#4 神の舌でも分からない

 腕時計を確認すると、時間は二時を過ぎたところだった。

 五限の終わり。早退するにはちょうどいい時間だ。

 こそこそとする必要はなく、むしろ堂々として鞄に荷物を詰め込む。周りのクラスメイトも、誰もそれを咎めたりはしない。

「日辻」

 声をかけられて顔を上げる。目の前に狼滝くんが立っていた。

「行くのか?」

「うん」

 わたしは頷く。

「代乃に関わることだからね。学校なんて行ってらんない」

「俺も後から行くぜ」

「え?」

 予想外の申し出に面食らう。

「場所は『歪んだ果実』でいいよな? 今すぐってわけにはいかねえけど、学校が終わったら行くぜ」

「うん…………。でもなんで?」

「乗り掛かった船だろ」

 狼滝くんは頭をポリポリと掻く。

「探偵生徒会として――梅子ちゃんだったか――あの子の話は興味深い。それ以前に俺はクラス委員長だ。野暮かもしれないが、クラスメイトの問題を知ってて無視ってわけにもいかないだろ」

「野暮なんて……。うん、ありがとう」

「俺は俺で、隠し味の件については別のアプローチを思いついてる。お前が思い出すのが一番早いんだけどな。準備が整ったら行くぜ。先にやっててくれ」

「うんっ」

 正直なところ、どうしようかと悩んでいたところだ。梅子の出した条件はわたし一人だけが解決できるような問題だったけれど、そのわたしが解決の糸口を何も掴んでいない。しかもタイムリミットは今日の六時と決まっている。焦っていたわたしに、狼滝くんの申し出は渡りに船だった。

 乗り掛かった船に渡りに船。いい感じだ。

 少しだけ幸福な気分になって教室を出る。昇降口を目指して歩く足取りも、若干スキップ気味になる。

 と、そんな馬鹿なことしていると、正面から面倒がやってきた。

 うちのクラスの担任である尾長先生だ。しまった。六限は数学だったか。入れ違いになるように遠回りするべきだった。

 仕方ないので、こっそり感を演出するために首をすぼめて、縮こまって廊下の隅を歩いた。当然、そんなことをしてもバレるので、尾長先生は竹製の長い物差しでこっちをびしっと指して、だみ声でがなり立てた。

「おう日辻。お前俺様の授業をサボるとは良い度胸だな」

「お、お助け……」

 両手を上げて降参ポーズをする。降参したらサボれないから本当にただのポーズだ。

「この遅刻魔欠席魔のサボり魔め。お前もう中二なんだからいい加減に落ち着けよ」

「落ち着きたいのは山々なんですが。あっちに美味しそうな牧草が」

「文字通り迷える子羊じゃねえか。なんだ? 俺はお前を追い立てるのに牧羊犬でも飼えばいいのか?」

「是非ご検討を」

「やかましいわ」

 まったく、と尾長先生は溜息を吐いた。

「今朝はお前だけじゃなくて狼滝のやつまで途中でサボったからな。まったく……。まああいつはいいや」

「それは差別では」

「探偵生徒会だからな。あいつらにはあいつらの仕事がある。お前と違ってな」

 こっちも大事な仕事なのに。

「まあいいや、止めてもどうせサボるんだろ。ほら行った行った」

 どうやら許されたらしく、それなら遠慮なくと脇を通り抜けた。

「そうだ、おい日辻、ひとつ伝え忘れてた」

「はい?」

 通り抜けがてらに振り返る。先生は物差しを肩にあててトントン叩く。

「お前、今朝いなかったから伝わってなかったな。一か月後に進路指導するって話。文化祭の準備中なんだけどな、それくらいの時期にざっくりでもいいから進路決めてもらった方がこっちも安心するんでな」

「進路………………」

 それは、ちょっと予想外だった。

 進路って、何を考えればいいんだろうか。

 普通は自分の成績に合わせて高校を選んだりするものだということくらいは分かる。でも、我が家の懐事情は人一人が進学できる余力を残しているとは思い難かった。それこそ次の日にはどこかの裕福な家庭の子どもを身代金目的で誘拐しかねないくらいには逼迫している。

