#2 再会、妹と
シーツを干して制服に着替え、アパートを出る。腕時計を確認すると、もう十時をとっくに過ぎていた。シーツを洗濯している間に壁掛け時計の電池を確認したり、お父さんが使っていた灰皿を綺麗にしていたら余計に時間をかけてしまった。でも時計の電池は種類を確認しないと買い換えられないし、灰皿は綺麗にしないとお父さんの機嫌が悪くなる。
綺麗になったらなったで灰皿で殴ってくるんだけど、それはそれとして。
遅刻が確定しているし、いつも遅刻しているとなると急ぐ意味はあまりない。制服の胸ポケットに入れていたメモ帳に時計の電池が単三だったことを記しながらのんびりと学校に向かった。えっと、今日は月曜日だから波介も佳朗も小学校は六限まであるはず。代乃は延長保育で預かってもらっているから問題ない。今日は早退する理由もないな。
夏が過ぎて秋口に差し掛かった午前の遅い時間は、穏やかな陽気で眠くなりそうだった。ポカポカしていて、それでいて風が吹くと涼しくて気持ちがいい。
うつらうつらしそうになりながら学校への道を歩いていると、気の抜けるようなエンジン音が後ろから迫って来た。車のエンジン音ではなさそうだった。振り返って確認すると、赤いスクーターが一台、こちらに向かって走って来る。
歩道と車道の区別はないけれど、ここはそこまで狭い路地じゃない。念のため少しだけ隅に寄って道を譲る。スクーターはわたしの脇を走り抜ける…………と思いきや。
ぷるるるる………………。間抜けな音は徐々に低音になっていって、スクーターはわたしの横で停車した。
なぜ?
もし停車した車が黒塗りのワゴンだったら、さすがのわたしも少し警戒した。身代金目的で誘拐される程に家は裕福じゃない(なんなら身代金目的で誘拐する側の懐事情だ)けれど、拉致監禁の目的が身代金だけとは限らないから、それは当然の警戒だ。
でもスクーターとなると事情は違う。人を誘拐するのにこれほど適さない乗り物もないだろう。じゃあ何か別の目的で停車したのかと思ったけれど、わたしが今歩いているところは住宅街で、周囲はどこも一面塀である。スクーターが乗り入れられる場所はどこにもなかった。
スクーターに乗っているのは、体格からして男性らしい。黒いウィンドブレーカーにジーンズというラフな格好をしている。背中に大きめのリュックを背負っていて、それがいかにも重そうだった。
「ちょっと、いいかな」
低めの声がした。男性がヘルメットのシールドを持ち上げる。シールドはスモークがかかっていたから、それで初めて顔が見える。体格から中肉中背くらいと思っていたけれど、男性の顔は痩せぎすのそれだ。頬が痩せこけていて、落ちくぼんだ目が隙なくこちらを見ている。でも不思議と病的な感じはない。なぜか機敏に動ける太った人がそうであるように、この痩せぎすの体格が彼にとって適正であるらしく思われた。
病的な感じはない……けれども、どこか抜け目なさとずる賢さは感じた。第一印象はあまりよろしくない。声の低くどっしりとした印象とはまるで逆だ。ヘルメットのシールドを下げていた方がこの人のためになりそうな気がする。
「君のその制服は、第二中学のだよね?」
と、その男性はわたしの制服を指し示した。特徴の少ない夏服なのによく分かったなあと一瞬感心して、そういえば胸ポケットに校章が縫われていることを思い出して、それでも地元の人くらいしか知らないだろうにとまた感心した。
地元の人なのかな? 校章なんて普通、有名な学校でもなかなか知らないと思うけど。
「えっと…………」
さすがに、突然自分の中学校を指摘されたときの対応は、アドリブ力が試され過ぎる。ここで嘘を吐いても仕方ないのだけど、しかし突然中学校の所属を聞いてくるという行為自体がいろいろ怪しい。
「ああ、いや」
その怪しさに当の本人も気づいたのか、彼は首を振る。そしてスクーターのエンジンを切って、スタンドを出してその場に留めた。
「私はこういう者でね」
男はそれから、ウィンドブレーカーのポケットから紙きれを取り出す。名刺だ。受け取って確認すると、名前は柳葉龍三というらしい。肩書はフリーのジャーナリスト兼ルポライターとなっている。
