パパはバツイチ高校生 ~そして巣唯一通は群がる~
伴野是郎
第1話 継霊努(ままれいど)
~鈴の音は 天へ通りて 嘶くは 衣揺れねど 斎(いつき)かな~
三日目―――
おいで、ここまで……
もう、抱きしめられない、けど……
もう一度笑ってくれるかな…………
私の亡骸(なきがら)の前で項垂れる幼い娘をじっと見つめる。
********************
視界はぐんぐんと上へ向かって伸びて行く。
彼方へ海岸線が見えると、意識が自然とそちらへ向かい始めた。
白砂青松の海岸が近づく。その手前に学校があった。
校門に[院叡寺(いんえいじ)高等学校]の文字。そこへ上が紺、下がグレーの制服の生徒達が続々と入って行く。
今日は始業式なのだろう、校門をくぐった生徒は皆、貼り出されたクラス分け表を見つめていく。中には欣喜雀躍する者や愛別離苦する者もいるが、それぞれが初々しい表情をして自分達のクラスへと流れていった。
そんな中で、一人の女子生徒が歓声を上げた。
「やった~! 奈々、同じクラスだよ、三年A組。私は十二番目」隣の子の肩を揺すって飛び上がった。
「えー!? もう見つけたの? 早いよ、真音(まのん)」奈々は胡乱に返事を返す。
奈々はまだ自分の名前が見つけられていない様だ。
そんな奈々にも直ぐに歓喜の時が訪れる。
「本当だ。わたしもあった。二十五番目」
しかし奈々の関心はそれだけで止まらなかった。まだ3年A組を必死にたどっている。
然程かからず、その目がある一点で止まると、釘付けになった。
・・・ ・・
土夏(どなつ) 透(とおる)
・・ ・
この名を見届けるとそっと笑が増えていった。
倉瀬(くらせ)真音(まのん)が横にいる千横場(ちよこば)奈々(なな)へ不敵な笑みを向ける。
そんな二人の後ろから歓喜した男子生徒の声が響いた。
「やったぞー、僕のクラスは千横場さんだ!」
「やったぜ! 俺のクラスは祖父江(そふえ)さんだぞ!」
美人なのだろう二人が同じクラスとなって喜んでいる姿は、如何にも子供っぽく、軽薄そうだった。
奈々は真音の手を引っ張ると呆れながら教室へと向かった。
担任教師が教室へ着任すると自己紹介が始まった。
高校最後の一年に明るい展望と期待を寄せる3年A組の教室に、土夏透の姿だけが無かった。
自己紹介が終わると担任が言った。
「土夏君は家族の方がお亡くなりになったのでしばらくお休みです」
奈々が寂しげな表情を必死に隠す。
休み時間に奈々へ真音が声を掛けた。
「どうした奈々、元気ないぞ」奈々の肩をぽんと叩く。
「そんなことないけど、なんか、土夏くんがどうしたのかなって思って」気を許せる真音には警戒が緩む。
「おぉ~! 奈々はやっぱり土夏君に気があったのか~」そんな気を許す奈々を真音はからかう気満々だ。
「えっ! 違う、違う、彼は他の人と違って大人っぽい雰囲気があるから、ちょっと気になるだけだよ」両手を振って必死にアピールする。
「それ、気があるって事じゃない? 確かに、奈々は、子供っぽいって理由で片っ端から振りまくりだったもんね」付け足した事実を肯定させて、気がある事まで認めさせようという巧妙な罠を仕掛ける。
「そうなんだけどさ~」奈々は見事に引っかかった。
「お! 認めたな。そうなると、二大美人の奈々なら、二大イケメンの土夏くんとはお似合いだよね~ もう一人の馬場くんは祖父江さんとカップルだしぃ~ まあ、が・ん・ば・れ」
真音が奈々の背中を勢いよく叩くと、奈々が背筋を伸ばして反らせた。
「ちょっと! 痛いじゃない! がんばれって、わたしは美人じゃないからね! 美人は祖父江さんだけだよ」
