を見て、昨日の買い忘れの綿菓子を確認する。

「取り敢えずは、ありがとね。それで、どうしたの? 急に」

「お母さんの親戚に玉庭隆って人、いない?」奈々が体をのり出す。

「タカシさん? ああ、伯母さんの婿養子に隆さんがいたねぇ」

「その隆さんにさ~ 孫がいないかな~ ア・マ・メっていう女の人。先週、二十三才で死んじゃったんだけど」

 母親は黙って考え込んだ。

 奈々はそれをじっと待つ。

「あのね、奈々ちゃん。あなたは、お爺ちゃん、お母さんのお父さんの姉弟の話って、聞いた事ないでしょう?」

「そういえば全く聞いた事ない」

「実は、お爺ちゃんは玉庭家を飛び出しちゃったんだよね、だから、お母さんはその実家と全く付き合いが無いのよ」

「でも、隆さんって名前知ってたじゃない」

「お爺ちゃんから聞いてただけよぉ 連絡先も知らないんだから」

「そうなんだ~ じゃあ、お爺ちゃんも知らないのかなぁ」

「それは訊いてみないと、お母さんにも解らないかなぁ」

「そっかぁ~ お母さん、お願い! 訊いてみて!」母親を拝む。

「奈々ちゃん! それより、その話、どっから聞いてきたのよ」

「やっぱり、それ言わないとダメかな?」視線が泳ぐ。

「当たり前じゃない。あんたの興味本位で、はいそうですかって出来る事じゃないの」

「じゃあ、自分でお爺ちゃんに訊いてみる」

「へぇ~ 多分、お爺ちゃんも、なんでそんな事訊くの、どこでその事を聞いたのって言うよ。あんたは何て答えるのよ。それより、さっきも言ったけど、お爺ちゃん玉庭家を出てったのよ。それに触れると怒り出すかもしれないのよ。デリケートな問題なんだから、あんたが割り込んで拗(こじ)らせたら、どう責任取るのよ」

 奈々はぐうの音も出なかった。

「お母さんの再延長の話、利いてくれたら考えてあげてもいいかなぁ~ もちろん納得いく理由を聞いてからだけど」母が娘に歩み寄る。

「解ったわ。その話に乗ります」

「じゃあ、な・っ・と・く・いく理由を聞こうかな?」

「わたしも、それ知りたいなぁ」真音が奈々の後ろから現れる。

 奈々が声に振り返る。

「あ! ごめん真音。だいぶ待たせちゃって」

「それはいいわ。それより奈々はこれから理由だけ、を話すんだよね」

「そうだけど」真音へ不安の目を向ける。

「真音ちゃん、その話だと他にも何かありそうねぇ」

「ええ、そうなんです。奈々さぁ、今日私に話そうとしている事ってさぁ、絶対に親の理解と承認が必要だと思うんだよね。奈々はどう思う?」

「そう言われると……確かにそうなんだけど……お母さんに話すのは、ちょっと恥ずかしいかな……」

「なになに? それって、恋バナなの!」友達の顔をする母親。

 斯(かく)して奈々は、二人の母親の前で、透と鈴の馴れ初めから現在に至るまでの経緯を、赤裸々に語って行くのであった―――


 語りき奈々は、悄然とした表情をして母親から目を逸らした。

「一日だけの夫婦なんて、神様も酷い事するものね」母親の第一声だった。

「おばさんもそう思う?」真音が共感する。

「男と女にとって、やっぱり夫婦って特別なのよね、只、一緒にいるだけの現実だけじゃなくてさ、この社会に認められた唯一の男女って感じで、精神的にも満たされるものなのよ。この広い世界にごまんといる男女の中で、あなたを選びました、選ばれましたっていう、特別な存在、それが夫婦なの」

「凄い、やっぱり既婚者が言うと説得力が違うわ」

「だから、その伴侶を失う事って、自分が半分死んだと同等なのよね」

 遠くを見ていた視線が奈々へと移る。

 その顔は、妻の顔から母の顔に変わっていた。

「それで奈々は今後どうしたいの? その失った半分の代わりにでも成るつもりなの?」

 奈々は黙って目を逸らしたままだった。

「話を聞く限りだと、そのトオル君って、あなたの事を恋愛対象として見てないわよね。あなたが言わせた好きって、単なる好意だけだよね。それじゃあ今のあなたは、只の、家政婦だよ! 代わりになんかなれないのよ、それでもいいのね!」

 奈々が母親に顔を向けた。

 目に涙を貯め、口を噤んでいる。

「奈々、その道は辛いよ。茨の道だよ。それでもいいの?」

 奈々が頷くと、溢れた涙がこぼれ落ちた。

「お母さんはねぇ、絶対、反対だな」

 奈々が目を丸くする。

 そして、顔を歪めると……益々、涙が溢れた。

「って言ったらどうする?」

 また、目を丸くする。

 そして、今度は頬を膨らませる。

 奈々が涙声で答えた。

「わたし……もう黙って見ていられないの……だから、家出する!」

「あらぁ~ あなたそれ、もう完落ちじゃない」

 呆れ顔で娘を見る

 奈々は睨むように見返す。

「あなたは今、親よりその男を取ったのよ……」

 娘を温かい目で睨む

 奈々が敵を見る目で見返す。

 母親が、ふっと顔を綻ばす。

「そんな女の顔をしちゃって! あ~あぁ、奈々ちゃんも等々、女になったのか~ ついこの間まで子供だと思ってたのにな~ それで、その男! 手を出したら責任取ってくれるんでしょうね! どうなの奈々ちゃん!」今度は迫力のある睨み。