名前は分かったけれど、怪しさは数割増しである。フリーとは自称の言い換えに過ぎない。それこそジャーナリストなんて何もしてなくたって名乗れる肩書なのだから、この名刺で身分はまったく明らかになっていない。
「ルポライターと言っても、大したことはしてないんだよ。数年前、こことは結構離れた地区の小学校で起きたいじめの自殺について一冊書いて当たったくらいでさ」
残念ながら自称ジャーナリスト兼ルポライターという肩書の怪しさには気付いていないらしく、柳葉さんは手柄話を始めた。あるいは、自分がどういう仕事をしているのかという説明が自己紹介の一種としてまかりとおる業界なのかもしれない。
「今は河岸を変えて、探偵について追っていてね」
探偵。
わたしの所属を聞いた行為と、その言葉がかちりと噛み合う。
「君の学校にいるって噂の探偵生徒会について――――」
「お話することは何もありません。失礼します」
わたしは儀礼通りにお辞儀だけして、そのまま学校への道を再び歩き出す。名刺は適当に、メモ帳に挟んで仕舞った。慌てて柳葉さんはスクーターを押して着いてきた。
「待ってくれよ。もうこんな時間なのにゆったり歩いているってことは遅刻の常習犯だろう? だったら少しくらい、こっちの話を聞いてくれてもいいじゃないか」
「悪いことをしているときほど堂々とした方が良さそうなのでそうしているだけです」
適当に嘘を吐いた。走って振り切ろうかとも考えたけれど、相手がスクーターなのを考慮して止めた。いや、さすがにスクーターに乗ってまで追ってくるとは思えないけど。
ただ、この路地を進んだ先に中学校がある。学校の敷地内に入ってしまえば部外者の彼は追ってこられない。そこまで行ってしまえばいいのだから焦ることでもない。
それまでのらくらしていればいいのだ。
「私みたいに零細でかつ新入りのジャーナリストに、探偵業界は入る余地が少なくてね。今をもって第一線で活躍している探偵はもちろんのこと、Dスクールで学んでいる未来の名探偵たちだって、もうたくさんの記者が張り付いている。そうなると私が狙えるのはさらにその前しかなくてね」
同情を引くつもりなのか、身の上話を柳葉さんは始める。スクーターで手が塞がっているから、ではないだろうけど、柳葉さんはこちらの体を掴んできたりはしないので、ただ聞き流しているだけでいい。
ただ少しだけ気になる文言があって、反応してしまう。
「さらにその前って、なんですか?」
「もちろん、Dスクール入学前の生徒たちさ」
にやりと、気の引けたのを良いことに柳葉さんは笑う。
「Dスクールに通う高校生たちを約束された未来の名探偵とするならば、入学前の生徒たちは探偵になることさえ未定の存在、いわば探偵候補生だ。Dスクールの生徒にすら記者が張り付いて隙がないのなら、私はさらにその前を狙う」
「要するに青田買いですか」
「買っているわけではないけど、そうだねえ」
それでうちの中学に、と。
「ニュースに出演しながら謎を解く『ワイドショー探偵』道脇双二、暗号を専門にする探偵『解読屋』睦月雨水、探偵派遣会社を設立して一時代を築いた『探偵社長』朝山系列、警視庁お抱えの顧問探偵にして小説家『創作探偵』宇津木博士と、彼の死と同時に頭角を現し、過去から現在に渡って解決率百パーセントという驚異の『高校生探偵』猫目石瓦礫。今や探偵たちは毎日テレビやネットを賑わせるタレント的な存在だ。そんな探偵たちに憧れて、多くの子どもたちが探偵科擁立高校、Dスクールに通う。なら、私の狙い目はそんなDスクールへの進学を夢見る探偵候補生とも言うべき少年少女たちだ」
熱く語られる。その熱量は単に仕事である以上に、彼が探偵に対して興味を抱いているらしいと推測するのには十分だった。うちの佳朗にも負けていない。
「記者の多くは東京や大阪といった大都市のDスクールに注目する。そこへ来て水仙坂大学付属高校、わずか数年前に設立された本邦五つ目のDスクールに期待の新人猫目石瓦礫の登場だ。この流れを利用しない手はない。水仙坂が注目されている間に、そこへ将来入学するだろう生徒たちに着目するのは面白いだろう?」
「それがうちとどう繋がるんですか?」
癖でつい知らないフリをしつつ、話を促してしまう。
「探偵生徒会だよ。君も第二中学の人間なら当然知っているだろう?」
