ストレイシープはくじけない――探偵候補生・日辻芽里乃

紅藍

第1話:隠し味は足すべきでなく

#1 いつもと変わらない日常

 いつもと変わらない日常は、目覚まし代わりに点けたテレビに映るニュースから、いい日になる予感とともに始まる。

「今日の天気は快晴。一日を通じて洗濯日和になります。先週の台風が過ぎてから朝晩の気温差が大きく秋らしい陽気になっているので、何か羽織るものがあるといいでしょう」

 週間天気の頃と変わらない予報。いつものお天気キャスターは秋休みだといって、今日は見慣れない人が覚めるような黄色のパーカーを着てカメラの前に立っている。

 キャスターに言われるまでもなく、わたしは洗濯機を回している。六人家族じゃ毎日洗濯機は動かさないといけない。今日は天気が悪いからとか、関係ない。

「今日の運勢、一位は牡羊座のあなた! いつもと違う道で通勤、通学するといい一日になるでしょう」

「はいはい」

 占いは信じていない。それでも、一位になると何となく今日はいい日になりそうだし、最下位になれば気も滅入る。それは信じるとはまた少し、違う方向性の興味と感性だ。血液型の性格診断を信じていないからって、それでもAB型の性格が悪く言われるといい気分がしないのと同じ。興味もないし信じていない方面からだって、悪く言われる筋合いはない。

 冷凍庫からカチカチに凍った食パンを取り出して、次々にトースターへ放り込んでダイヤルを回す。サーモスタットが動くと途中で電源が落ちてしまうから、たくさん焼かなければいけないときはとにかくさっさと放り込む。

 ダイニングテーブルに皿とコップを並べる。数は四つ。お母さんは今朝も早くから仕事に行ってしまっているし、お父さんはいるのか分からない。いても朝は起きてこないから、準備しないのが普通になっている。

 そういえば、大家さんから貰ったリンゴがあった。冷蔵庫から取り出して、適当にざくざくと切って器に盛る。うん、今日の朝食はいつもより少しだけ豪勢だ。

 冷蔵庫から野菜ジュースを取り出す。野菜、特にニンジンが家族みんな嫌いなので、料理に入れてもなかなか食べてくれない。ジュースなら飲んでくれるので、これはとても重宝する。

 野菜ジュースを注ぎつつ、壁にかかっている時計を見た。あれ、十時十分になっている。しばらく時計を睨んで、秒針が動いていないのを確認した。電池切れだ。昨日は動いていたのに。

「今朝はゲストにワイドショー探偵としておなじみの道脇双二さんにお越しいただきました。道脇さん、おはようございます」

「あ、おはようございます!」

 テレビ画面がスタジオに戻ると、数人のいつもの面子がゲストを迎え入れる。清々しい水色のポロシャツをパリッと着こなした、三十代前半くらいの男性がスタジオに入ってくる。

 へえ、珍しい。いつもなら昼か夕方のワイドショーに出てくる人なのに。その物珍しさから、つい朝支度の手を止めてテレビを見てしまう。

「道脇さんは先日もワイドショー放送中に事件を解決したことで話題になりましたね。今朝も何か事件ですか?」

「いやいや、いつも事件あったら物騒でしょう。我々みたいな人間は暇を持てあましてテレビに出ているくらいがちょうどいいですわ」

「またまた。そういえば、来年度から愛知県にある水仙坂付属高校探偵科で教鞭を取ることが正式に決まったそうですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます! まあその代わり、ワイドショーに出る時間は少なくなりますけどね。今のうちに稼がせてもらいますわ」

