#3 金庫の謎と高校生探偵

 案内されたのは、仏間のようなところだった。

 正面には大きな金ぴかの仏壇がそびえていて、線香の匂いが充満している。同じ煙の発する匂いでも、タバコのそれと違って線香の匂いは気分を落ち着けてくれる。

 仏壇の正面には写真が一枚、立てかけられている。写真に写っているのは白髪の老人で、何の説明もないもののおそらく彼が亡くなったという家鳴家為さんだと思われた。仏壇の周囲には弔問客が持ち込んだらしい見舞いの品が山と積まれている。

 そんな仏間に、わたしたちは車座になって正座していた。わたしの左に藤人、さらにその左が猫目石さん。わたしの右が柳葉さんで、その右が大灘くんという配置。わたしの正面には、妙齢の女性が一人いる。年頃はお母さんと同じくらいだから、彼女が藤人の言うところの伯母さん、為子さんなのだろう。

「本日はお忙しい中、わざわざお集まりいただきありがとうございます」

 と、その女性はまず一礼をした。

「あらためまして、私が家鳴為子です」

「為子さん」

 ここで神妙に柳葉さんが口を開く。

「家為さんの件、お悔やみ申し上げます。弔問が遅れてしまい申し訳ありません」

「いえ、来ていただけただけでも十分でございます」

 何やら大人のやり取りだ。わたしたちはぼうっとそれを見ている。

「それで、本日はどういったご用件で……」

「その前にまず、みなさんをそれぞれご紹介した方がよろしいかと」

 確かに。一応わたしの視点では全員が何者か、把握は出来ているけれどどうしてここにいるのかはさっぱりだ。逆に他の人からすればわたしなんて完全なイレギュラーだろうし。

「まず、柳葉龍三さん。あなたは父と交流がありましたね。詳しいことはお仕事に関わるので、私はあまり聞いていないのですが」

「そんな大したことではありませんよ。ですが家為さんのお陰で私の仕事ははかどったところも大いにありますから、彼は恩人です」

 ジャーナリストになる前の、ルポライターとして、と言っていた。何を書いていたんだろう。詳しいことは聞いていなかった。どうせ自称だろうと思っていたし。後で図書館とかで調べれば何か出るだろうか。

「次に、猫目石瓦礫さん。あなたも父と交流があったとか」

「昔の事件で、少し」

 ここで初めて、猫目石さんは口を開いた。

「ちょっとした交流程度でしたが……。その縁で、今回の件の解決に呼ばれたわけです。まだその問題の件の話すら聞いていなんですが」

 そうなのか…………。やっぱり家鳴は名家だけあって、こんなほいほい高校生探偵を呼べるものなのか。

「その隣が、私の甥にあたる藤人です。わたしたちは家子以外誰も子どもを産まなかったので、唯一の孫になります。それと――――」

 為子さんは、大灘くんの方を見る。

「こちらの大灘洋くんも、遠縁ですが親戚にあたる者です。今回の件は、うちにいる者たちはとっくに知恵を絞りつくしたようなところがありまして、それで別の視点を提供してもらいたく、彼に来てもらいました」

 へえ。意外なところで繋がるなあ。

「それで、あなたは…………」

 あ、わたしの番か。そういえば為子さんとは初対面なのだった。

「はじめまして。日辻芽里乃と言います。いつも弟の藤人がお世話になっています」

「はあ、ああ、あなたが…………」

 どことなく歯切れの悪い様子で、為子さんが答える。

「それにしても本日は奇遇ですね。どうして芽里乃さんはこちらに? 藤人が呼んだのですか?」

「いえ、勝手に来ただけです。なので先ほどから話されている問題の件とやらもさっぱりで」

「そう、それですよ」

 柳葉さんが同調する。

「結局私たちは、どういう理由で集められたんですか? 高校生探偵の彼はともかく、他の我々はどういう意味でも素人に違いない。何かこの家で問題が起きているとしても、解決できる保証はないんですよ?」

