#3 お見舞い

 野菜を適当な大きさに切って、油を敷いた鍋に入れて炒めていく。焼き色がついたところで切った鶏肉を放り込んで、さらに炒める。鶏肉に十分火が通ったところで、あらかじめ分量を量ってボウルに入れておいた水を流し込み、蓋をする。キッチンタイマーをセットして、およそ十五分ほど、弱火で煮込み続ける。

 梅子のために、『歪んだ果実』でカレーを作ったことが、遠い昔のことのように思えてくる。実際には、一か月くらいしか経っていないのに。

 ニンジンを使わない隠し味。香味野菜の有無は大きな違いだと雪宮さんは言ってくれたけれど、本当にそんなに大きな差があるのか、今でも少し疑問に思っている。そりゃあ、醤油を大さじ一変えるだけで気づくような梅子には大きな差だろうけど、それにしても……。

 本当に味を変えたのは、ニンジンじゃなくて、わたしが作ったかどうかなんじゃないかとか、そんなことを思ってしまう。姉の僻目、なのだろうけど。もしそうだったら、どんなに幸福か分からない。こうして毎日作る料理が。弟や妹の心に大きなものを残しているのなら。

 時間通り煮込んだら蓋を取り、一度火を消してからルーを溶かす。ルーは小麦粉が主成分なので、加熱すると溶けるよりも固まると聞いたことがある。ルーの箱にも火を消してから溶かすように書いてあるから、その通りにしていた。

「ただいま!」

 佳朗が、玄関から元気よく飛び込んでくる。

「おかえり」

「今日のご飯、カレー?」

「そうだよ」

「作るの早くない?」

「…………そうだねえ」

 壁にかかっている時計を見る。まだ三時を過ぎたところだ。

「ねえ、このテーブルに置いてあるの何?」

 佳朗が興味を持ったのか聞いてくる。ダイニングテーブルにはミシンといくらかの布が並べられている。本題はそっちじゃなくて、椅子の背もたれへ適当にかけておいた衣装の方なのだけど。

「一週間後にうちの中学、文化祭だから。その準備」

「へえ」

「佳朗、ちょっと」

 これからわたしは、用事があって出なければならないのだ。そのためにこれからのことを佳朗に言いつけておかなければならない。

「カレーはあと五分煮込んだら完成だから、キッチンタイマーが鳴ったら火を止めてね。ミシンは大家さんの借り物だから、わたしの代わりに返しておいて。たぶん佳朗じゃ重いから、波介が帰ってきたらそう伝えて」

「姉ちゃんがすればいいじゃん」

「わたしはちょっと用事があって、しばらく留守にするから。帰りも遅くなると思うけど、今日はお母さんが早く帰ってくるからね」

「え、お母さんが?」

「うん」

 嬉しそうに佳朗ははしゃいだ。佳朗はわたしよりもお母さんに懐いている。まあ、今のお母さんの連れ子なんだから当然だけど。

 波介は、どうなんだろう。今のお母さんとは距離を取っているみたいだけど、もう少し仲良くしてもいいのに。

 出発の準備をする。制服が学校から早退してきてからも着たままだったから、着替えようかと思ったけれど、そのままにすることにした。目的を考えたら、正装の方が良さそうだ。

 いつも使っている通学鞄から、重くならないよう教科書などは出して、代わりに財布をきちんと入れてから家を出た。

 わたしが向かうのは、岡崎市民病院。

 そこに、大灘くんは入院している。

 意識不明の重体、だそうだ。

 あの後、大灘くんが倒れているのを見つけた狼滝くんはさすがに探偵生徒会だけあって、迅速に行動をとった。持っていたスマホで救急車を呼んで、隣の生徒指導室にいた尾長先生を連れて来て事情を話した。そして救急車が来るまで、大灘くんの出血を抑えるためにあらゆる手を尽くした。と言っても、首筋にカッターが突き刺さった状態ではさすがにできることも少なく、傷口を直接圧迫するくらいが関の山だったけど。

 救急車には尾長先生が同伴したけれど、わたしたちには緘口令が敷かれた。事情もまだ分からない段階から、大灘くんが刺されて倒れたことなど伝えても学校中がパニックになるだけだと言って。

 救急車にどう差配したらそうなるのかよく分からないけれど、車はサイレンを鳴らしながらも密かに学校の裏門に停車した。大灘くんを運ぶのも人目を避けた。たぶん、生徒の多くは「なんか救急車のサイレンが近くで聞こえるな」くらいにしか思わなかっただろう。

