#2 まずい状況

 文化祭一週間前の今の時期は、我が第二中学では午後の五限と六限を潰して文化祭の準備にあてることが慣例になっている。文化祭の出し物はクラス単位で行われるものから学年単位で行われるもの、部活動単位で行われるものと多種多様で、それぞれを隙間時間でどうにかするのは根本的に無理という判断なのだろう。わたしはそのいずれとも、ほとんど関係はないのだけど。

 お祭り騒ぎは前夜祭のもっと前から、既に始まっているのだ。

 始まっていると言えば、今日は一日中、クラスのみんなは浮かれているような気がする。普段、あまりクラスにいなくて雰囲気を知らないわたしの目線から見てもそう感じるのだから、浮かれっぷりたるやなかなかのものだろう。

 五限は給食を終え、掃除をして昼休みを挟んでから行われることになっている。今は給食が終わり、みんなで教室の机を後ろに下げて掃除を始めたところだった。

「猫目石瓦礫と会った?」

 うちのクラスの掃除個所は自分たちの教室とその付近の廊下、それから校舎三階にある多目的教室とその付近の廊下となっている。四班に分かれて、それぞれ一週間ごとに場所を変えながら掃除をしている。

「マジかよ。俺も行けば良かった」

「どうやって家鳴の家に狼滝くんが来るの?」

 掃除中、以前、藤人の所であったちょっとした事件について、狼滝くんに語った。ここしばらく狼滝くんは探偵生徒会の探偵ではなく生徒会の本分として、文化祭の準備に忙しかったらしい。わたしもあまり学校には来ていなかったから、こうしてゆっくり話をする時間は(掃除中だけど)今までなかった。

「そうか……。あの『高校生探偵』が。『タロット館事件』は有名だから俺も知ってるけど、『奈落村事件』は知らなかったな。また今度調べてみよう」

 衣替えをしたとはいえまだ暑いのか、狼滝くんは学ランを脱いで、長袖カッターシャツをまくり上げて筋肉質な腕を出していた。

「そういえばさ、狼滝くん…………」

「うん?」

 猫目石さんのことを話して、思い出したことがある。大灘くんのことだ。

 大灘くんを見張れと、猫目石さんは言った。それとなく、適当に勧めるようなニュアンスではあったけれど、『高校生探偵』たる猫目石さんが大灘くんに対しそう言ったということは、それなりの意味があるということだ。

 今日はその言葉を実践して、ずっと大灘くんの様子を見ていた。でも、大灘くんは何かをやりそうなというか……見張るに値する何かをしでかしそうな雰囲気がまるでなかった。誰にも話しかけず、誰からも話しかけられず、ひっそりとクラスの片隅に居続けた。今は掃除の時間で、この教室から姿を消しているけれど。

 そのことを、狼滝くんに相談するべきか少し悩んだ。もし何か問題が起きるなら、このクラスで、いやこの学校で相談するべき相手は探偵生徒会以外にいない。

「いや…………」

 だけども、言おうとして、結局やめにした。ここしばらく、狼滝くんはすごく忙しそうだし。それに、やっぱり大灘くんが何かをするようには見えない。猫目石さんの発言が無駄に意味深長なだけで、何も起きませんでしたという方が起こりえる気がしたのだ。

 それと、何となくだけど、大灘くんは探偵生徒会をあまり好ましく思っていないような節がある。緘口令が敷かれている探偵生徒会の話を、あっさりとジャーナリストの柳葉さんに話してしまうところとか。自分の嫌いなものに心配されるというのはむしろ毒になりかねない。仮に見張るにしても、もう少し具体的な危機が大灘くんに訪れない限りはわたしだけでこっそり見張っておくくらいがちょうどいいだろう。ひょっとしたら猫目石さんもそれを考えて、わたしにそれとなく見張るよう言ったのかもしれないし。

「探偵生徒会って、榎本泰然が関係しているの?」

 だから、一度引っ込めた言葉の代わりに飛び出したのは、あの噂のことだった。

「なんだお前、知らなかったのか?」

「え?」

 やけにあっさり狼滝くんが告げるものだから、面食らってしまう。もっと秘匿するのかと思いきや。

「隠さないんだね」

「隠す必要もないし、第一隠しきれることじゃないからな」

 隠す必要もないというのが、どうも彼の本音らしい。そりゃあ、榎本泰然は探偵業界の大物だけど、裏返せばそれだけだ。そんな彼から教えを乞うこと自体は何も問題ない。

 隠していたのはあくまで、イメージ戦略の問題。榎本泰然が裏で八方手を尽くして、実力に関係なく探偵生徒会を探偵として押し上げようとしているとか、そういうことでもしていない限り潔白なのだから隠す必要もない。