「何? 反応するとこは、そこなのか! まあ、奈々は美人ていうより、可愛いだからね。それより、お似合いは否定しないんだ」
「それは、真音がさっきから、一緒に答えられない事を一編で色々言うから、お似合いなんかじゃ…… わたしは土夏くんに釣り合うかな?」どうやら罠には気付いていたようだ。
真音は気を使って奈々の耳元で囁く。
「子供っぽい奈々には大人っぽい土夏君がお似合いだよ」
「ありがとう」奈々が赤くなった。
真音が、そんな事は最初からお見通しだよと嗤(わら)う。
「本当に奈々は素直で可愛いんだから」と腹黒い真音、倉瀬は言う。
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
土夏透は結局、その週一度も登校してこなかった。
週末の放課後、奈々は母親から頼まれて、帰宅路に近い大型モールのスーパーで買い物をしていた。
丁度、お菓子売り場の辺りで、小さな女の子が奈々にぶつかって転んだ。
「ごめんね」と言いながら奈々がしゃがんで幼稚園児ぐらいの女の子を立たせる。
「だいじょうぶ、ごめんなさい」と幼女とは思えぬ、はきはきと利発そうな声を吐き出すと、奈々に笑顔を向けた。
奈々は刹那、その天使のような笑顔に唖然と見惚れる。
何故か親近感が湧き、意識が釘付けになっていく。
不意に現状へと意識が戻る。
「怪我してない?」と幼女の体を慌てて気遣って、怪我がないか探し始めた。
「おかぁ……」と幼女が小さい声で呟いた。
「そうだ、お母さんはどこ?」と奈々が周りを見渡す。
「死んじゃったの」と幼女が小さく応えた。
信じられない回答に奈々は「え?」と応えて唖然とした。
「おとおさん」と呼ぶ幼女がいつの間にか隣にいた男の足にしがみついていた。
振り向いた奈々が見た男は土夏透だった。
「えっ! 土夏くん?」と再び唖然とする。
「鈴、走っていっちゃ駄目じゃないか」と言いながら奈々に気が付くと、透が目を見開いた。
「あ……」透が何か呟く。
「土夏くん!」奈々が立ち上がって透と向き合う。
透が奈々の全身を見た。今更ながら奈々の制服が自分の学校の制服だと気付いた様だ。記憶を探る様に奈々を見つめる。
「千横場さん?」
「はい! 千横場奈々です。お話するのは初めてですね……」照れながら自己紹介を始めた。
「土夏透です」
「知ってます」
「そうなんだ。俺は二大美人としか知らないんだけど―――」
「それは言わないでよ!」
「そうなんだ?……ごめん」
「そういえば、私達今度、同じ3年A組になったのよ」
「そう」
「興味なさそうね、学校にはいつ来れるの?」
「わかんない」
透は終始、気怠そうに答える。
その時、足元から「おとおさん」と声がかかった。
「あ! そういえば、天使のような可愛いこの子は誰?」奈々が爛々とした目で訊く。
「俺の娘だ。鈴、ご挨拶して」透が自慢げに娘を押し出す。
「どなつすずです。ごさいです」ぺこりとお辞儀をした。
「鈴ちゃんて言うんだ~ お姉ちゃんは奈々っていうの、よろしくね」屈んで目線を合わせる。
「ななおねえちゃん?」
小首を傾げながら聞き返す可愛い姿に、奈々が身悶えする。
「ありがと~」と満面の笑顔を返し、たまらず鈴の頭を撫でた。
鈴も、えへへと笑顔で応える。
その笑顔に、奈々は何故か懐かしそうな目を向ける。
笑顔だった奈々が、突然立ち上がって透に真顔を近づけた。
「娘ってどういう事なの?」
「顔が近いよ」
奈々が恥ずかしそうに少し下がる。
「娘って?」
「俺、先週結婚したんだよ」
「ケッコン? えっ! け、けっ、結婚!! 土夏くんが?」目を丸くする。
「その連れ子」
