春にだけ見る
作楽シン
第1話
彼のことを、スプリング・エフェメラルと呼びはじめたのは誰だっただろうか。
雑誌の講評か何かで、彼の作風を指して書かれていた気がする。そして彼の活動時期をかけあわせているのだろう。
夏の風物詩として語られる歌手がいるように、彼は春にしか絵を発表しない。
完全に絵だけで生計をたてることは難しいから、イラストカットのような仕事は時々するけれど、個展を開いて、きちんとキャンパスに向かって描いた作品を発表するのは、決まって春のことだ。
春に咲き、夏に葉をつけると、あとはずっと地下にもぐっている草花のように息をひそめている。
「起きてる?」
彼は古くて味のある家屋に住んでいて、わたしはこの家が好きだった。
日曜日の昼過ぎ、スーパーで買った食材を手に彼の家に行くと、のっそりとした人が奥から姿を見せた。
いつも通り、寝ぐせでくしゃくしゃの髪をしている。とっても背が高いけれど、猫背を丸めて歩く。よれよれのシャツを着て、よれよれのジーンズをはいている。
スプリング・エフェメラル。「春の妖精」という言葉からイメージするような、優しげな少年とは違って、彼はただの生活力のない大人だ。
しかも彼は絵を描く以外のことは、まったく出来ない。やっておいてと頼んだこともすぐ忘れてしまうし、そそっかしくて、すぐ何かをひっくり返したり、壊したり、つまづいたりしてしまう。
放っておくとご飯もまともに食べていないし、眠るのを忘れて製作していることもある。
だから絵を売るためには、わたしが個展のお願いをしたり宣伝をしたり、要するにマネージャーのようなことをしなければならない。わたしは会社員で、自分の仕事があるのだけど。
しがない事務員なおかげで、残業があまりなく、なんとか仕事の後や土日をつかって駆けまわっている。
彼は頭を更にくしゃくしゃとかきまわして、にこりと笑った。
「お帰り」
本当はお帰りじゃないし、わたしは街に自分の家があるのだけど、彼は気にしていない。やれやれと笑いながら、わたしは食材をテーブルに置く。
「あとで何か作るね。お昼ご飯食べてないでしょ?」
「うん、咲乃が来ると思ってたから」
親に頼りきりの子供みたいで、困った大人だ。
冷蔵庫に買って来たものをしまいこみ、わたしは彼のアトリエに向かった。
アトリエは、居間の隣、縁側の続いた部屋だった。気持のいい風が通り、ささやかな庭が見渡せる。
わたしは日当りのいい縁側と、この暖かな庭が大好きだ。
庭の手入れもわたしの仕事。遺された花や木々を枯らさないようにするのは、大変だけれど、大切な作業だった。
日の光は、部屋の中までは入ってこない。この家の中で絵を描くには最適の場所だった。
アトリエは散らかっていて、たくさんの色であふれていた。机に散らかる画材。真っ白なキャンバスがあり、その横に描きかけの絵もある。
彼は幼いころに両親が離婚し、祖父母の住むこの家にやって来た。
わたしの実家は隣りで、わたしはよくお菓子をもらったり果物をもらったりして老夫婦になついていいた。
この家にしょっちゅう出入りしていたから、自然と彼とも親しくなった。彼は幼いころから無口で、家に籠もっていることが多かったけれど、一緒にいると居心地が良かった。
身勝手な大人の都合に振り回されながらも、同時に、彼は大人の慈しみの手で守られて、のびのびと育てられた。
昔から、気がついたら、彼はいつも絵を描いていた気がする。
彼の才をおばあさんが愛し、おじいさんが認め、大切に守ってきたのをわたしは知っている。本当は、彼のマネージャー仕事は、おじいさんがしてきたことだ。
わたしは彼の描く絵が好きだ。
不思議だった。彼が色を持つと、それがみんな意味を持ち、形を持った。