「多分」奈々が不安な顔で答える。

「多分じゃ駄目でしょう! そんな男なら許可しません!」

「だ、大丈夫! 透くんなら、ぜ、絶対に大丈夫だから!」

「そう、それなら、母親としては反対の処だけど、女としては認めてあげましょう」

「ありがとう! お母さん、じゃなくてお姉ちゃん」

「はい。いい答えですね~」とても母親とは思えない若い顔で笑う。

「よかったね、奈々」黙って観ていた真音が声をかける。

「うん」奈々が涙の跡を残した笑顔で応える。

「それじゃぁ、奈々ちゃんをお借りしますね、お姉ちゃん!」

 真音が奈々の手を引いて、勝手知ったる奈々の部屋へと向かう。


 奈々を押し込む真音が勢いよくドアを締めると、奈々をベットへ押し倒し座らせる。

 自分は奈々の机に向い、椅子を手繰り寄せると、椅子の背を抱えて奈々へ顔を近づける。

「ば~~~か」真音の第一声だった。

 奈々が豆鉄砲を食らった顔をする。

「奥さんを失ったばかりの男に、直ぐ告白するって、あんた、何考えてんのよ。ほんと、馬鹿じゃないの」本当に馬鹿にしている顔だった。

「何も考えられなかったの、何か勢いで」思わぬ罵倒に戸惑った顔だった。

 真音が人差し指を下唇に当て、何から話そうか考えている。

 奈々が話を続ける。

「だって、ずっと好きだったんだもん」開き直った顔に変わる。 

「けど、奈々、安心しな。それ、もうOKみたいなもんだよ」

「え? なにが?」

「この時点での保留は最高の返事だね。逆に、OKしてたらやばい男だよ!」

「透くんが?」

「それより、あんたの方がやばい女だね」

「え! なんで?」

「あんたの告白は、相手の事を考えない自己中の結果だよ。それと単なる自己満足。あんたに土夏君の女になる資格はないね、こんなに子供だったとは思わなかったよ、ほんとに子供過ぎ」

「なんか真音、今の言い方はきつ過ぎだよ~ どうしちゃったの?」

「なんか虫の居所が悪いのよ」

「透くんに嫌われたから?」

「違うわよ!」

「あ! 当たりだ!」

 真音の目が泳ぐ。

「ねえぇ、真音。あの後ねぇ、わたし透くんに話しちゃたんだ。真音は小賢しいことするけど、ちゃんと他人の気持ちを考える優しい人だよって。真音が透くんの悲しみを理解してて、わたしに教えてくれた事とか、今まで沢山助けてくれた事とか。そしたら、透くん、良い奴だなって言ってたよ」

「何て事してくれたのよ! 私はね、奈々が透君を取られる事に不安だって言うから、嫌われてやろうとしたんじゃないの」

「ふ~ん、やっぱりそうだったんだ~」

 真音が舌打ちした。

「だって、真音が嫌われるのが嫌だったんだもん」

「あんたが取らないでーって泣くからこっちは気を使ってやったってのに、本当にムカつくわ!」

「今日の真音、やっぱりなんかおかしいよ、生理?」

「うるさいよ! 私は生理なんかでイライラしたりしないわよ」

「ごめん」

「も~、私だってね、人に嫌われるのは傷つくんだからね。その覚悟で頑張ったのに、奈々が台無しにしたから怒ってるの」

「ごめん」

「ほんとに、あんたは呆れるほどバカ正直だよね。でもね、私はそんな奈々が凄く気に入ってるんだ。多分、土夏君もそこが、好きなのかもね」

「ありがとう」

 真音が一つ息を吸うと言った。

「じゃあ、ここではっきりさせとくけど、奈々、私は土夏君の事、好きじゃないから」

 凝視する真音に奈々は不自然さを感じた。そこに嘘のサインを見る。

「ありがとう」

「ありがとう?」

「うん、ありがとう、真音」

「ん~ まあいいや。それじゃあ、いい加減、作戦会議を始めましょうか」

「そういえば、なに、その作戦会議って?」

「何言ってるのよ、あんたの今後の事じゃない」

「え! 別にもういいよ、小賢しいことすると逆に、透くんに嫌われちゃうもん」

「うっ! 確かに、土夏君に関して云えば、それは言えてるかも……」

「そうよ、わたしはこれから、一生懸命尽くすだけだもん」

「この~ 女の顔しやがって」

「うふふ」

「それで、死んだ奥さんはどんな人だったの」

「え! やらないんじゃなかったの?」

「いいから答えて、私が知りたいんだから」

「凄く大人っぽくて綺麗な人、二十三歳だった。あと、わたしより胸が小さい」

「そんな事訊いてるんじゃないの、性格」

「合理的で働く女って感じかな」

「ん~ 奈々とは真逆だ。忘れるためならそっちのほうが好都合かもね」

「それより、真音にお願いがあるんだけど」

「言ってみな」

「…………え~とねぇ、今日、わたし、透くん家に泊まろうと思うんだけど……真音の所に泊まる事にしてくれない?」

「…………あんたぁ……やる気?」

「なにを?」

「一つ屋根の下で、夜中に男と女がする事っていえば、もう決まってるじゃない」

「え~と、解った! 正解は天体観測!」

「クイズじゃないんだから、あんた、解ってて言ってるでしょう?」

「ふふ、覚悟はあると言えばあるよ」

「何、そのあやふやな言い方」

「透くんは、絶対に手を出してこないよ」

「何で、そう言い切れるのさ」

「奥さんを愛してるから」

「あのね~ 奈々、男ってのはね、愛がなくてもできる生き物なのよ」

「それは、女だって同じだよ」

「奈々が言いたい事は解るけど、確率的に圧倒的に男のほうが高いと思うのよ」

「透くんは男じゃないよ。夫だよ。まだ、天女さんの夫だもん!」

「だからって―――」

「真音、透くんは、一途で、誠実で、責任感が強い人なの。天女さんを愛してるのに、愛してもいないわたしには絶対に手を出さない! 仮に、手を出したらわたしの勝ち、責任とって貰うから」

「何? それが狙いなの?」

「違うよ! 今日泊まるのは、透くんとは全く関係ないの、目的は鈴ちゃん!」

「え! 鈴ちゃん? あ! 解ったわ。幼児退行の件ね」

「それと、おねしょも。今夜一緒に寝て、どのくらい危険か確かめて観たいの」

「そっか、そういう事ね。解った、その件は引き受けたわ」

「それより、ちょっと気になる事があるのよね」

「気になる事?」

「実は、透くんの家でね、天女さんの存在を感じたのよ」

「え~~!! 何、その怪奇現象!」

「ううん、そんなんじゃないの、そんな怖い事じゃなくて、なんか、暖かく見守ってくれているような感じでね、やっぱり、透くんと鈴ちゃんを残して心残りがあるんじゃないのかな。わたしが料理している時なんか、色々教えてくれてるような気がするし、なんか、二人の事、お願いしますって気持ちが伝わってくるのよね。それで今日の親戚の件じゃない、まだ決まったわけじゃないけど、なんかお姉ちゃんに選ばれた感がすっごくしたんだ。だから、親戚で間違いはないと思うんだぁ」