「ツレコ? え! 連れ子! そ、そぅなんだ…… 結婚して子供までいるんだ…… そ、そういえば、鈴ちゃんさっき、お母さんが死んじゃったって、言ってたんだけど……」奈々は口篭るとそっと様子を覗う。
「俺の妻だよ」
「ご、ごめんなさい! 込み入ったこときぃちゃて」動揺から思わず顔を伏せた。
「結婚して、翌日にバツイチかな」
「バツイチ……」奈々が複雑な表情で透の顔を見上げる。
冗談っぽく言うその表情には悲哀が篭っていた。
少しの沈黙が流れる中、上目遣いに奈々が話し始めた。
「ご家族の方が亡くなったって…… 奥さんのことだったんだ……」
透は淡々と話していたが、奈々の方は衝撃を受けて黙りこくった。
結婚していた事もそうだが、それ以上に既に亡くなっている事の方が大きかった。
バツイチの意味を噛み締める様に口が噤む。離婚じゃない死別の―――
しばらくして、奈々が申し訳なさそうに話し始めた。
「……じゃあ、奥さんが亡くなってどうやって生活してるの?」
「俺が一人でやってるよ」
「料理や洗濯も?」
「ああ」
「ねえ、料理って、そのカゴの中のこと?」透の籠を指差した。
透が持つ買い物籠の中には、インスタント食品とレンジで温める冷凍食品ばかりが入っていた。
「否、少しは料理できるんだけど、今はめんどくさくて……」そっと目を逸らせた。
「鈴ちゃんにもそれで済ませるんだ」呆れた表情で透を追い詰める。
奈々の常識では、育ち盛りの子供にインスタント食品を与えるなど考えられなかった。
透にもその自覚があったのか、何も言い返さない。
「他に料理してくれる家族はいないの?」
「いない」速答だった。
「土夏くんのご両親―――」
「いない」焦答だった。
奈々の息が止まった。
透の表情に哀愁が漂う。
「…………ねえぇ、わたしがご飯作ってあげようか?」
「えっ!?」透が驚きが零れそうな目で見つめる。
奈々が恥ずかしそうに見つめ返す。
「いきなり、そんなぁ悪いよ……」透は有難いのか迷惑なのか判らない顔をした。
奈々は煮え切らないお父さんには見切りを付け、落とし易い鈴ちゃんへ顔を向けた。
「ねぇ~ 鈴ちゃん! お姉ちゃんのお料理たべたい?」
「うん! たべたい!」
「なに食べたい~」
「え~と~ ハンバーグぅ~」
「わかった~ じゃあ、お姉ちゃんとお買い物しよっか~」
「うん!」
「土夏くん! 今日はわたしが料理作るから、それ全部戻してきてね」
「鈴ちゃん、じゃあ行こっか」
奈々は父親の了解もなしに突き進んだ。
鈴の手を握り奈々は精肉コーナへと向かっていった。
二人は何の違和感もない母娘の後ろ姿を見せる。
トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト
透が空の買い物籠を持って戻ると、もう買う物の目処は立っていたようで、奈々がぽんぽんと籠へ投げ込んだ。本当に投げている訳ではなく、凄く手際がいい。
粗方終わった処で、透に振り向いた。
「土夏くんも何か食べたいものある?」
もう決定事項になっていた。
「俺もハンバーグでいいよ。他の料理も作るのは大変だろう?」
透は、今更、異議を唱えなかった。鈴を懐柔されていれば尚更だ。それ処か気まで利かせている。
「やっぱり思ってた通り土夏くんって優しんだね?」
何気なく自分の印象を押し付ける奈々。
「そのぐらい普通じゃない? 作る大変さも知ってるし」
反論しないで肯定する透。逆に、相手の望む優しさを体現する。
「大抵の男子高校生は考えてないと思うよ。知ってたら母親のお弁当をもっと大事にしてるよ。そういうのは結婚して初めて気づくとか……あ! そういえば結婚してたんだっけ」