目の前にあるものを描いても、実物よりも絵の方がいいもののように思えた。より鮮やかに、時にはしめやかに。まるで魔法のようだった。
作品と作者は別物と言うけれど、制作風景や手順や、タッチには少しでも彼と言う人がにじみ出る気がする。
画家としての彼はいつも花の絵しか描かない。
暗闇の中に咲く一輪の花。その陰影のコントラストがとても好きだ。
春の空の下で咲き乱れるたくさんの花。あふれる幸せや喜びが感じられて好きだ。
そして夜の公園に咲く、桜の花明り。そこに宿る深い悲しみや痛みが、彼の人柄をあらわしているようで、好きだった。春は花のお祭りで、はじまりの季節で、お別れの季節だ。
おばあさんは彼が中学生の時に亡くなってしまったけれど、おじいさんと彼とでずっとこの家で生活していた。
おじいさんは、彼が成人式を迎えて数ヵ月後に亡くなった。癌だったと思うけれど、詳しいことは知らない。ただ、大切な孫の晴れ姿を見ることができて、おじいさんはとても幸せだったはずだと思う。
おじいさんがいなくなって、わたしは必然のようにおじいさんのマネージャー仕事を継いだ。
見た目の通り、彼に生活力がないのを知っていたし、わたしもまた彼の絵が好きだったから。
彼が絵を描き続けるのはおじいさんの夢で、わたしの願いだった。
わたしはアトリエの、でたらめに置かれた物たちの間を避けて歩く。
部屋の奥に飾られていた絵の前に立った。この家に来ると、いつもこの絵を見ずにいられない。特に春のこの季節は。
「この絵は、売らないでね」
彼は、ひょろりと高い背を丸めるようにして、わたしの隣に立った。
「咲乃が売れと言っても売らないよ」
夜の公園に咲く、桜の花明りの絵。
その中に、三つの人影が描かれている。間に子供を挟んで、手をつないで立つふたりの大人。
地面に影を落とすひと組の親子のようで、本当は、おじいさんとおばあさんと彼の姿。
夜空の悲哀の紺と、明るい桜の包み込むような対比、そこに込められた悲しみと、にじみ出る優しさに、慈しみに、見ているとたまらなくなる。
彼の絵には、やわらかな作風の中に、いつも静かに、たくさんの思いが力いっぱい込められている。だからひきつけられる。こんなにも心の奥に入り込んで、胸を苦しくさせる。
多くの人が求めてやまず、そして簡単には得られずに苦しんでいるような、そういった深い気持ちにあふれている。
汚れたものもきれいなものも包みこんで、一つにして、優しく見ている、そういった目線を感じる。
ぼんやりしているようで、それが彼なのだ。
「
「ねえ、咲乃」
絵に見入っているわたしに、彼はさりげなく言った。
「……うん」
「咲乃は、いつここに越してくるのかな」
唐突な言葉に、わたしは彼を見た。わたしは街に住む一人暮らしのしがない会社員で、実家はこの家の隣だ。彼は大切な幼なじみで、そして大好きな画家で。
そして。
古い家屋に、風が流れ込んでくる。
彼の後ろで、荒れ放題の庭に咲いた花がゆれる。
おじいさんが生前、大切に手入れしていた桜の花が揺れ、花びらが部屋に舞い込んでくる。彼の画材やキャンバスに降り注ぐ。桜の絵を撫でて、はらりと落ちた。
そして風はふわりと彼の前髪を揺らす。彼はただ微笑んでわたしを見ている。
彼は誰よりも大切で、大好きで、ただずっと側にいたい人。
――何の前触れもなく「いつ越してくるの」なんて。
わたしは笑ってしまう。彼はきっと本当に、ただそう思っている。
なんてさりげなくて、なんて優しくて、少しの裏もなくて、なんてずるい誘い文句だろう。
「うん、とりあえず、来週かな」
おじいさんの七回忌だ。
その頃には、もう葉桜だろうか。
終わり
春にだけ見る 作楽シン @mmsakura
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