 ひょっとしたら福祉系や商業系の、手に職をつけるタイプの高校なら奨学金などを使えば行かせてもらえるかもしれないけど、基本的には無理だろう。

 わたしは家計を助けないと。

 そもそも勉強とか、わたし全然できないし。勉強するより働いて稼いだ方が良さそうだ。

 でも、そう考えるのが当然でベストのはずなのに、そうやって将来を考えると、ずどんと鉛玉を飲んだみたいに胃のあたりが重たくなってずしりとくる。

 それは、なんでだろう。

「分かりました。進路指導はサボらないようにします」

 と、それだけを言って、わたしはほとんど逃げるようにその場を後にした。

 できるだけ進路指導のことは考えないようにするために、今朝の梅子との話を反芻しながら。


「カレーの隠し味?」

 突然の提案に、わたしは素っ頓狂な声を上げていた。

 時間は戻って、今朝の喫茶店『歪んだ果実』である。

「そう。それがずっと気になってた」

 と、梅子は神妙な面持ちで言う。

「気になっていたと言われても」

 思わず狼滝くんと顔を見合わせる。彼の顔を見ても何かが解決するわけではないのだが。

「わたしは…………」

 カレーに隠し味なんて、入れたことはない。

 これといって特別なことを、カレー作りでしたことなんて一度もない。

 でも、それを言い出すと話がこじれそうだと直感して黙っておくことにする。

「『神の舌』なんて呼ばれていても、分からないもんなんだな」

 狼滝くんの言葉に、少しだけむっとした様子で梅子が返す。

「所詮『神の舌』なんて世間様に向けたうたい文句だし。舌が敏感だからって、全部の感覚を言葉にできるわけないじゃん。あんた、急に鼻がよくなったとして、嗅いだ匂いを全部言葉で説明できる?」

「そう言われれば分らんでもないが……」

 カウンターで料理のカットを撮影していた人たちが引き上げていく。残った料理を片付けながら、雪宮さんが口を挟む。

「カレーの隠し味とはまた興味深い……。ああ、ひょっとしてカレーをさっきから食べていたのも?」

「そう、これね」

 梅子がスプーンで示した。あのシチューライスだ。

「え、これカレーなんですか?」

「そう。喫茶店『歪んだ果実』特製のホワイトカレーだ」

「他の料理は平凡だったけど、これはちょっと美味しかった」

「気に入ってもらえたら光栄だな」

 さすがに梅子の居丈高な言葉にも、雪宮さんは大人の対応である。まだ高校生らしいけど。

「そのカレーに隠し味のヒントでも?」

「うん。やっぱり言葉にはできないんだけど、似てると思った」

「似てる?」

「この喫茶店のホワイトカレーと、お姉ちゃんがいつも作ってたカレーは似てる」

 この変な色のカレーと、似てる?