「まあ、はい」
知っている。
知っているというか、だから学校から記者のような人に何かを聞かれても何も答えないようにと釘を刺されていて、わたしは今学校への道を急いでいるのだ。
裏返せば、それくらいに注目されることが当然視される存在でもある。
「生徒会でありながら五人ともが将来有望な探偵の卵たち。一介の公立中学にどうしてそんな逸材が五人も集まったのか不思議だけれど、だからこそ注目に値するね。うーん。君は今何年生かな。確か探偵生徒会は二年生だって聞いたけど、ひょっとしてクラスが一緒とかじゃない?」
話が急旋回してこちらへの質問に切り替わる。如才ないというかなんというか。
「分からないですねえ」
「ええ? 本当かい?」
適当に受け流していると、校門が見えてきた。そこへ入れば柳葉さんの追及は振り切れる。ひょっとすると校門が見えると彼はよりがっついて聞いてくるのじゃないかと警戒したけれど、こちらの予想に反して柳葉さんは撤退ムードを出しつつあった。
これで面倒は回避される、とほっとした。
けれども。
不意に、校門から出てくる一人の男子生徒が目に付いた。もう授業も始まっている時間に、学校を出ようとしているなんてあまりにも奇妙で(遅刻している自分は棚に上げて)ついじっくり見てしまった。
その男子生徒はこそこそと、周囲を伺うように動いている。まだ遠いからこちらには気付いていない。精悍に刈り込んだ黒髪が、秋風に揺れてなびいている。活動的らしい様子は髪だけではなく、その適度に日焼けした肌や半袖のカッターシャツから伸びる筋肉質な腕からもだいたい分かる。
でも彼が、何かしらのスポーツでそうした活動的なスタイルを確立したのではないことをわたしは知っている。
なぜなら、彼こそは…………。
「ん? お、日辻じゃないか」
その男子生徒が、近づいていくわたしたちに気づく。わたしの苗字を呼んで、こちらに駆け寄ってきた。
ありゃりゃ。これは間の悪い。
「今日も遅いな。まあ来ただけいいか」
「あ、えっと…………狼滝くん」
こっそりと、都合が悪いことを伝えようとしたけれど、やっぱり無理だった。狼滝くんの名前に反応して、にわかに柳葉さんがいろめきだった。
「狼滝……ああ、じゃあ君が探偵生徒会のひとり、狼滝健太くんだね?」
「……なんだ? このおっさん」
「私は記者でね。柳場龍三というものだが……」
「ああ、記者か」
慣れていると言わんばかりに、狼滝くんは鼻を鳴らした。
そう、彼こそが探偵生徒会のひとりであり、わたしのクラスで委員長をしている狼滝健太くんその人である。普段接している感じだとそんなふうにはあまり見えないのだけど、これで実際、いろいろ事件を解決しているのだという。わたしはその様を見ていないから詳しくは知らないけれど。
「それより狼滝くん、なんで今になって学校を出てきたの?」
柳葉さんは置いておいて、わたしは自分の疑問を尋ねた。
「忘れ物でもした?」
「ちげーよ。ちょっと、面白いことがありそうでな。それで学校サボっちまった」
狼滝くんは適当に舌を出す。
「面白いこと? 事件かい?」
乗り出してくる柳葉さんを無視して、狼滝くんはスラックスのポケットからスマホを取り出して操作する。
「つい今朝に手に入った情報でさ。なんでもここから少し離れたところにある喫茶店で、あの『高校生探偵』の猫目石瓦礫が取材を受けるんだってよ。今まではメディアの露出を抑えてたのにどういう風の吹き回しか知らねえけど、面白そうだろ? だから授業なんて受けてられねえって。今まで解決した事件の話とか、聞けるかもしれねえし」
スマホを再びポケットに仕舞いながら、狼滝くんは歩き出す。
「だから行こうと思ってな。そうだ、お前も来るか? どうせ遅刻魔欠席魔なんだから、休んだってどうってことないだろ?」
などと、わたしを道連れにしようとする。
「うーん。わたしはよく知らないんだけど…………」
また癖でそんなことを言いながら、わたしは狼滝くんについていく。
「弟が探偵好きだから。サインでももらえないかな?」
「おうおう、行こうぜ」
