第2話 チョコバナナ襲来

 土曜日

 休日なりの早起きをした奈々は、透からの返信に気付いた。

 昨夜は返信が来なかったので諦めて寝た。

 受信時間を見る。

   02:17

 こんな時間まで起きていた透に何があったのか、帰りがけに来るなと言っていたのに、一転、来ていいという心境の変化はどうした事か、奈々は気になって、気になって、気が気ではなくなった。

 何か、嬉しい予感が走り―――電話をかけた。

 透は電話に出なかった。

 電話をしてから気が付いた、凄く失礼な事をしてしまったと。

 何時に伺ったらいいですかとメールした。

 もちろん直ぐには返信はない。


 時計の針を見る。

   小さい針が7、大きい針が1の少し右

 悶々と机に向かって放心する。 


 時計の針を見る。

   小さい針が7、大きい針が2の少し右

 昨日の事を思い出す。

 赤くなったり、青くなったり、にやりと笑ったり。


 時計の針を見る。

   小さい針が7、大きい針が3の少し下

 大して時間は経過していない。

 

 唐突に立ち上がり、外出の準備を始めた。

 可愛らしい服を選んで、最後に滅多にしない化粧をした。今日だけは美しくなりたいと願いながら。

 写鏡で出来栄えを見ていると、傍と思い留った。

 ―――私は今から、何をしに行くんだと……

 ―――鈴ちゃんに会うのに、それが相応しくない様な気がした。

 ―――家事をするのに、それが相応しくない様な気がした。

 直ぐに化粧を落とし、匂いまでを消すためシャワーを浴びた。

 ジーンズにブラウスというラフな格好で家を出たときは、もういい時間になっていた。

 

 奈々は朝食の買い出しをした後、土夏家へ向かっていた。

 メールの着信が来た。

『いつでもどうぞ』との事。

『今、向かっています。後10分くらい』と送信。

『待ってます』と返信。


 家に近づくと、門の前で透が待っていた。

「おはよう、千横場さん!」

「おはよう、土夏くん!」

「鈴、まだ寝てるけど、取り敢えず上がって」そう言った透の目は泣き腫らした跡を残していた。 

 玄関に通されてすぐ、透がハンガーを手に取って上着を脱ぐように即して手を伸ばした。

 奈々がパーカーを脱ぐと、手に取ってハンガーを通し、ハンガー掛けに掛けてくれた。

 ふわりと奈々の髪からシャンプーの香りが漂う。

「うわー! 凄くいい匂いだね」透が思わずという風にさらりと言う。

「来る前に、シャワーしてきたから」奈々が恥ずかしそうに言った。

「朝入るタイプなんだ」透がまた、さらりと言う。

「違うけど、今日はたまたまなだけ」朝の葛藤など言える訳が無い。

 奈々の頬が赤くなった。

 只、恥ずかしがっていただけではなかった。

 透の態度が紳士的で、昨日とは打って変わっていたからだ。

 奈々は、迎えられている気がした。大事にされている気がした。 

 ふと、昨日は上着をどうしたかと思い直すと、勝手にひょいとぶら下げていたのを思い出した。

 奈々は透にリビングのソファーまでエスコートされた。

 奈々がテーブルに荷物を置くと言った。

「朝食の材料買ってきちゃったけど、やっぱりダメだったかな?」

 透がどういう反応をするか、試すためだった。

 奈々には、絶対に大丈夫だと確信めいた予感があった。

 しかし、不安も沸々と感じている。

 透が少し躊躇ってから言った。

「昨日はごめん。せっかく来てくれたのに、あんな事言ってごめんなさい。千横場さんさえよければ、お願いします!」そう言ってから、頭を下げた。

 奈々は今の透に、暗さが晴れて何か吹っ切れたような印象を受けた。今なら色々答えてくれそうな素直さを感じた。 

「ねぇ~ 目を真っ赤に腫らして、昨日あの後、何があったの?」

 透が俯いて押し黙った。

「もしかして、わたしが居なくなって寂しくなっちゃった?」冗談めかしているが、目には期待が篭る。

 透は確信を突かれたように驚く。

 奈々へ顔を向け、そのままじっと見つめる。

「え! 冗談で言ったのに、当たりだったの?」淡い期待が現実となって歓喜に変わる。

 透の顔が赤くなった。

 驚いた奈々の顔も徐々に赤くなった。

 二人が俯いて、沈黙が流れる。

 透から動いた。

「昨日、天女の夢を見たんだ…… 早く忘れなさいって、そんな事を言っていた気がした」

「その前に…… 千横場さんが帰った後、ぽっかり穴があいた気分に襲われて、ものすごく寂しくなって…… 天女が居なくなった事まで思い出して…… もっと寂しくなって、ずっと泣いてた」

