第2話:一番優しい暗証番号

#1 父、母、弟

 目が覚めると、灯りの消えた蛍光灯がぼんやりと天井に見えた。横を見ると、閉じられたカーテンが日の光に照らされて、そこだけ明るく輝いている。

 鼻をひくつかせると、タバコの臭いが入ってくる。

 体を起こす。わたしが寝ていたのは、お父さんの布団の上だ。当のお父さんはどこかへ行ったのか、気配がない。さっき、夢心地の中で扉の開閉する音をどこからか聞いたような気がするから、ひょっとしたら外出したのかもしれない。

 全身にぐったりと汗をかいて、はだけていたパジャマが張り付いている。立ち上がって、部屋を後にした。

 ダイニングに移動して、壁掛け時計を確認する。電池を交換して動くようになった時計は、十二時過ぎを指している。不思議と、空腹は感じない。

 汗みどろのパジャマをはぎ取りながらテレビを点ける。お昼のワイドショーでは探偵がどうのと言っているけれど、どうにも頭に内容が入ってこない。

 頭をスッキリさせるためにも、一度シャワーを浴びることにした。服を脱いで浴室に入る。うちのアパートの浴室はトイレと一体になったものだ。湯船の中に入って、内側からカーテンを閉める。浴室の色合いに似合わない真っ青なカーテンには、どす黒いカビがあちこちに染みついている。

 古いアパートのことで、湯の調整も自動ではない。熱湯と冷水の二つの蛇口を捻る。備え付けの洗面台の方に水が流れ始めた。ついうっかりだ。レバーを捻って、シャワーの方に水が出るようにする。

 お湯が良い温度になるまで待つのも面倒で、そのまま頭から被る。髪を抜けて頭に冷水がしみこむと、ズキズキと痛みが増してくる。

「いつつ…………」

 さっき、お父さんに押し倒されたときに灰皿に頭をぶつけたのだ。そっと後頭部を触ると、質量の多い髪に隠れて分かりづらかったけれど、コブになっている。

 他にもやたらに強く掴まれた両肩には手の跡がくっきりと残って痣になっている。体重をかけてのしかかられた足もじくじくと痛んで、立っているのが辛くなって湯船の中にぺたりと座り込んだ。

 ちょうど、冷水から温水に温度が変わる。

「まったく、乱暴なんだからなあ」

 呟いてみる。それで何か変わるわけではないけれど。

 今日のお父さんはパチンコで勝ったらしくて上機嫌だったので、もしかしたら大丈夫だと思ったのだけど、その計算が甘かった。弟の誕生日プレゼントがほしいと言ったら殴られた。

 お父さんは基本的に弟たちが嫌いだ。たぶん、出て行ったお母さんたちを思い出すから。

 でも、どうしようかな……。弟の誕生日、明後日なんだけど。

 車とバイクが好きな弟の誕生日プレゼントは決めてある。そんなに高いものは買えないから、ひとつだけ、良いものを考えてあった。

 突然、温水が冷水に変わる。

「うわっぷ」

 唐突な変化に驚いて、空っぽの湯船の中でバタバタと体をばたつかせてしまう。慌てて立ち上がったときには、シャワーは元どおり温水を何食わぬ顔で吐き出していた。

「……なんとか、なるかな」

 口にしてみる。それで何とかなるわけじゃないけど。

 でも、実際に何とかなる気がするのだ。

 思い出すのは二週間ほど前の、梅子の件。

 連絡先も分からなくて、ずっと会いたいと思っていた梅子や梅代さんと再会できた。だけじゃなく、梅子が代乃のことを説得してくれると言った。

 たぶん時間はかかるし、ひょっとしたら梅代さんは結局代乃を引き取ってはくれないかもしれないけれど、前進はしているのだ。

 だから、何とかなる。何ともならないと思っていたことが、何とかなったんだから。

 湯船から出て、体をバスタオルで拭きながらダイニングに戻る。裸でふらつくと波介が嫌がるのだけど、彼も佳朗も今は学校だから気にしなくてもいい。

 ドライヤーで髪を乾かしている間、つけっぱなしにしていたテレビを見る。十月からの新番組だとかで、刑事もののドラマの宣伝を盛んにしていた。画面越しに男性俳優が「明日十月三日から放送開始!」と威勢よく喧伝する。それ以外のことは、ぼんやりとしてやっぱり頭に入ってこない。

 チャンネルを変えてみた。今度は子どものいじめが激化しているとかで、社会学者を名乗るスーツ姿の男性が神妙な面持ちで何かを語っていた。

「子どもたちのいじめによる自殺は後を絶ちません。さらにいじめはここ数年で激化の一途を辿っています」

「激化と言いますと……」

 キャスターらしい人が尋ねる。

「一昔前のいじめは集団で無視をするとか、悪口を言ったりとかですね。これも十分、自殺に追い込まれるだけの非常に厳しいものでしたが、最近はネットも発達していますから、SNSでの誹謗中傷、暴行動画のアップロードなどがあります。しかし激化、というのも少し違うように感じます」