 どういうことだろう。

 ふと、梅子が腕時計を見る。つられて、わたしも自分の物を見た。時刻は十一時をとっくに過ぎて、十二時に差し掛かろうとしていた。

 もうお昼時か。

「そろそろ行かないと」

「そうなの?」

「うん」

 梅子が立ち上がる。

「あたし、今日は一日中ロケだけど、午後六時になったら終わる。そしたらまたここに来るから、そしたら隠し味、教えて」

「それは、構わないけど…………」

 実際は滅茶苦茶構う。

 隠し味なんてさっぱりだ。その上、梅子はわたしが隠し味にまるで心当たりがないのに気づかず、タイムリミットまで設定してきた。

「たぶん、今日を逃すとママのガードが固くなる。連絡は取りづらくなるから、もし代乃の件で説得を手伝ってほしいなら、よろしくね」

 それだけ言って、梅子は去って行ってしまう。後に残されたのはわたしと狼滝くん、それからマスター代理の雪宮さんだけだった。

「随分自分勝手に言いっぱなしだったな」

 狼滝くんがしばらくして呟く。

「ううん。そうじゃないよ。梅子は昔から素直じゃないから、交換条件みたいにしないと譲歩とかできなくて。本当はすごく協力してくれてるんだよ」

「そんなもんかねえ」

 こればかりは、狼滝くんには分からない感覚だ。二年間だけとはいえ、姉として梅子を見ていたわたしだから分かる感覚。

 姉妹だから理解できるコミュニケーションの範疇だ。

「あ、そうだ。すみません雪宮さん」

 思い出して、くるりと雪宮さんの方へ向き直る。

「勝手にここ、集合場所にしちゃって」

「いや、別にいいよ」

 雪宮さんは柔らかく笑って許してくれる。

「それより…………。ひょっとしてだけど、君は隠し味についてピンと来ていないんじゃないのか?」

「う…………」

 バレていた。

 さすがに料理をする人にはバレるか。

 と、そこで雪宮さんは予想外の提案をしてくれた。

「よかったら、俺にも手伝わせてくれないか?」

「隠し味探しを、ですか?」

「ああ。余計なおせっかいだとは思うけど。しかし天才子役で『神の舌』を持つと言われたあの子が気に留める隠し味だ。がぜん興味がある」


 そういうわけで、料理ができて梅子が「似ている」と評したカレーの作れる人、雪宮さんを仲間に加えて検証を開始するべく、再び喫茶店『歪んだ果実』に足を踏み入れた。

「やはり気がかりなのは」

 エプロンを着けながら、雪宮さんが呟く。

「似ているという二つのカレーだろう。うちのホワイトカレーは色を出すためにいろいろ食材を普通のカレーから変えているから、その中のどれかが梅子ちゃんの琴線に触れたはずなんだが……」

「問題は…………」

 わたしも借りたエプロンを着けながら答える。雪宮さんが白い雪の結晶をワンポイントにしていたのに対し、わたしが着ているエプロンは葡萄の房と葉が染め抜かれていた。

「そのホワイトカレーとの共通点が、わたしのカレーにあるとは思えないってことですよね」

「話によるとそもそも隠し味を使ってないんだったよね?」

「はい。だからもうさっぱりで」

「ふむ……」

 鍋を準備しながら、雪宮さんが考える。

「この場合、考えられるケースは二つだ。ひとつは梅子ちゃんが、何かを勘違いしている場合。人間の記憶は曖昧だから、君の作ったカレーを特別だと思い込むうちに、味の記憶に変質が起きた。それを彼女が隠し味だと勘違いしている場合」

「でも、それじゃあ……」

「そう、彼女から言われた条件は満たせない。仮にこっちが真相だったとしても、俺たちはこっちを追いかけるわけにはいかない。それじゃあ梅子ちゃんが納得するはずがないからだ」

 必然的に、梅子の記憶違いという線は消さざるをえない。

「もう一つのケースは……」

「逆に、君の記憶に欠落がある場合。君が普段、普通に作っていると思い込んでいるカレーの中に、特別な工程が含まれている可能性がある」

 そちらの可能性が高い。というか、そうでないと困る。梅子に隠し味を教えられないから。

「まずはそれを検証してみようか。というわけで、普通に食材を買ってきてもらったわけだけど……」

「これです」

 マイバッグを持ち上げてキッチン台の上に置く。ここに来る前に、実は食材の買い出しを済ませていた。普段は買い物からわたしがすると伝えたら「じゃあそこも忠実に再現しよう」と雪宮さんが言って、三千円渡してくれた。代乃のことがあるとはいえ、かつかつの家計でここからさらに検証のための食材費を出すのは大変だったので負担してもらえてありがたい。

「えーっと、まずお米はこの喫茶店で使っているものと同じだったので省略して、市販のカレールーですね」

「市販の……。じゃあ本当に普通のカレーなのか。種類は?」

「バーモントの甘口を。代乃がまだあまり辛すぎるものが駄目なので」

 もっとも、梅代さんがお母さんをしていて梅子がいた頃は、代乃は生まれたばかりでわたしたちとは別のものを食べていたんだけど。その代わり、まだ波人が小さくてやっぱり辛口は駄目だったので、うちでは長いことカレーは甘口だ。

「あとは、玉ねぎと、ジャガイモと……」

「ジャガイモの種類は?」

「いつも行くスーパーでそのとき一番安いものを。だから種類にも産地にもこだわりはなくて」

「安いものが中心か……。その時々で違うとなると、それが彼女の意識に残る味に関わるとは考えにくいな」

「そうですね。それで、お肉も安いものを求めるので、鶏肉が主になって」

 今日は割引されていた鶏もも肉を使う。

 鶏もも肉をパックごと置くと、すっと、なぜか雪宮さんは視線を逸らした。…………なんで?