「もう、なんかなんかって、結局、操られてるって事? あんたの意思はどうなの?」

「そうね~ わたしの気持ちを上手く利用された感じもしないでもないけど、わたし、縁を結んでもらった事に、凄く感謝してるの。だから、操られたなんて、これっぽっちも思ってないよ。今は一緒にいられるだけで幸せだし、うふふ!」奈々が悦に入る。

「そう、にわかには信じられないけど、内気だった奈々がこうまで積極的に動いたんだから、妄想だったとしてもやっぱり何かあるんだろうね。まあ、奈々がいいならいいんじゃない。それより、あんたのお母さん、すっごく羨ましいかな。家の母親だったら諦めなさいで終わってたよ」

 真音が続ける。

「私達って高校生じゃない、親に養って貰ってる身分じゃない。だから、私達が出来る事って親にお願いするしかないんだよね。奈々のお母さん、理解がある人で良かったじゃない。世の中には無慈悲な親はごまんと居るんだから、奈々は愛されて幸せだよ。もちろん、父親なら、絶対に許さないと思うけど」

 真音が悦に入っていた奈々に言う。

「あんた、今、人の話聞いてなかったでしょう?」

「え! 聞いてたよ?」

「まあぁいいや。それで、おばさんの例の最延長って、なんの事なの?」

「それねぇ~ 家のお母さんさぁ、今、四十なんだけど、見た目、凄く若く見えるじゃない。それでね、本気で化粧すると、二十代後半に化けるのよね」

「あ! もう、解っちゃった」

「それでねぇ、二人っきりでのお出かけの時にね、お姉ちゃんって呼ばせるの」

「あははは~」

「前にも、もう止めようよって言ったんだけど、今回も、もういい加減四十なんだからって処だったの。ほんと、いい年して子供なんだからぁ~」

「あははっ、流石奈々のお母さん」

「そんでさぁ~ そうすると、たまに声を掛けられるのよ、ナンパとかされるわけぇ」

「お~ 美人姉妹か~」

「その時にねぇ、実はこの子が私の産んだ子ですって、驚く顔を見て楽しいんでるのよ、ほんと趣味悪いよ、あのおばさん」

「うわぁ~ それ面白そう。私も見てみた~い。今度出かける時、私も連れてってよ、離れて見てるから」

「もぉ~ 真音ったら、あんたも性格悪過ぎ~ わたしは凄く迷惑なんだから」

「それより、そんな面白い事、何で今まで教えてくれなかったのさ~ 私達付き合い長いよね」

「そんなこと言える訳ないじゃない。家の恥だもん!」

「あ! 今、凄いこと思いついた! そこにさぁ 鈴ちゃん加えない。この子実は孫ですって。もっと驚くよ! 絶対だよ!」

「ダメよ! 鈴ちゃんまで」

「あ! ダメだ。鈴ちゃん連れてったら、ナンパ自体されなくなるか。ん~ それなら、私が鈴ちゃん連れて隠れてればいいんだ。二人がナンパされたら、鈴ちゃん連れて出ていこう。わおぉ~! 楽しみぃ~」

「ちょと真音! あんた悪知恵働かさせ過ぎ! 鈴ちゃんは絶対に巻き込まないからね! あんたみたいな大人になったらどうしてくれるのよ」

「あ! また、思いついたよ。奈々不思議のその三。奈々と鈴ちゃんはそっくりなのに、奈々のお母さんと鈴ちゃんは全く似ていない。奈々とお母さんは似てるのにね」

「それは、隔世遺伝とかじゃないの?」

「そうすると孫でした作戦に少し支障をきたすわね」

 真音がまた悪知恵を働かせ始めた。

 ビデオに撮ってとか、アップするとか、丸儲けとか呟く。

「奈々ちゃ~ん、ちょと来てぇ~」母親の声が部屋に漏れる。

 奈々の目に期待が浮かぶとリビングへと走る。


 少し疲れた顔をした母親が待っていた。

「隆さんに連絡が取れてね、今、隆さん、養老院に居るらしいのよ」

 母親が言葉を切って焦らす。

 奈々がねだる子供の顔をして見つめる。

「先週、孫の葬儀に行ってきたってさ。アマメさん、享年二十三才ですって」

「お母さん、ありがとう」

「いいえぇ、どういたしまして」

「それじゃあ、わたしとはどういう関係になるのかな? お爺ちゃんの兄弟の孫だから……」

「再従姉妹(はとこ)よ!」

「そうかぁ~ これで、堂々と行けるわ!」

「そうしたら、お母さんもご挨拶に伺おうかしらぁ」薄らと笑う。

「お母さんは来ないでよ」

「そうね、縁としてはちょっと遠いいし、まだ早いか」

 奈々が複雑な顔をする。

「それで、どうやってお爺いちゃんの口を割らせたの?」

「え? そんなの簡単よぉ~ お父さん、可愛い娘の言う事だもの、ほいほい聞いてくれたわよ」

「え! そんなに簡単に! じゃあ、もっと可愛い孫の私だったら?」

「そうね~ もっと聞いてくれたかな?」

「え~そんなぁ~ もしかして、要求を飲ませるために、騙したの?」

「うふふ~ 嘘よ。ちゃんと納得する理由を言って、説得したの」

「何だぁ、やっぱり、裏技があったんだぁ」

「それは、秘密! それより奈々、再延長の件、よ・ろ・し・く・ねぇ」

「解ったよ~ あ! そうだ! 今日、真音の家に泊まりに行くね」

「ふ~ん、今日ねぇ~」

「試験が近いから、勉強を教えて貰うの」

「そう、それなら仕方ないねぇ~」また、薄らと笑う。

「じゃあ、準備してくる」


 奈々が部屋へ戻ると、真音が言った。

「奈々の言ってた事、本当かもね」

 奈々が頷く。

「それじゃあ、準備するから、もうちょっと待ってて」

「はいよ~」と言って、真音は奈々の書庫から本を取り出すと、中途のページを開いた。


 奈々は洗面所に行ったり、トイレに行ったり忙しなく準備をしていた。

 奈々に今朝の喧騒と同じ場面が訪れる。

 ふと、匂いに釣られた真音が視線を奈々へ向ける。

「あんたぁ~ 何やってんのよ!」

 化粧をしている奈々に怒鳴り付ける。

「身だしなみ程度だから、大丈夫だよ」

「それでも、何で化粧するのよ」

「だって、透くん所に泊まるから」

「私ん家に来るのに、化粧した事なんかあった?」

「あっ! そうだった」

 奈々が、本日二回目のシャワーに向かった。 


「真音ちゃん、よろしくね~ 今度、奈々の勉強も見てあげてね~」

 真音が一瞬、戸惑う。

「は~い、わかりました。奈々のお姉さん」

 鞄を持って先に扉を抜ける奈々から、シャンプーの匂いが漂う。


「奈々! 私ん家はこっち」

「あ! そうだった」


 先を急ぐ奈々が、ふと、上を見る。ベランダから母が手を振っていた。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 透は大型モールの[スーパー世留(せる)]を出て奈々と別れた後、鈴を連れて帰路に発った。