「それから…… 千横場さんには、側に居てほしいなって思う様になって、後、本当に勝手なんだけど、鈴のためには必要な人だと思った」

「だから、千横場さんさえ良ければ、いつでも来てください!」

 透が再度、頭を下げた。 

 透は心境の変化を隠すことなく素直に伝えてきた。

 奈々に対する警戒心など全くなく、慣れ親しんだ者に対する信頼感さえ感じる。

 甘える様な赤裸々な心情は奈々の母性を激しく揺さぶった。 

 透は好きですとも愛してますとも言った訳ではなかった。

 しかし、その告白めいた言葉は奈々をときめかせるには充分だった。

 あなたが居なくなって寂しくて泣いてました―――なんて言われたら……

 側に居て欲しい、あなたが必要です―――なんて言われたら…… 

 奈々は寂しげな透の手を見詰めた。 

 赤の他人であると云う距離感が一気に吹き飛んだ。

 透の素直な言葉は、元々素直な奈々へと伝播し、今の奈々を更に素直にした。

 奈々が顔を真っ赤にして言った。

「昨日、鈴ちゃんに、初めて一目惚れしたって言ったじゃない? あれ、本当は嘘なの……」

「わたし、一年生の頃から、ずっと気になっている人がいて、その人は他の人とは目が違っていたの。誠実そうで、直向きで、嫌らしさがなくて、他の男子の下心がある目と全然違うの。その人ってのは…… 土夏くん、あなたの事!」

 言ってしまったという表情を見せると、今しかないと決意を込めた。

「昨日は土夏くんだからご飯を作ってあげたんだからね」

「誰でも作ってあげる訳じゃないからね」

「わたし、好きでもない人の料理なんか作らないからね!」

「だから、来れる時は来てあげる……」

 耳まで真っ赤にして奈々が捲(まく)し立てた。

 奈々は婉曲に好きですと言ってしまった。

 料理を作る理由を一貫して、鈴のためを通してきた。それを―――透のためと言った。

 透が奈々をじっと見つめ返す。

 その顔には―――

 昨日の暗い表情は全くない。

 昨日の憂う表情は全くない。

 ―――奈々の気持ちは伝わっただろうか。

 見つめる奈々に透が言った。

「ありがとう、千横場さん! 俺のために来てください!」透が三度目の頭を下げた。

 そこには鈴のためという言葉はなかった。

 その言葉を聞いた奈々が前かがみの姿勢を正した。

 上目遣いのその目に妖艶さが宿った。

「そういえば昨日、彼女でもない人がって言ってたじゃない?」

「言ったかな?」

「言いましたよ、確かに! それでは土夏君! ご飯を作る事になった私は、なんでしょうか!」

「……」

「何で、黙るの?」

「……」

「わたしの事、嫌いなの?」

「いや、そんな事ない」

「じゃあ、好き?」

「……」

「また黙る! 側にいて欲しいんでしょ? それなら、好きか嫌いかはっきり言って!」

「……」

「わたしは、はっきり好きって言った!」目に涙を浮かべた。

「………………好きだよ」

 奈々は、初めて口にしてもらった好意の言葉を恍惚に迎えた。

 嬉しさのあまり微笑むと、細めた目尻から涙が溢れる。

「……そ、それなら、もう彼女でいいよね?」

 透は困惑した顔をする。

「ごめん、俺、まだ天女の事が忘れられないから……無理」

 透は真摯に頭を下げた。

 奈々はやっぱりという顔をした。

 本当は解っていた―――こうなる事を。

「こっちこそ、ごめん…… 無理やり言わせちゃって」

「ごめん、今は、無理」

 憔悴の奈々が希望の目を見開く。

「……それは! 保留という事でいいのかな?」

 透は困惑の表情を返す。

「解った、友達から始めましょう!」奈々は無理やり気丈に振舞って作り笑いをした。

「千横場さん! 我儘でごめん! 自分勝手でごめん! 彼女でもないのにご飯を作りに来てなんて、俺、最低な男だよね?」透が四度目の頭を下げた。

「べ、別に、友達なんだから、気にしなくても、いいよ……」


 奥の方から鈴の鳴き声が響いた。

 透が慌てて走って消えた。

 取り残された奈々は勝手に奥に入って行くことを躊躇った。

 それは、土夏家が旧家の立派な屋敷だったからだ。

 由緒ある屋根付きの門に部屋数もそこそこ有りそうでよく判らない。

 そこはまるで神社のようで勝手な振る舞いを許さないような威厳を放っていた。

 奈々は唯一、勝手知ったるキッチンで朝食を作る事にした。

 作るといってもトーストとハムエッグとコーンスープとサラダで10分程で終わってしまった。

 まだ透と鈴は戻ってこない。

 奈々は出来る事がなくなってリビングを彷徨(うろつ)いた。

 リビングボードにひっくり返された写真立てを見つけた。

 写真立てを裏返す。

 家族写真だった。

 真ん中に赤ん坊を抱いた夫婦。

 後ろにその両親らしい夫婦。

 その脇に―――学ランを着た中学生ぐらいの男の子。

(若い夫婦の夫が透くんで、となりのショートカットの女性が奥さんかな?)

(いや、ちょっと待って! 鈴ちゃんは今、五歳でしょ)

(この赤ちゃんは鈴ちゃんじゃない?)

(よく見ると―――若い夫は透くんとは少し違う。透くんはこっちの中学生の方だ!)

(四~五年前の写真なら、やっぱり赤ちゃんが鈴ちゃんだ!)