「あっ」

 彼の動作を不審に思いながらマイバッグをごそごそ漁っていると、出し忘れていた野菜に気づく。

「これ忘れてました。ニンジン」

 さっと取り出して、雪宮さんの正面に突き出す。

「う、うおうっ……!」

 露骨に、雪宮さんがのけ反る。

「……………………」

「……………………」

 わたしたちはその場で数瞬、固まる。

 もう一度。

 バッグにニンジンを入れる振りをしてから、またさっと取り出して雪宮さんの正面につき出してみた。またしても雪宮さんは大仰にのけ反って、目線を逸らした。

 なぜに。

「雪宮さん、ニンジンが嫌いなんですか?」

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが……」

 姿勢を整えて、雪宮さんがニンジンを下げさせる。

「俺は赤色が嫌いなんだ。赤っぽい色はだいたい嫌いでね。それこそのけ反るくらいには」

「はあ…………」

 赤色が嫌い?

 なんだそれ。

 ああ、だからそれで今朝、梅子を見るときに目を細めていたのか。彼女、赤いパーカーを着ていたし。

 梅代さんが真っ赤なスーツ姿で現れたとき、金切り声あげて気絶していてもおかしくなかったんじゃないかなこの人。

「じゃあお肉も……」

「見るのはあまり好きじゃない」

 これは重症だ。

「じゃあ早いところ煮込んでカレー色にしちゃいましょう」

「それがいい」

 食材を洗い、皮をむいていく。皮をむいた野菜は適当な大きさに切って、油をひいた鍋に入れて炒めていく。肉も投入し焼き色がついたところで水を入れ、蓋をして十数分待つ。

 ここまでは、というよりわたしのカレーは全部の工程が市販のカレールーの箱に書かれたレシピ通りだ。お母さんたちは確かにたくさんいたけれど、その誰もが料理を教えてはくれなかった。だからわたしが手本としたのはそういう、市販品に書いてあるおススメのレシピとかそういうものだ。

 小学校で調理実習をやるより先に、包丁は握っていたし。

「ところで」

 煮込んでいる間、暇だったということもあってわたしは雪宮さんに質問する。ところでとは言い条、もともとの目的に関わる話を。

「猫目石瓦礫と雪宮さんって、知り合いなんですよね?」

「……そういえば君たちは、猫目石に会いに来たって言っていたね」

 それがもともとの目的だ。

「俺とあいつは小学校と中学校で同級生だったんだ」

「同級生…………」

 じゃあ雪宮さんも今高校三年生なのか。猫目石瓦礫は十八歳だったはずだ。

「いまいち記憶に残らないやつだったよ。背景に溶け込んでいるというか、それこそ書割に描かれていそうなやつだ。たぶん俺たち同級生は、あいつが探偵としての能力を持っているだなんて、思ったことはなかっただろうな」

 意外だ。高校生探偵なんて言うから、もっと華々しい人のイメージがあったけれど。メディアの露出を抑えているからワイドショー探偵なんかと違って、わたしは顔も知らないんだけど。

「でも五年前だ。ある事件があってね、そこで猫目石瓦礫は注目された。ほんのわずかな間だったが、あいつに探偵としての能力があるんじゃないかと思われたことがある」

「五年前?」

 猫目石瓦礫が現在、『高校生探偵』として注目されている原因。それは警視庁お抱えの顧問探偵にして小説家の『創作探偵』宇津木博士の死と関わっている。

 宇津木博士はある事件によって殉職した。先月八月の話だ。

 奇妙な形状の館で起きたことからその館の名前を取り『タロット館事件』と称されたその事件を、宇津木博士に代わり解決したのが猫目石瓦礫だったのだ。以来、猫目石瓦礫は、宇津木博士の後継者として注目されるようになった。この辺りの話は、ざっくりと今朝、柳葉さんが話したことでもある。