 食品街を通る。[蕎麦処・和(かず)][中華料理・ナユタン][日本料理・源屋][コーヒーショップ・ドリコ]―――

 そして見つけた……天女の行き付けの店、ベージュの看板[ハチ]、案内の原紙には養蜂所直売の蜂蜜他、各種調味料、ハーブを取り扱い―――

 透が立ち停まって耽(ふけ)る。

 そして、ふと、思い出す……

「鈴。お父さん、ちょっと寄りたい所があるんだけど、いいかな?」

「うん、いいよ」

 二人が上階へ向かう。

 透が向かった先には[デコ3×9]の看板の店。デコレーションショップ・サンクでは革製品のオーダーメイドを取り扱っており、規定内の型で、各種の素材、色、装飾が選べオリジナルの鞄や財布を作成している。

 透が店内へと進むと、カウンターへ引換券を渡す。

 店員が奥から小さい箱を出し、蓋を開け、透に差し出す。

 中には、赤と黒のペアのキーホルダーがあった。

 赤い方を手に取る―――裏に、日付と[A・D]のイニシャル。

 黒い方を手に取る―――裏に、日付と[T・D]のイニシャル。

「間違いないです」と言って、戻した。

 店員が包装していると―――

 隣の若いアベックの会話が聞こえた―――

「僕のはイニシャルS・Tでお願いします」

 隣の彼女が困った顔をする。

「どうしたの?」彼が訊く

「あのね、女の子は結婚したら苗字が変わるのよ。だから、長く使えないじゃない」

「へえ~ 結婚願望あるんだ」

「なによぉ~ いけない!」

「じゃあ、僕の苗字使ってよ」

 彼女の表情が止まった。

 彼が真剣な表情で見つめる。

「……それ、プロポーズのつもり……」顔が赤い。

 彼が頷く。

「いや!」彼女が断る。

 彼の顔が曇る。

「こんな所じゃ、いや!」

 彼の顔が晴れる。

「それは、OKってこと?」

 彼女が頷く。

 突然、拍手が湧いた。

 いつの間にか近くに居た、他の客と店員の見物者達。

 鈴も釣られて拍手していた。

 透だけは拍手を贈らない。

 彼女が担当の店員に言った。

「それでは、イニシャルはK・Tでお願いします。あ! それ、今と変わらないじゃない」

 透は、鈴の手を取り店を後にする。残った手には、潰れそうに握られた箱があった。


[八王子税理士事務所][40M不動産]を抜けると、鈴が前方を指差す。

 透の目に怪獣の大きな滑り台が映る。

「鈴、さっきはお父さんの用事に付き合ってくれたから、今度は鈴の番だよぉ、行きたいかぁ」

「うん!」鈴が元気よく頷く。

 透と鈴は怪獣の大きな滑り台があるボールプールに寄った。

 透は鈴を施設内に見送ると、保護者待機席が一杯だったので、隣のフードコートの席に座った。

 鈴のはしゃぎ回る姿を見ていると天女を思い出す。

 この間までその隣で一緒にはしゃいでいた天女の姿。

 また天女への悲しみが湧き上がると、私なら後追いすると透の嘆きを知ったかぶった真音の顔が浮かぶ。見透かした小賢しい顔が。

 実は―――透は倉瀬真音を知っていた。唯、学年一位であるという事だけであったが、いつも上位にいる透に一位の名前として頭に入っていた。だから、今日会った真音の顔は名前と一致していなかったし、話した事もなかった。

 ふと視線に気付くと、二光の店員さんがトレーを持ってこちらに歩いてくる。

 休憩時間の食事の様で、胸の主任の名札は外されていた。

「こんにちは、ちょっとお話してもいい?」接客の笑顔は無い。

「どうぞ、構いませんが」

 二光の主任が向かいにトレーを置き座る。

 透の目に不味そうな牛丼が見える。

「こうゆうの食べるのは、意外?」作り笑いではない笑顔は、意外と若い。

「そうですね、高級店の従業員が食べるには、意外ですかね」

「やっぱりそう見えるんだ。でも、たまには、食べたくなるのよねぇ」

「そういうもんですか」

「そういうもんなの、それでね、訊きたい事があるんだけど、いいかな?」

「いいですよ」

「今日居た女の人、奥さんじゃなかったよね?」

「やっぱり、先週の事覚えてましたか」

「ええ、ちょっと特別だったから」

「特別?」

「ええ、奥さんから特別な注文があったから、よく覚えてたの」

「え? あの日なんか特別な事ってありましたっけ?」

「え? 奥さんから聞いてないの?」

「妻は翌日、死にましたので」

「え! そ、それはなんて言ったらいいのかしら…… ご愁傷様です」

「いえ、お気になさらず」

「それじゃあ、バースデイカードは貰った?」

「ああ、特別ってカードの事ですか、もちろん貰いました」

「仕掛けにも気付いた?」

「仕掛け?」

「あのカードはね、うちの店のオリジナルじゃなくてね、奥さんの持ち込みだったの、それには仕掛けがあって、サプライズするんだって言ってたよ」

「ん~ サプライズっても、あのメッセージの事かな? 特に仕掛けって程ではなかったと思うんだけど」

「そのカードは三つ折りだった?」

「いいえ、二つ折でした」

「じゃあ、それだね」

 透は思い詰めた顔をした。

「それで、今日の女の人は、奥さんの妹さんでしょう?」

「え! そう見えます?」

「何となく似てたし、娘さんが凄く懐いてたからね、不倫ではないとは思ったよ」

「そうですか、妹ではなく親戚です」

「やっぱりねぇ、今日は、突然話しかけてごめんね。奥さん貴方の事をベタ惚れみたいだったから、あんなに仲良さそうだったのに、違う女性を連れてきて気になっちゃって、ばったり会って、思わず話しかけちゃたのよね」