 その証拠に、大灘くんが今朝の出席確認でただ病欠ということにされても、誰も何も言わなかった。救急車と大灘くんが、繋がっていないのだ。そんな状況だから、まさか学校で人一人が死にかけたとは誰も思っていないかのごとく、日常は粛々と、いつも通りの騒がしさで進行した。

 それでもわたしは集中できなくて、約束の衣装一着、学校ではなく家で作ることにした。こういうとき、サボり魔はさっさと早退しても何も言われないから便利だ。明日になったら、届けることにしよう。

 大灘くんが市民病院に運ばれたと知ったのは、誰から聞いたというわけではない。救急隊員が会話の中で市民病院に連れて行くと話しているのを聞いたから、行くことにした。別に、そこまでの仲だったわけではないけれど、知らない仲ではないわけで、見舞いに行くのは当然のことのように思われたからだ。

 市民病院へはバスを乗り継いでいく。途中、適当なスーパーの花屋に寄って、お見舞いに都合の良さそうな花を見繕った。

 病院、というところにはあまり行ったことがない。わたしも家族も、あまり大きな病気はしないタイプだ。唯一の例外が藤人の母親である家子さんだったけれど、彼女も入院や通院はしなかった。だからすぐに亡くなってしまったというのもあるのだろうけど。

 そんなわけだから、お見舞いの作法というのもピンとこない。市民病院の入口まで来て、だからはたと立ち止まってしまう。大灘くんの病室を知らないのも思い出した。

 えーっと、受付で聞けばいいんだっけ?

「おい、日辻」

 入口で戸惑っていると、横合いから声を掛けられる。そちらの方を見ると、狼滝くんがこちらに向かって歩み寄って来ていた。

「狼滝くん……。狼滝くんもお見舞い?」

「違う」

 じっと、彼はわたしを見据えた。その視線が、今までになく厳しいものだったのはすぐに気づく。

「お前を見張らせてたんだよ。他の生徒会の連中にな。そしたら自宅から動いたんで、ここなんじゃないかと思って来たんだ」

「見張る?」

 予想外のことに驚く。

「どうして狼滝くんが…………探偵生徒会がわたしのことを?」

「分からないのか? いや、分からないか……」

 狼滝くんは溜息を吐き、刈り込んだ黒髪を掻きむしった。

「なあ、大灘の件だが、お前はどう思う?」

「どう思うって…………」

「自殺か、事故か、他殺かって話だよ」

 それは…………。

 大灘くんの件を、解決するべき事件として見たとき、どう思うかということか。

「まさか自然現象で大灘がああなったわけじゃねえだろ。大灘の首にカッターが突き刺さった原因が何なのかって話をしてるんだ。可能性は大きく分けて三つある」

 自殺か、事故か、他殺か。

「自殺。大灘が自分で自分の首に突き刺した。これが一番シンプルだな。すべての疑問を解決できる」

 疑問…………? 大灘くんの負傷に、何か疑問に残ることがあっただろうか。

「事故。なにせ文化祭シーズンだ。カッターを使った作業はどこでも行われる。大灘が誤って作業中に自分の首を突き刺したって可能性も、考えられなくはない」

 そう口にしながらも、狼滝くんはその可能性だけはないと考えているように感じられた。わたしも、さすがに事故ということはないだろうと思った。

「殺人。一番ゆゆしき問題だ。大灘が誰かに刺殺されかけたってことだ。その誰かってのは、状況を見ても学校の中にいる人間しかいないわけだからな」

 殺人。状況の重みが、一気に増す。

 ぐっと、抱えていた花束を強く握る。

「生徒会では、二つの意見に分かれている。だが見解が一致しているのは、少なくとも事故ではないということだ。事故を想定するのなら、大灘が何らかの工作中だったという状況を想定するしかない。だが、あの多目的教室に工作の跡は何ら見受けられなかった」

 そう。あの多目的教室は、ただ机が整然と並んでいるだけだった。もし大灘くんが何らかの工作をしていたというのなら、その材料なり道具なりが並べられていないとおかしい。ちょうど、わたしがさっきまで作業していたテーブルがそうなっていたように。

「じゃあ、意見が二つに分かれているっていうのは…………」

「自殺か殺人、つまり他殺だな。そのどちらかしかありえない」

「狼滝くんは、どう思ってるの?」

「それを確認する目的もあって、お前を探してたんだがな」

 確認?