 水仙坂大学付属…………うちの隣の市の高校だ。そっか、Dスクールに教員として就職したんだ、この人。

 なんて思っていると、ガタガタと物音がする。2LDKの狭いアパートの、ダイニングから続く二つの扉のうちの右側が、ごそりと押し開かれた。

「おはよ、姉ちゃん」

「おはよう、佳朗」

 起きてきたのは弟の佳朗だった。眠そうに目をこすって、ぼさぼさの頭は寝ぐせだらけになっている。

「今、なんか探偵がどうのって聞こえたんだけど?」

「うん。ほら。朝のワイドショーに探偵さん出てるよ」

「あ、ほんとだ! ワイドショー探偵!」

 探偵に目のない佳朗は、やっぱり探偵の声を聞いて起きて来たらしい。いつもは一番最後に起きるのに、今日は何事かと思ったら。

「めずらしーなー。いっつも昼のニュースばっかり出てるのに」

 佳朗はテレビの前に食いつくように立ち塞がって、じっと画面を見ている。この子は探偵がテレビに出るといつもこうなのだ。

 わたしは後ろから佳朗に近づいて、手櫛で寝ぐせを梳かしつけてやった。わたしの髪はごわごわで寝ぐせが出来ないかわりに梳かしようもないくらい硬いのだけど、佳朗の髪は癖がつきやすいかわりに手櫛でさっと梳かしてやれば簡単に元どおりになる。正直ちょっとうらやましい髪質をしている。

「なあ知ってるか姉ちゃん。この人、この前も事件解決したんだぜ。生放送のワイドショー中に、放送された情報だけでさ! 『動かなかった地蔵事件』って言うんだぜ。学校でもみんな話題にしてた」

「へえ、そうなんだ」

 わたしは知らないフリをしながら、佳朗に話を合わせた。わたしはその事件が解決される様をそのとき、お昼のワイドショーで見ていたから知っている。確か、ちょうど佳朗と同い年の小学二年生の女の子が行方不明になって、近くの山で遭難したんじゃないかと噂されていたものだ。その山の入口には行方不明者が近くで出ると動いてその位置を知らせてくれるという曰くつきの地蔵があって、その地蔵が動かなかったことから道脇探偵は事件を解決した。

 いや地蔵なんて動かなくて当然なのに、それが動かないことを当然視しないで事件を解決するなんてね。

「そういえば、この人って来年から水仙坂に教師として来るんでしょ?」

「そうなんだよ! あー、楽しみだなあ」

 なんて言いながら、ようやく佳朗はダイニングテーブルについた。

「佳朗が楽しみにしてどうするの?」

「だって、オレがその高校に行ったらその人に会えるんだろ?」

「行ったらって…………見学に行きたいの?」

「そうじゃないって!」

 テーブルの下でバタバタと足を動かす。相変わらず直らない悪い癖だ。

「オレ、高校生になったら絶対Dスクール行くから! その話してるの」

「ああ、うん、そう」

「姉ちゃん、絶対本気にしてない!」

 そんなことはないのだけどね。わたしは佳朗が将来をそう定めるのなら、それを応援するだけだ。

「…………おはよう」

 そんな話をしていると、部屋からもう一人出てきた。いかにも眠そうに目をこすって、重い足取りで佳朗の隣に座った。

「おはよう。波介」

「ああ…………」

 このぼんやりとして気だるそうなのがもう一人の弟の波介。佳朗にとっては兄にあたる。

「また探偵探偵騒がしいのか。いい加減にしてくれよ」

「なんだよ。兄ちゃんは興味ないだけだろ」

「そうだな…………っと」

 ぐいっと体を乗り出して、テーブルに置いてあるリモコンを取ると、波介は勝手にチャンネルを変えた。スタジオは柔らかい暖色系の雰囲気から、急にかちっとした四角四面なものに切り替わる。

「ああ、また勝手に兄ちゃんが変えた!」

「いいだろ。あんなワイドショー見ても何にもならないって」

「せっかく探偵が出てたのに!」

「探偵が出るようなニュースなんてろくでもないって」

 また始まった。

「二人とも。テレビなんて見てないでさっさと食べて。遅刻するよ!」

「へいへい」

「はーい」

 リモコンを取り上げて、不毛なので消してしまう。二人の手が届かないようテレビの脇に置いてから、最後の一人を起こしに部屋へ入った。

 六畳ほどの部屋は布団を三枚並べるとそれでいっぱいになっていた。波介と佳朗がぐちゃぐちゃにした布団や脱ぎ散らかした服を避けて一番奥の布団へ向かう。二人が使っているものより一回りほど小さい、花柄のかわいらしいやつだ。すっぽりと掛布団を被って寝ているのか、そこだけこんもりと膨らんでいる。