自分の男性観を披露する奈々。結婚は単に忘れていただけの様だ。バツイチへの配慮など欠片もない。
「千横場さんって、結構、男を見る目が厳しいね」
男に厳しい奈々を知る透。こちらもバツイチを忘れたかの如く振る舞い。
「え! そうなのかな? それより、本当にいいよ。わたし大抵の料理はできるから」
ここぞと自慢する奈々。
「それ、すごいね! 千横場さんの女子力は凄いわ! 男に厳しい訳だ!」
奈々に尊敬の念を抱く透。
「だから、その女子力を発揮させてよ。何がいい?」
本物の女の余裕を感じさせる奈々。
「そう云う事なら…… 肉じゃが?」
この選択は……透は何かを狙っている。
「でた~! それ究極の嫁料理だよ! そっかぁ、肉じゃがか~ うふふ!」
もう嫁になった気の奈々。
ご機嫌な奈々は肉じゃがの素材を急いでかき集めていった。
三人は何の違和感もない家族の後ろ姿を見せる。
買い物が終わって三人がレジへ向かう。先行していた奈々が、不意に振り向いて透に言った。
「そういえば、鈴ちゃんにお菓子とか買ってあげなくていいの?」
「ああ、鈴には我が儘にならないように厳しくしているから、おねだりはさせないよ」
「え~ それ可哀想だよ、わたしが出すから今日ぐらい、いいじゃない」
「あ、それなんだけど、会計は全部俺が出すから」
「そんないいよ~ わたしから言い出した事なんだからさぁ」
「駄目だ! それだけは譲れないよ。作って貰うのはこっちなんだから」
「ん~ そうねぇ、解ったわ。じゃあ、デザートならいいよね、そっちはわたしが出すから」
「それなんだけどさぁ、鈴とこれからずっと付き合っていくのは俺なんだよ。だから、今日だけの千横場さんが我が儘を許すのは、迷惑なんだ」
奈々は壮大に目を見開いて驚愕の表情を向ける。
所詮、奈々は鈴と透とは他人なのだ。
奈々は項垂れた。「鈴ちゃんのこととなると容赦ないな~」と呟きながら。
「おとおさん! ななちゃんをいじめないで!」
鈴が奈々の前に立ち塞がり、手を広げていた。
「え! 鈴ちゃん、わたしの味方してくれるのぉ?」
奈々が鈴をひっくり返して抱きついた。
「ありがとお~ 鈴ちゃん!」
奈々が透へ顔を向けると言った。
「じゃあ、こうしましょう、今日はわたしと鈴ちゃんが出会った記念日だからケーキでも買っていきましょう。それなら、いいよね?」
「やった~」と鈴の歓声が響く中、鈴の裏切りに透は呆然と立ち尽くす。
「沈黙は肯定と取ります」と言って、奈々が鈴の手を取った。
「なかなおり」と言って、鈴が空いた方の手を父親に向けた。
「仕方ないか」と頷いて、透がにがり顔で鈴の手を掴む。
ケーキ屋での鈴は、並んだケーキにキラキラした目で目移りさせていた。
鈴には多分、値段なんか解らない筈なんだが、一番安いケーキを選んだ。
奈々がそれを察して、頬を膨らまし透を睨んだ。
透はそれを、子供を見るような目で苦笑いを返した。
鈴を真ん中に仲良く手を繋いで家路につく三人の後姿は、さながら一つの家族の様だった。
突然、「あっ!」と叫んで奈々が立ち止まった。
どうしたのと父娘が振り返る。
「自分の買い物忘れてた」と言って、急いで電話をかけだした。
母親への電話が終わって、見つめる父娘に言った。
「別に急いで欲しかった物じゃないから、全然気にしなくていいからね。鈴ちゃんのご飯の方が大切なんだからね」何か慌てて弁解めいた事を言っている。
茜色に染まった空が、奈々の顔を赤く染めた。
トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト
家に着くと、奈々は時間がないからと真っ先にキッチンへ向かった。