「大灘のことについてだ。お前が大灘を見たのは、尾長先生から進路指導を受けた後だな?」

「…………そう、だけど」

「その前はどうだ? 進路指導室に入る前、教室にいる大灘を見たか?」

「それは……分からない。ちゃんと見てなかったし」

「そうか……。まあたぶん、いなかったんだろうがな」

「え?」

「今日一日、多目的教室とその廊下を掃除していた連中から聞き込んでいたんだ。もちろん連中は大灘がどうしたってことはまったく知らない。だからそれとなくだな」

 そんな聞き込みを…………。

「まず、教室掃除の連中は大灘を見ていない。少し早い時間に、ゴミ捨てに全員で多目的教室から出て行って、すぐ自分たちの教室に戻ったからその後のことはまるで分からない」

「じゃあ、多目的教室掃除の人たちが出て行った後で大灘くんが教室に入った可能性があるってこと?」

「そうはいかない。多目的教室掃除の連中が消えても、廊下掃除の連中は残っていたからだ。で、そいつらが掃除を終えたのが、お前と尾長先生が階段を上って現れる直前。つまり、廊下掃除の連中とお前たちが入れ違っている。当然、この隙を縫って大灘が誰の目にも触れず多目的教室に入ることはできない。そしてお前と尾長先生が進路指導室に入る。つまり、お前が進路指導室に入る前には、大灘が多目的教室に滑り込む余地はなかった」

「じゃあ、その前は? 掃除の始まる前に入り込んで、ひそかに隠れていたとか」

「そんなことする意味もよく分からねえけどな……。でもその可能性はない。教室は一見隠れられそうな場所が多いが、掃除の際には机を後ろに下げるんだ。机の下にいればすぐ分かる。教卓の下も同じだ。そして掃除道具入れは、当たり前だが掃除するために開くからな。隠れられる場所はないと言っていい」

 それもそうか……。と考えて思いつく。

「じゃあわたしたちが進路指導室に入った後で大灘くんが多目的教室に入ったんでしょ?」

「それもありえない」

「…………なんで?」

「お前も知ってると思うが、あの多目的教室の扉は前後どちらも立て付けが悪い。開けようとすると悪魔の歯ぎしりみたいな音がするだろ。その音は進路指導室にいても聞こえるんだよ。で、確認なんだがお前はそんな音を進路指導室にいる間に聞いたか?」

「………………いや」

 何せ進路指導室で話していた内容が内容なので、周囲の状況にそこまで気を配っていたわけではないけれど、さすがにあんな音を聞いていたらすぐにそれと分かるはずだ。

 扉が開いていた、というのもありえない。わたしは多目的教室の扉が閉まっているのを見ている。それに開けるのに大きな音がするというのなら閉めるときだって大きな音がするに決まっているわけで。わたしが進路指導室を出て多目的教室を見たときには閉まっていたわけだから、あの地獄の合唱曲みたいな音を聞いていないということは、わたしが進路指導室に入ってから出るまでの間、扉は操作されていないということだ。

「聞いてない」

「だろうな。尾長先生も、お前と一緒にいる間は聞いてないって言っていたから、これは確実だ」

 すると…………どうなる?

 掃除が始まる前に隠れることは不可能。掃除の人たちと入れ替わるように滑り込むことも不可能。そしてわたしたちが進路指導室にいる間に入るのも不可能。

 じゃあ、いつ大灘くんは多目的教室に入ったんだろう?

「少しずつ、ことの厄介さが見えてきただろ?」

 わたしの顔色を窺って、察するようなことを狼滝くんが言う。

「大灘のやつが多目的教室に入ったタイミング。これが今回の件では重要になる。自殺だろうと殺人だろうとな。で、俺がどっちだと思っているかと聞いたな? 俺は…………殺人だと思っている」

「殺人…………」

「いい加減、気づいたらどうだ?」

 そんなことを、狼滝くんに言われる。

 気づく? 何を?

「大灘が多目的教室に入ったタイミングは、これはもうお前と同時以外にありえないだろう。消去法で考えれば、そこしかタイミングがない」

「え、でも…………」

 当然、わたしは大灘くんと一緒に多目的教室になんて入っていない……。でも、狼滝くんの目線から考えれば、それしかないのか?

 わたしが嘘を吐いていると、考えるしか。

「多目的教室に入ったら大灘が倒れていた。それがお前の主張だったな? だが、それが嘘だったら? お前が大灘と一緒に多目的教室に入ったらどうだ? 辻褄が合うんだよ。尾長先生は、お前が出た後で多目的教室の扉が開かれる音を聞いている。それはお前が入った音だったんだろうが、同時に大灘が入った音だった」

 もし掃除の時間からわたしたちが進路指導室に入るまでの間に大灘くんが実は侵入していたと仮定すると、無理が生じる。その状況を設定するためには、掃除をしていたクラスメイトからわたしたちまで、大勢が大灘くんを見ていてしかし見ていないと狼滝くんに嘘を吐いているという状況を想定するしかなくなる。