「と、言いますと?」

「先ほども言いました通り、ネットの発達でいじめの方法にも変化がありました。しかし基本は同じなんですね。集団によって、一人の人間の尊厳を棄損する。そこにいるのにいない者のように扱ったり、逆にレッテルを張って過剰に存在を強調したり。やり方が変わっても、本質的な部分では変わらないと私は考えています」

 分かるような、分からないような話だ。単にそれらしいことを言っているだけにも聞こえた。

 探偵が出ていないので、あまり興味も湧かずにテレビを消してしまう。ちょうど髪も乾いたので、適当な私服に着替える。学校に行く気分ではなかった。どうせ今日は佳朗が早めに帰ってくる日だから、別にいいやと思った。

 だから早めに夕飯の買い物でも済ませようと思ってアパートを出た。

 いつも買い物をしているスーパーは、徒歩十分ぐらいの距離にある。手ぶらならともかく、買ったものを抱えて歩くとなると短い距離とは言いづらい。自転車が欲しいところだけれど、あいにくうちには車輪の付いた乗り物は存在しなかった。

 仮にあったとしても、わたしは自転車に乗ったことないから乗れるかは分からない。

 スーパーは時間帯が時間帯だけに、人がまばらだった。他のスーパーならタイムセールのタイミングでも狙うのだけど、このスーパーはタイムセールなしでいつも安くするのがウリなので、わたしのようにタイミングを計れない人間は重宝する。

「今日の夕飯、何にするかな……」

 考える。波介も佳朗も食べ盛りだから、どうやって量を増やすかがいつも悩ましいところなのだ。

 二週間前からここしばらくはカレーが続いた。雪宮さんのところで作ったものを持って帰ったのだけど、鍋二杯分のカレーはさすがに食べ盛りの二人でも簡単には食べきれなかった。ここしばらくカレーは勘弁という感じだろうから、やめておこう。

「あっ」

 適当に店内をうろついていると、麻婆豆腐の即席調味料が投げ売りされているのが目に付いた。在庫の入れ替えのために、おつとめ品扱いで値引きされたのだろう。確認すると、代乃が食べられる甘口がある。

 麻婆豆腐にしよう。豆腐はいつも安いし。

 メインは決まって、後はサラダだ。成長期の二人には、バランスよく食べてもらわないといけない。二人ともあまり生野菜は好きではないのだけど、最近は無理に取り分けて目の前に置けば、置いた分だけは食べるようになってくれたのでありがたい。

 安い野菜を探しながら店内を再びふらふらしていると、ふと、冷凍食品のコーナーに辿り着く。もし安くなっていれば今のうちにギョーザあたりを買い込んでおこうかなと思って立ち寄った。

 結果から言えば、当ては外れてギョーザは特に安くなってはいなかった。安くなっていたのは冷凍のグラタンだけだ。

 グラタンかあ……。

 家でグラタンを出したことはない。冷凍食品のグラタンは値段の割に量が少なくて、安くなっていてもなかなか手が出しづらい。マカロニとソースの元がセットになっていて自分で作れるものもあるけれど、うちのトースターでは一度にたくさんは作れない。そもそも耐熱皿がない。というか、グラタンって白ご飯にどう合わせていいのか分からなくて、食べたくてもそういう諸々のことを考えると真っ先に献立の候補から外れる。

「芽里乃」

 しばらくグラタンを眺めていたら、横合いから声を掛けられた。

 振り向くと、そこにはお母さんが立っていた。

「お母さん? 今日はもう仕事終わったの?」

「ううん、ちょっと休憩時間に抜け出してきただけ」

 確かに、よく見るとお母さんは働いているパチンコ店の制服姿だった。

「家に戻ったら誰もいなかったけど、あなたの制服が掛かっていたから、学校じゃなくてここにいるんじゃないかと思って」

「そうだったんだ……。でもどうしたの?」

「これ」

 どういうわけか、お母さんは周囲の目を盗むように辺りをチラチラ見て、それから懐から封筒を取り出した。

「え、何?」

「ほら、もうすぐ藤人くんの誕生日でしょ? そのことを話したら、店長さんが『これでプレゼントでも』って」

「………………え?」

 中身を見る。決して多い額ではないけれど、プレゼントを買うには十分なお金がそこには入っていた。

「お母さん。でも…………」

「いいの」

 お母さんはわたしの肩に手を置く。

 お父さんと違って、優しい手つきだった。

「藤人くんと私は血が繋がってないけどね。芽里乃、あなたにとって大事な弟なら、私にとっても大事な子どもなんだから、ね」

「…………ありがとう」

 思わず涙が出そうになるのを堪えて、わたしはお母さんの手に自分の手を重ねた。

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