透も家事は少しはできるから手伝うよと言ったが、女子力を見せつけるんだからと一切の手助けを拒絶された。
自分で言う程の事はあり、奈々の手際は見事だった。
まず、あっという間に米を研ぐと炊飯器のスイッチを入れた。
次に、玉ねぎが素早くみじん切りになったと思ったら、挽肉を丸め、空気がどうの、何分寝かすだの、鈴は空気の処でパンパン叩くのを一緒になって拍手していた。
肉じゃがは実は凄く簡単なのとか言っていた。
奈々は何か色々喋りながら作っていたが、透は余り聞いていなかった。
透は、制服にエプロンを付け長い髪を後ろで束ねて颯爽と動く姿に見惚れていたのだから。
鈴は、始終「すごい、すごい」を連発し、奈々を調子ずかしていた。
小一時間もしない内に準備が全て整って、奈々が透の向いに腰掛けた。
「はい、後はご飯が炊けるのを待つだけだよ~」
「凄く手馴れてるんだな。いつも作ってるんだ」
「家は共働きだから、わたしが作ることが多いんだぁ」
「今日は大丈夫だったのか?」
「別にわたしが必ずやらなければならない訳じゃないから、大丈夫だよ」
「そうか、それなら良かった。そういえば、何で道具の場所とか判ったの? 俺、何も教えなかったけど、知っていた訳ないよね?」
「そう言われてみれば…… 何となく解った? 女の勘?」首を傾げている。
「凄すぎない、その女の勘」
「そうだ、奥さんと考え方が似てたんじゃないかな? 道具の置き方なんか、同じだったから」
無理やり取って付けた様な理由を言って、視線を逸らした奈々が鈴の方を見る。
「鈴ちゃんが寝ちゃう!」
透が顔を向けると、とろ~んとした目をして今にも眠たそう鈴がいた。
その時、ピーと炊飯器が炊き上がりの合図を送った。
「ご飯にしま~す」と奈々の妙に明るい声が一気に家の空気を和ませる。
口を開いて待っている雛に餌を運ぶ母鳥さながらに、どんどん料理が運ばれる。
復活した鈴がワクワクさせた目でそれを眺める。
この一週間、ずっと塞ぎ込んでいた透にも束の間の笑顔が戻った。
「いただきます」三人が手を合わせ、一斉に唱和した。
ハンバーグのソースは少し甘めだった。付け合せの人参も甘い味がした。ブロッコリーも甘いマヨネーズ味。これは完全に鈴に合わせた味付けだった。
「とぉってもおいし~い」鈴の胃袋は既に掴まれていた。
なかなか感想を言わない透に、奈々がしびれを切らせて訊いた。
「どう、味は?」
「美味しいよ」素っ気ない返事を返す。
「おいし~い」鈴は喜んでいた。
「そう、ありがとう」寂しげに応える。
「にんじんがおかあさんのあじがした~、ななちゃん、おかあさんみたい」
「ありがと~ 鈴ちゃん」奈々の顔が、ぱぁと明るくなって、みるみる赤くなる。
鈴がどんどん奈々に懐いてきていた。
鈴のこの言葉が止めとなった……透の顔がどす黒く変わる。
「すずも、おりょうりできるようになりた~い」
「そうね、鈴ちゃんがもっと大きくなったら教えてあげるね」
透の顔が益々黒くなっていく。
鈴と奈々の会話がどんどん弾んでいく中―――
透の顔が暗黒に歪む……
トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト
透がふと気が付くと鈴が食卓で寝ていた。
鈴を抱きかかえると、取り敢えずソファーに寝かせる。
奈々は片付けまでしてくれていた。
透がテーブルに着くと、片付けを終えた奈々が対面に座る。
奈々が寂しげに声をかける。
「土夏くん、なんで機嫌悪いの? 料理美味しくなかった?」
「さっき美味しいって言っただろう!」突然、怒鳴りつける。
「えっ! な、なんで、怒るの?」目を丸くして驚く。