そんなわけで、わたしたちはサボって喫茶店に行くことに決めた。柳葉さんはどうするのかと思ったけれど、「子どもがサボるのを推奨しているようでいい気分じゃない」と言って辞退して、スクーターに乗って帰ってしまった。ジャーナリストにしては妙にさっぱりしている人だ。
「結局何だったんだあいつは?」
狼滝くんの疑問ももっとも、という感じだった。
「ジャーナリストで、探偵生徒会に取材したいみたいだったよ」
「ふうん。またか。でも新顔だな。いつも取材を申し込んでくるやつってのは決まってるのに」
「え、普段からそんなに取材されてるの?」
それは意外だった。というか、柳葉さんの着眼点は他の人も考えていたということか。
「いや、新聞の地方欄とかだよ。あの柳葉ってやつみたいに、探偵業界を取材してるジャーナリストが来るのは初めてなんじゃねえかな。いずれ来るかもとは思ってたけど」
「思ってたんだ……」
「別にうぬぼれてるわけじゃねえよ。最近はほら、猫目石瓦礫が注目されてるからな。出身がこの岡崎市だとかで、通ってるのは隣の花草木市の高校なのに、この辺りをうろつく記者が増えたんだよ。だから俺たちが注目されるのも時間の問題かもしれないって思ってたんだ。隠れてこそこそ活動してるわけじゃないからな」
「ふうん」
「いつからこうなったんだろうな、この国」
なんて、殊勝らしく狼滝くんは呟いた。彼は案外、注目されるのは嫌いなのだろうか。
いつから、なんて彼は言ったけれど、それはもちろん言葉の綾というやつで、狼滝くんはちゃんと知っているはずだ。
すべての発端は、二十年前だと。
わたしたちが生まれるよりもずっと前に、この国では探偵が国家に認められた職業になった。
浮気調査やペット探しをするいわゆる普通の探偵、興信所の職員のような人たちではなく、まるで推理小説から飛び出してきたかのような空想的な探偵たち。彼らは国に認可され、警察のセカンドオピニオン兼監視役として活動するようになった。それから飛躍的に未解決事件や迷宮入り事件は数を減らし、警察を監視する勢力の登場は警察内部の腐敗をある程度まで払拭することにも成功したという。
そこから探偵という職業は注目され、テレビなどに引っ張りだことなる。『ワイドショー探偵』道脇双二がそうであるように、ニュースやワイドショーのコメンテーターとして、専門的な見地から意見を述べたりする。それだけに限らず、ほとんどタレントのようにバラエティ番組に出たりもする。
そして同時に、Dスクールも生まれる。
国家資格取得を目指す学生を育成する機関として、まず年齢制限のない探偵専門学校が東京を中心に生まれた。それからすぐに、高校卒業の資格を同時に取得できる探偵育成機関、探偵科を擁する高校がぽつぽつと生まれ始める。この、探偵科を擁する高校のことをわたしたちはDスクールと通称し、憧れの的としている。
これから会いに行こうとしている猫目石瓦礫がそうであるように、Dスクールの生徒となるということは、未来の探偵になることを約束されるようなものだ。専門的な教育を三年間通してみっちりと教え込まれるため、国家資格の取得率は一般的な探偵養成学校より高いとされている。人材としても一流となり、いくつもの探偵事務所から引く手あまたとなる。
大人はみんな、そんな風になれるのは一握りだと言うけれど、そんなことはわかった上でやっぱり憧れる。
探偵は今や、男女関係なく子どもたちの憧れる職業の上位に位置するようになっていた。
「それで、問題の喫茶店って?」
「ああ、『歪んだ果実』って店だとさ」
なにその昼ドラみたいな名前。
思わずそう言いそうになったところで、正面から一台の、黒塗りのバイクが迫って来る。わたしと狼滝くんは並んで歩いていたので、わたしが一歩下がって縦一列になって、バイクをやり過ごす。
バイクはあまり大型ではないけれど、車高が低く前輪が突き出したアメリカンだと分かった。乗っているのは、フルフェイスのヘルメットをしているので顔が分からないけれど、格好からして男性らしい。スーツなのかブレザーなのか一瞬では分からなかったけれど、とにかくバイクにミスマッチなので強烈に印象に残った。
「レブル250だ」
「え、なに?」
「さっきのバイク」
「お前バイクに詳しいのな」
「わたしじゃなくて、弟がね」
それで、何の話をしていたんだっけ?