「この人が奥さんか…… じゃあ、こっちの夫は……」思わず心の声が漏れた。

 その後へ続く奈々の予測は、口には出せなかった。


 透の足音が近づく。

 奈々は慌てて写真立てを戻すとキッチンに戻る。

 現れた透の胸には鈴がしがみついていた。

 奈々は鈴の顔を早く見たいと慌てて近づく。

 鈴が指しゃぶりをして眠っているように強くしがみついていた。

 奈々の威勢が突然止まる。

「いつから?」奈々が問い詰めるように訊く。

 透が何がという顔を返した。

 奈々が構わず鈴に視線を移す。

 透の視線を感じていると、やっと応えた。

「天女が死んでからかな、指しゃぶりを始めたのは」

「いつも泣いて起きるの?」

「たまにかな? 今日は特に酷(むご)かった」

「昨日、鈴ちゃんに何かあったの?」

「……あったかな。俺が泣いている処を見られた。あと……奈々ちゃんは、もう来ないと言った」

 奈々の顔が泣きそうになった。

「鈴ちゃん?」奈々が鈴に顔を寄せ囁いた。

 鈴がぱっと目を見開き奈々の顔を見た。

「ママ~!!」鈴が奈々に飛びついた。

 力いっぱいに奈々にしがみついて、本泣きになった。

 奈々は優しく受け止める。

 奈々はぽろぽろと泣き始めた。

 鈴は、奈々の胸でわんわん泣いている―――




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 鈴の本泣きに透は驚愕した。

 鈴はまだ五歳だから母の死を理解できていないのかと思っていた。

 鈴も涙を流して泣いていたのを知っている。しかし、こんなにも号泣した姿はなかった。

 多分、天女の死から流した涙の数は透の方が圧倒的に多いだろう。

 だから、透は驚愕した。

 ―――もしや、鈴は透の深い嘆きに我慢していたのではないか。

 ―――余りに聞き分けがいい娘に油断していたのではないか。

 ―――本当は透と変わりない深い嘆きを抱えているのではないのか?

 ―――本当は思いっ切り泣き叫びたかったんのではないのか?

 ―――何でそんな当たり前の可能性に気付いてやれないんだ!

 ―――自分の事ばかりにかまけて、何が父親だよ!

 透は心の中で胸を掻き毟った。

(娘にこんな思いをさせてごめん、天女。いや違う、そうじゃない、真っ先に目を向けるべきは、天女じゃない。こう考える時点で父親失格だ。今、目を向けなくちゃいけないのは鈴だ、ごめん、鈴。ごめん、ごめん、ごめん……) 

 自分のドーナツホールばかり見ていた父親が娘のドーナツリングにやっと気付いた。

 天女は最愛の妻であると同時に鈴の最愛の母親でもあったのだ。そんな事にも気付いてやれなかったのかと透は臍(ほぞ)を噛む。

 この時から透は天女の事で泣かなくなった。否、泣けなくなった。

 奈々は飽くまで鈴を泣かせていた。

 そして等々、鈴はまた寝てしまった。

 奈々はなかなか鈴を離さなかったが透がタオルケットを渡すと、鈴をソファーに寝かせそれを掛けた。

 序でに持ってきたタオルを奈々へ渡す。

 奈々が涙を拭うとびしゃびしゃなブラウスの胸元へ置く。 

 透が奈々の向かいに腰掛けた。

 二人共、泣き顔だった。

 二人共、朝から疲れた顔をしていた。

 しばらくそうしていた後、奈々が透に言った。

「鈴ちゃんの指しゃぶり、あれ幼児退行だよ」

「幼児退行?」

「赤ちゃん帰りのようなもの」

「そうなんだ」

「強いショックを受けると起こるらしいよ」

「よく知ってるな」

「保育士を選考しようと思って、少し勉強してるの」

「そうなんだ、千横場さんは、本当に凄いね」

「それは今いいから、それより鈴ちゃん」

「母親がいなくなったのが、相当ショックなんだろうな」

「そんなの当たり前じゃない。それからもう一つ、鈴ちゃんおねしょしてるでしょ?」

「なんで判った?」

「さっき少し臭ったから、鈴ちゃん、まだおねしょしてるの?」

「否、天女が死んでから……」

「このまま放っておくと夜尿症になっちゃうよ」

「夜尿症?」

「中学ぐらいまでおねしょをする精神性の病のこと。強いストレスがある人になるらしいの」

「ストレス?」

「鈴ちゃん、多分、ストレスをかなり貯めてるよ」

「それ、多分、俺の所為(せい)だ! ずっと塞ぎ込んでて碌(ろく)に相手もしてこなかった。逆に心配を掛けてたかもしれない」

 透が後悔の念に顔を顰(しか)める。

 それを聞いた奈々が何故か後悔した顔になる。

「それなんだけどさぁ…… 今日、鈴ちゃん、泣かしたの…… わたしのせいだよね……」奈々が俯いた。

「え! 何で?」と透が拍子抜けした顔をした後、昨日の事を思い立った。

「もう来ないでって言ったのは俺の方だよ。千横場さんは何も悪くないよ」

「ううん、それじゃないの。それもあるけど、今日のこと……」

 透には本当に心当たりがなかった。

「全然判らないよ、何の事を言ってるの?」

 奈々が懺悔を始めた。

「今日、朝押しかけたじゃない…… そのせいで、土夏くんが迎えに来なくちゃならなくなったじゃない…… 今の、鈴ちゃんは、起きた時に側に誰かいないと寂しがる状態じゃない…… それを奪ったのはわたしじゃない…… だから、泣かせたのは、わたしじゃない…… だから、ごめんなさい!」奈々が深く頭を下げた。