 為子さんが頷く。

「そうですね、それに関しまして、こちらからまずきちんとご説明しましょう。ですがひとつ、ご安心のために申し上げますと、今回我々に降りかかった問題は、実のところ大したことではないのです」

「大したことがない?」

「ええ。兄や叔父たちがいたずらに騒いでいるというのが実情でして……。しかし問題を問題として放置するのも禍根を残しますから……」

「一からご説明いただけますか?」

「はい」

 そこで為子さんが姿勢を正す。自然と、わたしたちも居住まいを正した。

「ことは一か月ほど前に遡ります。父の家為が亡くなったことが発端でした。とはいえ、父の死それ自体は問題ではないのです。父は病死でしたし、以前からもう長くはないと言われていましたから、みな必然のこととして受け止めました」

 ちらりと仏壇の方を見る。まあ、発端は想像できなくもない。この家でここ数か月の内に起きたイベントなんて、それくらいのものだろうし。

 そして名家の当主の死、とくれば次に待っているのは……。

「遺産相続も、滞りなく行われました。終活、とでも言うのでしょうか。父は生前、既に遺産をきちんと整理して分配する準備をしておりましたから。当然、遺書も懇意にしている弁護士先生に預けられ、父の死後、各々、適切な額の遺産を受け取る段取りとなりました」

 てっきり血みどろの争いでも起きているのかと思いきやそうでもないのか。いや、そんな争い起きてたらこんなに静かじゃないよなこの家。

「しかしここにひとつだけ、問題がありました」

 あ、やっぱりあった。

「『書斎の一切を藤人に相続する』という一文です。これに問題がありまして……」

「書斎……?」

 柳葉さんが疑問を口にする。一方の猫目石さんは本当に探偵かと疑いたくなるくらい、ぼうっとして動きがない。

「書斎の荷物を藤人くんに? どうしてそういうことに?」

「いえ、それ自体は不自然ではないんです。父の書斎は小さく個人的なものですから、仕事とは一切関係がありませんでした。おそらく離れに暮らす藤人に、本宅の居場所を与えようとでもしたのかもしれませんが……」

 思わず藤人の方を見る。

「え、藤人って今離れに住んでるの?」

 というか離れあるんだこの家。いやあるかこの規模なら。

「そうだけど……。だったらなんだよ」

「いや……」

 まあ、だから何だって話だよなあ。

「実際妙な話だよな。祖父さんが僕にそんなことをするとは思えないんだが……。単に相続相手に困って僕に押し付けただけじゃないのか?」

「うーん……」

 為子さんが腕を組んで考える。一応その可能性もあるやつだなこれ。

「実際、個人的っていうか趣味的な書斎なんだよ。相続するってなったんで僕も入って調べたが、特別高価なものはない。精々調度品が高いくらいだが、あれをわざわざ僕一人の裁量で処分して金にしたりなんてしないしさ。というか僕があの書斎を貰ってもどうしようもないから、意味のない一文ではあるんだよな」

「でも遺書にそう書いたってことは、書斎の裁量権を藤人に渡すって公言したってことでしょ? わざわざそんなことをしておいて無意味ってこともないと思うけど……」

「そうかもな。だから余計問題なんだ」

 …………どういうこと?

「話を戻しまして」

 為子さんの咳払いで話は本筋に戻る。

「問題はその、書斎の裁量権が藤人に渡ったことそれ自体ではありません。問題は、書斎の中に藤人が裁量権を持つにふさわしいか分からないものがひとつ、紛れていることでした」

「それは…………」

「金庫です」

 金庫?

 金庫って、あの?