「そうそう。その昼ドラみたいな名前の喫茶店に猫目石瓦礫がいるの?」
「俺の情報が正しければな。あと昼ドラじゃなくてこれ、ジョナサン・ケラーマンの小説から取ったなたぶん」
「へえ。海外の現代作家はあまり読まないからなあ」
「現代の作家って分かるくらいには読んでるじゃねえか。いやそうじゃなくて。ほら、ここから少し離れたところに上等高校って私立の高校があるだろ? あそこの近くの喫茶店なんだとさ」
「あそこかあ」
じゃあそんなに距離は遠くない。こうしてぐたぐたと喋りながら歩いていて、もう半分は来ているはずだ。
「そういえば、クラスの様子はどう?」
わたしは二人しかいないのをいいことに、普段はあまり聞かないことを聞いた。
「そろそろ文化祭だよね。わたし、あまりクラスにいないから様子がさっぱりで」
「じゃあ来いよ。別にお前、いじめられてるわけじゃねえんだから」
「それはそうなんだけど……」
忙しいんだよね、いろいろと。
「文化祭は出し物が決まったな。クラス単位じゃなくて、学年単位で劇やるってよ。全員が参加するんじゃなくて、やりたいやつがやる感じだからお前はたぶん何もしなくても大丈夫だぞ?」
「そう? なら良かった」
「あ、いや待て」
思い出したように、狼滝くんが制する。
「そうだ。クラスの女子に、お前に会ったら劇の裏方するよう説得しろって言われてたな。お前、裁縫とか得意だったよな」
「できるけど…………」
精々弟たちが小学校で使う雑巾や巾着袋を縫うくらいだ。うちにミシンはないから、いつも大家さんから借りているし。
「家庭科の成績だけ良いもんなお前。衣装とか作るの手伝ってほしいんだと。どうしても無理って言うなら俺から言っておくけど」
「うーん」
文化祭って、大抵小学校の学芸会シーズンと被るんだよね。それで弟たちの準備を手伝ったりするので忙しくなる。確か代乃のお遊戯会もこの時期だし。
「せめて手本になるやつを一着でもってさ」
「うん。じゃあ一着だけなら」
「助かる。これで女子から白い目で見られずに済むぜ」
たははと歯を見せて狼滝くんは笑う。つられてわたしも笑っていた。
そんなことをしていると、左手に上等高校が見えてくる。高校の塀をなぞるように道を進んで、途中で脇道に逸れる。そして少し歩くと、目的地だ。
「ここかあ」
喫茶店『歪んだ果実』は瀟洒な外観を持った、住宅地の中にポツンと佇むシックな雰囲気のお店だ。脱サラした中年か、あるいは定年退職した老人がマスターをしていそうなおもむきがある。
そのお店の正面には、中型のマイクロバスが止まっている。入口付近では何やら数名の人間が、機械やケーブルを抱えて慌ただしく行き来している。あまりテレビの裏側に詳しくないわたしたちでも、ああこれはロケをしているなと分かる。
「猫目石瓦礫がいるって、テレビのロケなの?」
「いや……」
狼滝くんは手元のスマホを確認する。
「俺が聞いてたのは雑誌の取材だぞ? だから取材の後に話でも聞けないかなって思ってたんだけどな……。こりゃどういうことだ?」
気になって、二人して横手に回り込もうとする。途中、スタッフが「ウメコちゃんが云々」と話しているのが聞こえた。
「ウメコ……。ひょっとしてあの神の舌を持つっていうあれか?」
「知ってるの?」
「一応な。天才子役で、同時に繊細な味覚の持ち主で、今じゃグルメリポートに引っ張りだこっていう……。もともと、愛知の地方局で番組出演してたから、ここにロケに来ていても不思議じゃないが……」
「聞いたことないなあ」
「夜のバラエティとか見ないのか?」