 透は真っ青になって呆然としていた。

 反応のない透に、訝しんだ奈々が顔を上げて覗いた。

「俺……鈴と寝てない……」透が呟く。

「え!!」奈々が目を丸くする。

「もう一人で寝られる歳だし、おねしょするから、寝かしつけるだけだった」

「それ、本気でいってるの!」

 透は唇を噛む。

「あなた、それでも父親なの! 鈴ちゃんが心配じゃないの! あんたなんか! 父親失格よ!!」奈々の顔が怒気に溢れていた。 

 透は別に驚かなかった。もう父親失格を自覚していたから……

 しかし、奈々の直言は透をさらに叩きのめした。

 この時、透は何故か婚姻届を出した時の天女の言葉を思い出した。

 ―――これで鈴はあなたの実子だね。私だけじゃなく、鈴の事もちゃんと見てよ?―――

 頷く透が、ふと視線に気付くと、鈴が立っていた。

 涙を一雫流して立っていた。

 透が鈴に飛びついた。

 鈴を抱きしめて、ぽろぽろと泣き始めた。

「すずぅ~ ごめんな………………」

 

 ドーナツホールでより深い影になっていた【妻】という文字。

 透が鈴に流した涙が、それを消し流していく。

 【妻】が消えると、ドーナツリングがすっぽりとはまる。

 真ん中に残ったのは【母親】という穴。

 透本人はまだその事に気付いていなかった。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々の怒気は透の涙にすっかり流されていた。

「すっかり冷めちゃったけど、朝御飯にするよ~」奈々の明るい声が響く。

 奈々はキッチンに戻っていて父娘を呼ぶ。

「ななちゃん、きてくれたの~」今更に気付いた鈴が奈々の胸に飛び込んでくる。

 泣ききった鈴はすっきりした顔でいつもの鈴に戻っていた。 

「鈴ちゃん、もう来ないって言ってごめんね。これからはできるだけ来るからね~」

「すずもななちゃんにあえて、うれし~い」

 抱き上げた鈴を奈々が席まで運ぶ。 

 続いて奈々が席に着く。

 透がとぼとぼと一人で席に向かう。

「いただきます」三人が唱和して食事が始まった。

 奈々と鈴は楽しそうに会話をしながら食べていた。

 たまに、透も鈴に話しかける。

 しかし、奈々と透の間に会話はない。

 そこには微妙な壁が存在していた。

 奈々はそんな二人を交互に見比べる鈴の視線に気付いた。

 さっきの言い争いを見ていた鈴はきっと喧嘩したんだと思っている。 

「土夏くん…… あのさぁ……」奈々が気まずそうに透へ声をかけた。

「なに…… 千横場さん……」透も気まずそうに応える。

 会話は進まず、沈黙が流れる。

 その原因が自分だと言わんばかりに鈴の食事が止まった。

「どうしたの鈴ちゃん。もう、お腹いっぱいになったの?」奈々が空気の流れを変えようと話題を振る。

 鈴は奈々のその質問を聞き流した。

 代わりに頓珍漢な質問を返す。

「ななちゃ~ん、すずのおなまえしってる?」可愛らしく少し首を傾げる。

「え? 鈴ちゃんでしょ?」今更何をと云う顔で答える。

「ちがうの! どなつすず」

「ああ~ そういうことね」

「じゃあ~ おとうさんは?」また首を傾げた。

「土夏透だね」

「すずは、すずってよぶのに、おとうさんはなんでどなつくんなの?」

「えっ!」鈴の意図に気付く。

「すずもどなつくんだよ、だからおかしいよ」

「鈴ちゃん、五歳なのにそんなことまで考えるんだ」

 鈴がにこにこして、そんな事の理由をしゃべる。

「おとうさんとななちゃんがもっとなかよくなってほしいから~」

 透と奈々が思わず見つめ合う。

 そして、同時に目を逸らした。

「とおるちゃんでしょ~~」鈴が迫る。

 恥ずかしがっている奈々が真っ赤な顔をして透を見つめて言った。

「鈴ちゃんの頼みなんだから断れないよね~ これは仕方ないよね~ 透くん! えへぇ」

「千横場さん?」当惑した透が応える。

「おとおさん? ちょこばさんじゃないよ、ななちゃんだよ」

 この流れは透も駄目と言えないだろう。

「え~と、奈々さん?」

「えーと奈々さんて、だれですか、その人」奈々が期待した顔で茶化す。

「奈々さん?」

「さんもいらない!」

「え~ 呼び捨てにするの!」

「早く言って!」

「奈々」

「はい!」

 奈々はしばらく顔が赤いままだった。

 鈴はにこにこと眺めている。

 透が奈々に話しかけた。 

「千横ばぁ…… 奈々さん」

 だれその人という顔を奈々が向ける。

「奈々」

「はい、なんですか? 透くん」

「名前呼びは、鈴がいるときだけって事で、どうでしょう?」

「解ったわ、透くん!」

「それじゃあ、ケーキ、今、食べようか」透がケーキを出そうと腰を浮かせた。

「あ、わたしが準備するから座ってて」

 ケーキが並べられ、もう一度いただきますをしようとする頃合で―――

 掌を前に突き出して透がそれを止めた。

「奈々に知っていて貰いたい事なんだけど、家は土御門(つちみかど)の家系で、昔は隣に土夏神社があったんだ。今はもうなくなっているんだけど、しきたりだけが今だに残ってるんだ。いただきますの唄を詠むだけなんだけど、従ってくれるかなぁ?」