「やけに気にするんだよなうちの会長。苗字が違うからちょっと分からねえけど、調べれば榎本の爺さんの孫だってことくらい分かるのに」

「噂は本当だったんだ」

「そう。この学校でも噂になるくらいのことだ。いずれ探偵生徒会が注目されればされるほど、榎本の爺さんと俺たちの繋がりはバレるものだ。別に気にするこっちゃない」

「榎本泰然から指導を受けてるの?」

「まあな。そうでなきゃ、俺たちみたいな普通の中学生が探偵なんてできないだろ」

 それもそうか。公立出身の五人組というのは裏がないようでいて、聞く人が聞けばむしろ大きく裏を感じさせる肩書なのかもしれない。

「でもなんでお前、今そんなこと聞くんだ?」

「え? あーっと……」

 大灘くんから噂を聞いたから、なんて正直に答えるのはまずいなあ。ここは……。

「猫目石さんが言ってたから。それで、そういえばそんな噂もあったなーって」

 猫目石さんに犠牲になってもらおう。どうしてか、あの人って盾にしても罪悪感が薄いんだよね。覇気に欠けるからだろうか。

「へえ。猫目石瓦礫が?」

 『高校生探偵』に注目されたとあって、狼滝くんは少しだけ嬉しそうだった。興味を持っていたというか、気にしていたっぽいのは嘘じゃないし。

「日辻、いいか?」

 教室の入口で、わたしを呼ぶ声がした。振り向くと、尾長先生がいつものように物差しで肩を叩きながら、わたしに手招きをしている。

「進路指導、始めるぞ」

「もう、ですか?」

 進路指導は五限の文化祭準備中と聞いていたのに。

「お前はいつまたどこにサボりに行くか分からんからな。いるうちにやってしまおうってわけだ」

「まるでわたしがフラフラしているかのような物言いですね」

「そう言ってんだよ」

 それは心外。

「分かりました。行きますよ」

 掃除の残りを狼滝くんに押し付けて、わたしは足を引きずりながら尾長先生について教室を後にした。

「遊んでないで掃除しろよ」

「へいへい」

 途中、尾長先生は廊下掃除の一員に声をかける。やはり浮かれていると見えて、みんなあまり掃除に熱が入っていない。

 進路指導は校舎三階にある進路指導室で行うとのことで、そこまで移動する。途中、いろんなクラスの人たちを見かけたけれど、一様に気持ちに浮ついたところがあるらしいのが分かった。廊下にはもう既に準備が始まっているのか、大掛かりな道具が並んでいたりもする。何に使うんだろうか。

「あ、おいおい」

 三階に向かう階段を上り切ったところで、先生が溜息を吐く。先生の後ろからちょろっと顔を覗かせると、クラスメイトが数名、こちらに向かって歩いてきている。

「お前ら、廊下掃除はどうした?」

 廊下掃除? じゃあひょっとして、彼らが多目的教室の廊下掃除の班なのだろうか。

「えー、だって」

 集団の中の一人の女子生徒が答える。

「多目的教室掃除の人なんて、もういないんだよ? ゴミ捨てに行って、そのまま終わりって感じで。じゃあわたしたちも終わりで良くない?」

 どういう理屈なのかはイマイチ理解しかねた。今どきの中学生の理屈ってこうなのかと、自分が今どきの中学生なのを棚に上げて考えてしまう。

「まったく……仕方ないな」

 文化祭シーズンにきっちりさせようとするだけ馬鹿を見ると分かり切っているのか、尾長先生は追求甘く見逃してしまう。

「他の掃除してる連中の邪魔にはなるなよ」

「はーい」

 ぞろぞろと、廊下掃除の一団は階段を下りていく。気を取り直して、わたしたちは再び眼前に見える進路指導室を目指した。

 校舎の三階、といっても今わたしたちのいるところはワンフロアきっちりとあるわけじゃない。屋上への階段に続く薄く開いた金属の扉を奥に見ながら、小さく突き当たった空間となっている。廊下左手にわたしたちのクラスが掃除当番になっている多目的教室の閉じた扉が見えて、その奥に進路指導室がある。廊下右手は窓になっている。