「父の書斎には、ひとつの金庫が置いてありました。大きさは高さと幅がだいたい三十センチくらい。奥行きが五十センチくらいの小さなものです。中には書類が入るくらいのものでしょうか。それが本棚の一角に備え付けられていまして。それが問題になりました。ひょっとすると、父の事業に関する何らかの資料が収められているのではないかと」

 ようやく少しだけ、輪郭が見えてきた。

「要するに、事業に関する機密資料とかが藤人の裁量になってしまうとまずいと」

「はい。ただの資料ならともかく、土地の権利書などが入っていた場合、その権利まで藤人が受け取る格好になりはしないかと叔父たちは危惧しています」

 しかし……そんな風になるだろうか。一応、遺産の分配は終わったはずでは。ああ、だから「いたずらに騒いでいる」という為子さんの表現になるわけか。

 遺産はきちんと分配されている。その分配された遺産を家鳴家の総資産と突き合わせて考えれば、金庫の中に新たな土地の権利書など、予想だにしない遺産が飛び出ることはまずありえないと分かる。しかしひょっとしたらと思うと安心できないのか。充分遺産は貰っているのに、まだ藤人が何かを貰うのを気にするなんて随分小さい人たちだなあ。

「それで…………」

 ここでようやく猫目石さんが口を開く。

「金庫を開けて中身を確認したい、ということですね?」

「はい。金庫は四桁の暗証番号で開きますが、その番号がまったくの不明なので、みなさんにそれを探り当てていただきたい、ということです」

 ようやく、問題の筋が見えてくる。確かに、大したことのない問題だ。いや、暗証番号を当てるのだって一苦労なのだろうことは想像つくけど……。最初は高校生探偵が出てきたものだから祖父の家為さんの死に疑問があるとか、遺産を巡って脅迫状が飛び交っているとか、そんな問題を想像してしまっていた。それに比べれば気楽なクイズレベルの話だ。

「別に金庫を破壊してもいいのでは?」

 柳葉さんが身も蓋もないことを言う。本当に探偵業界のジャーナリストなのか。目の前に探偵がいて、その活躍を見られるかもしれないタイミングでそんなこと言う?

「それも検討はしていますが……」

 苦笑しながら為子さんが答える。

「中身が不明である以上、金庫を破った際に破損する恐れがあるので……。最後の手段と言ったところでしょうか」

「でしたら、さっさと解決しましょうか」

 威勢のいいことを呟いて、猫目石さんが立ち上がる。

「柳葉さん」

「はい?」

 一緒に立ち上がった柳葉さんは、為子さんに呼び止められる。

「実は柳葉さんをお呼びしたのはもうひとつご相談したことがあったからでして。といっても、父のちょっとした交流関係の事実確認なのですが……」

「なるほど。ではご一緒しましょう」

 というわけで、柳葉さんは別行動である。

「じゃあ君たち、何か分かったら後で教えてくれよ」

 と言い残して、柳葉さんと為子さんは去っていく。

「では書斎に案内しましょう」

 藤人も立ち上がって、わたしたちを案内する。こうして全員が、家為さんの写真が立てかけられた仏間を後にした。

 藤人を先頭に、猫目石さん、わたし、大灘くんの順で奥まった廊下を進んでいく。縁側と違って建物の内部に位置する廊下は日の光が当たらずに薄暗い。

「大灘くん」

 さっきから一言も発していない大灘くんの隣に並んで、声をかけた。結局所在がなくて小脇に抱えたままのプレゼントががさがさと音を立てる。

「こんなところで会うなんて奇遇だね」

「……………………」

 彼は未だに黙ったままだった。

「まさかうちの弟と大灘くんが遠い親戚関係だなんて思わなかったよ。この家にはたまに来てたりするの?」

「…………いいや」

 あ、喋った。

「今日が初めてだよ。両親から、ちょっと変わった話を聞かされて、興味が出たから来ただけだ。ただの野次馬気分だ」

「でもみんな知恵は出し尽くして打ち止めだったんでしょ? きっとわたしたちが見て何か新しいことが見つかれば、みんな喜ぶよ」

「そんなものかな……」

 それだけ言って、また彼は黙ってしまう。どうにも口数の少ない子だ。

「ここだ」

 適当に話をしていたら、目的の書斎に辿り着いたらしい。

 藤人が立ち止まったのは、木製の大きな扉の前だった。他の部屋が和風建築らしく襖や障子で仕切られているのとは対照的だ。

 扉が開かれて、わたしたちは中に入る。やっぱり、書斎は絨毯敷きの洋間造りだった。

 書斎は広さにして六畳ほどと手狭で、換気口以外に窓らしい窓がない。内側から鍵を掛ければ密室殺人が完成しそうな造りをしている。扉がある面以外の三面の壁は作り付けの本棚になっていて、中にはびっしりと本が並んでいる。