「うん、神社みたいと思ってたんだけど、本当にそうだったんだ。いいよ、従います」

「それじゃ、鈴もいいかな?」

 うんと言って鈴が頷き、合掌した。

 奈々も真似る。

 透が百人一首の韻で詠い始めた。

『供物(たなつもの) 百々(もも)の木草と樹(いつき)の実 日の大神の恵み頂く』

「いただきます」透と鈴だけが言った。

「いただきます」奈々が出遅れて続いた。

「透くん、綺麗な声~! それに神聖な気分になったみたい!」ぱっと顔を綻ばし気分上々に言挙げる。

「それ、言霊っていうんだよ」透が意気揚々と薀蓄(うんちく)を垂れた。

 ケーキを食べ始めると今度は三人で和やかな団欒となった。

「何か、ケーキも美味しくなったよう」奈々が殊更に喜んでいた。

「おいし~い。ななちゃんありがと~」鈴は天使の微笑み。

「どういたしまして」奈々が溢れんばかりに微笑み返す。

「それなら、朝食は和食の方がよかった?」奈々の会話は弾む。

「そうだね、家はほとんど和食だった。一日一杯は味噌汁を飲めが家の家訓、なんでも日本人の長生きの秘訣は味噌汁なんだって」透が応える。

「覚えておくわ、今度から朝食は和食ね、和食も任せておいて」

「後、お金の事なんだけど、材料費とかは全部こっちで出すからな! 異論は聞かないから、それでいいな、奈々!」

 奈々は威厳を感じて、ゆっくり正確に深く躊躇わず頷いた。

 その脇で鈴は黙々とケーキを頬張っていた。

 鈴が食べ終わるのを見計らって奈々が訊いた。

「ごちそうさまの唄もあるの?」

 有るよと透が答えると、合掌した。

 奈々と鈴も直ぐに続く。

 透が詠う。

『この度は もの食う毎に豊穣の 神の恵みを ご馳走給ふ』

「ごちそうさまでした」今度はぴったりと三人が唱和した。

 奈々は本物の家族になった様な気がしていた。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




 奈々は時計を見た。

   10:07

「透くん、お昼ご飯どうする?」気合を入れて料理をするなら、そろそろ準備が必要な時刻だ。

「ん~ 気分転換に何処か食べに行くか?」透には料理の準備に対する意識は全くない。単に鈴を気遣っての事だろう。

「すず、かいじゅ~のすべりだいのところがいい~」鈴がすかさず乗ってきた。

 奈々は透の顔を覗(うかが)う。

「じゃあ~ 出掛けるか~」家長が決断する。

 鈴の意向を無視する事もできず、あっさり決まった。

「それじゃあ、まだ時間もあることだし、それまでに洗濯をしちゃおうか?」奈々は既に家政を仕切っていた。

 透が少し青い顔をして頷いた。

「鈴、お父さんと奈々ちゃんはお洗濯するから、一人でビデオ見ててね」

「はーい」元気よく返事をして、鈴はテレビの前に座った。

 透が鈴のお気に入りのディスクをセットして奈々の所に戻る。

 奈々を透がランドリーまでエスコートする。

 長い一階の廊下を突き抜け、突き当りを曲がるとバルコニーがあった。

 その透明な壁からは荒れ放題の広い裏庭が望めた。バルコニーの天井からは物干掛が下がっている。

「すご~く広~い、これ雨の日でも干せるじゃん!」奈々はバルコニーに感嘆する。

 バルコニーの廊下の先に扉があり、そこを開くとランドリーがあった。

 洗濯機と乾燥機に洗面台、脇の棚には数種類の洗剤、漂白剤、柔軟剤が並ぶ。

 奈々が目敏く確認していると下段の大きな洗濯籠が嫌でも目に付いた。

「二人暮らしにしては、洗濯物の量が多くない?」溢れそうな籠を見て奈々が言った。

 奈々はそれだけで、もう感付いた。

「何日、洗濯してないの? うふふ」

「してない」透はあっさり白状した。

 透の顔は先程から青いままだ。

「やっぱり、この量だもの、そうだと思った。洗濯はできるのよね?」

「できるよ」

「じゃあ、やってみて」

 透は洗濯物を白物と色物に仕分けした。

「すご~い、仕分け知ってるんだ」大げさに褒める。

 しかし、そこまでだった。

 どさりと洗濯機にいっぱいの洗濯物を入れる透の行動を見て奈々が言った。

「それダメ~!」

「なんで?」と透が振り向く。

「もしかして、透くんの洗濯できるは洗濯機の操作ができるなんじゃない?」

 うんと頷く。

「この後、洗剤を入れて自動ボタンを押すだけだったのかな?」もうからかっているだけだ。

 再度、うんと頷く。

 奈々はうんうんと頷く素直な透に嗜虐心を覚えた。

「それじゃあ、洗剤はどれを使いますか? あ、適当に選ぶのは無しだからね、ちゃんと理由もいってね」意地悪そうに、にやにやさせて訊く。

 透は躊躇いなく洗剤の一つを選んだ。

「色物には中性洗剤だから」完璧な答えだった。

「え~! 嘘ぉ~! 知ってたの? 本当に?」目を丸くして驚きを表す奈々。

 得意げな顔で奈々を見つめる透。

「本当は洗濯できたの? わたし、絶対に知らないと思ってたのに! からかってたわたしが、バカみたいじゃない! わたし只の意地悪女じゃん! さっきのだって、わざと間違えたのね! ひどい! 騙すなんてひどいじゃない!」顔を真っ赤にして恥ずかしがる奈々。