「こちらこそ、貴重な話が聞けて助かりました。多分、今日遭わなければ、仕掛けの事、分からなかったと思います」

「そうね、それじゃあ、私そろそろ食べて戻らないと、お邪魔しました」

 不味そうな牛丼を持って、主任さんは離れていった。


 透が、鈴の終了時間をイライラと待っていた時―――

 奈々からメールが届いた。

『私と天女さん、ハトコだったよ(*^^)v 

 今から、向かいます』

『まだ、ポカロにいる。ボールプールの所』と送信。

『わかった、そっちに行く』と返信。


 三人が合流すると大型モール[ポカロPポート]を後にした。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト


 


 帰宅早々に透が言った。

「奈々ごめん、宅配の受け取りと鈴の事、お願いできる」 

「いいけど、急に、どうしたの?」

「ちょと確認したい事があって、仏間に行ってる」

 透は奈々の返事を待たず、そわそわと向かった。

 奈々は怪訝な様子で透を見送る。

 隣の鈴は父の背をじっと見つめる。


 透が仏間の戸をずらし、部屋の照明を灯す。

 笑顔の天女に迎えられる。

 戸を閉めると、天女の遺影が近づく。

 後ろには白絹に包まれた遺骨箱と[継霊努信女]の位牌。

 透が持ってきた小箱を開ける。

 赤のキーホルダーを天女に渡す。

 黒のキーホルダーをその隣に置く。

 そして……バースデイカードを天女から受け取る。

 二つ折のカードの左には写真、右にメッセージ。

 折れ目の部分を指でなぞる。

 膨らんだ感覚を覚えると、それを剥がす。

 右ページが開いた。

 何が映ってるのか判らない図形の写真がある。

 下にメッセージが―――


   赤ちゃんできました

   どうしよう・・・

   とりあえず報告します

   お父さん!


 それは、透の誓いを、呆気なく、ぶちのめした。

 天女の遺影が、びっくりした?と笑う。

 透が、窒息死させる殺人犯の様に、口を抑える。 

 諸行無常の鐘が降り落ち、透を押し潰す。

 沙羅双樹の花香が、透の息を止める。

 古畳が、悲涙で腐ってゆく……




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々と鈴は無邪気に遊んでいた。

 そんな時に、スーパー世瑠からの宅配が届く。

 数回分の食事と明日の花見の料理で使う食材は結構な量だった。

 雑貨も多く在り、その中にオムツが在った。

 鈴がそれを発見すると奈々に話しかけた。

「ななちゃん、あかちゃんできたの?」ニコニコ笑って、首を傾げる。

「ふへぇ? 鈴ちゃん、な、なに言ってるの?」変な声を出す奈々。 

「だって、おむつ、かったんでしょう?」

「あ~っ、それねぇ、それ鈴ちゃんのだよ」

 鈴が口をぽっかりと開ける。

 そのまま目だけが回り始めると、叫んだ。

「ええぇ! すずあかちゃんじゃないよぉ~」

「だって、鈴ちゃん、おねしょしてるでしょ?」

「でもぉ~ おむつはやだよぉ~」口が尖っている。

「ダメよ! おねしょはオムツした方がいいんだから」

「やだぁ~! ぜったい、やだぁ!!」鈴が喚きだした。

「鈴ちゃん?」奈々が困惑する。

「ななちゃんなんてぇ~、だぁ~いっきらい!」   

 鈴が首をふんっと振ると、走って二階へ去ってしまった。

「ええぇ~! すぅずぅちゃん……」奈々がべそをかく。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 透が息を吹き返すと、ぜいぜいと喘いだ。

 充血した目を天女へ向ける。

 憔悴した透に、天女が微笑み返す。

 天女が、四角形から抜け出した。

「透ちゃん。そのカードさぁ、実は仕掛けがあるんだよ、ちょっと真ん中を開いてごらん」

「どう? びっくりした? ふふふ」

「ねぇ、どうしよっか? 透ちゃんが卒業するまで厳しいから…… 諦める?」

「それとも…… 産んじゃう……」

 そう言うと―――天女のお腹がどんどんと膨れていった。

 最後に―――風船の様に破裂した。

 透は慟哭した。


 ドーナツホールの穴にある【親】が反転して【子】に代わった。

 【母親】が【母子】となる

 穴の闇は深く、濃く、激しい。

 闇は、胎動を打って膨張する。

 外輪(そとわ)がそれを受け止める。

 どくんどくんと胎児の鼓動が伝播する。

 水面(みなも)の波紋の様に受ける外輪は、祇園精舎の玻璃(はり)の偈(げ)を揺らす。

 外輪が無くなれば、穴も消滅すると知らずに――― 


 透は必死にそれを抑えようと、嗚咽で震えた。

 それは―――共倒れの調べを奏でていた。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々は買い物の片付けが終わると、一向に戻らない透と鈴を気にしだした。