 でも五年前? それは、知らない。

「『奈落村事件』と世間では呼ばれた。ある新興宗教団体が牛耳る村に、俺や猫目石の所属していた剣道部が遠征途中に拉致されてね。そこでいろいろあって、最後に村は大炎上して大勢が死んだ。生き残ったのは百余名いた村人と剣道部員総勢のうち、僅かに四名だった。その中の一人が俺で、猫目石だったんだ」

 はたして猫目石瓦礫は、『奈落村事件』で自分の探偵としての能力に自信を持ったのか、それ以前から自信があったのかは分からない。ただ、間違いなくターニングポイントだったろうと推測がつく。

 探偵としての自分というありかたを発見するには、『奈落村事件』はほどよい題材だっただろう。

「事件そのものは、新興宗教絡みだった上に大量の死傷者を出したことでネタにもできなかったんだろう、テレビではほとんど報じられなかった。だからこそ、ただ生き残っただけの猫目石がろくに検証も受けず、Dスクールに入れた」

 雪宮さんの言い分で、今朝の彼の表情を思い出す。この人は猫目石瓦礫の話をすると、どこか苦い表情をしていた。

「猫目石瓦礫が、探偵にはふさわしくないと思っているんですか?」

「いや、そうじゃない」

 彼は頭を振った。

「あいつの実力が本物なのは『タロット館事件』で証明されている。ただ、今朝の取材があったから少し愚痴っぽくなっているだけだ。たぶん、雑誌の記者は『奈落村事件』も、俺がその生き残りだということも知っていたんだろう。インタビューの会場をここに設定して、あわよくば五年前の話を引きだそうとしていた。それに乗っかる猫目石ではないが、イラついたのは事実だ」

 それで、猫目石瓦礫がここで取材を……。どうしてこんな平日に水仙坂大学付属高校から遠いここで取材をしているのかと思ったら。

「しかし妙だな。猫目石のやつは目立つのが嫌いだったはずなんだが、取材なんてどういう風の吹き回しだ?」

「探偵で目立つのが嫌いというのも矛盾している気がしますが」

「それもそうか」

 なにせ今や探偵はスーパースターだ。目立って当然目立ってなんぼ。目立つのが嫌いといは言いつつ、探偵をやっている以上はある程度の目立ちたがり屋なのは明白だ。

「あ、じゃあもしかして赤色が苦手っていうのも…………」

「五年前の影響だ。あのときは、一生分は死体を見たからな」

「よく働けますね。赤色なんて料理をしてたらいずれ見そうなものなのに」

 なにせニンジンのような橙色も、生肉のような桃色も嫌がるほどなのだ。もう社会不適合者のレベルである。

「ここのマスターが良い人でね」

 雪宮さんはほほ笑んで肩をすくめた。

「俺はもともと、五年前の事件があろうとなかろうと親父と上手くいっていなかった。それで家出さ。そこをここのマスターに拾ってもらった。ホワイトカレーも、元は赤色が駄目な俺のために作ってくれた料理だったんだが、いつの間にかこの店の看板メニューだ」

「そういう事情が……」

「昔はもっと酷かったからな。それこそ突然赤色が目に飛び込んで来たら卒倒していた。だから食材にも一切赤色なしのカレーは助かったよ」

「なるほど」

 雪宮さんと無駄話をしていると、学校が終わった狼滝くんがやって来る。

 彼は手提げかばんを重そうに持っていた。

「いやあ、何とか間に合って良かったぜ」

「何かあったの?」

「ああ。これだ」

 狼滝くんが手提げかばんの中身をテーブルのひとつに置いた。それはノートパソコンといくつかの光学ディスクである。

「梅子が出て食レポしてる番組の録画だ。これであいつの様子を見れば、ひょっとしたらヒントが手に入るかもしれないだろ?」

「そっか。その手が……。でもよく録画なんて手に入ったね」

「最初は梅子の番組をチェックしてるやつを探したんだがさすがにいなかった。だが休み時間に調べてたら、その番組に有名な男性タレントが出てるのを発見してな。そっちのファンを当たったらビンゴだ」