 部屋の中央には大きな木製の机と、革張りの背もたれが立派な椅子がセットで置かれている。机の上はペン皿、時計、卓上カレンダーと細々としたものが置いてあるだけで、本や資料はすべて本棚にきっちりと収めているらしい。家為さんの性格がどことなくうかがえる。

 問題の金庫は、椅子の背後にあった。入口から入ってすぐのところからでは机の死角になって見えない本棚の一角に、すっぽりと収められてある。

「ははあ、これが」

 心なしか、少し弾む声で猫目石さんが金庫を覗き込む。

 金庫の扉には電子ロックらしいものが取り付けてあって、凹凸の少ないキーパッドが設置されている。パッドの上には緑色に光る液晶画面があって、おそらく入力するとそこに数字が示されるのだろうと思われた。

「金庫っていうからてっきりダイヤル式かと思ったが、電子ロックだったのか」

「ええ、はい」

 猫目石さんの疑問に藤人が答える。

「数字は0から9までの十個。暗証番号は四桁か。やたらめったら打ち込んで当たるというものではないだろうが、最悪の場合その手も取れるか……」

「いや、それは無理ですね」

 藤人は机の引き出しから、薄い冊子を引っ張り出して取り出す。どうやらそれは金庫の説明書らしかった。

「その金庫は半年前、祖父さんが新しく買ったものらしいです。ちょうど終活とやらを始めた頃ですね。電子ロックは外部電源式で、電源を失うとロックが掛かって外れなくなるという代物です。それから、この金庫は別に警備会社と繋がっていて間違った番号を入力すると通報されるというようなことはないんですが…………」

 ぺらぺらと、説明書がめくられる。

「その代わり、間違った暗証番号を三回入力するとそれから二十四時間、入力を受け付けないというシステムになっています」

「なるほど。泥棒から守るには十分なセキュリティというわけだ。さて…………」

 猫目石さんは腕を組んで、じっと考える。

「どこから手を付けるかな…………?」

「あの…………!」

 そこで、ぐっと大灘くんが一歩前に出る。さっきまでの彼からは想像もできない積極性で少し面食らう。

「俺、ちょっと考えがあって……」

 探偵を前に、心なしか緊張しているようにも見える。

「これ…………」

 大灘くんが取り出したのは、フィルムケースのようなものだ。

「指紋採取キットです。これで指紋を取れば何か分かるかと」

「ああ」

 猫目石さんが頷く。

「その手があったな。じゃあお願いできるか?」

「は、はい……」

 大灘くんは急ぎ足で金庫に近づいて、その場に屈む。

「指紋が取れれば生前、家為さんがどのボタンを高い頻度で押していたかはっきりするかもしれないな。そうすれば番号を絞り込める。ではそれは大灘くんに任せるとして、僕たちはこの書斎をもう少し調べてみるかな」

 ぽりぽりと、顔の肌が白くめくれたところを掻きながら呑気に猫目石さんが方針を告げた。捜査の指針をパッと決めるあたりは探偵らしいのかもしれないけれど、どうにも呑気というか、大灘くんとは違った方向性で覇気のない人だ。

 単にこの暗証番号の捜査に乗り気でないだけかもしれないが、意外だ。探偵なのだしもう少し、謎に対してがっつくような性格だと思っていた。

 ともかく、猫目石さんの示した方針に反対はない。大灘くんが指紋採取をしている間に、わたしたちは書斎の中をあらためる。

 まず気になるのは、もちろん書斎の中に収められている本だ。

「ミステリーが多いですね」

「そのようだな」

 本棚に収められているのは、単行本、文庫本、ノベルスと種類は様々だったけれど、どれもミステリーの類らしく思われた。どれも普通の本で、特別なものはない。サイン本でもあれば別だけれど、そうでないのなら仮に初版本でも大した値が付くことはないだろう。なるほど、藤人が一番高いのは調度品と言ったのも頷けるし、この書斎が趣味的なものだというのも納得だ。