 土夏家にも慣れた今、勝手に奥へと向かう。

 然程(さほど)、進まず、廊下に透の鳴き声が漏れてきた。

 奈々がその部屋の前に立ち、躊躇う。

 一呼吸入れてから、戸を叩く。

 何も帰って来ない。

「透くん!」張りのある声を掛ける。

「来るなー! あっち行ってろ!」怒鳴り声が帰って来た。

 奈々がびくりと萎縮する。

 勝手に入れる雰囲気ではなくなった。

 奈々は佇(たたず)む。

 そっとその場を後にすると、二階へ向かう。

 直ぐに[すず]と掛けられた扉が見つかった。

 奈々が扉を押した。

 散らかった部屋の真ん中で鈴が振り向く。

「かってにはいってこないでぇ! ななちゃんなんか、あっちいって!」

 早口で捲し立てられ、奈々が扉を閉める。

 奈々はしょぼくれて、キッチンに帰る。

 帰りの廊下では、透の鳴き声は漏れてこなかった。

 奈々は、理不尽な思いを抱き、悶々とする。

 時計を見た。

   16:07

「それじゃ~ やるぞぉ~」不満を払う宣誓の一撃。

 奈々が料理の準備に入った。

 明日の花見の仕込みから、今日の晩御飯の準備まで。

 小一時間程たって準備が終わっても、一向に二人は戻って来ない。

 奈々は再度、仏間に向かった。

「透くん、入るよ」

 少し待っても返事はない。

 奈々が引き戸を開けた。

 目の前に御霊前が広がる。

 奈々は天女の死を初めて感じた。

 再従姉妹の天女の遺影に親近感を覚える。

 その遺影の前で透は項垂れていた。

 透の隣に座ると「どうしたの?」と優しく囁く。

 振り向いた透は、あの時と同じ顔をしていた。

 あの時と同じトキメキが始まった。

 今回の奈々には、弱みに付け込むから嫌だなんて躊躇いも無かった。

 慰めたい一心で、膝立ちになる。

 胸に透を抱き込もうと手を広げた時―――

「おとおさん!」鈴が割り込んで来た。

 透が飛び込んだ鈴を抱きしめる。 

 ぴったりと嵌(はま)ったように抱き合う二人。

 奈々が呆然と見つめる。 

 奈々はその場を後にした……


 奈々はこのまま家に帰ってしまおうかとダイニングに戻る。

 準備が整ったキッチンを観て、思い止まった。

 そろそろ夕食の頃合かなと思いながら、キッチンに立つ。

 後はよそるだけの段階で、二人分の配膳をする。

 再び仏間へと、足を運ぶ。

 部屋では、鈴が透の膝の上で甘えていた、

「透くん、鈴ちゃん。ご飯できたから、食べてねぇ」虚勢の微笑みを湛える。

 父娘が振り向く。

「わたし、もう帰ります。明日、朝来るから…… じゃあねぇ、鈴ちゃん、透くん」

 返事も待たず、奈々は玄関に向かった。

 奈々は茨の道を進む。

 父親の足音が迫ってくる。

 奈々が手を取られ、引っ張られる。

 父親の顔を見上げる。

「何か、怒ってる?」

 透は何にも気付いていない。

 奈々は涙目で怒った顔を向ける。

「透くんが、部屋に篭ったっきり出てこないから! わたしに来るなって怒鳴ったから! わたし、訳わかんないの!」

「あっ! そうだった、ごめん」

「そうだったって、あと、鈴ちゃんに、だーい嫌いって言われたの」

「それは、何で?」

「おねしょ用にオムツ買ったじゃない、それを履くのが絶対嫌なんだって」

「そっか、……ちょっと鈴と話してみようか」

 透に連れられ仏間に向かった。

 娘は奈々の顔を見ると、あからさまに顔を背けた。

「鈴、奈々ちゃんに、だーい嫌いって言ったんだって?」

 娘が無視を決め込む。

 透が両手を伸ばすと、娘の頬を挟み、頭を捩(ねじ)る。

 頬が潰れて口を突き出す顔は不満を訴えていた。

 透が手を離すと、直ぐにまた顔を背けた。

 透がまた、頭を捩(ねじ)る。

 潰れた顔の目は怯えていた。

 手を離した透が、優しく話しかける。

「鈴ぅ~」

「だって! ななちゃんがオムツはけっていったんだもん!」

「鈴はオムツ履くの嫌なのかな?」

「いやだぁ~」

 透が奈々の顔を見る。

 奈々が引き継ぐ。

「鈴ちゃん、あのねぇ、おねしょをする時はオムツを履いた方がいいのよ」

 娘が頬を膨らまして睨む。

 奈々も眼力を飛ばす。

「おねしょをしてね、お布団濡らせちゃうと、どんどんどんどん心配になっちゃってね、余計治らなくなるのよ。それならオムツだけ濡らせた方が、ずっといいの。その内、気が付いたらお漏らししなくなって、あ~ら不思議ってなるんだから」

「ほんとにぃ~」半信半疑の顔をする。

「ほんとだよ~ぉ、奈々ちゃんは嘘つかないよ~」

「でもぉ~ はずかしいよ~」 

「鈴ちゃんがオムツしてる事、絶対に誰にも言わないから、鈴ちゃんと奈々ちゃんの秘密」

「お父さんわぁ~」

「お父さんは他人じゃないから別でしょ」

「うぅ~うん」鈴が変な唸り声をあげる。

 奈々が見守る。

「すずぅ、あかちゃんになりたくないもん」顔がしょぼくれた。

「大丈夫! オムツ履いただけじゃ赤ちゃんにはならないから」

「だって、あさおきたら、あかちゃんになっちゃうもん」

 奈々は、今朝の寝起きの状態を自覚している事を知る。

 やるせない気持ちで続ける。

「奈々ちゃんはねぇ、鈴ちゃんが赤ちゃんになってもいいなって思ってるの、そしたら、奈々ちゃんがまた育ててあげられるからぁ」

「やだぁ~ すず、ぜったいにあかちゃんになりたくないもん! だって、あかちゃんになったら、せっかく、おかあさんが、じがかけるようにおしえてくれたのに、わすれちゃうもん」