 進路指導室に促されて入る。わたしたちが普段使っている教室の三分の一くらいの大きさしかない、奥に伸びるウナギの寝床のような広さの部屋がそれだ。たぶん、左右に事務用のロッカーや書類棚を所狭しと並べているせいで、余計にそう感じるのだろう。部屋の中央には机と椅子のセットが二つ向かい合わせに置かれていて、奥に尾長先生、手前にわたしが座る。

 なんか、警察署で訊問される重要参考人の気分になる。目の前の机に卓上ライトでもあったら完璧だった。

「で、そういえば聞いてなかったんだが」

「はい?」

「お前その怪我どうした? いつにもまして大怪我だな」

 今気にするところだろうか。

「階段で転んでしまって」

「そうか。気をつけろよ」

 適当に話を流して(じゃあなんで聞いたんだ)、尾長先生は本題に入る。

「それで、お前の進路指導なんだが…………」

「はい」

「まずお前、もうちょっと何とかならないか?」

「何とか…………とは?」

「分かるだろ。出席日数だよ」

 とんとんと、先生はまた物差しで肩を叩く。

「とにかく欠席が多い。遅刻も多い。早退も多い。別に留年があるわけじゃないが、来年はもう少しまともにならないと、受験に響くぞ」

「そう言われましても……」

 こればかりはどうしようもない。来年になって突然弟たちが自立するわけでもないし。家事をしないといけないことには変わりがない。

「その結果だろうな。成績もまあ悪い。普通、通知表の評価ってのはそうそう低くはならないんだが……。出席日数自体が少ないと教師の方でもフォローできないからな。お前、自分の通知表が家庭科以外五段階評価の二より下だって自覚あるのか?」

「体育と音楽が一で、それ以外が二でした」

 体育は怪我が多くて見学続きだし、音楽は元々苦手だから。この前も鼻歌を歌っていたら波介から「一生歌うな」って言われたし。

「せめて全教科三以上にはなってもらわないとな……」

「それができたら苦労はないんですけどねえ」

 なにせ中学進学してから既に今の生活だ。勉強はどうしてもおろそかになる。方程式が分からないから次の連立方程式が分からないし、一次関数が分からないから次の二次関数が分からない。その繰り返しで今日まで来てしまっている。一応、合間を縫って勉強はしていて、だからオール一という最低成績をギリギリ回避していると言える。

「お前ももう少し狼滝とか、あのあたりの生徒会連中を見習ったらどうなんだ?」

 ふと、そんなことを先生が言う。

「あいつら、探偵の勉強しながらも学校の勉強だっておろそかにしてないんだぞ? 普段学校にいないお前じゃ実感が湧かないだろうが……。今の文化祭の準備だってやってる。いったいどれだけ働いているんだってくらいだよ」

「はあ…………」

 探偵候補生である以前に、一中学生であり生徒会ということは、つまりそういうことなのだ。家のことで精いっぱいのわたしとはやっていることが違う。わたしは彼らの探偵としての仕事も、一中学生としての勉学も、生徒会としての業務も何も知らないのだけど。先生が言うのだから、それなりにきちんとこなしているんだろう。

「いいや。別に今、こんな話をしても仕方ねえな」

 先生は溜息を吐いて、話を変える。

「俺が思うに、お前がそういい加減なのは、将来がぼんやりしているからじゃないのか?」

「将来…………」

「そうだ。将来の夢。こうなりたいとか、ああいう仕事に就きたいとかな。そういう、具体的な目標があって人はようやく努力できるんだよ」

 その言い分は、なんだか、心当たりがあるらしい様子だった。

「俺も若い頃はお前と一緒だったよ。学校の勉強なんてしゃらくさいと思って、いつも悪い連中とつるんでサボってばかりだ。そんな中学時代を過ごしてたんだがな、あるとき俺を導いてくれた先生がいたってわけだ。その先生に憧れて教職を志すようになってから、ようやく俺は勉強に打ち込めるようになった」