 でも、わたしが進路指導室を出たタイミングなら? わたしが進路指導室を出る。多目的教室に入る。それまで一度も、大灘くんを見ていない。このわたしの主張を嘘と仮定すればどうだ? 嘘を吐くのは、わたしだけでいい。わたしだけが嘘を吐いていると仮定すれば、問題が解決する。たった一人なら、嘘を吐いていると仮定することに何も無理は生じない。

 そして、わたしの証言が嘘で、わたしと大灘くんが同時に多目的教室に入ったのが真実だとするのなら……。

「お前はあらかじめ大灘を多目的教室の前に呼び出しておく。進路指導が終わった後で、一緒に多目的教室に入る。そこで不意を突いて、カッターで大灘の首を刺す。それが可能なんだよ、お前には」

 狼滝くんは、わたしを疑っている。

「争った形跡がないのは、完全に不意を打ったからだ。返り血は、助け起こすときに付いたことにすればいい。本当は死ぬまで放置して、しばらくしてから尾長先生を呼ぶ算段だったんだろう。クラスメイトの死体を見れば、どうしていいか分からずパニックから呆然とするのも仕方ないように見えるからな」

 わたしは、でも………………。

 殺していない。

「これで分かっただろ。俺の視点から見れば、お前は殺人犯だ。少なくともその容疑が濃厚だ。だから見張らせていたし、お前がここに来るんじゃないかと警戒して、待っていたんだ」

 ぱっと、狼滝くんは手早く花束をわたしから奪い取る。

「もちろん、俺だってお前のことを疑いたくはない。だが、容疑が強い以上は下手に被害者と接触させられない。この花束は俺が渡しておくから、お前はもう帰れ」

「そんな…………」

「いいな? お前が変な動きを見せれば、余計に疑うしかなくなるんだよ」

 それだけ言って、狼滝くんはわたしの持ってきた花束を持って、病院の中に消えて行った。

 ただ、わたしはその背中を見送るしかなかった。

 ………………わたしが、殺人犯?

 そう疑われている?

 馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すことは、難しかった。

 わたしは誰も殺していない。それは、わたし自身がよく分かっている。でも、それはわたししか分からないことで。

 狼滝くんは、探偵生徒会は、疑っている。少なくとも、わたし以外の誰かが有力な容疑者として現れるか、自殺としての証拠が揃うまでは疑い続けるだろう。

 唯一の希望は、大灘くんがまだ生きているということで。もし彼が目を覚ませば、すぐにわたしが犯人じゃないことは分かる。だから、それまで…………。

 それまで、どうすればいい?

 たぶん、文化祭までは大丈夫だ。文化祭を、探偵生徒会が中止したがるとは思えない。もし大灘くんの件が公表されて、校内に殺人犯がいるかもしれないとなったら中止は必至だ。だから少なくとも、文化祭が終わるまでの一週間は隠し続けるはず。

 その後は? 隠し続けることはできない。たぶん、そこで公になる。公になれば、わたしが疑われていることも、明らかになって…………。

 それで、どうなる?

 わたしが疑われるのはいい。別にそれはどうでも構わない。でも、もしわたしが疑われたことの影響が、弟や妹たちに関わりはじめたら……。

 波介や佳朗は学校でいじめられるかもしれない。集団で無視とかされたらどうしよう。代乃は……まだ保育園だけど分からない。白い目で見られるかもしれない。

 特に影響が大きいのは梅子だ。家族だってことはすぐには分からないけど、下種なマスコミにほじくられたらさすがにそれと知られてしまう。そしたら、梅子の子役としての生活を破壊するなんてこともある。

 藤人もそうだ。せっかく、探偵になることを少し前向きに検討してくれているのに、姉のわたしが殺人犯として疑われたりして、そのせいで探偵としての道が閉ざされたらどうしよう。

 わたしは、どうしたら…………。

「君、大丈夫か?」

 頭上から、声がした。ついに頭がおかしくなって神様の声でも聞こえるようになったのかと思いきや、そんなことはさすがになかった。うんうん唸って考えている内に、わたしが頭を抱えてその場に屈んでいただけだ。

 顔を上げる。そこには、どことなく老成した雰囲気の、それでも高校生ぐらいに見える男性が立っていた。

 この人は…………。

「雪宮さん!」

「ああ、君か」

 間違いない。一か月くらい前に、一緒にカレーを作った喫茶店『歪んだ果実』のマスター代理。雪宮紫郎さんに違いなかった。

「雪宮さん、どうしてこんなところに?」

「いや、どうしてと言われても……」

 雪宮さんは病院の方を振り返る。秋物らしい、薄手ながら裾の長いコートが翻る。

「マスターが盲腸炎をやってしまったんだ。それのお見舞いで」

「そうだったんですか……」

「それより君は? 頭を抱えていたようだったけど……」

「えっと、その……」

 どう説明したものか悩む。「学校でクラスメイトが殺されかけてその容疑者にされているんです!」と正直に話しても混乱させるだけだし……。そもそも、この人は無関係なんだから巻き込んだら…………。