「ほら、起きて、代乃」

「うーん…………」

 布団の上から揺さぶってみると、もぞもぞと動いてひょこりと顔を出す。まだ保育園児に朝は辛いとみえて、他の二人よりも寝起きでぐずつきやすい。それが妹の代乃だった。

「朝ごはんできてるよ。代乃の好きな果物もあるから、早く起きないとお兄ちゃんたちが食べちゃうよ」

「うーん。うん、起きる…………」

 のそりと起き上がった代乃を連れてダイニングに戻る。わたしがいない隙にやっぱり佳朗はまたテレビをつけていて、朝食もそっちのけでワイドショー探偵に釘付けになっている。なんだかんだいってテレビを食事中には見ない波介はもくもくと、焼かれた食パンにジャムをぬって食べていた。

 代乃を椅子に座らせて、朝食を食べさせていると洗濯機が回り終わる。自分の朝食もそこそこに、洗濯籠に洗濯物を入れてベランダに運び込む。みんなが朝食を食べ終わるまでにあらかた片づけないと、今度はみんなの朝の準備を見るのに忙しくなって洗濯物を干すどころではなくなる。

 案の定というか、洗濯物を半分くらいまで干し終わった頃に、背後で部屋の中が騒がしくなる。一度部屋の中に戻ると、波人と佳朗はあれがないこれがないとランドセルをかき回しながら物を探している。

「なあ姉ちゃん、筆箱ってどこだっけ?」

「ランドセルの中じゃないの?」

「昨日宿題やったんだよ。その後、どこ置いたか忘れちゃった」

「仕方ないなあ…………。で、そこでこそこそしてる波介は?」

「…………書道に使う半紙。一昨日買ったんだけどランドセルに入ってない」

 こういうとき、佳朗はすぐにあれがないと言うけれど、波介はわたしに小言を言われているのが分かっているのかこそこそする。そんなことしても見つからないのに。

 まあ、でも、この二人を叱っても詮無いことでもあるのだ。わたしたちの部屋はこの六畳間かぎりなのだから。二人に自室があるなら自己管理の問題だけど、こんな狭い部屋に何人もいるのだから、物も散らばるしどこかへ知らず知らずに押しやって見失いもする。こればっかりはどうしようもない。

「佳朗、手提げ鞄の中は? 昨日、寝る前に筆箱片づけ忘れたってそこに入れてなかった? 波介は半紙なら家に置いても仕方ないからって学校に持ってったでしょ?」

「あ、ほんとだ。あったよ姉ちゃん」

「………………そうだった」

 これで一件落着。

「お姉ちゃん、髪結んで」

「はいはい」

 まだ終わってなかった。代乃の身づくろいがまだだった。男二人と違って代乃はオシャレさんだから手がかかる。髪をいつもいろんな形に結びたがるのだ。わたしなんてひとまとめにもできない髪質なのに。

「はい、これでよし。荷物は持った?」

「うんっ!」

「よろしい」

 時間は、今何時だろう。壁の時計が役に立たないと分からない。腕時計は制服の中だし。でもとにかく、いつものペースならそろそろ出ないと間に合わない。

「波介、佳朗、早く出て。遅刻するよ。それから途中まで代乃を送ってって」

「またかよ」

 波介は溜息を吐く。

「通学団の集合場所のすぐ横でしょ、保育園。だからお願い。わたしまだ着替えてもないし、洗濯物も干さないといけないから」

「分かったよ…………。行くぞ、代乃」

「うん。行ってきます!」

「行ってらっしゃい!」

 三人を送り出して、一息つく…………間もない。むしろ忙しいのはここからだ。

 洗濯物を干すのは後回しにして、ダイニングテーブルを片付ける。皿とコップを洗って、残った食パンを袋に入れてまた冷凍庫に突っ込む。

 六畳間のぐちゃぐちゃになった布団を、一度綺麗にシワを伸ばしてから、折りたたんで押し入れに仕舞う。パジャマも畳んで部屋の隅に置いた。これでようやく洗濯物に戻れる。

 今日はまだ楽かも知れない。みんな比較的だけどスムーズに学校に行ってくれた。洗濯物も特別多いというわけではない。この分ならひょっとすると、わたしも遅刻せずに登校できるかもしれない。