 と、力説する。

「だからお前も、何か具体的な目標とかないのか? それがあれば、そこに向かってどう努力するべきなのか考えられるようになるだろ?」

 それは、尾長先生の言う通りなのだろう。漠然とした将来に向かって人は歩き出せない。ゴール地点が設定されて初めて人はスタートラインに立てる。

 梅子が俳優を志しながらも『神の舌』を持つ子役として不本意な食レポを繰り返しても腐らないのは、その先に自分の目指す未来があるとどこかで予感しているからだろう。逆に藤人みたいに、将来を決めてかかるからこそ多様な道を諦めて、一本気のつもりでいるということもある。

 藤人みたいに将来を決めてかかるのは良くないにしても、もう少し、わたしの場合はきっちりと決めるべきなのだ。

 と言ったって、決めるも何も決まっている。

 わたしのやるべきことはもう決まっている。弟や妹の将来を応援するためにも、早く職に就いて家計を支えることだ。でも、それが決まり切った道で正しい道だと確信していても、それを考えるとどこかでずしんと重い物が、胃の中に落ちるような感覚があった。

 藤人に言われて、その理由には気付いた。藤人が自分の将来を決めてかかっていたのと同じで、わたしも自分の将来を決めてかかっていたのだ。心のどこかで、決めてかかった将来像以外の何かを目指す自分がいて、だから諦めきれずに、思い描いた将来設計に不満を抱いていた。

 じゃあ、わたしはどうすればいいんだろう。いくらわたしが諦めきれなくても、現実は何も変わらない。

 わたしが探偵になりたいとして、じゃあその「なりたい」に意味はあるのか。

 どうせなれないものを「なりたい」と思う心に、救いはあるのか。

 藤人はわたしに能力があると言ってくれたけれど、やはりそれは弟の贔屓目のような気がする。学校の勉強すらろくにできないわたしに、探偵としての能力などあるとは到底思えない。

「わたしは――――」

 言いかけて、口を閉じる。

 言うだけならタダだ。

 探偵になりたいと、言ってしまえばいい。頭ではそう考えている。たぶん「無理だ」と言われるだろう。ここが普通の中学ならばともかく、この第二中学には探偵生徒会がいる。探偵候補生として、十分な能力を持つ比較対象が。彼らと比較すれば、わたしなど到底及ばないことくらい、先生ならすぐに分かる。だから諦めろと言うだろう。そう言われれば、わたしも諦められる気がした。

 だから言ってしまえと。でも心の中では、どうしてか、それを全力で阻む思いがあった。

 言ってはいけないと。

 それを口にした瞬間。それは呪いになると、そんな予感がする。

 探偵になりたいと言ってしまえば、もうそれはわたしの中で確定してしまう。自分は探偵になりたいのだと、完全に気づいてしまう。

 まだ藤人に言われている内はいい。頭でつらつら考える内はいい。でも駄目だ、口に出したら。言霊じゃあないけれど、口に出したら、探偵になりたい自分を知らなかった頃に戻れなくなる気がする。

「わたしは――――」

「うん?」

「探偵に、なりたいです」

 ………………言っちゃった。

 今までの思考は何だったんだと自分で言いたくなるくらい、あっさりと。

「ああ、いや、その……!」

 言った後で、必死にフォローする。何をどう、誰に対してフォローするのかはさっぱりだけど。

「昔から、憧れというか、そういうのがあって。ほら、探偵って今はもう誰だって憧れるじゃないですか。そんな感じで! それに最近、探偵に直接会って、余計にそんな感じがするようになって、そんな風で!」

「…………………………」

 じっと。

 尾長先生は黙ってこちらを見る。

 いつもの物差しトントンも止まっている。

「お前…………」

「はい」

「意外と子どもっぽいな」

 …………どういう感想なんだろう、それ。

「将来は仮面ライダーになりたいって言われた気分だぞ、今」

「そこまで非現実的ですか?」

「あのなあ」

 先生は髪を掻きつつ、言葉を選んでいるようだった。

「お前で二人目だぞ。探偵生徒会以外で、うちのクラスでそんなこと言い出したやつ」

「二人目? あれ、進路指導ってわたしが一番最初じゃないんですか?」

「ん? ああ、進路指導はな。個人的な相談は別に、必要ならいつでもやっているからな」

 そうだったのか……。

「大灘だよ。今日の朝方にあいつに言われたんだ。『探偵になりたいんです』ってな」

「はあ……。あの、それわたしに言ってもいいんですか?」

「本当は駄目だろうな。でもお前は周りの連中が何考えてるか知っとけ」

 そんな理由で個人情報漏らしていいのかな。

 いや、大事なのはそうじゃなくて……。

「大灘くん? 大灘くんが、探偵になりたいって言ったんですか?」

「どうした? やけに食いつきいいな」

「まあ、それは…………」

 なんだかんだいって、つい最近一緒に一つの謎を解こうとした仲だし。

 そうか、大灘くんが……。

 でも考えてみれば大灘くんも、妙に詳しかったんだよね。『奈落村事件』のこととか。ひょっとしたら藤人あたりは、わたしが探偵を目指しているのに気づくのと同じように、大灘くんについても気づいていたかもしれない。