 そこまで考えて、はたと思いつく。

「そうだっ! 雪宮さんって、猫目石さんと知り合いですよね?」

「え? いや、知り合いってほどでは……」

「連絡先とか知りませんか? 大変なことになってて…………」

 大灘くんを見張れと言ったのは猫目石さんだ。こういう事態になったとき、話をするべきはまず猫目石さんだろうとようやく思いついた。『高校生探偵』の彼ならば、わたしの嫌疑も晴らしてくれるだろうし、今この場に置いて一番の適任だ。

「まず一旦落ち着こうか。ここは病院の前だ。出入りの人の邪魔になるし」

「そ、そうでした……」

 そういうわけで、病院内のカフェテリアに河岸を移した。病院に入ること自体、狼滝くんから警戒されそうだけど、相手が雪宮さんならとりあえず見逃してくれるだろうという算段もあった。

「で、何があったんだ?」

「実は…………」

 結局、事情を説明するためにはすべてを話すしかなかった。二週間くらい前に猫目石さんと出会ったこと、そこで大灘くんを見張れと言われたこと。その大灘くんが首を刺されて死にかけたことを順を追って説明する。

 雪宮さんはカップの中のコーヒーを不味そうに啜りながら、わたしの話を聞いていた。さすが喫茶店の従業員だけあって、適当な店のコーヒーは我慢ならないとみえる。わたしは喉が潤えばいいから味はまったく気にならないけど。

「そんなことが…………」

 中学校での殺人未遂、と聞いてさすがに雪宮さんは顔をしかめた。できるだけ詳細には説明しないよう心掛けたけれど、カッターで首を刺されたという説明で、もしかしたら血の海の光景を想像してしまったのかもしれない。もしあの場に雪宮さんがいたら間違いなく卒倒していただろう。

「確かに、それは厄介な問題だ。探偵の出動を願うのも分かる。だけど残念ながら、俺は猫目石の連絡先は知らない」

「そうですか……」

「だが……」

 と、付け足す。

「どうも猫目石の動きは怪しいな」

「怪しい、ですか?」

「ああ。まるで今回の事件が起きるのを予期していたみたいじゃないか?」

 そう、だろうか。何かを予期していたかのような素振りはあったけれど。

「大灘くんを見張れというのは、彼が何かを仕出かすという意味ではなく、何かの被害にあうだろうと予測していたという意味だったんだろう。まったく、あいつらしい迂遠さだ」

「でも、だったらどうしましょうか。結局、猫目石さんに事態を知らせる方法はないですし……」

「別にいいんじゃないか?」

 軽く雪宮さんは流す。

「あいつが大灘くんに起こる事態を予期していたのなら、本来は君に連絡先を渡すなりするはずだ。それをしていないということは、あいつはもう周辺で動いているかもしれない」

「動いている、ですか?」

「動いていて、いずれ君とも再会する。そう踏んだから、連絡先を教える必要もないと思ったんだろう。あいつは変に見透かしたようなことをする癖がある」

 ただの説明不足なんだがな、と毒づいた。やっぱり雪宮さんはあまり、猫目石さんのことを良くは思っていないんじゃないだろうか。

「ともかく、そんなことだから君が気にすることじゃない。あいつは勝手に動いている。だが、そうだな……もしどうしても君が気になるなら、情報収集をしておくという手はある」

「情報収集……」

「『高校生探偵』とはいえ外部の人間であるあいつには集めにくい情報を集めておく。やつと再会したらそれを伝えればいい。もし君がいち早い解決を望むなら、それくらいしてもいいだろう」

「そう、ですね」

 でも問題は、それがまず難しいということで。

 わたしは大灘くんのお見舞いにすら、行けていないのだ。

「大灘くん……は無理でも、彼の両親から、話を聞けるといいんですが……」

「それはまた、何でだ?」

「自殺の可能性、です」

 狼滝くんが言ったことだ。彼は殺人の線で捜査をしている。ならわたしがするべきは、自殺の線で探ることだ。どうせ、殺人なんて小難しいことは分からないのだし。

「大灘くんが仮に自殺なら、彼が多目的教室に出入りした謎は不明でも、それ以外の説明はつきます。教室に荒らされたところがないのも、自殺なら当然ですし」

 狼滝くんはわたしが不意を打ったと説明したけど、それでは苦しいと思うのだ。わたしは怪我をしていて、十全な状態じゃなかったし……。大灘くんも体格は立派な方じゃないけど、わたしはさらに女子の平均にも劣る。不意を打つなんて素人で体格的にも未熟なわたしができるとは考えにくい。