「騙してないよ、俺、最初からできるって言ったよね。奈々が勝手に勘違いしただけだよね」今度は自分の番だとにやにやする透。

「そうだった」もっと恥ずかしくなって顔の前に手を当て赤い顔を隠す奈々。

 そんな奈々へ透の気配が近づく。

 奈々は手の隙間からそっと覗いた。

 透は子供の様な顔を向けニタニタと嗤っている。

 奈々は甚振(いたぶ)られる様に縮こまった。

「うっそだよ~!」透が急に躍けた声をかける。

 奈々は咄嗟に手を払い、何が起きたのという顔で透を診た。

「俺、洗濯機の操作しかできませ~ん。洗剤のことは、買い物で何故二つ洗剤を買うのって天女に訊いた時、答えてくれたのをたまたま覚えてただけで~す」透が戯けた顔で種明かしをする。

 真相を知った奈々は―――頬を膨らませ、怒った顔を向ける。

 透の躍け顔がもっと崩れ、阿呆顔(あほずら)になった。

 奈々の睨んだ目がその阿呆顔を見た。

 透は阿呆顔のまま、やってやったぜ~とポーズをとる。

 奈々の顔がどんどんと綻んできて、くくくっと笑いを噛み殺し始める。

 堪えられなくなって、突然、アハハハ~と爆笑となった。

 奈々は腹を抱えた。

「やばい! やばい! 透くんのその顔~ 超やばいよ~」と涙を流して喜ぶ。

 しばらくして笑いが収まると、奈々がにこにこして言った。

「普段、大人っぽいクールな人が、こんな事をするとギャップが凄い事になるんだね」

「俺が中学の頃は、ずっとこんな感じだったよ。今はしないけど」

「透くんの意外な一面が見れて、ラッキーだったんだ」

「そうだな、奈々を見てたら、何故か、中学の頃に戻れたんだ」

「え! なんで! なんで!」

「奈々が意外と子供っぽい性格だからかな」

「あぅ! やっぱりばれてたんだ?」

「そりゃ~見てれば解るよ」

「恥ずかしいから言わないでね、透くんだけの秘密だからね」

「うん、言わないよ」

 透がばればれの秘密に、甘露を芳(かぐわ)ふ様に甘く微笑む。

「あ! 俺のも内緒な、もう二度とやらないけど」

「え~ 凄く面白かったのに~ 残念だな~」

 奈々が本当に残念そうに、楽玩(らくがん)を惜しむ子供の様に相好を崩す。

「それじゃあ、何で性格が変わっちゃたのか教えてよ?」一番聞きたい事を確乎(かっこ)として訊く。

「両親が死んだからかな……」透はあっさりと答える。

「そう」奈々はごめんとは言わない。縮まった透との距離がそうさせる。

 奈々は当然、両親が死んだショックと考えたのだが、奈々の勘がそれだけではないんだと騒いだ。あっさりと答えたその理由が、他に真の理由があるのではないかと思わずにはいられなかった。その事が、奈々と透の、まだまだ埋まらない距離感の存在を予感させる。

 奈々は一つ息を吸い込むと、気分一新と言った。

「は~い! かなり脱線しちゃたわね。それでは、洗濯に戻りま~す」奈々がテンション上げで宣言する。

「何故駄目だったのかから、教えてよ」透はそのテンションに乗ってこない。

「そうね、時間がなくなるから進めましょうか」奈々はつまらなそうに言う。

 奈々の洗濯講義が始まった。

「まず、透くんは洗濯機に入れ過ぎです。入れ過ぎは、汚れが落ちにくくなるのと脱水に水が余計にかかります。適量はこの2/3ぐらいがいいかな。後、そもそもいきなり洗濯物を入れてはいけません。必ずポケットの中を確認してからいれます。特に、子供には必須です」