「家為さんはミステリーを読むのが好きだったのかい?」

 猫目石さんの質問に、藤人は肩をすくめた。

「分からないですね」

「分からない?」

「ええ。この書斎は祖父さん以外はほとんど入りませんでしたから。祖父さんは忙しいときも身の回りのことをかかさず自分でするような人間で、書斎の掃除も自分で全部やっていました。入ることを禁じられたわけでもないですが、必然的にあまり人が近づくようなところじゃないんですよここは」

「ふむ…………」

 また考えるように、深く猫目石さんは頷く。本当にちゃんと考えているのだろうか。

「この中の一冊に、暗証番号をメモした紙が挟まっているとか、そういうことは?」

「さあ。叔父たちが随分探したはずですけどね」

 そういえば、その辺りの話を聞いていなかったな。

「叔父さんたち、随分調べていたみたいだけど具体的には何をしてたの?」

「具体的にって……。誰でも思いつくことだよ。書斎中の本をひっくり返してみたり、保管されている手帳をひたすらめくったり。後は思いつく限りの番号を何日もかけて金庫に入力してみたりだな」

「成果はなかったんだ」

「そりゃあな。祖父さんも年だったからメモのひとつでも残しているのかと思ったが、手帳にもそれらしい記述はひとつもないし……。暗証番号も祖父さんの誕生日に祖母さんの誕生日、結婚記念日に祖母さんの命日とか、思いつく限りは入れたらしいが……」

 見ると、猫目石さんは机の引き出しから手帳を取り出して眺めていた。どうやら家為さんは使った手帳を書斎に保管していたらしい。

「思いつく限りの番号って、他には?」

「とにかく何でもだよ。親兄弟に娘息子の誕生日。会社の設立記念日に各種預金口座の口座番号やクレジットカードの番号。果ては偶然書斎に置いてあったとした思えない千円札の通し番号までな」

 それだけやれば偶然何かしら引っかかりそうなものだけど、上手くいかないものだな。

「会社……。そういえば家為さんは何の仕事をしていたの?」

「製菓会社だよ。祖父さんの父親の代から続いているらしい。それなりの大きさで、だから家も裕福らしいが詳しくは知らない。でも叔父もみんなその会社に勤めてるらしいから、家族経営ながらそれなりに大きいんだろうな。だからその金庫の中に会社関係の書類があるかもしれないって危惧してるわけだし」

「ふうん……。あ、これって」

 藤人と会話を続けながら本棚を見ていると、薄い一冊の冊子を見つけた。引き抜いてみると『家鳴製菓社史』と書かれている。ぺらりと一枚めくると、さっき仏間で見た写真と同じ顔の人が写っていて、前書き代わりにちょっとした長さの文を載せている。さすがにこっちの写真は仏間のものより若々しく写っていて、肩書は『二代目・家鳴家為』と書かれている。

 ひょっとしたら何かヒントがあるかもしれないと思って、その文章に目を通す。

『私が父からこの事業を引き継いだのは、今から三十年ほど前になる。当時、我が社の主力製品は軒並み大企業の安い製品に押される苦境にあり、私としては不良債権を押し付けられたような気分になった。というのも、当時の私は一会社員としてこの家鳴製菓に勤めながらも、勤めを第一とは考えていなかったからだ。私には他にやりたいことがあり、そのために日々を邁進していた。仕事など日々の糧を得るための手段としか見なしていなかった。だからこそコネ入社も気にせずに父の下で働いていたというのもあったのだが………………』