 奈々は鈴の本音にやっと辿り着いた。その幼気(いたいけ)な思いを大きい胸で必死に受け止める。

 鈴が頑なに拒んだ真の理由を、安易に否定する事なんかできやしない。

 奈々は慈愛の瞳で鈴を見続ける。

 天女の思いが、ひしひしと伝わってくる。

 鈴の思いが、さめざめと伝わってくる。

「鈴ちゃんは、あ母さんが死んじゃって、お母さんのこと忘れちゃった?」

「ぜぇったい、わすれないもん」

「じゃあ、赤ちゃんになったら忘れちゃう?」

「うぅ~うん、……あかちゃんになっても、わすれない」

「じゃあ、大丈夫だよ、鈴ちゃん。字が書ける事も忘れないでしょう?」

「うん! わかった、わすれない」

「じゃあぁ、鈴ちゃん。今夜からオムツ履いて寝るんだよ、いい?」

 鈴が恥ずかしがりながら頷いた。

 天女の笑顔が見つめる。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 透が突然、娘を担いだ。

 そのまま、高い高いの体制になる。

 鈴がきゃっきゃと笑う。

 目線が並んだ土夏家のご先祖達が見詰める。

 唯一、新参の天女は笑顔で見上げる。

 娘を降ろすと笑顔で言った。

「鈴、奈々ちゃんとお話があるから、ちょっとだけお部屋に行ってて」

「うん、わかった」

 鈴を見送ると、奈々の前に腰を下ろす。

 奈々が思い出した様に、頬を膨らませる。  

 女子力の高い奈々がたまに見せる、子供っぽい仕草に思わず言ってしまった。

「奈々の頬を膨らませるその癖って、とっても可愛いね」

「え!」と膨らんだ頬が萎む。

「今時、そんな顔する女子高生も珍しいよな」

「あぅ!…………」頭から湯気を出してる様な真っ赤な奈々がいた。

 もっと可愛くなった奈々を堪能する。

「……しないもん、学校じゃ、絶対にしないもん……」

 奈々が羞恥に耐えきると言った。

「鈴ちゃんに、虐められたって、言い付けちゃうから」

「それは止めて、鈴に嫌われちゃう」

「透くんだって、平気で臭いこと言うじゃない」

「うっ! この話、もう止めようよ。お互いの恥ずかしい処を晒し会ってもさぁ」

「それなんかずるい~ わたしばっか恥ずかしい思いさせて、そっちから始めたんじゃなぁい」

「それは謝る、ごめん。だって、奈々が可愛かったから……」

「もういいからぁ、それより、何があったのかちゃんと説明してよ、いきなり怒鳴るようなことってなんなの?」

「そうだった」と言って、透が立ち上がる。

 バースデイカードを手に取ると、奈々の前へ戻る。

「奈々と別れた後に鈴とボールプールに行ったんだけど、そこで二光の主任さんに偶然会ってね、その人はこのカードの写真も撮ってくれた人だったんだけど、このカードが天女の持ち込みで仕掛けがしてある事を知ってて教えてくれたんだ」

 透がカードを開いて目の前に出す。

 奈々が神妙な顔になって受け取る。

「折れ目の所が捲れる様になっていたんだ。そこの、今、少し浮き上がってるだろう?」

 透が種を明かすと、奈々が恐る恐る指を掛け捲る。

 一瞬、目を細めた。

 直後、浮気を追求する妻が冤罪で失言を秘(かく)す様に口を覆う。

 奈々の視線が天女へ向く。

 奈々は、涙を流してくれた。

 憐憫の涙を一雫だけ……

 奈々の視線が透に戻る。

 透が言う。

「怒鳴ってごめん」

 奈々が首を振る。

 透が言う。

「鈴が言ったんだ。お父さん、お父さんって」

「何時もとおんなじなんだけど、さっきは違ってたんだ」

「必死にしがみついて……」

 透が言う。

「俺の高校生活は、鈴とずっと一緒だった。天女が働きに行ってくれてたから、鈴の保育園のお迎えは俺の役目だった。天女の帰りが遅い時は、晩御飯を作ったり、あ、それは、出来合いを温めるだけなんだけど、お風呂にも入れてやったり、時には寝かしつけたり、そうやって過ごしてきたんだ。でも、それは、今考えると、鈴を天女の連れ子としか思っていなかったんだろうなぁ。確かに鈴はめちゃくちゃ可愛いんだけど、それは、本当は、天女を助けたい、そのために鈴の面倒を看てきた、それが俺の、本心だったんだ」

 透が言う。

「それが今日、自分の子供がこの世にいたんだと思ったら、その時に鈴が抱きついてきてお父さんて言ってきて、重なったんだ、自分の子と鈴が。さっき、鈴を抱いてて、その時にやっと本当の娘だと思えたんだ。そうしたら、すうーと楽になって、気力が湧いてきた」

 透は一つ溜息をつく。

 奈々も溜息をついてから言う。

「透くんは鈴ちゃんのこと、赤ちゃんの頃から知ってるじゃない」

「なんでそう思う、そんな話しはしてなかったと思うけど?」

「ごめん! リビングにあった家族写真、勝手に見ちゃった」

 透が一瞬、苛つく。

「そうか、じゃあ、気付いてたのか、天女が姉だったって事」

「知ってたよ」

「そうか……」

 透が言う。

「俺が中三の頃…… 親父とお袋と兄貴が事故で死んだ」

「残ったのは、兄貴の嫁だった姉ちゃんと二歳の鈴と俺だ」

「その時専業主婦だった姉ちゃんが働きに出て、俺たちを養ってくれた」

「その状態で今に至る。あ! そうだ! 天女と奈々は再従姉妹だったっけ、それなら、天女の死因も知りたいよな?」

 奈々が頷く。

「過労による突発性動脈硬化で、くも膜下出血だって」

 奈々が目を見張る。

 透が言う。

「親父が死んだ時に遺産を相続したんだけど、税金で見事に半分無くなっちゃって、残ったのは何とか一生食べていけるだけだった。保険金も降りたんだけど、姉ちゃんは俺と鈴に残すって、頑なに消費することを拒んだんだ。それで食い扶持を稼ぐために働きに出たんだけど…… 俺が社会に出るまではがんばるって言って…… 結局、働かないで甘えていた俺が、死なせた様なもんなんだ……」

 

 もう涙で枯れた透の泉に、黄泉からの湧水が再び満たす。

 ドーナツホールから溢れた黄色い涙が、後悔の目からぽとりぽとりと滴り落ちる。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々の枯れた泉は、憐憫の湧水が満たした。

 それは母性の乳白色で、白い涙が乳のように滴り落ちる。


「透くん、ありがとう! 話してくれて」

 奈々がそう言うと、ハンカチで涙を拭った。

「わたし、今日泣いてばかり…… もう、一生分泣いちゃったみたい」

 奈々が綺麗になった顔を透に向ける。

 持っていたハンカチを広げて透の前に翳(かざ)した。

「透くん、見て見て、これ可愛いでしょう? 動物公園のキャラでふて寝レッサーパンダのプータローだよ。透くんも知ってるでしょう? 来週楽しみだねぇ~」

 透が奈々に釣られて笑顔を返す。

 奈々が笑顔で続ける。

「それじゃあ、今度はわたしの番だね。まず始めに、ちゃんと自己紹介をするね。3年A組 25番、千横場奈々です。十七才独身で、帰宅部所属です。ちなみに透くんは27番だからねぇ。家は、父が千横場(ちよこば) 應(あたる)四十三才、地方銀行勤務、母が千横場(ちよこば) 多和芽(たわめ)四十才、税理士事務所勤務、そして、わたしが、甘やかされて育ったので、子供っぽくて、甘えん坊で、わがままな、一人娘で~す。あ! それと、将来は保育士志望で~す。おわり」

 透が暖かい目で見つめた。

「奈々は凄い保母さんになりそうだね」

「え! 今は保育士って言わないとダメなんだよ」

「いや、いいんだよ。保育士はただの職業だけど、保母は母性をたっぷり育んでる聖職って感じしない? 母を保つ女性、いい響きだよ、奈々にぴったりだ。あ! ギャグいっていい。奈々は保母じゃなくてほぼほぼ保母! 似たようなタイトルのアニメがあっただろ?」透がにやりと嗤(わら)う。