 奈々は透が入れた洗濯物を全て取り出した。

 その中から鈴ちゃんのスカートを見つけるとポケットに手を入れた。

「ほら、やっぱりあった」とポケットティッシュを取り出した。

 女の子のキャラクター物で子供用の小さいサイズのポケットティッシュだった。

 奈々が得意げに透へ突き出す。

 透が確認する様に受け取る。

「これは、天女が買い与えた奴だ」透がぽつりと言った。

「ねぇ! もし、あのまま洗濯してたら、これ、ぐちゃぐちゃになっちゃってたよ。鈴ちゃん悲しんでたよ~ 子供の場合は必須の意味が解ったでしょう?」

「そうだね。奈々、気付いてくれてありがとう! 鈴の宝物を守ってくれて、ありがとう!」透の感謝の仕方は尋常ではない。

「そのティッシュ、そんなに大事なものだったんだ」ぞんざいに扱った事を後悔する。

「これは、特別な日のために、天女が鈴に用意して買ったんだ」

「特別な日?」

「結婚した日」

「そう」

 透はティッシュをまだ凝視していた。その日の事をじっと思い出す様に。

 奈々は口を突き出して洗濯に戻った。

 鈴のスカートと同じ柄のブレザーのポケットを確認していた。

 大きめのポケットに硬い感触を感じると、中からカードの様な物が出てきた。

 二つ折になったそれはバースデイカードだった。

 中をめくると、一枚の写真があった。

 それはレストランとかでよくある、誕生日限定サービスで作成してくれるバースデイカードだった。

 写真は、中央に透くん、両脇に奥さんと鈴ちゃん。皆んなでにこにこ笑っている。

 奈々の知らない世界が、そこにあった。

 次のページに気付き、目を通した。

 ぎっしり詰まったメッセージだった。

 そこにはこう書いてあった―――



――――――――――――――――――


 とおるちゃんへ

 18才のお誕生日おめでとう

 そして、お嫁さんにしてくれて ありがとう

 誕生日がそのまま結婚記念日になっちゃったね 

 ケーキを食べる回数が減っちゃうけど

 絶対に忘れないから まあ、いいかな

 式はやっぱり内輪だけでいいよ

 透ちゃんが働いてお金が貯まったらね

 透ちゃんが稼いだお金でお嫁さんになりたいもん

 これからも末永く鈴共々よろしくね 

 おじいちゃんとおばあちゃんになるまで

 一緒にいようね

   23才年上女房 天女より 愛してるよ(ハート)