「ちょっと見てくれないか?」

 猫目石さんの声で、集中力が途切れる。まあどうせ外れだろうと思って社史を元の位置に戻し、猫目石さんの傍に寄った。

「何かありましたか?」

 藤人も近づいた。

「何か、かどうかは怪しいが……。少し気になることがあってね」

 猫目石さんは持っていた手帳を広げてわたしたちに見せてくる。

 それは手帳のスケジュール管理のための、カレンダーのページだった。

「こんなところ見てたんですか?」

 呆れたように藤人が言う。

「暗証番号をメモ書きするなら、後ろのメモページを使うと思うんですけど」

「一応、念のためにな。そしたら少し、家為さんは面白い書き方をしているらしいのを見つけた」

「と、言いますと?」

「ほら」

 指で示された個所を見る。三月二十三日。そこが丸で日付が囲まれている。

「おそらく何らかの用事があったのだろう。しかし余白があるにも関わらず、日付に丸を打つ以外のメモがまったく見当たらない。そしてこの下の三十日は三角印で日付を囲んでいる」

「はあ…………」

 つい気の抜けた変事をしてしまう。

「見たところ、これが家為さんの手帳の使い方らしい。おそらく彼は、日付さえメモしておけば後で見返したとき、きちんと何の用事だったか思い出せたんじゃないか?」

 あれ、じゃあ…………。

「メモ書きを残すまでもなく記憶に残ってるってことですか?」

「そういうことになる。それだけ記憶力に自信のある人間が、暗証番号をメモするとは考えにくい。当然、メモすればそれがセキュリティの穴になるからだ。暗証番号のメモを探すのは諦めた方がいいだろう」

「ええ………………」

 じゃあ何のために調べていたんだろう。

「他のカレンダーにも、ひょっとしたら同じような痕跡があるのかな?」

 猫目石さんのその言葉に反応して、ふと、卓上カレンダーを持ち上げて確認してみた。カレンダーは一か月ごとにめくるようになっていて、八月で止まったままになっている。何となく想像はついていたけど、家為さんの四十九日はもうとっくに過ぎているわけだ。

 カレンダーにははたして、手帳と同じような丸印あって、日付を囲んでいた。三角印はないから、ひょっとすると丸印は個人的な用事だったのかもしれない。だから書斎の卓上カレンダーにも書かれているのかも。

 一枚めくって、九月を見てみる。家為さんの死が八月なら、当たり前だけど九月はまっさらだ。個人的な用事ならそんなに早くから予定が決まっていることも少ないだろうし。

 さらにもう一枚、何となくめくってみた。当然、そこもまっさらだと思いきや、ひとつだけ、丸印で囲まれている日付があるのに気づく。

 この日付、昨日の…………。

「指紋、出ました!」

 大灘くんの声がする。卓上カレンダーはさて置いて、金庫の前に全員が集った。

「こんな感じです」

 いつの間にやら手にしていたライトを持って、大灘くんがキーパッドを照らす。真っ青な光に照らされて白い指紋がくっきりと浮かび上がる。

 いろんな人が手あたり次第試したのだろう。指紋はパッドのあちこちにたくさんついている。それでも、特に触られた回数の多いところは指紋が折り重なって白く浮き出ているからかろうじて分かった。

「1、4、0…………。おそらくこの三個所が最も多く触られている」

 指紋を確認しながら、猫目石さんが呟く。

「三個所?」

 大灘くんがオウム返しに聞く。

「ああ。三個所で間違いないだろう。つまり、四つの番号の内、どれかは二回使われているということだ」

 二回…………。ここまで絞り込めれば後は簡単だろう。

 少し、拍子抜けな気がした。

 今回の件は別に、梅子のときみたいにタイムリミットが設定されているわけじゃない。金庫は三回入力する番号を間違えれば一日は入力を受け付けないというシステムだけど、裏返せばペナルティはそれだけだ。時間は掛かるけれど後は総当たりで解けなくもない。金庫の破壊なんて暴力的な手段に出ずに済むなら、他の人たちもそれで納得するだろうし。

 とかなんとか考えていると。

 ちらりと、猫目石さんがこちらを見る。

 それから、わたしの持っていた藤人への誕生日プレゼント、そして机の上の卓上カレンダーに目を滑らせる。

「ああ」

 そして、とんでもないことを口にする。

「それが番号か」

 え……………………?

 ひょっとして、番号分かったのこの人?

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