「それで、先生はどう答えたんですか?」

「やってみたらいいって答えたよ」

 案外あっさりと尾長先生は答えた。

「俺が別に止める理由はないからな。大灘にしてもお前にしても、目指したいなら好きにしたらいい」

「……………………そんな、ものですか?」

「ああ。ま、俺から見れば大灘もお前も探偵なんかできそうには見えないがな。探偵生徒会の連中と比べりゃ分かる。だがそれを見極めるのは俺の仕事じゃない。学校側が入試やって確認することだ。ひょっとしたらお前の隠れた才能を見つけ出してくれるかもしれないしな」

「そんな楽観的な」

「そうでもないぜ? 狼滝から聞いた話じゃ、東京にある池袋学園じゃ教師と数人の生徒でゼミ形式を取るんだと。そんなんだから、ドラフトみたいに受験者の中から教師が気に入ったやつを選出するみたいな手法を取るらしい。お眼鏡にかなえばお前も通るかもしれないな」

「東京……」

 なんでいきなり東京の話しているんだろうこの人。

「もしそうなればいいですけど、わたし、そもそも東京まで出られませんよ。愛知県には水仙坂付属があるんですから、そこを受ければいいじゃないですか」

 と、わたしはごく当たり前のことを言った、つもりだった。

 尾長先生の表情の変化を見るまでは。

「…………………………」

 先生は、物差しを持った手をだらりと下に降ろして、じっとこちらを見た。その目は、狐が二足歩行で歩いているのを目撃した人みたいだった。何かに驚いている?

 何に?

「あの、先生?」

「お前、知らなかったのか?」

 あれ、狼滝くんにもさっき同じこと言われたような気がする。

「水仙坂付属へうちから受験者として送れる生徒は五人が限度だぞ。で、生徒会の五人でもう定員だ」

「……………………え?」

 なにそれ。

「Dスクールには受験者の定員制限があるんだよ。ひとつのDスクールにつき、ひとつの中学校から五人。暗黙の了解というか、そういうすり合わせになってるんだ。だから水仙坂付属の五人は生徒会の連中で決定してるから。お前は受験できないぞ。他のDスクールへの枠はまだ全然未定だから、東京でも大阪でも好きなところ行ったらいい」

「そんな………………」

 そんなルールは、聞いたことがない。だってそりゃあ、暗黙の了解なんだから、知るはずもない。

 でも、そういえば……。藤人が言っていたことを思い出す。あのとき、藤人は「Dスクールの試験を受けるのは狭き門なんだから」と言っていた。その言葉に違和感があったけれど、そりゃあ、普通は試験を受けるのが狭き門なんて言わないから当然だ。合格するのが狭き門、ではなく、受けること自体が狭き門。藤人は、探偵を目指すだけあって知っていたのだ。

「それにしても、大灘も水仙坂に行きたがってたな。まあ無理なんだが……。なんでそんなに人気なんだ?」

 それは……水仙坂に行きたいというより、地元のDスクールに行きたいというのが本心なのでは。

 そうか。大灘くんでも、遠くのDスクールを受験するのは無理なのか。

 わたしだって無理だ。地元ですら無理なのに、東京や大阪になんて行けやしない。

「でも日辻、お前がまさか探偵になりたがっているとはな」

 わたしの内心などどこ吹く風で、先生は適当に話す。

「良い目標じゃないか? 少なくとも、今のまま迷える子羊のごとくフラフラしているよりは全然良いな! それだけ聞ければ、無理にでも引っ張って進路指導した甲斐があったってものだ」