 洗濯物もすぐに干し終わる。今日は晴れるし、雨に降られるのを嫌がって一度学校から戻るなんてことをしなくてもいいから、そういう意味でも楽だ。

 洗濯籠を持って、部屋に戻ろうとしたとき、ベランダのもう一方の窓が開く。波介たちが寝ていた部屋の隣の部屋だ。

 そこに寝ていたのは…………。

「おはよう、お父さん」

 わたしたちの、お父さんだ。

 お父さんは、だるだるのスウェット姿で、煙草をくわえてベランダに現れた。もう既に火はついている。目はいかにも眠そうで、そういうところは何となく波介に似ている。

「………………」

 お父さんは無言で、わたしの方を見ると、煙草をくわえたままこちらに歩み寄る。

「朝から…………」

「…………ん?」

「うっせえ!」

 がしりと、髪を掴まれる。

 そのまま、お父さんはぐいっとわたしを引っ張ってベランダの手すりに頭をぶつけた。

 がいいんと、頭と手すりに音が響く。

 目がチカチカして、涙が出そうになる。

「いたっ…………痛いって、お父さん」

「分かってやってんだよ」

 もう一度、がちんと手すりに押し付けられる。

 二回か。

 二回で済むなら、今日はいい日だ。

 でも失敗だったなあ。朝はいつも機嫌が悪いの、どうして忘れちゃうんだろう。

「芽里乃、このくそったれが」

 お父さんはわたしの名前を読んだ。

「寝てたのにガキどもがうっさいから起きちまったじゃねえか。二日酔いで頭痛てえってのによお」

 それだけ言い放つと、お父さんはまた部屋に戻っていく。わたしも後を追って、洗濯籠を持って部屋に戻る。

 ダイニングで、お父さんは何かを探しているのか部屋中をかき回していた。何を探しているのかはすぐに分かったけれど、どうしようか少しだけ悩んだ。

「何探してるの?」

「金に決まってるだろ」

 やっぱり。

 お母さん、今日は準備するのを忘れたらしい。いや、忘れたのじゃないかな? お母さんもお父さんが今朝は帰って来ていたのを知らなかったらしい。帰ってきたり来なかったりだから、お父さんは意外に神出鬼没だ。

 わたしはダイニングの隅に置いておいた自分の鞄から財布を取り出して、そこから三万円を取り出した。もしお母さんがお金を用意し忘れたとき、いつでも渡せるように持たされているお金だ。

「はい、これ」

「さっさと出せや」

 ひったくるように、お父さんはわたしの差し出したお金を取り上げる。そして流し台の中へ痰を吐き捨てると、玄関に向かう。

 出かけるのか。今日もパチンコかな。朝から飲み歩かないだけまだいい方かな。

「いってらっしゃい。お父さん」

「………………」

 お父さんは何も言わず、玄関の扉を開けて出ていく。ふっと風が通り抜けて、何かすえたような臭いがして、ふと振り返る。背後で玄関扉のばたりと閉まる音が聞こえる。

 臭いはダイニングから続く二つの部屋の左側、さっきまでお父さんが寝ていた部屋からする。ベランダの窓も部屋の扉も開け放たれていて、一直線に外の景色まで見通せた。

 部屋に近づいてみると、すぐに臭いの正体が分かった。タバコ臭い寝室から漂ってくる別の臭いの正体は、どうやらお父さんが吐いた跡らしかった。吐瀉物がお父さんの布団だけじゃなくて、お母さんの布団にまでかかっている。

 そういえば、二日酔いって言ってたもんね。

 これは、遅刻確定かな。

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