 それよりも、自殺でしたとする方がしっくりくる。

「なるほど。狼滝くんは大灘くんが教室を出入りした謎の解決を中心に推理を組むから君を犯人と目した。だが犯人でないと分かっている君の目線では、その謎は一旦置いておいてもいいものだ。出入りの謎以外に着目すれば、自殺というのは筋が通っている」

 衝動的な自殺なら、カッターという手段も頷ける。ロープなんてないし、あの教室は三階だから飛び降りるのも不可能ではないけれど、確実性に乏しい。もし飛び降り自殺を試みるなら、屋上へ続く扉がすぐ近くにあるのだから、そちらへ行けばいい。

 カッターなら手首を切りそうなものだけど、案外あれは死なない。傷口を水につけて出血を促さない限りは。だったら、首を突き刺した方がいい。頸動脈を切れば出血は多いし、自分の出血で窒息もする。まあ、衝動的ならそこまで考えていたかは怪しいけれど。

 そもそも怪しいというのなら、仮に他殺としたって首筋にカッターを突き立てる怪しさは変わらない。咄嗟に突き立てられる場所ではないし……。その怪しさに比べれば、衝動的に自分で突き立てましたの方がまだ分かる気がするのだ。

「すると問題になるのは、自殺の動機か。だったら、大灘くんの両親に話を聞いて見るというのはいい手だ。何か知っているかもしれないし、ひょっとしたら遺書なんかを見つけているかもしれない」

「そうですよね…………それで」

 少し、雪宮さんに協力してほしかった。

 狼滝くんを欺いて、大灘くんの病室を目指すために。

 カフェテリアを出て、受付で大灘くんの病室を聞きだしてから、作戦をスタートする。と言ったって、やることはシンプルだ。

 雪宮さんが着ていたあの裾の長いコート。あの内側に、わたしが隠れればいい。

「いや、怪しさという意味では満点だぞ?」

「怪しいだけならいいんですよ」

 狼滝くんに見つかっても、バレなければいいのだ。それ以外の怪しさなどカバにでも食べさせておけ。

 結果から言えば、誰にも見つかることなく病室にまでたどり着く事が出来た。いや、わたしは常にコートの内側でもごもごしていただけだから、実際はどうだかさっぱりなのだけど。第一、狼滝くんは見張らせていると言ったけれど、わたしはその見張らせている人員を知らないだろうから、顔を見ても分からない。これはもう、バレていない体で話を進めているだけなんじゃないかという気がしてきたが、考えても仕方がない。

 病室には、辿り着いたのだから。

 大灘くんが入院している病室は、重傷の患者が治療を受けるために用意された個室のひとつだ。それが病室においてどういうランクのところなのかは、いまいち分からない。ただ、周囲を見る限り狼滝くんや、彼が手配した人間のいる気配はない。

「思ったんだが」

 病室の目の前で、わたしがコートから顔を出して周囲を確認していると、雪宮さんがふと呟く。

「大灘くんの両親に会いたいというのは分かるが、今ここにいるという保証はないだろう?」

「………………あ」

「あ、じゃないぞ」

 まるで考えていなかった。

「とはいえ、ここまで来た以上は入らないわけにもいかないか」

「そうですね」

「俺はここで待っているから、早く行くんだ」

「分かりました」

 ゆっくりを扉を開けて、病室に入る。

 はたして、そこには、大灘くんが横たわって寝ていた。

 個室の中には、ベッドが窓際に寄せて置かれていて、大灘くんはそこに寝ている。人工呼吸器や点滴などの管があちこちについていて、それが首元の包帯よりも痛々しく感じられた。

 ベッドの横には椅子が二脚あり、うち一脚に、誰か腰掛けている。その人物は女性で、扉を開けた音に反応してこちらを振り返る。

「…………誰?」

「突然、失礼します」

 とりあえず、わたしは頭を下げた。そのとき、ちらりともう一方の椅子に、わたしが持ってきた花束がそのまま置かれているのが目に入る。

「わたし、大灘くんのクラスメイトです。本日はその、お見舞いに…………」

「名前は?」

「はい?」

「あなたの、名前」

 女性は、ほとんど吐き捨てるようにそう聞いてきた。

 名乗り忘れていた。でも、なんか変だな。この場面で普通、まず聞くのが名前だろうか。

「日辻です。日辻芽里乃――――」

 とりあえず言われた通りに名乗ったが、わたしの名前を聞いた瞬間、目の前の女性の態度は明らかに一変した。

「日辻…………?」

「はい?」

「あんたが…………あんたがっ!」

 女性は立ち上がる。がちゃんと、その拍子に椅子がひっくり返った。

「あんたが…………洋を!」

「………………え?」

 女性の右手が動く。何かを掴もうとして、フラフラと少し迷うように上下して、それから花束を捕まえた。そのまま右腕は振り上げられ、上から下へ、花束が振り下ろされた。

 誰に?