「ご、ごめん、怒ってはないよ。せっかく料理してくれたのに、ごめん」自分の剣幕に退避(たじろ)ぐ。
「でも、急に機嫌が悪くなって…… やっぱり迷惑だったんだ……」悲しそうに目を伏せた。
「とんでもない。俺じゃこんな手の込んだ料理はできなかったし、今日は助かったよ、本当にありがとう」
透は自分の咄嗟の行動に反省の意を込め、頭を下げた。
謝罪が伝わったのか奈々の萎縮が溶けて表情が和らぐ。
「じゃあさ~ また作りに来てもいい?」期待を込めて言う。
「……何でここまでしてくれるんだよ? 俺たち他人だろ?」
「そうだよね、他人なんだよね。なんか初めて鈴ちゃんを見た時、自分に娘ができたらこんな感じかなって思っちゃったんだよね~ あえて言えば、鈴ちゃんに一目惚れしちゃったからかな?」
しばし話が途切れた。
「一目惚れって、初めてだけど、普通は異性にするもんだよね。五歳の女の子って、わたしおかしいよね~」
また、話が途切れて……
「鈴ちゃん寝ちゃったね」
「今日は結構はしゃいでたからな」
「ねえ、奥さんのこと、聞いてもいい?」
「鈴の母親の事か?」
「ううん、違う。土夏くんの奥さんのこと」
透は躊躇った。
奈々はじっと待つ。
「天女(あまめ)は……」と言って押し黙る。
奈々が興味津々な顔を近づける。
その顔で透の気が失せた。
「やっぱり話したくない」と押し黙る。
奈々が小さくごめんと言って謝る。
透が、ここで決意した。
「やっぱり、迷惑だからもう作りに来ないでくれ! 彼女でもないんだし!」
透の宣告に、奈々が驚愕の表情になる。
そのまま顔を伏せ俯いてしまった。
「そうだよね。やっぱり変だよね」と泣きそうな声で呟く。
奈々の膝に置かれた手が強く握られている。
その時―――周りに良い薫りが漂った。
透が匂いを嗅ぎ始める。
「どうしたの急に? 何か臭うの?」奈々が怪訝な顔を向ける。
「何か懐かしい匂いがするんだ」
透の鼻が奈々に辿りついた。
「わたし香水なんか付けてないよ」
「いや、そういう匂いじゃなくて、愛する人の匂い?」
「え? わたし愛する人の匂いがするんだ!」ぱっと顔が綻ぶ。
「いやそういう意味じゃなくて……」
「土夏くんて結構臭い台詞を普通に言うんだね。わたし、今、口説かれたのかと思ったよ?」期待した顔を近づける。
「ごめん、口説こうなんて全く思ってない」
奈々の顔が急転し、怒った顔になる。
「なにそれ! なんにも匂いなんかしてないじゃない! その臭い芝居、意味わかんない!」
「俺も…… 意味わかんない」
「奥さんの事を興味本位で訊こうとしたわたしも悪かったけど、そんな風にからかわなくたっていいじゃない!」
奈々が涙目になっていた。
奈々がその目で透を見つめる。
その目に、決意が浮かぶ。
「土夏くん、アドレス交換しよ! それぐらいいいでしょ、彼女じゃなくても!」
必死に振り絞った勇気には嫌味がくっ付いていた。
透は無意識にスマホを取り出す。
奈々と透がアドレス交換をした。
「わたし遅くなると親が心配するから帰る」慌ててエプロンを脱ぎ、透に渡した。
今更ながら妻のエプロンを着けていた事に気付くと、透がエプロンをひったくるように受け取る。
さよならと涙声を吐き捨て、奈々が堪らず玄関を飛び出した。
玄関の扉が閉まる音で鈴が飛び起きた。
上半身だけ起こした鈴は、少し寝呆け気味だった。
「ななちゃんはぁ?」
「もう帰ったよ」
「またきてくれるかな~」
「ななちゃんはもう来ないよ」
「なんで~!」
「奈々ちゃんはお母さんじゃないからだよ。鈴のお母さんは天女だけだよ」
天女を思い出した娘は泣きそうな顔になった。