「そう…………ですか」

 ちらりと、先生が腕時計を見る。わたしも合わせて腕時計を見たけれど、時間が頭に入ってこない。

「よし。じゃあお前の進路指導はここまでだ。目標はあるんだから、そこを目指して具体性を持って行動をしろよ。じゃあ、次が狼滝だから呼んできてくれ」

「………………はい」

 わたしは立ち上がって。進路指導室を後にした。

 …………………………。

 どうしてだろう。

 尾長先生の言ったことは、わたしが望んでいたことだったんじゃないのか。水仙坂付属は受験できない。元々希望薄だったDスクールの夢は完全に閉ざされた。これで、諦められるはずじゃなかったのか。

 どうしてだろう。鉛を飲み込んだような、ずしんと重い感覚が消えない。何かがつっかえて、すっきりしない。

 探偵の夢を諦めきれないのは、なぜ?

「…………狼滝くん、探しに行こう」

 自分の次にやるべきことを口に出して、ようやく、少しだけ動けるようになる。くるりと方向を変えて、来た道を戻る。目線もこころもち上げて……。

「ん?」

 と、そこで。

 わたしの目線は何となく多目的教室の方へ向いて。

 扉の覗き窓ごしに、その教室中央の床に、何やら黒い塊が落ちているのが目に入ってきた。

 なんだろう、あれは。

 階段を上ってこちらに来たときには気づかなかった。多目的教室の扉は二つあるけれど、階段側――つまり教室後方の扉から教室を覗いたときは見ていない。たぶん、教室前方の扉――進路指導室に近い方から見たときだけ、角度の関係で見えたのだろう。

 もう少し、しっかりと覗き込む。落ちているのはどうやら学ランらしく思われた。そこで、わたしのクラスがこの多目的教室の掃除をしていたことを思い出す。きっと、狼滝くんのように脱いでいて、誰かが置き忘れたのだろう。きっと狼滝くんは教室にいるだろうから、彼を呼びに行くついでに持っていこう。

 そう思って、扉に手を掛ける。扉はやけに固くて、鍵が掛かっているのじゃないかと疑いたくなるくらいだった。しばらく力を籠めていると、ぎちぎちと大きな音を立ててようやく少し動いた。立て付けが悪すぎる。

 前方の扉を開けるのは諦めて、後方の扉に回ってみた。こちらも立て付けが悪く、扉を開けようとするとギーギーと音を立てる。地獄の合唱団みたいな音だ。それでも前方の扉よりは比較的マシだったらしく、何とか扉を開くことに成功する。

 後ろから教室に入ると、一日中窓を閉め切っていたらしく、むあっとした木の臭いが充満していた。並べられた机と、木製タイルが発する妙に温かい臭いだ。

 教室に入って少し進むと、さっき見えた学ランがまた見えてくる。が、その学ランの様子がおかしいことに、ようやく気づいた。

 あれは、学ランじゃない。

 学ランを着た人だ。人が倒れている。

 鼻孔に、血の臭いが流れ込んでくる。それが自分の怪我から発せられる臭いでないと分かるのには、数瞬を要した。

「大丈夫、ですかー?」

 そろりと、近づいてみる。

 大丈夫なはずはなかった。

 その学ランを着た人間は、首元にカッターナイフが刺さった状態で、仰向けに倒れていたのだ。周囲にどばどばと、血が流れている。むしろ血の臭いに、今の今まで気づかなかったことが不思議なくらいの出血量だ。

「あ……………………」

 そこまで近づいて、血まみれの顔をよく観察して、ようやく気づく。

 倒れているのは、大灘くんだ。

「なんで…………そんな」

 死んでいるのか、これは。

 一歩、踏み出して近づく。上履きが血だまりに触れる。膝を折って、肩を掴んで揺すってみる。学ランが吸った血がじっとりと、両手に付着しただけで大灘くんは反応しない。

 まだ生きているか?

 助かるのだろうか。

 どうしたらいい?

 救急車? でもわたしは携帯電話を持っていない。そうだ。隣の進路指導室にまだ先生が…………。

「そろそろ俺の番だと思って来てみたら」

 後ろから、声がした。

「何してんだ、日辻」

 振り返る。

 後ろにいたのは狼滝くんで、彼は教室後方の扉から顔を覗かせて、怪訝そうにこちらを見ていた。

 その視線が、少しずつ、わたしの足元へ。

 倒れている大灘くんへ、落ちていく。

 事態がそれと知られるまで、あと一瞬。

 たぶんまずい状況に巻き込まれているらしいことくらいは、その一瞬で理解できた。

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