わたしが見るのは朝から夕方までだ。夜は弟たちの勉強の邪魔になるし、代乃の寝るのが早いからテレビはほとんどつけない。稀にお父さんがいて見ているときもあるけれど、そういうときは大抵野球かサッカーの中継だ。
だからワイドショーやニュース番組を見る割合に対して、バラエティを見る割合は少ない。佳朗なんかは特に、探偵が出てくるから見たがるんだけど、勉強が優先なので駄目だ。
「でもなんでそんな子役が? 猫目石瓦礫の件と関係あるのかな?」
「どうだろうな。でも別々の取材が同日に入るなんてあるのか?」
言い合いながら、わたしたちは店の横手にそっと回り込んでみる。窓から店内を覗くと、中ではカメラの前に向かってリポーターらしい人が何か話している。
テーブルの前には何か、白い料理が盛り付けられた皿が置かれている。なんだろうあれ……ひょっとしてグラタン? あ、いや仮にグラタンだとして、わたしが食べられるわけじゃないか……。それにあれ、ご飯の上にかけてあるように見えるし。シチューをご飯にかけたのかな? そんな料理を出すのか、この店は。
「駄目だな。ここからじゃ様子がよく分からん」
「そうだね。……テーブルの上に置いてあるのがグラタンかどうかも分からない」
「そこはどうでもいいだろ。なんでピンポイントでグラタンかどうかを確認したがるんだよ」
「この店がグラタンを出せるかどうかは大事なんだよ!」
「喫茶店だぞ。コーヒーより大事かのごとく力説されてもな。とにかく一度正面に戻るぞ」
仕方なく、正面に戻る。遠巻きに観察しても、やっぱり様子はよく分からない。これでは目的の猫目石瓦礫がいるかも定かではない。
どうしようかと考えていると、スタッフの一人が「映像確認入りまーす」と声をかけた。すると現場の空気が緩んで、一部のスタッフ以外がどやどやとその場を離れ始めた。
「何が起きてるんだ?」
「たぶん、さっきまで撮影していた映像を確認するんだよ。だから撮影の人たちは休憩するんじゃないかな」
「じゃあ、ひょっとしたら出てくるかもな」
彼の言う通り、ここで待っていたら休憩に出てきたところで猫目石瓦礫を捕まえられるかもしれない。
期待しながら待っていると、やがて、店の外へ人が出てくる。まず、さっきも見たリポーターたち、そして…………一人の少女。
年のころは、わたしたちよりも少し下くらい。赤いパーカーにスカート姿の元気が良さそうな格好をしている。顔は愛くるしく真ん丸で、髪もさらさらと、彼女が動くたびに波打つ。
「……………………あっ!」
思わず、大きな声が漏れる。狼滝くんだけじゃなくて、周囲のスタッフたちもわたしの声につられてこちらを見る。
もちろん、ウメコも。
彼女がさきほど、狼滝くんが話していたウメコだということはすぐに分かった。それは出てきたスタッフ以外の、リポーターらしい人たちの中で唯一ちゃんづけされうる程度の年齢に見えるから…………ではない。
わたしは知っていた。
いや知らなかった。
彼女が、天才子役なんて呼ばれていて、神の舌をもつなんて言われていて、テレビに引っ張りだこになっているなんてことはまったく知らなかった。
ただわたしは、彼女を彼女として知っていた。
彼女。
紅梅子のことを。
「う、梅子っ!」
当の梅子は、わたしを見るなり、驚いたのか目を丸くして、それから、顔を歪めた。
梅干しみたいに顔がクシャクシャになる。
懐かしい。
彼女が不機嫌になるとする表情だ。
「お姉ちゃん」
梅子が、わたしのことを呼ぶ。
「なんで、ここにいるの?」
表情と、その声色から察して、姉妹の感動の再会とはいかないらしいことだけは察した。
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