 それにしてもスピードが早い。この情報収集能力は彼が探偵生徒会だからこそなのだろうか。

「残念ながら数は少ないがな。ちょっと確認してみようぜ」

「うん」

 鍋の見張りを雪宮さんにお願いして、わたしは狼滝くんと肩を並べてノートパソコンで再生される番組を確認することにする。

 映像は夜のバラエティのひとつだ。食レポのロケ映像を中心に、たまにスタジオのひな壇で芸人やタレントがおしゃべりをするという程度の簡単な構成で、わたしは夜のバラエティはほとんど見ないから分からないけど、たぶんこれはありがちなものなのだろうなと思わせる平凡さがあった。

 梅子はロケ映像とスタジオの両方にいて、ロケ映像を見た後、補足などをしながらひな壇で話すのが主な役割らしい。スタジオでの様子は今はいいので、ロケの映像まで早送りして確認する。

「今日お邪魔するのはかつ丼で有名な『かつざわ』さんでーす」

 リポーターの元気な声が聞こえる。あれ、このリポーター、今朝も見た人だ。じゃあ今朝、『歪んだ果実』で撮影していたのもこの番組なのか。

 紹介されていたのはソースにどっぷり浸かって真っ黒なカツがこんもりと載ったソースカツ丼である。おいしそう。

「おいしー」

 映像の中の梅子もそんな反応だ。あ、いやこれ今朝言ってたやつだな。おいしーと連呼しているって。じゃあ彼女のお決まりの反応なのか。

 でも食べている梅子はまんざらでもない顔をしている。実際においしかったんだろう。

「これはヒントなしか」

「うん。次は?」

「こっちだ」

 さらに早送りする。一枚のディスクに何本か番組が録画されているらしい。またスタジオでのタイトルコールとオープニングトークが始まり、ロケ映像に切り替わる。

「今日お邪魔するのはグラタン専門店『フーフー』さんでーす」

「グラタンっ!」

「うわびっくりした!」

 ついグラタンに反応してしまう。しまった。

「さて、ここではちょっと変わったグラタンが人気なんだそうです。梅子ちゃん、何だと思う?」

「ええ? 何だろう」

 基本的に態度が居丈高の梅子なので不安だったけれど、こうして番組を見ている限りではそつなく仕事はこなしているらしい。不満とは言いつつも、ちゃんとできるんだから偉い。

「じゃあとにかく食べてみましょう」

 梅子の前に、グラタン皿が並べられる。いただきますとそれに口をつけた瞬間、梅子の目が真ん丸になる。

「驚いてるな」

「いや、これは…………」

 確かに一瞬驚いてはいる。でも、この表情は…………。

「なんと、グラタンの中に納豆。チーズと納豆の発酵食品コラボでーす!」

「げっ、納豆?」

 露骨に狼滝くんが嫌そうな顔をした。

「納豆嫌いなの?」

「まあな。しかしグラタンに納豆は合わないだろ。和と洋だぞ。いくらなんでも……あれ?」

 と、そこで彼が気づく。

「ひょっとして梅子のやつも納豆嫌いか?」

「うーん……」

 納豆は梅子がいた頃はあまり出していなかったから分からないけど……。

「ねばねばしたものは嫌いだよ。オクラとか、なめことか」

「いやそもそも、神の舌を持ってるのに好き嫌いあるのかよ。神の舌って要するにあれだろ、すげえ味覚が鋭くて、味の分析ができるから重宝されるんだろ? なのに好き嫌いがあっていいのかよ」

「人間だもん、好き嫌いくらいあるよ」

 まあ確かに、料理漫画とかだと審査員の鉄板だもんね、神の舌の持ち主って。好き嫌いを持つ人間性をあまり感じないというのは確かにそうだけど……。

 好き嫌い………………?

 待って、今、何か……。

 好き嫌いだって?

 思い出す。昔のことと、今のことを。

 梅子が言ったこと。ホワイトカレーとわたしのカレーが似ている理由。

「そうか」

 確かに、忘れていた。これはわたしの記憶の瑕疵だ。

 隠し味が、見つかった。

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