 奈々はぴくりとも笑わず、冷めた目をしていた。

「わたし、そんなアニメ知らないよ」

 奈々の目は、これこそジト目だった。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 気まずくなった透は頭を掻いた。

 無視していた奈々が、無表情で言った。

「天女さんにもご挨拶させてよ」

「そうだ、まだだったね、ごめん」

 透が道を開けるように脇へどける。

 奈々は霊前に向かうと、座布団の上に正座した。

 果物の甘い匂いが漂う。

 奈々はそこからぴくりとも動かなくなった。

「透くん」小さい声で呼ぶ。

 透が隣に寄る。

「わたし、子供の時しかお葬式に出たことないから、作法がわからないよ」

 少し頬を赤く染め、困った顔をする。

「線香じゃなくて焼香だからか、俺がやってみせるよ」

 奈々が頷いて脇へ退く。 

 透が抹香を摘み押し抱くと三回繰り返す。

 奈々が見よう見まねで焼香を済ませる。

 合掌すると、長い沈黙が流れた。

 香炉から細い煙が立ち昇り、香が薫ぐわう。

 奈々の祈りはなかなか終わらなかった。

 後ろで畏まっていた透が、焦れて何度も姿勢を変える。

 足が痺れたのか、正座を崩して胡座をかく。

 透が堪らず声を掛けた。

「なぁ―――」

「ねぇ、お姉ちゃん!」

 突然の奈々のしゃべりに、透が口を噤む。

「透くんとの出会いを作ってくれて、ありがとうね」

 透は誰に話しかけているのか訝(いぶか)しむ。

「マーマレード煮を教えてくれて、ありがとうね」

 本当に天女と話してるのかと訝しむ。

「おかげで、透くんに思いを打ち明けることができました」

 奈々はどうやら自分自身に話しかけているらしいと気付く。

「お姉ちゃんが、わたしを代わりに選んだことは、全然、恨んだりなんかしていないから、むしろ、とっても嬉しかったんだから、だから、ありがとう、お姉ちゃん。残された二人の事は任されたよ。だから……もう、成仏していいよ」

 透はやっと、奈々が自分に話しかけているのだと理解した。そして、奈々は天女の関与があった事に気付いていて、その存在を認識していたのだと知る。

 透は天女を見つめた。

 奈々は天女の遺影に顔を向けながら言った。

「昨日、料理したの、わたしじゃないの、天女さんなの」透に対する投げかけだった。

「知ってたよ」透が受ける、天女を見つめながら。

「透くんも気付いてたんだぁ」天女を見ながら言う。

 二人の会話が止まる。

「ねぇ、お姉ちゃん! このキーホルダー、わたしが代わりに使ってもいい?」

 奈々が振り向く。手に二つのキーホルダーを持っていた。

 透が天女を見ると、頷いた。

 透が応えた。

「奈々がいいなら、いいよ」

「じゃあ、鍵ちょうだい」手を差し出した。

 透が奥にあった天女の鞄から使い古されたキーホルダーを取り出し、鍵を外した。

「鍵も天女が使ってた物でもいいか?」

 透が渡すと、奈々が代わりに黒のキーホルダーを寄越した。

 透は躊躇ったが、受け取った。

 奈々が鍵をホルダーの留め金に嵌めながら言った。

「あ! 足が痺れちゃった。立てな~い」

 浮かせた腰を沈め、足をずらす。

 とても艶かしい格好だった。

「わたし、今、天女さんの言葉が聞こえたんだ」

「何て言ってた!」 

「天女さん、二人の事、よろしくって」奈々が天使の微笑みで言った。

 透は艶かしい天使にドキリとした。

「うっそだよ~」

 透は天使の嘘に頬を膨らます。 

「あ! 透くんもやった!」

 透が我に返る。

「そういえば、鈴ちゃんもやるよね」

「鈴なら可愛いからいいだろ?」

「わたしも可愛いからいいじゃない」

「自分で可愛いって言うなよ」

「もしかしたら、天女さんもやってた?」

「やらなかったな、否、一度だけやったわ」

 透の脳裏に突然、場面が湧き上がった―――

 「透ちゃん! 結婚した日にしないでどうするのよぉ~」

 「駄目だよ! 調子悪いんだろう」

 「もぉ~ 意地悪ぅ~」

  天女が頬を膨らませた。

 ―――天女が死ぬ前夜の記憶だった。

「透くん! わたし、今日、泊まっていくから!」

 透が目を見開く。

 しばらく奈々を見続けた。

 奈々は小学生のお泊りとでもいった具合だ。

 透にやっと言葉が出た。

「……それ、拙いだろう」口篭っていた。

「なんでぇ? 襲うかもってこと?」

「そういう事じゃなくて、常識的に考えて、男の家に泊まるって事はだな―――」

「大丈夫! 透くんは絶対、そんな事しないから」

「なんでそう言い切れるんだよ。俺だって男だぞ!」

「透くんはそんなことしないって、信じてるもん」

「何だよ、その信頼感は」

「だって、一年生の頃からずっと見てたから判るんだもん。誠実で、責任感が強くて、いざと言う時は行動力がありそうだから。あと、女の勘?」

「奈々? 今の話の流れだと、その行動力ってのは、あったら駄目な奴じゃないのか?」

「とにかくいいのぉ。そんなことより、わたしに、そんなつもりはないんだから。泊まるのはねぇ、鈴ちゃんのためなんだよぉ」

「鈴のため?」

「鈴ちゃんの、指しゃぶりとおねしょがどんなもんか確認するため」

「まあぁ、その気持ちは解らなくはないけど―――」

「鈴ちゃんのためなんだから、異議は認めませ~ん!」

「ま~たぁ強引に出たな。それで、親には、何て説明するんだよ」

「それは、真音の所に泊まるって言ってあるから、大丈夫」

「あ、あぁ~ん」突然、奈々が艶かしい声を上げた。

 足を摩(さす)って、痺れの覚醒に耐えている。

 そして、悶えながら言った。

「透くぅ~ん、ごはんに(文字小)、しよっかぁ~」

 奈々が話は終わったとばかりに立ち上がる。

 痺れた足によろめくと、透が慌てて手を差し出し受け止める。

 繋いだ両手から奈々の温もりが伝わる。

 奈々の手は暖かかった。

 死の匂いが纏(まと)わり付く透に、奈々の体温(ぬくもり)が生の薫りを瑞香せしめる。

 繋いでいたい手は、棒になった足が悶絶の喘ぎを吐きながら去っていった。

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