「おのね、おとおさん…… きょうかいじゅ~のすべりだいのおみせにいきたいってのね……」
「そうだな、いつもはイナゲヤなのに珍しいなと思ってたよ」
「おかあさんが、きょうはかいじゅ~のすべるだいのところにいきなさいって、いったような、きがしたの」
「え!」娘の顔を凝視する。
「それでね、ななちゃんがみえたときにね、おかあさんがね、『あたらしいおかあさんだよ』っていったの、すずのせなかをおしたの、だから、ころんじゃったの」
透の刻が停まった。
今日の出来事が走馬灯の様に浮かんでくる。
―――鈴が突然、怪獣のボールプールに行きたいと言った事。
―――渋る俺に、滅多にしない駄々をこねた事。
―――スーパーに着くと、お菓子が欲しいと珍しくねだった事。
―――そして……聞き分けのいい鈴が、突然、走り出した事。
瞳が揺れ始めるとおもむろに立ち上がった。
目を凝らして部屋を一瞥しながら彷徨(さまよ)う。
「天女! 居るのか~! 俺たちを見てるのかぁ~!」両手を強く握り叫んだ。
耳を澄まして彷徨う。
「居るなら、俺にも声を聞かせてくれよ~!」
しかし、静寂が透に伸し掛かるのみ。
そして、ふと、懐かしい匂いの正体が甦る。
透が走り出して、勢いよく玄関の扉を開けた。
通りに飛び出し、奈々の後姿を探す。
……奈々の姿はもうなかった。
透の足が膝から崩れる。
透は蹲(うずくま)った。
「あ……ま…………めぇ………………」嗚咽を漏らし、慟哭する。
透は動かない。
「おとお……さん」
気が付くと後ろに居た。
忘れ形見を強く抱きしめると滝のように涙が溢れだした。
天女が死んで七日目の事だった。
トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト
鈴を寝かしつけると、透は子供部屋をそっと抜け出した。
先程まで奈々の居たダイニングに戻ると、喪失感が透を襲った。
この家に、一週間ぶりに訪れた団欒は、それをもたらした奈々と共に消え去った。
今なら、奈々を連れてきたのは天女だと考えられる。
鈴が嘘を言ってるとは思えない。やはり、奈々を連れてきたのは天女だ。
それなら、愛の巣に他人を簡単に迎え入れた不思議も理解できた。
千横場さんとは、今日初めて話したって感じが全然しなかった。
なんとなく、初めて会った天女に似ていた気がする。
だからか、ずけずけと入ってくる奈々に断る気持ちは起こらなかった。
奈々が天女のエプロンを着けていた。今考えると信じられない事だ。
鈴がお母さんみたいと言った時に透は恐怖を感じた。
透は怖かったのだ。奈々が怖かったのだ。
天女への愛が消えていきそうで、天女からもらったあの日の体温(ぬくもり)も忘れてしまいそうで。もう二度と味わえない天女の体温(ぬくもり)。
天女を忘れそうになる可能性を危ぶんだから、このままだったら死んだ天女の事を忘れていってしまうと恐怖を感じたから、奈々を拒絶した。
鈴に料理を教えると言った時、天女の代わりにでもなるつもりかと反発を感じたから、奈々を拒絶した。
その結果が……
より大きな喪失感となって、透を苛(さいな)ませる。
透の心にぽっかり空いた ――― ドーナツホール。
その穴を埋めたのは ――― チョコバナナ。
チョコバナナが無くなって、ドーナツホールはより深い闇に変わる。
透はいつしか、仏間へと来ていた。
透は天女の骨壷を抱いて、また泣いた。
今は冷たくなった体に嘗(かつ)ての体温(ぬくもり)を求めるように……
そして、もう二度とその体温(ぬくもり)の匂いは嗅ぐわない。
うたた寝した透は、天女の夢をみた。
早く、忘れてね……
鈴の事お願いね……