 わたしに。

「い………………」

 痛くは、ない。

 バサバサと音を立てて花びらが散る。それだけだ。

 少し、驚いたけど。

「あんたが…………あんたが!」

 女性は叫びながら、もう一度上から下へ、花束を振り下ろした。ぐしゃぐしゃになった花束は、女性の手を離れて床に叩きつけられる。

 それなりに高かったのを、お見舞いだからと何とか奮発して買ったのになあ。

「あの、わたしが……」

 女性が激昂している理由を知りたくて、口を開く。でも言葉はそこで途絶えた。

 今度は拳が、振り下ろされたからだ。

 斜め気味に入り込んだ拳がわたしの頬を捉えて打ち抜いた。一発だけではなく、左右の拳が何度でも、わたしの顔面に向かって振り下ろされた。

「この、あんたが…………洋を!」

「えっと、その…………」

「生徒会の子から聞いた! あんたが洋を刺したんでしょう! それなのに、それなのによくも………………!」

 ああ、そういう。

 まったく、狼滝くんも厄介なことをする。

 これは、しばらく落ち着くまで待つしかないようだ。

 そう考えて、わたしは言葉を発するのを止めて、ただ殴られるままに任せた。手を使ってのガードもなしだ。

 お父さんみたいに人を殴るのに慣れている相手ならともかく、この人は人を殴り慣れていない。わたしを殴るために凶器を探そうとして、咄嗟に掴んだのが花束の時点でそれはよく分かる。それに拳の威力が、お父さんとは段違いに弱い。これは単純に男女差からくる威力の差じゃない。

 だからしばらく耐えていれば我に返るだろうし、それまで耐えるのはそこまで苦痛じゃない。

 しばらく顔面を打ち据えていた拳は、徐々にその位置を低くして、わたしの肩を叩きはじめる。よく見るとその拳は血で赤くなっている。わたしの唇が切れたか、女性の拳が壊れたかのどちらかだ。肩を叩き始めたのは、手が痛くなってきたからだろう。

 そろそろかな。

「あの、大丈夫ですか? 落ち着きましたか?」

「……………………っ!」

 わたしの言葉が、逆に怒りを再点火させたらしかった。もう一度、右の拳が大きく振り上げられる。

 それを目で追ったのがいけなかった。

 女性の右の拳は、わたしの左目あたりへ吸い寄せられた。わたしが拳を目で追って目線を上げていたからだ。ちょうど、中指の第二間接のあたりが食い込むように、目に当たった。

「う、ぐ………………」

 さすがにこれには参って、目元を抑えてのけ反った。視界の左側が真っ暗になる。涙は右目からも出た。

「あ……………………」

 それでも、痛がったのが功を奏したのかもしれない。はっと、女性は我に返ったようで、体の動きが止まる。それなら最初から痛がっておけばよかった。

「あの、わたし、え………………」

 どうやら怒りに任せて完全に冷静さを欠いていたようで、自分でも何をしていたのかはっきりしないらしい。それでも、すぐに自分が何をしていたのか思い至ったようだ。

「どうして、こんな…………。ごめんなさい、とにかく、人を呼んで治療を……」

「いえ、それは今はいいので」

 本当に、今は治療どころではない。せっかく話を聞こうとしているのに、治療でうやむやになっては殴られ損だ。

「落ち着きましたか? 手は、大丈夫ですか。怪我とかしていませんか?」

「それは、えっと、わたしは大丈夫なんだけど……」

 それは良かった。

 ひとまず落ち着けて、椅子を元どおりにしてそこに座らせる。わたしももう一つの椅子に腰かけた。

「あの、わたし…………本当にごめんなさい」

 さっきまでとは打って変わって、女性は大人しかった。

「息子が……洋がこんなことになって、混乱していて。あなたが、日辻芽里乃って子がやったかもしれないって聞いていたから」

 息子……じゃあこの人は母親か。

「わたしは、何もしていません」

「そう、かもしれない……。今なら、そう思う」

「大灘くん――洋くんの件について、わたしも調べているんです。それで、お話を伺いたくて」

「え、ええ。何が聞きたいの?」

 さて、ここからが勝負だ。

 まさか、「洋くんは自殺未遂をした可能性があります」と直球で聞くわけにもいかないし……。

 ここは少し、考えた方がいい。

 わたしの推理は、今のところ大灘くんが自殺未遂をしたというところになっている。多目的教室に出入りしたタイミングの謎は確かに残るけれど、裏返せば残るのはそれだけだ。例えばこれが殺人で、しかもわたし以外の誰かが犯人だとするのなら、犯人もいつ出入りしたのかという問題が残ってしまう。自殺未遂を仮定するのが、一番簡便なように思われた。

