第3話:見えない被害者

#1 いつもと変わらない日常

 痛む体を引きずるように起こして、一度、ダイニングの椅子に腰かける。口の中の鉄臭い味の唾は飲み込んだ。口の周りがぬるぬるするので手の甲で拭うと、べったりと血がついていた。

「………………はあ」

 一息ついてから、立ち上がって流しに向かう。血まみれになった手を洗うと、真っ赤だった手の甲が痣の青さを見せる。ついでに顔も洗うと、顔中がヒリヒリと痛んだ。

 痛いのは顔だけじゃないんだけど。

 普段なら放っておくか唾をつけておくくらいで済ますのだけど…………。ちらりと、壁にかかっている制服を見た。つい昨日、クリーニングから戻ってきたばかりでビニールも剥がしていない黒い冬服。夏服との併用期間も終わって今日から衣替えだから、今日はこれを着て行かないといけない。綺麗にしたばかりの制服を血で汚すわけにもいかないから、今日くらいはきちんと怪我の面倒を見ておこうと思った。

 戸棚から救急箱を出して、テーブルの上に置く。必要なものを取り出しつつも、頭の中は治療とはまるで関係ない別のことを考えていた。

 藤人の家に行ってからもう二週間は経っているけれど、未だにあの言葉が頭の中に残り続けているのだ。

 「姉貴は、探偵になりたいのか?」というあの一言が。トンネルの中で音が反響するみたいに、ぐわんぐわんとわたしの頭の中で響いている。

 そのせいでここ最近はぼうっとしがちで、お父さんが不機嫌なのも合わせて殴られる回数が多くなった。ここまで滅多打ちにされるのは、四人目のお母さん――梅代さんがいなくなった頃が最後だったから、久しぶりだ。

 わたしは。

 わたしは、どうしたいんだろうか。

 藤人の言葉が図星を突いていたことは、彼の言葉を聞いたわたしの体の反応で理解できた。裏返せばそれは、わたし自身すら知覚できていないわたしの欲望を、彼が言葉にしたということだ。だからわたしは、ただ固まるしかなかった。

 だって、弟や妹の夢を応援するのが役割だと思っていた自分に、自分自身に夢があるなんて思いもしなかったから。

 でも、思い返せば心当たりはたくさんある。わたしは、弟が好きだからという理由にかまけて、自分が探偵について詳しくなっていくことにきちんと向き合わなかった。知らないフリは興味の無いフリだ。それを藤人に言いながら、わたし自身が実践していた。

 どうして、わたしは探偵になりたいんだろう。

 その疑問の答えはシンプルで、すぐに出てしまう。憧れているからだ。佳朗がそうであるように、藤人がそうであるように、あるいは狼滝くんあたりもそうかもしれないように。名探偵に憧れるなんて、今のご時世ならごく自然なことで、その自然なことをただわたしはしているだけだ。

 でも、どうせ探偵にはなれないだろうとも、思うのだ。

 我が家の家計は逼迫に逼迫を重ねている。それこそ裕福な家の子どもを身代金目的で誘拐したとしても「まあしょうがないよね」と世間の同情を引けるくらいには。そんな状況で、わたしが進学する余裕などあるはずもない。Dスクールになんて、行けるはずもない。

 それに…………。

 わたしには、探偵になる能力なんてない。

 そう思うことにした。たぶんそれは間違っていない認識に違いない。そう思っておくことが、一番楽なのだ。それなのに……。

 わたしには能力があると、藤人は言った。弟の言うことだから、信じたい気持ちは山々だけれど、やっぱりそう言われて嬉しいという感覚よりも先に、言われてしまったというショックの方が大きかった。

 自分に探偵としての能力があるなんて、知らなければ簡単に諦められるのに。

 なまじ「もしかしたら」と思ってしまったら、そこからは生殺しだ。

 頭で考え事をしている間にも、手は動いて怪我を治療していく。膝や肘の、倒れた拍子に擦りむいたところも消毒をしてから絆創膏を貼っていく。脱いだパジャマは、ところどころ血のシミができてしまっていた。また数が増えた、くらいなものだから気にはならないけど、そろそろ新しいものが欲しいなと思ってしまう。

 殴られた拍子に痛めた首には湿布を貼っておく。肩と、それから足首にも。

 治療が終わってから、壁に掛けていた制服を取り上げる。ビニールを剥がして、タグを切り離して、きちんと全部切り離せたか確認してから着替える。袖に手を通そうと腕を持ち上げたとき、ズキンと右肩が痛んだ。

 きちんと着替えて、腕時計で時間を確認する。十時二十五分。今日もまた遅刻だ。怪我が痛くて本当は休みたいくらいだけど、今日はどうしても休めない。

 文化祭の準備がある、からではなく。

 いつか尾長先生が言っていた、今日が進路指導の日だからだ。

 玄関を開いて、外に出た。じくじくと痛む足は、引きずるほかになかった。

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