天女は髪がどんどん伸びて、奈々とそっくりな姉ちゃんの時の姿に変わった。
そして、姉ちゃんは、父さんと母さんと兄貴の所へ消えていった。
喉の渇きを覚えて、冷蔵庫を開けた。
奈々の買ったケーキがあった。
スマホのメールに着信がある。
千横場奈々からだった。
千横場奈々にメールを送った。
『ケーキを忘れてたね。どうぞ食べに来てください。
料理旨かった。きつい事言ってゴメンm(._.)m』
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
泣きながら走って帰った奈々は、その顔を見せまいと自分の部屋へ駆け込んだ。
ベットに体を投げ出し、今日の自分の行動を振り返る。
急に夢から覚めた様で、恥ずかしい事ばかりだった。
気になっていた男子の家に入った。否、ずっと好きだった土夏くんの家にあがった。
好きだった土夏くんに御飯まで作った。
告白もできなかったのに、何て大胆な事をしでかした事か……
これでは、まるで、押しかけ女房同然だ。
「わたし…… どうしちゃったんだろう……」
何か、自分ではない何かに、突き動かされていた様な気がする。
家に入った瞬間から感じていた不思議な何かは、キッチンに入った時から顕著だった。
―――米を研ごうと思ったら無洗米だった。
―――まさかの圧力鍋があったので肉じゃがはあっという間に作れた。
―――それは合理性を追求した、働く女のキッチンという感じがした。
奈々とは正反対だった。
それなのに、それなのに……
体は勝手に動いた。
極めつけは、鈴ちゃんが喜んだ人参の味付けの時だった―――蜂蜜煮を作る筈だったのに、できたのは……マーマレード煮だった!
奈々はマーマレード煮など作ったことは無かった。
確かにあそこには何かが居た。
例えるなら……姉の様な存在だろうか。
しかも、全然嫌な感じはしない、それどころか、恍惚感を伴う幸せさえ感じた。
なんでだろうと考え続けると、天使の笑顔が思い浮かぶ。
「鈴ちゃんだ! わたしを突き動かしたのは、鈴ちゃんだ!」
そして、自分の素直な気持ちに気付く。もっと鈴ちゃんの近くで恍惚感に浸りたい。
奈々は膨らんだ母性に押し潰される様に決意した。
鈴ちゃんの事を考えると勇気が湧いて行動を起こす事ができた。
土夏透にメールを送った。
『明日は洗濯に伺いたいです。洗濯はダメって言わなかったもん(*^^)v
ダメかな(;_;)』
********************
七日目―――
それは私の抜け殻…… どうして、そんなに、きつく、抱きしめてるの?
もう、消してよ、消えさせてよ…… そう、願っているのに……
あなたの傷跡が、私にしがみつく。
早く、忘れてね……
鈴のことお願いね……
私の心残りが、あなたの背中に、ぎゅっとしがみつく。
私の髪が伸びて、あなたの姉になる。
あなたの声が、少しずつ、遠ざかる。
私は、夜に、少しずつ、溶けていく。
―――
消え行く記憶は愛した証と忘れたくない幸せの軌跡
信じることはあなたの胸の中に託した残像
止まった時はもう動かない砂の器
欠けた団欒は鼎(かなえ)の営み
望みは鈴の音の響
あなたは動かない私を見た 嘘だろ嘘だろと泣き叫ぶだけ
あなたは自分の部屋を荒す 嫌だよ嫌だよと泣き叫ぶだけ
あなたは部屋の壁紙を殴る 何でだ何でだと泣き叫ぶだけ
やっぱり私のこと 忘れないで……
ごめんね すず・・・………………
サクラサクコレ・マ・・テ・・・・・・
―――土夏天女は消えた。
そして―――継霊努信女となった。
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