 その線で話を進めるのなら、大灘くんが自殺する動機が必要になってくる。これが何なのかを探りたい。

 そのために、するべき質問は。

「洋くんは、探偵を目指していたんですか?」

「…………そ、そうだけど」

 予想外の質問だったのか、面食らったように女性は呆然とする。それでも、すぐに答えてくれた。

「あの子は、探偵になるってよく言っていた……。でも、うちは母子家庭で、前の夫も養育費を振り込んでくれないから、経済状況が悪くて。だから、もしDスクールに通うなら、地元にある水仙坂付属が唯一の候補で……」

 母子家庭、か。そういえば、尾長先生は大灘くんも水仙坂付属に行きたがっていたと言っていた。そうか、わたしと同じで、大灘くんも……。

 いや、わたしと一緒、じゃあないのか。わたしは水仙坂付属だって行けやしないけど、大灘くんは水仙坂付属なら、まだ行ける。少なくとも、目の前の母親はその気でいた。

 少しだけ、羨ましくなる。

「でも、それがどうかしたの?」

「いえ…………」

 なぜ、大灘くんが自殺したのか。その動機は、この辺りにありそうだ。確か、大灘くんが尾長先生と話したのは昨日の朝方だったから、そこから精神的に追い詰められてついに自殺……という流れはありえなくもないのか。

 水仙坂なら行けた。でも、実際は無理なのだ。探偵生徒会が、水仙坂付属の受験枠五名を使い切るから。

 それが、絶望の理由。

 一番の不幸はきっと、なりたい何かを目指すことさえできないことだ。それは、わたしが弟や妹に一番味わってほしくない不幸で。

 たぶん、その不幸を大灘くんは味わったんだ。水仙坂付属を受験することさえできないという状況によって。

 相手は探偵生徒会だ。尾長先生の口ぶりでは、彼らが水仙坂付属を受けるのは決定事項で、また彼らに受験枠五名分をあてがうことも決定事項のように思われた。そこに穴を穿つのは困難を極める。ほとんど不可能だろう。かたやただの一生徒、かたや探偵生徒会。相手は『探偵のドン』榎本泰然の息がかかった五人だ。

 それを知っているから、なまじ希望はない。

 ひょっとしたら、榎本泰然の根回しが効いているということさえ夢想したかもしれない。榎本泰然の孫を含む探偵生徒会が公立中学にいるのは「根回ししている感じ」、裏で手を引いている感じを与えないためのイメージ戦略だと柳葉さんは言った。けれど、あくまでイメージ戦略という観点に立つならば、裏では実際に根回しをしていたっていいわけだ。重要なのはイメージであって実態ではないのだから。

 本当に、希望はない。受験に挑むという機会すら、大灘くんには剥奪されている。

「探偵になるというのは、いい夢ですね」

 いい夢だ。本当に。

 ただの、夢だ。

 なんでそんなものを、夢見てしまったんだろう。わたしも、大灘くんも。

 わたしは、死ぬわけにはいかない。仮に夢から覚めても、弟や妹たちを守るためには、死んではいられない。それはある種の精神的支柱で、だからわたしは死んでいない。でも、大灘くんは違ったんだ。

 その夢がすべてだから、夢が弾ければ、死ぬほかない。

「それなのに、息子は誰かに……。なんで、息子がこんな目に」

 目に涙をためて、母親は訴えた。

 自殺だと思っているわたしは、ただ黙るしかない。

 いったい、誰のせいなのか。夢が叶わないが故の自殺というものは。

「心中、お察しします」

 なんて言いながら、わたしは、この人の何を察しているのだろう。

 どうして、こんなにも、苦しいのか。

 大灘くんは、言ってしまえば数週間前に知り合っただけの関係だ。クラスメイトと言い条、わたしは学校にあまり行かなかったし、大灘くんもクラスに馴染んでいるふうでもないから、あまり関わりはなかった。

 それなのに…………苦しい。もし彼が、希望の無さに自殺を選んだとするのなら、その苦しさに押しつぶされそうになる。

 これなら、わたしが犯人で大灘くんを刺したことにした方がいっそ気が楽なくらいに。

 その苦しさの原因は、考えても考えても、分からなかった。

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