 おとうさんへ

 すずのほんとうのおとうさんになってくれて

  ありがとう

            すずより


――――――――――――――――――



 カードを閉じた。 

「透くん!」奈々が透へ差し出す。

 透がそれ何という顔で受け取る。

 中を開くと、それが何なのか直ぐに気付き思い出した様だ。

 透が写真を見つめる。

 そして、次のページに視線が移った……

 透の目から涙がぽろぽろと溢れだした。

 透は、奈々が側にいるにも構わず、座り込んで泣き崩れた―――


 奈々は黙って洗濯を続けた。

 おねしょで濡れた鈴の洋服や汚れの酷いものを洗面台で仮洗いする。

 タオルなどの白物を適量、洗濯機に詰め込むと、弱アルカリ性洗剤、柔軟材、漂白剤を入れ、洗浄10分、脱水5分が無かったので6分を確認し、開始した。

 奈々がそっと透の隣に座る。

「透くん、後は、わたしがやるから、鈴ちゃんとこに行ってていいよ」凄く優しい声を出す。

 透が顔を上げた。奈々に泣き顔を晒す。

 奈々が思わず、どきり、とする。その切れ長で憂いた目に……

 思わず飛びついて抱きしめたくなった。

 しかし―――

 今、透の頭を占めるのは、奈々の知らない女。

 その悲しみを奈々は共有できない。

 上辺だけの慰めならできる。そんなのは嫌だ。

 落ち込んでいる弱みに付け込むのが嫌だった。

 本当に、透は奥さんの事が好きなんだと思い知った。

 愛しているのはその女だけなんだと……

 ―――奈々は必死に踏みとどまった。

 しかし、透が涙を拭った手を下に降ろした時―――奈々の左手に触れた。

 奈々の左手が透の右手を掴む……




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 透は体温(ぬくもり)を感じた。

 辿った奈々の顔は真っ赤で、俯いていた。

 初めての奈々の体温は少し冷たかった。

 体温は透を現実世界に引き戻した。

 頭に残っていた奈々の音が言葉に変換(かわ)る。

 透がぼそぼそとその応答を述べる。 

「俺、二度と鈴には泣き顔を見せないと誓ったんだ。だから、もう少しここに居させてよ」

「解ったわ」奈々の言葉が返る。

 隣に座っていた奈々が立ち上がり、逃げるように洗濯に戻った。

 透は少し落ち着いたのか奈々の洗濯を眺める。

 奈々は洗濯物を干していた。

 丁寧に伸ばして、時には日焼け防止にシャツを裏返して、ポケットを外に出して。

 透がその巧みな様子に賞賛を募らせる。

 奈々は黙々と洗濯を続ける。

 透が唐突に、むくりと立ち上がった。

 そして…… おもむろに叫ぶ。

「奈々!! 家に来てくれて、ありがとう!」

「いきなりどうしたの?」透の神妙さに怪訝な顔をする。

 透は構わず続ける。

「俺、奈々がいなかったら、ずっとこのままだったかもしれない」

「鈴がどんどんストレスを貯めて大変なことになってたかもしれない」

「料理だって、洗濯だって、簡単に考えてた! それを教えてくれた奈々に感謝してるんだ」

「もう死んだ天女にめそめそするのは、今日で終わりにする。天女の事、忘れるように努力しようと思う」

「だから、そう思わせくれた奈々に感謝している。本当にありがとう! 奈々!」

 透が今できる、精一杯の誠意を込めて奈々に感謝を送った。




ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ




「え~と取りあえずは、どういたしましてかな?」

 奈々はいきなりの直球に面食らった。

 奈々も直球で返そうと迷ったが、本音は報われないと解っているので変化球を選んだ。

「わたし、洗濯って一番好きなんだ。終わった後に綺麗になった爽快感がたまらないの。だから、逆に、洗濯をさせてくれて、ありがとう」

「そうなの? 俺、めんどくさいだけなんだけど」

「料理だって同じだよ、作った後に、美味しいって言ってくれたら、とお~ってもしあわせなんだから」

 奈々の言葉に嘘はなかった。但し、頭に好きな人が付けばの話だったが。

「だから、全然気にしなくていいよぉ」

 本音を隠そうとする余り、思ってもない言葉が飛び出す。奈々はその自分の言葉に悲しくなって涙ぐんだ。

「ありがとう、奈々」透はそんな奈々の臆面も知らず、只、感謝を送る。

「俺、もう泣き止んだから、鈴の所に行くね」と言って、透は去っていった。

 その後ろ姿を奈々はしばし見つめながら見送る。


 奈々は自分の変化球の切れに寂しさを覚えながら残りの洗濯に戻った。

 最後の仕分けをしている時、一番下に女物の下着を発見した。

 それは、奈々に会った事もない天女が確かに存在していた事実を認識させた。

 無性に抹消させたい思いを抱きながら、ブラを手に取る。

 そして奈々が呟いた…… 「勝った(*^^)v」

 しかし…… その表情に、全く嬉しさはない……




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 透は洗面所で顔を洗ってからリビングに向かった。

 鈴はまだビデオを見ていた。

「鈴~、なんにもなかったか~」

「だいじょうぶ、いまいいところだからはなしかけないで!」早口で応えてきた。

 鈴は聞き分けがいいのだが、集中している時はよくこうなる。

 透は諦めてカードとティッシュをテーブルの上に置いた。

 何故か鈴が反応して顔を向けた。

「あっ! おかあさんにかってもらったキララちゃんのティッシュだ。なくしちゃったの」

 ビデオそっちのけでティッシュを取る。

「鈴のポケットに入れっ放しだったぞ~」

「すず、ねちゃってて、おぼえてないもん」

 と云う事は、天女が忘れたという事になる。

 透は如才ない天女にしては珍しいなと思いながら、次の日の事を思えば、何かおかしかったのだろうと腑に落ちた。が、悲しくなるだけで全く合点がいかない。

「鈴、こっちのカード覚えてる?」中を開いて見せた。

「おかあさんがあとでわたしなさいってポケットにいれたんだった、たのしかったからわすれちゃった」鈴が舌先をぺこっと出す。

「このすずの所は自分で考えたのかな?」

「ううんちがうよ、おかあさんが、こうやってかきなさいっていったから」

 透は文章内容から多分そうだろうと思っていた。

 鈴の拙(つたな)い文字で書かれたその文章は……

 拙い娘の文字は、ドーナツホールに再び【妻】を浮き上がらせる事を抑えてくれた。

「おかあさん、わらってるね」鈴が写真を見てぽつりと言った。

「そうだな」透は誓いに徹して、ぐっと涙を堪える。

 鈴が透からカードを奪った。

「おとおさん。おたんじょうび、おめでとう」九日遅れの可愛い配達人がカードを差し出す。

「ありがとう、鈴」天国からの便りを受け取る。

 差し出す鈴の目に涙が浮かんできた。

 鈴が涙声で言う。

「すず、ちゃんと、おかあさんの、さいごのおねがい、できたよぉ……」

 鈴が泣きながら微笑む。

 透は、もう堪えきれなくなって鈴を抱きしめた。何とか鈴の目の前で涙を晒せまいと―――

 そして心の中で呟く……ありがとう、天女。俺もおまえの最後のお願い頑張るから、そっちに行って報告する時に、できたよって言えるように頑張るから―――

 透が鈴へ優しく囁いた。

「鈴、もう、我慢しなくていいよ…… 泣きたいだけ泣いていいよ……」

 鈴は堰を切った様に号泣し初めた。

 透がしばらく背中を摩っていると、嗚咽に変わった。

 透は震える鈴を必死に抱き続ける。自分が泣き止むまでは、決して振り向かせまいと。もう、鈴には絶対に泣き顔を見せられない、絶対に心配なんか掛けられない―――

 必死に涙を堪える透だったが、しかし、そんな透の意地など到底敵わない程、天国の差出人からのサプライズは……容易く涙を止めさせてはくれなかった。

 しばらくして洗濯が終わった本日の功労者が戻ってきた。

 泣き顔の透と奈々の目が合う。

 奈々は抱き合う父娘を見てすぐに察した様だ。

 奈々が鈴に声を掛けた。

 鈴が奈々に気が付き駆け寄って、抱きついた。

 奈々が透へあっちへ行けと首を振る。

 透は再び洗面所へ駆けて行く。

 透が戻ると奈々と鈴は普通に会話していた。

「トイレ長かったわね。お腹壊した?」奈々が芝居する。

「もう大丈夫だよ」透も乗った。

「それじゃ~ しゅっぱ~つ」相変わらずの明るい一撃。

「わ~い、しゅっぱ~つぅ」鈴が似てきた。

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